《ラグビー発祥を語る唯一の証人=貴重な記述》


 ここに「慶應義塾体育会蹴球部六十年史」(以後六十年史)という一冊の書がある。それまで不明とされてきた日本ラグビー創始の古(いにしえ)に触れる初めての公式文書として、ラグビー関係者から高い評価と賛辞が贈られた。半世紀を越える長い歳月を遡ること60年。年史を手にするとき、史料の収集、確保にあたった編纂の苦労が全編の行間から伝わってくるが、そうした労作だけに圧巻はやはり日本ラグビー発祥時の解明であり、揺籃の時を経て勃興─興隆へと進化の歩みを詳述している点にある。
 後に、あるスポーツ新聞は日本ラグビーの創始を日本体育会体操学校(現日本体育大学の前身)とする説を報道し、また別のところでは明治時代の海軍兵学寮説を唱えるむきもあった。わずか百余年の歴史とはいえ、時代は大きな転換期に入ったばかりの明治維新である。イングランドから持ち込まれた新しいスポーツへの試みが複数の場所、人物によって試されたとしても不思議ではない。しかし、上記2説とも結局は定説の慶應義塾を祖とする歴史を覆すまでには至らなかった。理由は2点にしぼられる。第1は史実の点で確たる物証に欠けていたこと。そして仮に両校が先行していたとして、なおかつ慶應義塾にルーツ校の名誉を譲る結果となったもう一つの理由。それはラグビー活動を継続できなかった一過性にあったといえよう。とかく物事の始まりというものには、後になっていろいろ諸説が起こり得る格好の例といえる。
 ともあれ六十年史は確かな史実を掘り起こし、ラグビー創始からの活動が定着していった過程をも教えてくれた。そこには誇張もなければ一点のまやかしもない。たとえば伝承による記事。年史の価値を最も高めたといわれるラグビー発祥の部分も、その伝承によるものだった。筆者の田辺九万三も「発祥及び最初の試合」の冒頭で「ラグビー創始者の一人でマネジャーをして居られた猪熊隆三氏という先輩から親しく其の当時の模様を聞き二三得難い資料を寄与されて漸くその全貌が明らかになって来た」と、創始時の記述内容が猪熊隆三からの伝え聞きだったことを率直に認めている。
 この「伝承」という言葉。広辞苑は『②伝え受けつぐこと。古くからあった「しきたり」(制度・信仰・習俗・口碑・伝説などの総体)を受け伝えてゆくこと。また、伝えられた事柄』──と詳しく説明しているが、人から人へと語り継がれていく話には往々にして誇張なり、脚色がつきまとうのも、また事実である。要は猪熊隆三から伝え聞いた内容が「語り部・田辺九万三」によって正しく記述されていたか、どうかという点だろう。編集後記がいう「疑問を残したまま掲載……云々」のくだりが必ずしも伝承の部分を指しているとは考えにくいが、先に「確かな史実を掘り起こし」と記したことでもあり、2点の証しを添えておく。
 第1点は、かつての師、E.B.クラークから蹴球部に届いた1931(昭和6)年4月19日付けの書簡(六十年史89ページ)である。そこにはクラークが塾生たちにラグビーというイングランドの新しいスポーツを紹介したいきさつが、わずか7行という短い文章ながら簡潔に述べられている。田辺九万三の遺稿が伝える発祥の部分を要約すれば、クラーク書簡の内容そのものだ。
 第2の証しは、田辺九万三にラグビー創始のもようを口述した猪熊隆三本人の記述が発見されたことである。それは田辺九万三が急逝した1955(昭和30)年6月12日からちょうど1年後の命日の日に出版された慶應義塾蹴球部黒黄会(以後黒黄会)編纂の「田辺九万三追懐録」(以後追懐録)に収録されていた。ページを繰っていて驚いた。「語り部・田辺九万三」が遺稿の中で記していた草創期の内容をそっくりそのまま書き写したような追悼の文章だった。
 もちろん、猪熊隆三はクラーク、田中銀之助らとラグビー創始の歴史的な出来事に携わった当事者の一人。驚くにはあたらないが、ここで指摘したいのはその当事者から伝え聞いた田辺九万三の遺稿が、伝承でありながら創始の事実を完璧に再現していたことである。今と違って当時はまだテープレコーダーと称する文明の利器が世に出たか、どうかという時代。すべて先輩猪熊隆三から伝え聞いた事実を活字に置き換えた田辺九万三の遺稿は、追懐録に掲載された追悼文によって、その正確さが証明された。
 ところで追懐録は、もうひとつの驚くべき事実を明らかにしてくれた。それは戦後も昭和30年代初期に日本ラグビーの創始者が健在だったという事実である。今のいままで猪熊隆三という人物は伝説の人、そして活字の中だけに存在する大先輩の一人と信じ込んでいた。食べるものにも事欠いた戦後の厳しい時代に、歴史的な明治の先達と、日本の空の下で過ごせたことの幸せ。昭和20年代を思い起こしながら、日本に初めてやってきたオックスフォード大学やケンブリッジ大学と母校慶應義塾との対戦を、日本ラグビー発祥の証人はどんな思いでみていたのだろうか。とくにケンブリッジ大学はラグビーの手ほどきを直接うけたかつての師クラーク、田中銀之助の母校でもある。
 いまとなっては以下に転載した猪熊隆三の手になる後輩田辺九万三への追悼の辞(ここでは要旨)だけが、ラグビー界に残る唯一の証言となった。
追悼文(要旨)
 田辺君の訃報は私に大きい衝撃を与えた。私は戦争で東京の家を焼かれてから、伊東で隠遁生活を送っているので、田辺君とは時々文通はしたが、終戦後一度もお目にかからずにお分(別)れしたのである。
(中略)
 田辺君と私との交際は、私が学窓を離れてから遥か後になってから始まる。私は一九〇三年春塾を出てすぐ、サー・ロバーツ・ハート治下の中華民国(当時清国)海関に入り、各地に勤務中、一九三〇年の新年休暇を香港のホテルで過ごしている際、東京朝日元旦号所載の、日本に於けるラグビーの発達についての記事を見て、初めて君の存在を知ったのである。君はこの寄書の中で、ラグビーが如何にして日本に紹介され、誰々がその創始に関係したかを説明し、特に私の名を掲げて紹介者の一人として大いに功績があったと述べられたので、私はこれは過奨だと酷く恐縮したのである。
 君は塾に於けるラグビーの歴史に非常に興味を持ち、私が一九三〇年秋帰国して以来、再三私に対し「完全な記録を作っておきたいが、草創時代の記録に欠けているので是非それを提供して欲しい」と切なる希望を述べられた。ところが、私は三十余年外国生活を送っている間に、私に托(託)されたラグビーに関する記録と写真を紛失してしまい、丹念に探したかいもなく遂に発見しえなかったのである。「ラグビー今日の隆盛を夢にでも見ていたら、こんな不始末はしなかっただろう」と後悔するのみです。ただ一点、写真一枚(注①)とその原板(ややぼけてはいたが)だけは運よく探しだしたので、先年黒黄会へ寄贈しておきました。(中略)
 話は遠く遡って、一九〇〇年晩秋(注②)のある日、ケンブリッジ大学出身のイー・ビー・クラーク先生は、理財科一年の英会話の時間にスポーツの問題を取上げ、ラグビーこそウインター・スポーツとして理想的なものだと説いて、強い印象を我々学生に与えたのである。先生は「是非やってみなさい、やってみる気があれば、幸いここに生粋のキャンタブ(注③)で優れたプレーヤーがあ(い)るから、その人を紹介しよう」といわれた。我々は一も二もなく先生の勧めに応じた。そもそも日本のラグビーの発端は正にこの日この場所に於てであるというても敢えて過言ではあるまい。
 紹介された人は最近英国から帰ったばかりの田中銀之助氏であった。氏はパブリックスクール入学からケンブリッジ大学卒業まで多年間純英国風に教育された人で、対外試合に同大学(カレッジの意)を代表した唯一の日本人であったそうです。私と森俊次郎君(後の五郎兵衛君)とが麻布市兵衛町のお邸へ伺ったところ「これから英(国)大使館の晩餐会へ行くところだが、少し時間があるからプレーの仕方について説明しよう」といわれ、ラグビーの沿革から説き起し、興に乗じて燕尾服のままでカーペット上に腹ばいになって、プレース・キックの時のハーフ・バックの姿勢を実地に示されたのである。(いつ頃から変わったか知らないが、当時は腹ばいで手を長く伸ばしてボールをプレースした。)(中略)
 かくて威勢よく発足はしたものの、その後は決して順調とはいえなかった。グラウンドは仙台原を無断借用して、ゴールポストを立てたり線を引いたりしたので、地主から厳重な抗議を受けた。他のクラスに呼びかけ盛んに勧誘してみたが、危険な運動だというので、サッパリ参加者がない。練習日に人数を揃えるのに随分苦労したものです。塾からは「他に運動部がいろいろあるのに、今更そんな危険な競技を始める必要はあるまい」との態度で、運動部編入(体育会加盟の意)など思いもよらず、一切おかまいなしでした。田中氏は約束の日には、自身ハンサム(2人乗り1頭立て2輪馬車)を操りながら、日本橋の田中銀行からグラウンドに見えるのが例で、時には夫人同伴でした。私が最も感心したのは、氏は多忙な身でありながら決して約束を変えたり或いは約束の時間に遅れたりしなかったことです。我々世話人が学生なみにいろいろ苦労している際、田中氏はいつも変わらぬ温容で熱心に我々を指導し激励して下さった厚意は私の終生忘れえぬところです。氏はまた我々両人を晩餐に、テニス会に、度々呼んで我々を慰撫して下さいました。かようにして、一九〇一年暮には横浜の外(国)人クラブ(Yokohama Country & Athletic Club=横浜外国人クラブ)と日本最初の国際ラグビー試合をする段取りまで漕ぎつけたのです。」(後略)
注① 日本ラグビーにとって最初の試合となった慶應義塾vsYC&AC戦前に撮影された慶應XVの集合写真。現存する最古の写真でもある(下段)。
注② 猪熊隆三は慶應ラグビーの発祥年を追悼文の中で「1900年晩秋」と記しているが、黒黄会では公式に「1899年晩秋」としている。
注③ E.B.クラークの言葉の中に出てくる「キャンタブ」とはキャンタブリジアン(Cantabrigian)の略。ケンブリッジ大学の学生、及び出身者の意。