「パシフィックリム・チャンピオンシップ」の名称で大会が始まったのは1996年6月だった。文字通り太平洋を囲む日本、香港、カナダ、アメリカの4カ国がホーム&アウェーで各2試合ずつ24試合行うというもの。もちろん発想の原点は北半球最大の国際イベントとして、格式、伝統を誇る6カ国対抗(イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、フランス、イタリア)、南半球のトライネーションズ(オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ)にある。すでに3回の開催を数える4年に一度のワールドカップでは、これら北と南の対抗戦構成国によってベストエイトが占められてきた。その一角に食い込み、そしてこれらラグビー先進国と対等の域にまでチームを育てるには、太平洋版4カ国対抗の設立が急務というわけだが、そもそもこの構想はこれら4カ国にアルゼンチン、トンガ、西サモア、フィジーを加えた8ヶ国対抗案にはじまる。しかし、遠隔地のアルゼンチンが旅費などでまず脱落。加えて大会そのもののスポンサーにも事欠いて、結局は上記の4カ国でスタートすることになった。
パシフィックリムが冠大会となったのは1997(平成9)年の第2回大会から。2年後の第4回大会では「カンタベリー」から「エプソンカップ」と冠の名称が変わるなど、スポンサーの交代はあったものの、日本協会の献身的な努力で大会は継続していった。この間の事情を当時の日本協会専務理事白井善三郎が日本協会機関誌に記している。歴史を語る証言として再録した。記事は「機関誌編集長のインタビュー」と題する規格の中で、専務理事白井善三郎が答えるクエッション&アンサー形式となっているが、ここでは①パシフィックリムの運営と変遷②IRB資金援助とは―の2点にしぼって、その要約を転載する。
①パシフィックリムの運営と変遷
パシフィックリムは日本、アメリカ、カナダ、香港の4カ国で過去3回、3年にわたって行われてきたが、すべて4カ国で運営から資金までの自主運営であった。しかし、ホーム&アウェー形式は経費の掛かるのが難点。幸い日本では観客動員で好結果を出し、また少々のスポンサーにも協力を得ているが、日本以外では観客動員、つまりゲートマネーが少なくてマイナス状態というのが現状だった。そこで窮余の策として日本開催で得た資金を提供したうえ、これを全体でプールして、なお不足の場合は日本で半分、3カ国で残りを負担する方法で凌ぐことになったが、結果は日本も含めた4カ国すべてがマイナスという最悪の状態に追い込まれてしまう。
そこへ救いの手を差し伸べてくれたのがIRBだった。パシフィックリムの立ち上げは「先見性の点、大会運営のマネージメントの点で高く評価する」というのである。対価としてパシフィックリムへの資金援助が決まったわけだが、それには一つの狙いがあった。パシフィックリムを援助することで、ヨーロッパの6カ国対抗、南半球のトライネーションズに対抗できる第3グループ育成である。せっかくW杯を開催しても、決勝トーナメントで主役をつとめる国がいつも同じ顔ぶれでは、世界のラグビー界に未来のないことにIRBも気づいたということだろう。日本としてはIRBのこの決定には大賛成。しかも資金援助のほかに、スポンサーもIRBが提供してくれるという。こうして1999(平成元)年の第4回大会からトンガ、フィジー、サモアの3か国が新たに加わり、本来なら7カ国対抗で再出発になるはずのところが、香港の辞退で6カ国での発進となってしまった。理由は香港の中国返還で、それまでチームの主力を形成していた英国系選手の確保が難しくなったため。ことはスポーツの領域を越えたところにあり、パシフィックリムとしても、黙って申し入れを認めるほかはなかった。
②IRBの資金援助とは
IRBの財政はW杯の成功で潤っている。加盟各国のデベロップメント、つまりジュニアクラス育成のための事業計画には資金を出しており、日本協会もその恩恵に浴している。具体的には高校の7人制大会、菅平での高校生の研修、レフリーの研修などがその対象。W杯であげた収益を世界のラグビー発展のために還元するというのがIRBの方針ではあるが、ただ、今回の新しいパシフィックリムに対する資金援助については、必ずしも無条件ではない。その内容を一口で言うと、パシフィックリムへの資金の貸し付けということになる。内容を説明すると「3年間は支援するが、4年目からは大会を軌道に乗せて自主運営すること。そして利益が出てくるようになったら返済をはじめること」の条件付援助ということになる。(以上)
IRBの資金援助を受けることになった第4回大会(1999年)には南太平洋の3か国の参加もあって大いに盛り上がった。第3回大会でようやく最下位から3位に浮上した日本代表はこの大会ではアウェーのフィジー戦を9-16で落としただけ。4勝1敗、勝ち点19で初優勝を飾った。とくに総得点160はアメリカ、フィジーの各124点を大きく上回るりっぱなもの。ただ総失点119点は、トンガ、フィジーに次いで多いことでは第3位と守りの面でやや不安な面ものぞかせているが、日本代表にとっては第4回W杯の門出を祝う優勝ともいえるだろう。日本代表チームの監督平尾誠二も「アジア選手権以外でのメジャーな国際大会での優勝は日本ラグビー史上初のことである」と日本協会機関誌に記している。
しかし、W杯は予選リーグでまたもや3戦全敗。それもウェールズ戦で2トライを記録しただけという惨敗に終ってしまった。この敗戦のショックを払拭できなかったのだろうか。前回の優勝から2000(平成12)年の第5回パシフィックリム選手権はまた5戦全敗で最下位にUターン。浮き沈みの激しい一面を見せてしまった。勝利が「線」にならず「点」で終るところは、どうやら日本代表の泣き所といえるようだ。歴代の監督が味わってきた苦しみがパシフィックリムでも現実のものとなってしまったが、このチャンピオンシップの対戦方式が2001(平成13)年の第6回大会では、ホーム&アウェーの総当たり戦から、北米地区、南太平洋地区、そしてアジア地区の代表が一堂(東京)に会してチャンピオンの座を争うトーナメント方式に切り替えられた。
南太平洋地区はサモアとフィジーの決勝対決を制したサモアと2位ながら前年度のパシフィックリム優勝のフィジーが、また北米地区はカナダが、そしてアジア地区は開催国の日本と、4カ国が準決勝からスタート。フィジーが52-23でカナダを、サモアが47-8で日本をそれぞれ破って南太平洋地区決勝の再現となった。結果はフィジーが28-17でサモアに競り勝って予選の雪辱を果たしている。日本は結局3位決定戦でカナダに39-7と快勝。かろうじて3位を確保することができたが、翌2003(平成15)年は第5回ワールドカップ・イヤー。日本を含め、パシフィックリム構成国にとってはそれぞれの地区予選優先のためだろう。この年度予定の第7回大会は実施されないまま、パシフィックリム・チャンピオンシップは消滅の運命をたどることになる。
例えば2003(平成15)年度5月から7月にかけての日本代表に課せられた試合日程をみてみよう。テストマッチが6試合。5月19日の地区予選壮行試合、ロシアとの第1戦に始まり、1週後の26日にはトンガとの第2戦が…。そして6月から7月にかけては、日本代表にとって正念場ともいうべきワールドカップ地区予選最終の第3ラウンドとなる。まず6月は韓国、中華台北をホームの国立競技場に迎えて第1シリーズが行われ、韓国には90-24、中華台北には155-3のともに圧倒的な大差で先勝。7月のアウェーでもソウルで韓国を55-17、台南で中華台北を120-3と、それぞれ文句のない勝利でワールドカップ5大会連続出場を決めた。
そして、11月にはエリス杯が初めて北半球のイングランドにわたる劇的な幕切れでワールドカップは終幕。日本代表もいったん選手団を解散するなど、日本協会も国内スケジュールの実施に取りかかった矢先の12月16日。IRBが「2003年度から日本、アメリカ、ロシア、中国による新たな国際大会『スーパーパワーズカップ』の開催を発表した。主催はIRB。日本協会に対しIRB事務局長マイク・ミラーは「…北半球の6カ国対抗、南半球の3カ国対抗のような伝統の国際大会へと成長してくれることを信じている。これら4カ国が本大会を通じてトップクラスとの格差を縮めることに貢献してくれることを期待する」との談話を寄せている。
試合はホーム&アウェー方式で、勝者に勝ち点4点、引き分けに2点、敗者に1点がそれぞれ与えられるほか、4トライ以上あげたチーム、7点差以内で敗れたチームにはボーナスポイント1点が与えられる点数方式がとられたが、2003年度に対戦が行われたのは5月17日に●日本27-69アメリカ○(米ボクサー競技場)、●日本34-43ロシア○(秩父宮)の2試合だけ。中国でサーズ発生のため、中国関連の試合はすべて中止となった。
このIRB主催の大会が実際に起動したのは「TOSHIBA」の冠がついた翌2004年度と2005年度の2大会で、参加国も中国に代わって2004年度にはカナダ、翌2005年度にはルーマニアの登場と、まるで日替わりメニューのような状態に、主催のIRBも2年でスーパーパワーズカップをあきらめざるを得なかったのだろう。2006(平成18)年の今年度には「IRBパシフィック・ファイブ・ネーションズ」と大会名称を変え、内容も一新して再スタートを切った。大会を構成するのは日本、NZオールブラックスJr.、サモア、トンガ、フィジーの5カ国のリーグ戦。日本代表はホームでトンガ、フィジーの2試合、アウェーでサモア、オールブラックスJr.の2試合を行い、4戦全敗の最下位。とくに得失点差―129はちょっと多すぎるが、ただ、この4試合での前半は優勝のオールブラックスJr.戦が3-19、2位のサモア戦が9-22、3位のフィジー戦が3-15、4位のトンガ戦が13-15と善戦している。問題は後半の持久力と戦い方。2007年の第6回ワールドカップはもう目の前。第1回IRBパシフィック・ファイブ・ネーションズで浮かび上がった新生ジャパンの課題の克服に期待したい。なお、2007年からはオーストラリアAが加入し、「パシフィック・ネーションズカップ」として6カ国が競い合うことがすでに決定している。