《はじめに》


 ラグビー創始国イングランドの名門オックスフォード大学ラグビーチームが来日したのは1952(昭和27)年9月のことである。史上初めて本場のラグビーチーム、それも敗戦国の大学生にとっては垂涎の的ともいうべき世界屈指の名門大学が、ようやく復興へとたち上がった日本にやってきた。明治、大正から昭和シングル世代にかけてのラガーマンにとっては、あのダークブルーの勇姿に接するだけで、感極まってからだがしびれるほどの感激を味わったものである。ラグビー復活をオックスブリッジ招聘に托した日本協会の意図と企画は大成功をもたらしたわけだが、それには序章があった。
 その中心人物は京都大学OBの奥村竹之助である。日本ラグビー史によると「戦前から英国はじめ米国での勤務が長かった彼は、終戦後も国際金融機関に関与するなど、日本ラグビー界では数少ない国際人だった」(要旨)が、その奥村竹之助自身も復刊したばかりの日本協会機関誌第2号に「一日も早くラグビーの国際交歓試合を復活したいのは我々の年来の興望であり、その実現を期す可く昨年来日本協会の名に於て可能性のある諸チームと活発に接渉を続けてきたが、漸く来春一月下旬、ホンコン・チームが来訪することに確定したので不取今迄の経過をご報告する」(原文のまま)と記すなど、日本ラグビーの国際交流再開に並々ならぬ決意を表明している。
 しかし、奥村竹之助が1950(昭和25)年、まず手がけた交渉相手は米国の加州(カリフォルニア)大学であった。「…講和条約もまだ結ばれていない国際状勢下で、可能性のあるのは米国以外にないこと、加州大学の卒業生が日本に多いことなどを基礎的資料として、同年4月来日した1908年来日した加州大学主将エリオットと話のきっかけをつくり、ひきつづき同大学コーチ、ハドソン博士、総長スブラウル博士と交渉をつづけ、27(1952)年3月に来日とまでとりまとめたのだが、中共(現中国)の朝鮮事変介入から米大統領の非常事態宣言となって、残念ながら取り止めの通知が総長からとどいた。その後事態の好転とともにこの交渉は再燃したが、こんどは日本側の為替事情が決定的な障害となって、ついに加州大学招聘は断念せざるを得なくなった」(日本ラグビー史から=原文のまま)
 国際人、奥村竹之助が日本協会機関誌で報告している「香港ラグビーチーム招聘計画」は奥村自身が交渉を手がけてきたカリフォルニア大学招聘計画に次ぐ2度目のプランだったわけだが、こちらも来日が実現するまでには紆余曲折を経ることになる。最終的には最初の1952(昭和27)年3月20日羽田着の予定が早まり、同年1月24日に全香港は戦後の来日第1号チームとして羽田の土を踏んだことになるが、これも奥村竹之助の粘り強い交渉の結果ではあった。
 日本協会に残る記録によると、全香港日本遠征成績は4戦2勝1敗1分け。1950年度のイングランド代表のJ.L.ボーム陸軍大尉はじめ大半が軍人という時代の背景を背負ったチームだったが、「この機会にしばらく国際ルールから隔離していた日本ラグビーが、最新のルールにふれ得たことは、よい参考になった」と、日本ラグビー史は全香港の来日効果の一端を記している。
 なお、全香港と対戦した全関東は主将和田政雄(明大OB)はじめOB8人、関西九州連合にいたっては主将阪口正二(早大OB)らOB13人というチーム構成でもわかるように、OB優位の時代であったことが伝わってくる。
〔戦後の来日第1号となった全香港の成績〕
①●明治大学   0-14 全香港
②△全関東    6- 6 全香港
③○在日外国人 13- 5 全香港
④●関西九州連合11-12 全香港
 また全香港の来日によって開かれた国際交流の扉は、つづいて2ヶ月後の同年3月に朝鮮駐留のニュージーランド部隊「KayForce」が来日している。日本ラグビー史はニュージーランド代理公使R.L.G.チャリスの話として、KayForceの実力を「…在朝鮮部隊800名から選抜編成されたものだが、その実力は本国のクラブ・チーム程度のもので、地区代表チームまでの力はなく、むろんニュージーランド代表チームには、とても及びもつかない程度…」と紹介しているが、その戦績は第1戦の対全九州に3-22で敗れただけ。第2戦の対全関西学生にはじまり、つづく全関西、全関東学生、全関東の挑戦をことごとく退け、戦後初めて編成された全日本との最終戦でも、19-3と完勝している。