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年代史・観戦記・その他資料
(決勝記録一覧)
準優勝チーム グラウンド レフリー 【大学東西王座決定戦】 第1回 昭和3年(1928)1.1 ○
京都大学
,11−5 ●慶応大学 神宮競技場 目良篤 昭和3年(1928)1.7 ○
京都大学
14−11 ●早稲田大学,神宮競技場 橋本寿三郎 第2回 昭和4年(1929)1.1 ○
京都大学
12−3 ●慶応大学
京大
グラウンド,巌栄一 第3回 昭和5年(1930)1.7 △
京都大学
9−9 △慶応大学 神宮競技場 目良篤 [立大,同志社大学 花園ラグビー場 望月信次 第5回 昭和7年(1932)1.7 ○明治大学 54−11 ●
京都大学
年代史・観戦記・その他資料
(大正10年(1921)度)
大正10年(1921)度 English Español 23シーズン目 東
京大
学にラグビー,
京都大学
ラグビー部創部
京大
ラグビーの創部は谷村敬介によってなされた。,谷村氏は「
京大
ラグビー部の正式な創部(
京都大学
学友会が承認)は大正11年だが、京都一中や三高でラグビー,を経験した者たちが天狗倶楽部として活動したが、
京大
チームと思われていたという。,また一部有志が三高・
京大
連合軍などでも試合していた」(『
京大
ラグビー史』P6)と以前から活動していたと
年代史・観戦記・その他資料
(大学東西王座決定戦の歩み)
本書では昭和2年(1927)度の
京都大学
を、第1回の全国制覇と認定して、大学選手権発足以前を、大学東西王座決定戦,だがその早大も東
京大
学に6−19で敗れ、関東は全勝校がなく優勝は預かりになった。,
京大
は関東の早大、慶大を破って初の全国制覇を成し遂げた。 ,しかし
京大
と定期戦を組んでいなかった立大にはチャレンジの機会がなく、立大に敗れた慶大と
京大
の試合が、王座決定戦,大学東西王座決定戦(35回) 優勝チームおよび優勝回数 1 早稲田大学 11回 2 明治大学 9回 3
京都大学
年代史・観戦記・その他資料
(昭和2年(1927)度)
【大学】
京大
が初の全国制覇
京大
は12月28日に東大を22−0、1月1日に11−5で慶応に初勝利を収,/関西大学対抗戦(関西大学リーグ戦の前身)始まる 関西では
京大
、同大、三高が対抗戦により優勝校を決めるようになり,、
京大
が優勝した。,第1回関西大学対抗戦 昭和2年(1927)度 優勝
京都大学
(1回目) 順位 チーム
京大
同大 三高,勝 分 負 1
京大
○8−4 ○22−0 2 0 0 2 同大 ●4−8 ○33−0 1 0 1
日本ラグビーフットボール史
(《京大エイトFWの全国制覇》)
京大
ラグビーの創設者といわれる谷村敬介が
京都大学
ラグビー部六十年史に「
京大
の神代時代から黄金時代迄の思,谷村敬介の記述には
京大
が香山蕃から学んだ新しいラグビーの内容についてひと言もふれてはいないが、
京大
のメンバー,完全に抜きながら、
京大
の如くスタートのあるダッシュとフォローがバックメンに欠けて居るために、
京大
のカバー,ただ、後半にはいって
京大
エイトFWの押しが鈍ったのか、試合の流れは「守りの
京大
」、「攻めの慶應」と攻守,(中略)坂倉の
京大
TB線後にあげたパントからトライして一度は逆転したが、
京大
は、バックスの活躍によって / 《
京大
エイトFWの全国制覇》
日本ラグビーフットボール史
(《日本チーム同士が初めて対戦―新時代の幕が開けた》)
理由は戦後の学制改革で三高が
京都大学
(以後
京大
)に併合されたことによる定期戦の消滅ではあるが、記録面からいえば,珍しい記録ではあるが、三高─
京大
のコースを歩んだOBのなかには年代によって大学時代に打倒慶応の夢を実現,
京大
と慶應義塾の対戦は1923(大正12)年度に始まり、三高消滅の1948年度まで22回対戦して勝利は,ただ東
京大
学(以後東大)の名誉のために付記しておきたい。
年代史・観戦記・その他資料
(1 戦前から昭和35年(1960)度まで)
15年8月に帰国後、この年に創立された日本ラグビー蹴球協会の理事に就任、併せて京都帝大[現
京都大学
]の,1955)度まで日本協会理事として活躍、『機関誌』にもラグビー理論に舌鋒を振るった奥村竹之助(大正15年
京大
卒
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