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日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアム

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日本ラグビーフットボール史 (《日本協会機関誌の復刊》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本協会機関誌の復刊》 【戦前の機関誌発行】  協会機関誌の先駆けは1930(昭和5)年10月に,ただ、発行機関が日本協会ではなく関東協会となっているのは、さきに「日本協会設立の項」でも述べたように、,残念ながら日本、関東両協会には機関誌の保存版がない。,日本協会から機関誌が発行されることとなった。,日本協会としても機関誌の制作発行を協会活動の重要課題のひとつと位置付け、協会内に編集部を設けて日本協会 / 《日本協会機関誌の復刊》
日本ラグビーフットボール史 (《日本協会の体協脱退と復帰》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本協会の体協脱退と復帰》 【体協脱退の理由とその経緯】  日本協会が1926(大正15)年11,アマチュア精神を協会設立の柱とする日本協会としては黙過できることではない。,もちろん日本協会の方針に変更はない。,この決定に基づき日本協会は同管理委に脇肇(日本協会)、片岡春樹(関東協会)、目良篤(関西協会)、葛西泰二郎,日本協会80年史編纂の現時点で日本協会の体協離脱は競輪からの寄付金が原因だったと力説しても、現代っ子には / 《日本協会の体協脱退と復帰》
日本ラグビーフットボール史 (日本のラグビーフットボール協会の生立ち)

日本ラグビーフットボール史 / 日本のラグビーフットボール協会の生立ち 旧民法34条の規定により設立された財団法人日本ラグビーフットボール,2010年4月1日 公益財団法人日本ラグビーフットボール協会として内閣府より認定を受けた。  ,その後、5年9か月を経て「関東、西部両協会の理事合同会議で目出度く多年懸案たる日本ラグビー蹴球協会は成立,このように最初は地域協会が発足し、次いで東西を統一したユニオン(日本協会)が誕生した。,特に、設立直後の日本協会と関東協会が事務所を含めて表裏一体の関係であり、更にもっと進んだ同体の関係にあったことを / 日本のラグビーフットボール協会の生立ち
日本ラグビーフットボール史 (《九州協会が独立・西部協会は関西協会へ》)

日本ラグビーフットボール史 / この年に慶應義塾を卒業した横山通夫(元日本協会会長)が九州電灯鉄道の上司であり、慶應の先輩でもあった海東要造,しかし、戦前の日本ラグビーは発展の主役を大学ラグビーが担ってきた。,いってみれば西部協会からの独立宣言でもあったわけだが、正式には翌1946(昭和21)年8月の日本協会理事会,イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド)とニュアンスはちょっと異なるが、少なくとも形のうえでは日本協会,を支える関東、関西、九州の3地域協会体制が確立されたことになり、日本のラグビー界は3地域対抗、社会人大会 / 《九州協会が独立・西部協会は関西協会へ》
日本ラグビーフットボール史 (日本ラグビーフットボール協会統合への歩み)

日本ラグビーフットボール史 / 日本ラグビーフットボール協会統合への歩み 2008年(平成20年)12月1日の「公益社団法人及び公益財団法人,の認定等に関する法律」施行に伴い、日本のラグビーフットボール協会は公益財団法人の認定を受けることを決定,国民体力の向上と明朗なスポーツマンシップの涵養につとめ、もって社会文化の発展向上に寄与していくことであり、日本協会,と関東協会、関西協会および九州協会が統合合体することとした。  ,統合による業務の調整・移管、財産、職員等、名称、組織・人事、経理・決算、事業展開等について日本協会と地域協会 / 日本ラグビーフットボール協会統合への歩み
日本ラグビーフットボール史 (《日本協会創設35周年と50周年記念祭》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本協会創設35周年と50周年記念祭》 【35周年記念祭】  日本協会の創設35周年記念祭が1963,日本協会創立35周年記念祭から。中央は秩父宮妃殿下。    ,▽近畿日本鉄道株式会社 (日本ラグビー史から)    ところで、日本協会の創設記念祭がなぜ30,なお、日本協会は35周年記念祭の開催とともに日本ラグビーの歴史を綴る「日本ラグビー史」を初めて編纂、発行,セレモニーは形通り日本協会会長椎名時四郎の式辞。 / 《日本協会創設35周年と50周年記念祭》
日本ラグビーフットボール史 (《協会成立の経緯と背景》)

日本ラグビーフットボール史 / 《協会成立の経緯と背景》 関東、西部両地域協会の成立をもって日本ラグビー前史の締め括りとした。,たる日本ラグビー蹴球協会(現財団法人日本ラグビーフットボール協会=以後日本協会)は成立したのである」(,④同時に日本協会の組織確立作業が停止したこと。,⑤すでに活動していた関東協会なり西部協会の主要役員が新設の日本協会に代わって運営など必要最低限の会務処理,1.日本ラグビー蹴球協会ニ関スル件。   / 《協会成立の経緯と背景》
日本ラグビーフットボール史 (《1年遅れて西部協会も発進》)

日本ラグビーフットボール史 / 《1年遅れて西部協会も発進》 西部協会の設立は1925(大正14)年9月。,大阪高商、神戸高商、大阪高校、大阪外語の6校を糾合して『阪神専門学校ラグビー聯盟』を結成せしめるなど」(日本,西部協会の名称が関西協会となったのは、新たに九州協会が成立した戦後のこと。,その結果、日本のラグビー界は3地域協会による現体制が確立したわけである。,KYRC(関西ヤングマン・ラグビー・クラブ)と称して関東のエーコン・クラブと定期戦を行うなど、戦後の日本 / 《1年遅れて西部協会も発進》
日本ラグビーフットボール史 (関東ラグビーフットボール協会の取り組み)

日本ラグビーフットボール史 / 関東ラグビーフットボール協会の取り組み 日本ラグビーフットボール協会と3地域協会との統合に向けて、当初,例えば、前述のとおり関東ラグビーフットボール協会はわが国で最初に設立された協会であり、なぜ日本協会に吸収,あるいは財政面で赤字経営が続く日本協会と黒字経営の関東協会が統一するのはいかがなものか、等々であった。,そこで関東協会の会議や日本協会との会議、あるいは日本協会と3地域協会との会議を重ねた。,に関する実務会議(日本協会と3地域協会)2009年(平成21年)3月2日を実施し・組織統合に関する関東協会臨時評議員会 / 関東ラグビーフットボール協会の取り組み
日本ラグビーフットボール史 (《関東に地域協会が設立される》)

日本ラグビーフットボール史 / 《関東に地域協会が設立される》 日本ラグビーの前史を締めくくる主題は、やはり東都に関東、関西に西部(,日本のラグビー界に残るAJRAの1922(大正11)年10月9日付け記録には「目下関東関西でラグビーを,日本ラグビー史の記述はこうだ。    ,また関東協会初の主催試合となった第3回早慶ラグビーは、日本で初めての有料試合でもあったが、当然のことながら,関東ラグビー蹴球協会決算報告書     昭和7年度日本ラグビー蹴球協会決算報告書 / 《関東に地域協会が設立される》
日本ラグビーフットボール史 (関西ラグビーフットボール協会の取り組み)

日本ラグビーフットボール史 / 関西ラグビーフットボール協会の取り組み 関西協会においても、統合一本化について、後から設立された日本協会,に吸収合併されるとの懸念が当初は支配的であり、日本協会理事会での説明を持ち帰り伝えるだけでは、真意を理解,日本協会の説明では、財団法人に関する法改正のため、中央競技団体として、公益財団法人の認定取得のための諸規程,が残されており、最終段階で日本協会から理事会に招聘して、質疑に対応を頂くことになった。  ,このような経緯と時間を経て、2009年(平成21年)3月21日、日本協会と三地域協会との統合一本化が合意 / 関西ラグビーフットボール協会の取り組み
日本ラグビーフットボール史 (九州ラグビーフットボール協会の取り組み)

日本ラグビーフットボール史 / 九州ラグビーフットボール協会の取り組み 九州協会はもともと、戦前1925年(大正14年)に西部ラグビー,蹴球協会九州支部として設立され、戦後1948年(昭和23年)に九州ラグビー蹴球協会として独立した。,このような状況のなか発案された「日本協会と三地域協会統合案」については、何ら反対意見はなく、今後のラグビー,こうして、2009年(平成21年)4月1日に日本ラグビーフットボール協会と関東、関西、九州の3地域ラグビーフットボール,(九州協会) / 九州ラグビーフットボール協会の取り組み
日本ラグビーフットボール史 (Ⅱ 日本代表強化新体制)

日本ラグビーフットボール史 / 日本協会は2006(平成18)年9月29日、日本代表ヘッドコーチ(HC)、ジャン・ピエール・エリサルド,契約解除の理由は、日本協会と事前の話し合いがないまま、エリサルド前HCがフランス1部リーグアビロン・バイヨンヌ,後任HCの人選については「8強会議の意見も聞きながら早急に決めたい」(真下昇日本協会副会長・専務理事),日本協会は2006年9月29日に行ったプレスカンファレンスの冒頭で、ジャン・ピエール・エリサルドの突然,日本ラグビー協会理事会は10月25日、元NZ代表オールブラックスのジョン・カーワン招聘を、日本代表チーム・ヘッドコーチ / Ⅱ 日本代表強化新体制
日本ラグビーフットボール史 (《高校日本代表の海外遠征》)

日本ラグビーフットボール史 / 《高校日本代表の海外遠征》 2006(平成18)年度高校日本代表の海外遠征地とその日程が6月8日、日本協会,日本協会、高体連、そして毎日新聞社の主催3者が大会50周年の記念事業として、高校日本代表チームを編成。,コーチとして参加した岡仁詩(同志社大学監督)も、日本協会機関誌に「…今回の遠征の成績の3勝2敗というのはやや,前の強化委員長で、現在は日本協会競技力向上委員会長(執行理事)である。,次のような声明を発表するとともに、その全文を日本協会機関誌に掲載した。 / 《高校日本代表の海外遠征》
日本ラグビーフットボール史 (Ⅰ 日本ラグビーの組織改革)

日本ラグビーフットボール史 / Ⅰ 日本ラグビーの組織改革 日本協会における組織改革は、国内外における日本協会をとりまく環境の変化を,このオープン化にともなう急速な国際情勢の変化を受け、金野滋会長、白井善三郎専務理事のもと協会内に国際委員会,今、日本のスポーツ界では、JOCのゴールドプランに見られるように情報戦略を重視し多くの競技団体が情報部会,この動きを先取りしたのはラグビー協会である。  ,※  又、さらなる組織改革をすすめていくためには、日本体育協会・日本オリンピック委員会などの統括組織 / Ⅰ 日本ラグビーの組織改革
日本ラグビーフットボール史 (《日本の女子ラグビーが正式加盟》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本の女子ラグビーが正式加盟》 【日本協会への加盟と現況】  日本協会に新しい仲間が参加した。,2002(平成14)年4月1日、日本協会ジャパンクラブで協会側から日本協会会長町井徹郎、関東協会理事長貴島健治,女子ラグビー連盟の日本協会加盟が正式に決定し、ただちに報道関係にも発表された。,日本女子連盟ではこの日の正式発表に先立ち、「女子ラグビーの日本協会加盟」と「第4回ワールドカップ出場」,日本では関係者の間でしか知られていなかったが、この事実は日本の女子ラグビーが日本協会加盟以前、すでに国際的 / 《日本の女子ラグビーが正式加盟》
日本ラグビーフットボール史 (《日本選手権の変遷》)

日本ラグビーフットボール史 / その現れのひとつが大会直前に大阪のスポーツマンクラブで開かれた「第1回日本選手権展望」と題する日本協会機関誌主催,の日本協会機関誌2月号に日本協会理事小林忠郎が、早くも新しい時代の到来を暗示するような興味ある指摘を綴,そこで、日本協会では現行方式の日本選手権を新たに見直すことになり、様々な角度から検討を続けました。,日本協会ではこの年度の選手権に先立ち、大会そのものの再検討を行った。,その結果、一時は日本協会機関誌に「日本選手権は第40回大会で終了。 / 《日本選手権の変遷》
日本ラグビーフットボール史 (《日本とカナダの国際交流がはじまる》)

日本ラグビーフットボール史 / バンクーバーを相手にドリブル攻撃を仕掛ける日本代表    日本協会は1930(昭和5)年8月に,日本協会機関誌掲載の「ラグビー史話(6)」(田尾栄一著)に、カナダ協会が日本代表チームの招待に到った秘話,招待を日本ラグビー協会へ移牒したのである。,ただ、昭和4年といえば日本協会副会長、高木喜寬がそれまで空席となっていた日本協会初代会長に就任して間もない,こうして日本協会は団長兼監督に日本協会理事香山蕃、総務(マネジャー)に同書記長川目保美を決めるとともに / 《日本とカナダの国際交流がはじまる》
日本ラグビーフットボール史 (《日本に初めて専用グラウンドが》)

日本ラグビーフットボール史 / ラグビー場に対し、近鉄花園ラグビー場の完成は1929(昭和4)年12月22日というから、人生に譬えれば日本協会設立,日本ラグビー史をはじめ近鉄ラグビー部五十年史、日本協会機関誌などには、秩父宮さまと花園ラグビー場建設にまつわる,西部協会ではわざわざ名古屋から東大OBの澤田健一を呼び寄せるなど、協会内に専門委員会を新設。,日本協会は開場式に、ご結婚間もない秩父宮ご夫妻をお迎えして、全日本OB─学生選抜の試合で新装なった専用,また、ラグビー場の正式名称は「日本ラグビー蹴球協会専属花園ラグビー場」と命名され、国際試合や大学ラグビー / 《日本に初めて専用グラウンドが》
日本ラグビーフットボール史 (JWC日本開催の意義)

日本ラグビーフットボール史 / JWC日本開催の意義 2008年5月のIRB理事会にて2009年6月にJWC(U20)国際大会を日本,この決定の一番の理由は「日本のラグビー運営能力を世界に証明できるか」という点にあり、”国際大会の開催”,こそワールドカップ(RWC)招致をめざす日本協会が一度は経験しておかねばならない大きなチャレンジであり,また、大会を成功に収めることにより、世界に対する日本および日本のラグビーの素晴らしさの発信、日本ラグビー,の発展(国内の普及、RWC日本招致の実現、日本代表の強化)や大会を通じた地域貢献、青少年育成など大きな / JWC日本開催の意義
日本ラグビーフットボール史 (《W杯と日本代表チームの記録 第1回大会~第5回大会》)

日本ラグビーフットボール史 /   団長  金野滋(日本協会専務理事) 監督  宮地克実(日本協会強化委員) コーチ 水谷真,  団長  金野滋(日本協会専務理事) 副団長 白井善三郎(日本協会強化委員長) 監督  宿沢広朗,  団長  白井善三郎(日本協会専務理事) 監督  小薮修(日本協会強化委員長) コーチ 洞口孝治,  団長  河野一郎(日本協会強化本部長) 監督  平尾誠二(日本協会強化委員) コーチ 土田雅人,  団長 真下昇(日本協会専務理事) 監督 向井昭吾(日本協会強化委員長) 主将 箕内拓郎( / 《W杯と日本代表チームの記録 第1回大会~第5回大会》
日本ラグビーフットボール史 (《日本ラグビーの50周年記念式典》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本ラグビーの50周年記念式典》 日本ラグビー発祥から50周年にあたる1948(昭和23)年10月,10日、日本協会主催の記念式典が東京、大阪を中心に全国各地の会場で開かれた。,流暢な日本語を駆使したスピーチもすばらしかったが、それ以上に並み居る日本協会関係者の度肝をぬいたのは「,「オックスブリッジ」といえば「一度は日本に招きたい」と、日本協会が戦前から念願としてきたことであり、また,【日本協会招待試合】(1948年10月10日、東京ラグビー場) / 《日本ラグビーの50周年記念式典》
日本ラグビーフットボール史 (《日本ラグビーに変化の兆し》)

日本ラグビーフットボール史 / 日比野弘も日本協会機関誌の最後に「…不本意なゲームをして、インターナショナルボード8カ国の代表チームとして,から日本代表との対戦を求めてナショナルチームが日本に続々とやってきた。,日本協会が「世界8強進出対策会議」なる会合をセットして真剣に策を練り、論議を尽くしているのも、国際試合,日本協会創立80周年記念祭以後の日本代表に期待をしたい。   日本ラグビーの恩人カナダとの交流。,【日本代表と来日外国チームの対戦成績】 (日本で開催された第2回W杯アジア太平洋地区予選の結果は「W / 《日本ラグビーに変化の兆し》
年代史・観戦記・その他資料 (昭和36年(1961)1月29日 第1回日本協会招待NHK杯)

昭和36年(1961)1月29日 第1回日本協会招待NHK杯 新聞記事 機関誌 秩父宮ラグビー場,14 奈須 生玄(③熊本工) 15 松岡 要三(明大) 15 原口 智雄(文雄)(④熊谷商)  日本選手権,の前身となったNHK杯争奪戦は、日本協会招待試合として行われた。,大学選手権はまだ行われていなかったため、日本協会が日大を最優秀校として招待したのである。 / 昭和36年(1961)1月29日 第1回日本協会招待NHK杯
日本ラグビーフットボール史 (《日本代表の遠征を総括すると》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本代表の遠征を総括すると》 日本協会が代表選手団を送っている大会には、1969(昭和44)年3月,次にこれら18回の遠征で日本代表はどのような足跡を残しているのだろうか。,日本協会の記録によると、さきに詳述したオールブラックスJr.戦とNZU戦は、ともにテストマッチと認定されているが,日本代表チーム強化活動と考えれば、遠征の結果も未来志向でとらえていくべきだろう。,時間的にもこれから、というのが日本代表強化の実態といえる。   日本代表の海外遠征成績 / 《日本代表の遠征を総括すると》
日本ラグビーフットボール史 (日本におけるスーパーラグビーの立ち上げ)

日本ラグビーフットボール史 / 日本におけるスーパーラグビーの立ち上げ スーパーラグビーの参戦にあたり、まず、新規に運営法人を立ち上,(1)運営法人  スーパーラグビーを運営する日本法人は、JRFUの外部に一般社団法人ジャパン・エス・アール,表1 JSRA設立時のメンバーJSRA創設時社員・役員メンバー 役職 名前 所属他 社員 (公財)日本,ラグビーフットボール協会 眞柄 泰利 サイバートラスト株式会社 (公益)日本ラグビーフットボール協会,サンウルブズの「SUN」は「太陽」を意味し、日出ずる国である日本を象徴している。 / 日本におけるスーパーラグビーの立ち上げ
日本ラグビーフットボール史 (2011年までの日本の男女7人制)

日本ラグビーフットボール史 / 2011年までの日本の男女7人制 2000年を過ぎてから、世界では7人制のワールドシリーズがはじまっていたが,、2009年、オリンピック競技に正式に決まり、そしてその後数年たっても、日本の7人制は、本格的な強化はなされなかった,「ないないづくし」の中、特に2002年にラグビー協会に入るまでは、女子連盟スタッフ、選手たちが工夫して,五輪競技採用から、7人制ラグビーの強化が加速することが期待されていたが、現実的には7人制の地位や認知度は低く、日本代表 / 2011年までの日本の男女7人制
年代史・観戦記・その他資料 (女子日本代表の活動)

女子日本代表の活動 前述のように、昭和63年(1988)4月に日本女子ラグビーフットボール連盟発足後,開催の牽引車となったイングランド、フランス、カナダなど女子ラグビーの先進国も、まだ自国の協会と別に活動,日本協会の協力も得て、国際交流に引き続き努力を続けた日本女子ラグビー連盟は、平成12年(2000)7月,平成14年(2002)4月日本協会に加盟、5月にスペイン・バルセロナで行われた第4回RWCに出場、37,女子ラグビーの試合記録等は、日本協会女子ラグビー部門の資料に加えて、協会機関誌、ラグビーマガジン、秋山陽一氏 / 女子日本代表の活動
年代史・観戦記・その他資料 (昭和38年(1963)3月3日 第3回日本協会招待NHK杯)

昭和38年(1963)3月3日 第3回日本協会招待NHK杯 新聞記事 機関誌 秩父宮ラグビー場,○八幡製鉄 25-6 明大● 八幡、明大を下して二度目の日本一 昭和37年(1962)度 第3回NHK,) 1 G 0 5 安藤 勝彦(②西陵商) 6 尾崎 政雄(早大) 0 PG 0 6 太田 正人(③日本学圓,この年の5月、戦後初の日本代表カナダ遠征メンバーに、明大から上記の3名のほかにHO村田、バックロー烏谷,この試合が名実ともに日本一のレベルであった証明である。 / 昭和38年(1963)3月3日 第3回日本協会招待NHK杯
日本ラグビーフットボール史 (《初代会長問題と役員人事》)

日本ラグビーフットボール史 / 」(ともに日本協会編)の食い違いは解消したわけだが、①会長問題も含めた創設時の日本協会役員人事が何時、,」(関東協会広報委員会)の記述、あるいは日本ラグビー史掲載の日本協会主催第1回東西対抗試合前の写真などがあげられる,日本協会初代会長 高木喜寬    例えば創設時の日本協会役員人事が決まったのは、年度でいえば1927,ロ)日本ラグビー蹴球協会役員のことは関西で協議すること」》《③「2月11日:1.日本ラグビー蹴球協会に,日本協会の人事を関東協会が単独で決めることは出来ない。
日本ラグビーフットボール史 (《日本をわかせた世界のスーパーチームが来日》)

日本ラグビーフットボール史 / 《日本をわかせた世界のスーパーチームが来日》 ユニセフ協会の呼びかけで世界の2強といわれるオーストラリア,試合はワラビーズが64-13、オールブラックスが50-10でそれぞれ快勝したが、日本のファンはいまをときめく,25日のサラセンズの相手は2001年度日本選手権優勝のサントリー。,SOジョニー・ウイルキンソンの勇姿を20日(国立競技場)のナイトゲームでは見ることができなかったが、日本,季節はずれの招待試合とはいえ日本のファンにとっては楽しい真夏のナイトゲームだったといえる。   / 《日本をわかせた世界のスーパーチームが来日》
日本ラグビーフットボール史 (《三地域対抗ラグビー》)

日本ラグビーフットボール史 / と改名し、日本協会の支柱は3本脚になった。,そうはいっても、日本協会設立時代に、三高、京都大学を通じて、日本ラグビーの競技ルール確立に功績のあった,巌栄一(後に日本協会副会長、関西協会会長)が、1967(昭和42)年9月発行の日本協会機関誌に「ズバリ,…」(原文のまま)    この巌原稿の指摘がきっかけとなったのか、どうかはともかく、日本協会機関誌,確かにするのが「…地域協会でも協会代表チームを結成し、最終的に日本の強化につなぐ。
日本ラグビーフットボール史 (《YC&ACセブンズとジャパン・セブンズ》)

日本ラグビーフットボール史 / 原稿の執筆者は元日本協会副会長小林忠郎となっている。    ,)が主催して始めたい、日本協会の協力を得たいと云ってきているので関東協会の賛否、主管協会としての協カ度,早速、関東協会の態度を決め、日本協会の奥村さんと関東協会から小林、伊藤(参次)の2名が渋谷の文化会館で,主催YCAC、協賛日本ラグビーフットボール協会となり、日本協会は協賛金として5万円をYCACに支払うこと,あるときは日本協会が協賛であったり、またあるときからは日本協会が主催者となるなど、両者は表裏一体の関係
年代史・観戦記・その他資料 (昭和37年(1962)3月4日 第2回日本協会招待NHK杯)

昭和37年(1962)3月4日 第2回日本協会招待NHK杯 新聞記事 機関誌 秩父宮ラグビー場,2回NHK杯 1962年3月4日 G:秩父宮ラグビー場 R:池田正徳 KO 同大 17 - 6 近畿日本鉄道 / 昭和37年(1962)3月4日 第2回日本協会招待NHK杯
日本ラグビーフットボール史 (引用・参考文献)

日本ラグビーフットボール史 / ラグビーフットボール協会(1947-2006):競技規則、日本ラグビーフットボール協会 東京、 9),㈶日本ラグビーフットボール協会(1950-2006):機関誌RUGBY.日本ラグビーフットボール協会、,東京、vol.1~vol.46 10)㈶日本ラグビーフットボール協会(1976):協会50年史 日本,)㈶日本ラグビーフットボール協会(1964):日本ラグビー史 日本ラグビーフットボール協会、東京、pp,協会(1980):昭和55年度レフリーハンドブック 14)㈶日本ラグビーフットボール協会(1969)
日本ラグビーフットボール史 (《私とラグビー》)

日本ラグビーフットボール史 / (中略)日本ラグビーの発達を予期されて、前例を破って秩父宮盃をご下賜になって、その機會に日本ラグビー協会,したわけだが、日本協会80年史としては日本協会設立を巡る秩父宮賜杯がはたした役割について記録しておきたい,日本ラグビーにとっても、また関東、西部両協会の関係者たちにとっても、秩父宮賜杯の下賜という事実は、日本協会,「今日、毎年発行の競技規則は内容は毎年異なるが体裁その他はこの時即ち昭和3年協会発生(日本協会の組織が,この時点での日本協会会長空席の事実を思わせる写真ではある。
日本ラグビーフットボール史 (《トップリーグ創設》)

日本ラグビーフットボール史 / 同時に日本協会の役割となる全国のラグビー競技の発展への寄与が明確に打ち出されたラグビーリーグである。,1.日本協会の求める理想(ビジョン)  ラグビー競技を誰からも愛され、親しまれ、楽しめる、人気の高い,スポーツにする 2.日本協会の使命(ミッション)  日本協会や参加の各地域協会・支部協会、および日本全国,これはトップリーグの役割を宣言し、日本協会の定めるビジョンとミッションを達成するための目標となっている,また、本シンボルは、皆様に愛されるラグビーの実現を目指す日本ラグビーフットボール協会にとっての“意気込
日本ラグビーフットボール史 (《ラガーマン手づくりのラグビー場と国への移管》)

日本ラグビーフットボール史 / こんな不安定なことでは、とても将来の発展は期されない」(日本ラグビー史)との思いが、当時の関東協会理事,おそらく専用ラグビー場の建設に奔走した5大学OBはじめ日本協会、関東協会の関係者たちも、そこまでグラウンド,しかし、戦後のわが国のスポーツ再建を五輪の金メダル獲得に托した日本体育協会内にあって、日本ラグビー協会,(注)当時の日本体育協会は国際関係の日本オリンピック委員会と国内関係の国民体育大会委員会の2つの委員会,「…日本協会は、これが保存発展のためにも、協会組織を財団法人に改め、その保存に万全をきしたのであったが
日本ラグビーフットボール史 (安全対策推進委員会)

日本ラグビーフットボール史 / 内容を充実させるため、またきめ細かく受講者に浸透させるため、それまで日本協会主導で行ってきた安全推進講習会,を関東協会、関西協会、九州協会の三地域協会主導で行うことにした。,これまでの主な講習内容は「日本版ラグビーレディの活用」「正しいタックルおよびその指導法」「体幹トレーニング,また、平成24年WRから脳振盪の扱いをより慎重に行う旨の通達が出されたことにより、日本協会として様々な,現在、日本体育協会の協力も得て認定講習会を年に1度実施し、脳振盪関連事案に対応できる人材育成を行うとともに
日本ラグビーフットボール史 (2. 昭和60年代~現在までワールドカップと日本)

日本ラグビーフットボール史 / 昭和60年代~現在までワールドカップと日本 (1)ワールドカップ開催に伴う改革  1987年(昭和,第2回大会にはTJで参加し、第3回の南アフリカの大会ではレフリー、第4回ではTJとして日本のレフリーの,IRBのパネルアセッサーからの評価を受けることが、パネルレフリーになるための必須条件となり、日本のレフリー,もう一つ残されている道は、2004年からARFU(アジアラグビー協会)もレフリーのパネル制度を導入した,早期に日本からフルタイムレフリーの誕生を急ぐことが必要である。   / 昭和60年代~現在までワールドカップと日本
日本ラグビーフットボール史 (《黒衣のパワフル3軍団》)

日本ラグビーフットボール史 / 《黒衣のパワフル3軍団》 このあと日本協会はフランスのパリ大学クラブ「ピュック」、ニュージーランド大学選抜,最終戦を前にオールブラックスと日本代表の記念写真(秩父宮ラグビー場)    ところで、日本協会からこの,を使用したが、日本協会80年史での表記は「オールブラックスコルツ」とした。,参考のため付記するなら、この間の日本-NZ両協会のやりとりについては、日本側の交渉役だった当時の日本協会専務理事杉原雄吉,が日本協会機関誌にその詳細を綴っている。    
日本ラグビーフットボール史 (《キャップ制度の発足》)

日本ラグビーフットボール史 / 《キャップ制度の発足》 日本のラグビー界にキャップ表彰制度が生まれたのは戦後も1982(昭和57)年,日本協会は同年12月17日にキャップ制度の新設を決めるとともに、第1回対象者254人を発表した。,(別表)  日本協会は発表にあたって「キャップ(帽子)には日本代表選手としての名誉とその重みを自覚してもらうことがこめられており,、ラグビー発祥の地イングランドの制度にならったもの」と説明しているが、キャップ制度に落ちつくまで協会内,キャップ対象試合一覧   キャップ贈呈者名簿(財)日本ラグビーフットボール協会
日本ラグビーフットボール史 (《初めて目にする華麗なシャンパンラグビー》)

日本ラグビーフットボール史 / 後半の反撃で日本代表が1トライ、ゴールをあげたのが好印象となったのか、日本協会強化委員日比野弘は観戦記,だが、私はこの試合に将来への明るい期待を確信した」(日本協会機関誌)と日本代表にエールを送っている。,モールの威力、バックスの素晴らしいスピードとハンドリングを披露してくれたフランスの選手団に頭を下げる」(日本協会機関誌,日比野弘、岡仁詩ともに日本協会の強化面の重鎮。,そして日比野弘は強化委員としてチームを離れて日本代表の試合内容を、また岡仁詩は日本選抜監督として自チーム
日本ラグビーフットボール史 (医務委員会の歴史)

日本ラグビーフットボール史 / 日本協会が発足し神宮競技場での協会主催の大学対抗試合も始まり、そのまま放置するわけにもいかなくなり、当時,(協会50年、機関誌より転用)  また、1930年医師として初めて日本代表選手に選出された桜井凱夫(,事故防止と安全対策の観点から、日本協会からの委託業務として「安全対策マニュアル」(1986年)および「,その後、委員長に関東協会理事丸山浩一(慈恵医大OB)、事務局長に古谷正博(日本医大OB)が就任し、年間約,に九州協会を代表して九州協会中田主基理事長と成田陽二郎(久留米医大OB)が出席し、日本協会より3地域ならびに
日本ラグビーフットボール史 (1. 昭和40年代~50年代)

日本ラグビーフットボール史 / がトップレフリーを独自に決めていたが、全国大会等の開催に伴い、昭和40年代前半には委員会の審査を経て日本協会公認,昭和45年には日本協会公認レフリーが23名いたが、昭和47年には3名、昭和50年には6名と精選された。,昭和52年にはレフリー審議委員会が設立され、日本協会公認レフリーの推薦を担うようになった。,(平成11年にA2制度ができたが、A2は日本協会公認ではない。)  ,そして、公認A級は、国際試合、日本協会主催試合、地域協会主催試合を担当し、公認A1級は日本協会主催試合
年代史・観戦記・その他資料 (9 7人制日本代表強化の歴史)

9 7人制日本代表強化の歴史 日本協会は昭和51年(1976)、初めて香港セブンズに7人制日本代表を,団長を務めた日本協会理事の高島信之氏は『機関誌』Vol.25-5号P29に「(前略)香港における日本選手達,7人制日本代表の強化は香港セブンズでの活躍を目標に、強化委員が担当してきた。,平成9年(1997)、第2回RWCセブンズの年に、日本協会はフィジーの名手で日本でも長くプレーしたパウロ・ナワル,平成20年(2008)、日本協会は15人制、7人制ともに大活躍した、経験豊富な村田亙を専任監督に任命、 / 9 7人制日本代表強化の歴史
日本ラグビーフットボール史 (Ⅴ レフリーソサエティとグレーディングレフリーについて)

日本ラグビーフットボール史 / Ⅴ レフリーソサエティとグレーディングレフリーについて 昭和5年にレフリーソサェティーが関東協会内に,生まれて以来、それぞれの地域協会がイニシアチブを持って組織の運営を行ってきたが、昭和28年以降になってやっと,日本協会のレフリーソサェティーは、三地域協会のレフリー指導者と共に全国レベルで首尾一貫した指導、育成と,資料1)  今日では国内全てのレフリー及びスタッフとトップレフリーの育成だけでなく、いかに国際舞台で日本
日本ラグビーフットボール史 (《戦前の全国高専大会》)

日本ラグビーフットボール史 / 日本ラグビー史は「大正7(1918)年の大毎主催の『フートボール大会ラ式の部』から、時に応じて形式や場所,また関西協会史にも「大正7年に創められた日本フートボール優勝大会に源を発して…」とあるので、起源については,日本ラグビー史にいたっては昭和18年度の大会まで。それ以降についての記述は皆無となっている。,第2回大会では「主催:日本ラグビー蹴球協会、主管:帝大ラグビー連盟」と変更されたものの、大正天皇の崩御,つづいて1928(昭和3年)の第3回大会では西部ラグビー蹴球協会、第4回大会では日本ラグビー蹴球協会、
日本ラグビーフットボール史 (《夢の創始国イングランド代表が初来日》)

日本ラグビーフットボール史 / 日本協会が来日チームを迎えるたびに日本代表チームを編成しても、対戦するのは本来なら格下ともいうべきチーム,こうした日本協会としては不本意な時代がつづいた交流19年目の1971年9月。,このことは日本協会が国際交流を通じてラグビー先進国に働きかけ、そして渇望してきた「日本ラグビーの認知」,改めて日本協会創設80周年の歩みを綴る記念史に「ジ・ユニオン」(イングランド協会の名称)の厚情と見識に,最後の最後に再逆転をゆるして、日本ラグビー80年、日本協会創設からは53年間の夢は、その瞬間に消えてしまった
日本ラグビーフットボール史 (《全国クラブ大会》)

日本ラグビーフットボール史 / 日本協会はラグビー人口の底辺拡大を目標に2003(平成15)年度の第41回日本選手権から全国クラブ大会優勝,さらにいえば全国クラブ大会が日本協会の主催で開催されるようになって、まだ13年と、学歴でいえば高校時代,(日本協会機関誌2005年4月号から)    同じように敗者タマリバ・クラブのチームディレクター中竹竜二,日本ラグビーの歩みを振り返りながら、21世紀の未来に目を転じるとき、透けて見えてくるのは日本協会を支えるのは,その意味でクラブラグビーの育成に目を向けた日本協会の今後が注目される。  
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