《初めて目にした創始国のラグビー》


 さて序章が長くなった。冒頭に記した本論ともいうべき英国オックスフォード大学ラグビーチームの初来日にもどることとしよう。暦年は同じ1952年であっても全香港、KayForceの来日は会計年度でいえば前年の1951年度。このように年度にも違いがあるように、本格的な戦後の来日外国チームはオックスフォード大学と理解するのが一般的な受け止め方だろう。奥村竹之助はここでも存分にその辣腕を振るってラグビー発祥国からオックスフォード大学招聘を実現するが、1960(昭和35)年3月31日、日本協会理事会の席で脳溢血のため倒れ、薬石効なく翌1961年2月1日早暁、帰らぬ人となってしまった。日本ラグビー史は「…日本ラグビーの国際交流に余暇のすべてを注いだ。…かれの功労のかずかずは何人の追随も許さぬ実績を史上にのこした」と、言葉を尽して称えている。
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オックスフォード大学来日のポスター

 歓迎の辞
 オックスフォード大学のラグビーチームを迎えることができたのは我々の心からの喜びであります。特にオックスフォードの皆さんが夏休みをさいて我々の招きに快く応じられたことを私は深く感謝するものであります。
 私も嘗て、極めて短い期間ではありましたが、オックスフォード大学の生活を味わったことがあります。その時の楽しい思い出は常に私の心の中に蘇ってくるのであります。従って今皆さんをお迎えするに当たっても外国のチームを迎えるというような気持ちは少しも起らないのでありますが、皆さんからすれば日本は何処までも外国であり、言葉も通じなければ風俗習慣も違うので、不便を感ぜられ、また当惑されるようなことも屡々起るかと思います。
 殊にラグビーには甚だ不向きな時期であり、日本の蒸しあつさは一層皆さんの心身に大きな負担となり、皆さんが十分実力を発揮できないのではないかと心配されます。
 日本のラガー・チーム並びにラガー・ファンはラグビーの母国、英国のオックスフォード大学選手のチームを迎えるについては、その伝統の美しいプレーを学び、或いはそれを見ようと楽しみにしていることはもちろんですが、英国人のスポーツマンシップに接し、さらに英国青年紳士を代表する大学生諸君のマナーを眼の当たりに見ることにも大きな関心と期待を持っているものであります。
 皆さん、皆さんのスケジュールは大変忙しいのですが、我々関係者はその余暇において皆さんができるだけアット・ホームな雰囲気において、広く、深く日本及び日本人を知って頂きたいと思っています。そしてこれが少しでも英日領国の友好親善関係の増進に役立つならばこれに優る喜びはありません。
 私は皆さんが元気で日本遠征の目的を達してよき日本の印象を得て無事に帰国されることを祈ってやまないのであります。
 日本ラグビーフットボール協会
   総裁   雍仁
 日本協会オックスフォード大学ラグビーチーム招聘にあたって、戦後初めて記念プログラムを発行したが、前頁に掲載した「総裁秩父宮様の歓迎の辞」はその巻頭を飾ったお言葉である。この一事が慣例となって日本協会は外国から主要チームを招くたびに「総裁宮さま」からお言葉を戴くこととなった。しかも「ラグビーの宮さま」と日本協会はじめ全国のラガーマンたちがお慕い申し上げていた秩父総裁宮は、オックスフォード大学の来日第1戦には療養中にもかかわらず、わざわざ神奈川県藤沢市鵠沼の別邸から東京ラグビー場へご臨席。試合前にはグラウンドまで足を運ばれて「母校」ともいうべきオックスフォード大学の後輩たちジャイルス・ブラード主将らXV全員と親しく握手を交わされるなど、その宮さまのお姿はいまもまぶたに焼き付いてはなれない。戦後の1947(昭和22)年9月に日本協会総裁としてお迎えした「ラグビーの宮さま」は、久しぶりのご観戦を「たいへん満足された」と伝え聞いているが、残念なことに宮さまにとって、この日英親善第1戦が最後のご観戦となってしまった。日本協会の設立にはじまり、歴史の節目で必ずといってもいいほど日本ラグビーの発展にご助力をいただいた秩父総裁宮さま。日本協会にとって宮さまご逝去の1953(昭和28)年1月4日は、忘れられない日となってしまった。
 それにつけても思い出されるのは、1963(昭和38)年9月30日に帝国ホテルで秩父宮ラグビー場改修工事の完成を祝う会でのかつてのジャイルス・ブラード主将のスピーチ。たまたま来日していたブラード主将も祝宴に招かれ、来賓として挨拶に立ったわけだが、そこで披露したのが「試合前に宮さまから握手を賜ったときの感激…」の思い出話であった。そこで資料の中から引っ張りだしてきたのが、朝日新聞撮影の宮さまがグラウンドで、かつての主将ブラードと握手をされている写真である。当時の主将は25歳。1メートル88の巨漢が列から半歩前に出たところで上半身をやや前に傾けて宮さまと握手しているシーン。まさに当時の写真はスピーチ通り彼の感激ぶりをはっきり写し出しており、何か語りかけておられる宮さまの表情もなごやかそのもの。戦後の国際交流再開の門出にふさわしい日本ラグビー発進の情景であった。
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総裁秩父宮さまがオックスフォード大ブラージ主将を激励される。

 さて、主将ジャイルス・ブラード主将率いるダークブルー軍団。日本での成績は7戦全勝。それも日本代表との2度にわたるテストマッチでは35-0、52-0と完勝している。なかでも最終戦となった10月5日の第2テストマッチでは、東京ラグビー場貴賓席に皇太子さまをはじめ高松宮さま、秩父、三笠宮両妃殿下もお見えになったほか、駐日英国大使エスラー・デニング卿、早稲田大学総長島田孝一、東宮御学問参与小泉信三ら日英VIPの顔も見え、勝敗はともかく東京ラグビー場は名門オックスフォード大学の最終戦にふさわしい華やいだ雰囲気に包まれていた。
 試合は開始早々からオックスフォードのバックスが縦横に走りまくって一方的な展開となってしまったが、朝日新聞記者松岡洋郎(早稲田OB)は10月6日付け紙面で最終戦記事の最後を「…オ大は一戦ごとに調子をあげ、りっぱな最後を飾って全試合を終了したが、その原因についてブラード主将の語るところは『日本のチームの動きに慣れて来たこと。試合が練習となってコンディションが整えて来たことのほかにもう一つ折角迎えられたわれわれとして日本に何か残したいという義務と責任感からだ』とあったが、きょうの忠実なプレーはそれを鮮やかに実行したものといえるだろう」と、いかにも最高学府のエリートらしい主将ブラードの言葉でレポートを結んでいる。秩父総裁宮さまも歓迎の辞で「…その伝統の美しいプレーを学び、…英国人のスポーツマンシップに接し、さらに英国青年紳士を代表する大学生諸君のマナーを眼の当りに見ることにも大きな関心と期待を持っているもの...」と述べられているように、ルイス・カネル、ブライアン・ブーブバイヤーという二人のインターナショナルによって組み立てられたダークブルーたちのTB攻撃は、秩父総裁宮さまのお言葉にもあった「伝統の美しいプレー」そのものともいえ、日本のファンは心ゆくまでラグビーのすばらしさを楽しむことができた初秋の1ヵ月であった。
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1952年に戦後初めて来日したオックスフォード大学のプログラム

オックスフォード大日本ツアーの戦績〕
①9月14日(東京ラグビー場)
 OURFC 28-6 全慶應義塾
②9月17日(東京ラグビー場)
 OURFC 11-8 全早稲田
③9月20日(東京ラグビー場)
 OURFC 20-3 全明治
④9月23日(西京極競技場)
 OURFC 42-8 全京関同3大学連合
⑤9月28日(平和台競技場)
 OURFC 43-0 九州代表
⑥10月1日(花園ラグビー場)
 OURFC 35-0 日本代表第1テスト
⑦10月5日(東京ラグビー場)
 OURFC 52-0 日本代表第2テスト
(注)①OURFCはオックスフォード大学ラグビーフットボール・クラブの略
   ②全京関同の3大学連合は京大、関学大、同志社大の略
   ③東京ラグビー場は後に秩父宮ラグビー場と改称される
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オックスフォード大を訪問された皇太子さま。出迎えるのはスペンス主将