コラム『慶應義塾創部以前の、国内におけるラグビーフットボール』

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1.英国ラグビーミュージアムが認めたアジア最古のラグビークラブ
アジア最古のラグビークラブについての文書(原文)

アジア最古のラグビークラブについての文書(日本語訳)

 これは英国ラグビーの聖地と言われる“トゥイッケナム”競技場にあるRFU世界ラグビー博物館の歴史研究員フィル・マガワン氏が2015年に執筆したアジア初のラグビークラブを認める文書である。
 「ウォリックシャーのラグビー校や数多くの英国パブリック・スクールの学生たちは、少なくとも1820年代以降より、近代ラグビーと同義の初期のラグビー形式でラグビーを行ってきた。当時、この学生の多くは、卒業後軍隊や世界中を巡る貿易商や他の事業の職に就いた。船員、兵士、貿易商が居留した土地で、公式、非公式にクラブが設立される光景はよく見受けられた。英国人駐在員は、よくクリケット、フットボール、ラグビーなどのスポーツを楽しんだ。したがって、これらのスポーツがそれぞれの土地でいつ始まったかを断定するのは、極めて困難である。2015年8月現在、アジアで確認されている最古のラグビーフットボールクラブは、1866年に横浜に設立されたものである。YC&ACの歴史研究家マイク・ガルブレイス氏が提供した1866年1月26日付の『The Japan Times』の掲載記事は、このクラブの設立について言及している」
 「ガルブレイス氏の指摘により注目したのは、その後の記事で、得点を挙げる手段としての『キャッチング・ボール』、『ドロップキック』についても述べられている点である。これに加えラグビー校やウィンチェスター校の卒業生が参加していた試合が言及されていた点を考慮し、我々は横浜フットボールクラブ(以下YFBCと略す)が、現在のラグビー・ユニオンとして知られている試合形式の元となるラグビー校で創設されたルールに従った形のフットボールをしていたことを確証した。上記のこと考え、我々はYFBCがアジアで最古のラグビーフットボールクラブであり、世界でも最古のラグビーフットボールクラブのうちの一つであることを確信している」という内容である。
このことからYC&AC(横浜クリケット&アスレティッククラブ)は1868年、クリケットを中心にクラブは発足したが、その2年前にはフットボールクラブが既に活動していたことになる。
 2.生麦事件から横浜フットボールクラブ(YFBC)設立総会
 話は戻るが、英仏軍の横浜駐屯が決定したのは1863年5月、その前年に生麦事件が発生してから10ヶ月後のことである。この事件は英国人リチャードソンが薩摩藩士に殺傷された事件で、それ以前には1861年1月、ハリスの通訳であるヒュースケン暗殺、英国公使館襲撃や江戸の英国公使館前での英国水兵(英艦レナードの乗員)が殺されるなど、攘夷派による外国人への攻撃は多発し、英仏軍隊は居留地の防衛と自国民保護を主張するようになった。
 早速この年の5月に谷戸橋際にフランス陸軍部隊が入港し駐屯した。イギリス軍は12月に香港から第20連隊第二大隊分遣隊が、さらに翌年1月には英国海兵隊員の軽装歩兵一大隊550名、これで英国守備隊は1,200名に及び、横浜・山手に陣営を構えた。おそらくボールも一緒に横浜に持ち込んだに違いない。
 YFBC総会の模様をJapan Times記事から紹介する。「午後2時からラケットコート・バンガロー(山下町127番地)で設立総会と委員会構成メンバーを選ぶ会議が開催された。その結果、多数決によってW・H・スミスとキャンベルの提案でクラブ会則をつくる委員会(定足数3名)に20連隊第二大隊のキャプテン・ロシュフォート、同じくブロント、その他ケル、ディア、プライスが指名された。名誉幹事にはコミュニケーションが良くとれ、協力的なベイカー、名誉会計にはモンクが指名された。クラブは英国駐屯地兵と外国居留民を中心に構成された」と報じている。
 3.『The Graphic』に掲載されたフットボールマッチのイラスト

(『The Graphic Magazine』 April 1974)

 1874年4月発行の『ザ・グラフィック』に1873年11月に行われたラグビーマッチと試合内容が米国の新聞『The Harbors Weekly』に掲載されている。このマッチリポートを以下に紹介する。
 「昨日の午後、シーズン3回目の試合が開催された。英国対スコットランドアイルランド連合軍の試合は4時キックオフされた。試合結果は引き分けだったが、優劣よりも気合いの入った試合だった。天候は試合に影響のない無風の暖かい晴天に恵まれた。前半は英国にゴールされ続けたが、後半サイドが替わってから、連合軍が持ち前の迫力で巻き返した。当然ルールに従ってのゲームで、多くのスクラムが組まれた。結局、時間切れとなった」、「見事なドリブルを見せたGubbinsや華麗なHBのAbott。その他に活躍したFW選手はMessrs, Hamilton, Abel, Hill, Fraserらで、ゲーム中目立っていた。また、Melhuish, Dare, Wheelerらも同様に活躍した。グランドを去る前に来週の水曜日午後、リターンマッチが行われるだろう、ということを耳にした」
 このマッチが行われた場所は、かつてのスワンプ・グランドや中華街附近でもなく、完成前の横浜公園内のグランドだと思われる。調べてみると、『横浜市史』(第3巻)によれば「1874年9月14日にはこの公園は完成に近づいており、そして樹木の植込みは現在依然として遂行されつつある」と記され、さらに約6万3千㎡の公園内にできた縦横約81mのクリケットグランドは1872年中に芝が植え付けられたという記録があるので、正式な公園完成前にクリケットやラグビーをした可能性は高い。YFBCのフラッグがなびくイラストに描かれたグランドはこの地ではないだろうか。
 4.1901年慶應義塾の初試合から7年後の初勝利
 時を経て、横浜生まれの当時大変繁盛した「横浜ベーカリー」の息子でもあるEdward Bramwell Clarkeはケンブリッジ大学コーパス・クリニティー・カレッジを卒業後、慶応義塾で英語教師として教壇に立った。冬の間、体を持て余し、屋外で汗かくこともない学生に1899年、友人の田中銀之助とラグビーを指導した。そして1901年12月7日午後2時、YC&ACと横浜公園グランドでキックオフとなった。実はクラークと銀之助の最初の出会いは、英国留学前に学んだ横浜山手にあったビクトリア・パブリックスクールだった。
E・B・クラークの肖像

(E・B・クラーク) (『アサヒスポーツ』1934年5月15日号)

慶應義塾創部初の試合についての記事

(慶應義塾創部初の試合) (復刻版『時事新報』龍渓書舎1901年12月8日)

 慶應義塾にはクラークと銀之助も加わったが5対41(『慶應100年史』から)の完敗となり、後半20分以降は相手と混成になって練習形式となったという。右上写真はスコアの記載はないが試合報告の記事である。文中に「同地アマチューア倶楽部」とはYC&ACのことだ。この試合に出場したFWの松岡正男は7年後の慶應義塾初勝利試合のレフリーだと推測する。余談だが、面白いことにこの当時はタックル以外に「ヘルド」と呼んで捕えるとスクラムになるルールがあった。
 帰りの汽車の中でクラークは「敗北の原因は我々の足が短いこと、現在はいかんともなし難いが、子孫の足を長くするには畳ではなく椅子に座らせることに努力しよう」と結論づけたという。当時のラグビーはドリブル攻撃が多く、足の長さでボール獲得が決まったことを悔やんだに違いない。
 どうしてもここで慶應義塾の初勝利までエピソードを知らせねばなるまい。1906年11月、三田綱町グランドで行われた同カードの試合で面白い記事を見つけた。「慶應義塾の宮川偕作君のドロップゴールが見事に決まり、後半に入って4対3となりリードを続けていたが夕闇は漸く濃くなって来るにも拘わらずレフリーはタイムアップを吹かない。珍しくもこの日、タッチラインを囲んで集まった観衆からは『タイムだ、タイムだ』と盛んにかけ声がかかるがレフェリーはなお耳を貸さない。(中略)その内に味方の右隅に1トライ許し、同時にノーサイドになって負けて終ったが、相手外国人選手は宮川君を手車に乗せて綱町から三田の学校まで連れかえるという騒ぎであった」(1936年2月1日号のアサヒスポーツ)この試合、YC&ACが辛うじて勝利したが、相手殊勲選手を担いで称賛したという粋な計らいだった。時計通りに試合が終われば慶應義塾の初勝利はこの日だった。
 1908年秋に三田綱町グランドで再戦し12対0のスコアで慶應義塾は初勝利した。勝因はクラークからオールブラックスの英国遠征記の本『コンプリート・ラグビーフットボーラー』(D・ギャラハー著)が贈られ、これを皆で読み「ニュージーランドシステム」といわれるセブンシステムを採用したことだそうだ。
 1908年11月15日付『時事新報』には慶應義塾の勝利の様子が書かれてある。レフリー松岡氏は試合前にカップを贈呈されるという厚遇だ。ゲームは攻守ともに相手を圧倒した慶應義塾がBK飯塚、FB宮澤のトライで前半6−0、後半はFW柴田、BK竹野の活躍で結局12−0の快勝だった。見学に来ていた野球部員から祝勝の花束が贈られたという。
 当時慶應義塾の相手は横浜と神戸の外人クラブだけだったが、塾内でラグビー大会を行うなど楽しんでいた。そして慶応義塾の紹介で国内2番目のチーム、京都・第三高等学校にラグビー部が創部され、初試合をすることになるのは1911年である。150年以上前に西洋人が楕円球を持ちこんだ横浜、ここでワールドカップ2019の決勝が行われることに歴史的な運命を感じざるを得ない。

(長井 勉)


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『キックオフの笛が聞こえる』書影

『キックオフの笛が聞こえる─日本のラグビーは横浜から始まった』

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