年表 川西市のできごと(1954~2023)

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1 昭和29年 1954 8月1日に川西町、多田村、東谷村の1町2村が合併し、川西市が誕生。施行時点での人口は3万3,741人。小花字藤ノ木にあった川西町役場を市庁舎にしました。9月に行われた市長選挙の投票率は85.29%に上り、川西中学校長だった小笠原新三郎氏が初代市長に就任。12月には市制施行祝賀式を挙行し市章と市歌が披露されました。この頃の日本は朝鮮戦争による特需景気の反動で不況に陥ったものの、力強く復興を遂げつつありました。

【世帯数】7,533世帯
【人口】33,798人

2 昭和30年 1955 川西市では総務課に公聴広報係を新設し『広報かわにし』第1号を発行しました。4月には加茂幼稚園、久代幼稚園が開園。また伊丹飛行場は拡張が計画されましたが、川西市議会が伊丹飛行場拡張反対に関する決議を可決しました。さらにこの年、最初の市議会議員選挙が行われました。定員30人に対して43人が立候補し、投票率は85.95%という高率でした。この頃、後に「東洋の奇跡」と称される高度経済成長が始まりましたが、その代償としてイタイイタイ病などの公害病が発生しました。

【世帯数】7,808世帯
【人口】35,158人

3 昭和31年 1956 赤字財政を克服するため財政再建団体となり財政再建に着手しました。また税収の増加につながる大規模工場の誘致のため「川西市工場誘致条例」を施行。一方で、市民の生活向上につながる社会基盤の整備も進め、市営塵芥焼却場が加茂に完成しました。日本のGDPは戦前の水準を上回り、政府は経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言。戦後復興期から高度成長期へと移行していました。

【世帯数】8,399世帯
【人口】36,966人

4 昭和32年 1957 川西市の新市庁舎が10月に落成。躍進する新市にふさわしい鉄筋RC造りでした。1956年に開業した新町市場の繁栄は在来商業者を刺激し、川西市商工会が発足。戦後しばらくは、大部分の生活用水は井戸水や自然流水に依存していましたが、市制実施後は配水管敷設工事を加速させ、簡易上水道が平野に完成しました。「神武景気」が終わり「なべ底景気」と呼ばれる不況期が始まり、日本経済は成長と停滞を繰り返しながらも、着実に拡大していました。

【世帯数】8,833世帯
【人口】38,448人

5 昭和33年 1958 市民の自覚によって美しく住みよい、そして豊かな都市を建設するための市民の規範としての『市民憲章』を1月に県下で初めて告示しました。また上水道設備を求める住民の声に応え、出在家に取水場と浄水場が、小戸に配水場が完成。自己水源による給水を開始しました。日本では公団住宅の入居者数が100万人を突破し「団地族」という言葉が流行語に。新たなライフスタイルが続々と生まれました。

【世帯数】9,331世帯
【人口】39,518人

6 昭和34年 1959 世界平和都市を宣言し、世界に貢献する意思を表明しました。市庁舎から離れた多田・東谷両地区の支所廃止を受け、住民への連絡・通達業務を補うため有線放送電話を開設。自然が豊かな同地区では、観光・レクリエーション地帯としても開発が進みました。またゴルフ場開設ブームの端緒となった、花屋敷ゴルフ場が開設されました(1973年6月閉場)。日本の個人所得は増大し、家電ブームが発生。テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の神器」と称されました。

【世帯数】9,834世帯
【人口】40,697人

7 昭和35年 1960 能勢電気軌道(現・能勢電鉄)は起死回生策として、妙見ケーブルの再建と妙見リフトの開通を実現。しかしすでにバスによる妙見宮参詣ルートが定着し、沈滞脱出の決定打とはなりませんでした。また5月には川西北保育所が開設されました。8月に発生した台風16号では、市内各地が大きな被害を受け、自然災害の怖さを再認識させられました。この年、政府は『国民所得倍増計画』を発表。都会では「アイビールック」を身にまとった若者たちが街を闊歩していました。

【世帯数】9,967世帯
【人口】41,916人

8 昭和36年 1961 4月に川西南中学校が開校されました。また1959年から検討されていた宝塚線の花屋敷駅と雲雀丘駅の統合は、一部市民による反対運動もありましたが、花屋敷駅を存置して(1962年まで)普通列車を停車させることで議論が終決。輸送力増強のため京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)雲雀丘花屋敷駅が開設されました。国鉄福知山線(大阪・三田間)複線電化促進期成同盟会も結成されたこの年。トヨタ自動車による初の大衆車・パブリカの発売は、モータリゼーションの始まりを告げましたが、都市交通の主流は鉄道でした。

【世帯数】11,038世帯
【人口】45,281人

9 昭和37年 1962 川西市における1960年から5年間の人口増加率は爆発的に上昇して46.2%にも達し、この年の12月に5万人を超えました。人口急増は川西能勢口駅周辺における不法密集住宅の激増をもたらし大きな問題となりました。この年の4月に第1回「観光まつり」(現在の清和源氏まつり)が開催されました。また京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)雲雀丘花屋敷駅が完成後も使用されていた花屋敷駅が廃止されました。この年、東京都の常住人口は推定約1,000万人を突破。世界初の1,000万都市となりました。

【世帯数】12,178世帯
【人口】49,020人

10 昭和38年 1963 市立川西病院が小戸に新築移転されました。鉄筋3階建てで、診療科目は内科・外科・整形外科・小児科・産婦人科・放射線科の6科。54床の近代設備を備えたものでした。日本では初の高速自動車国道となる名神高速道路の一部が開通。自動車産業だけでなくあらゆる分野で技術革新が起こり、設備の近代化が進みました。

【世帯数】13,653世帯
【人口】54,207人

11 昭和39年 1964 大阪国際空港でジェット機の就航が開始されました。常時ジェット機の騒音にさらされることになった久代地区自治会連合会は、騒音公害に立ち上がった最初の住民組織である飛行機騒音防止推進対策協議会(後に川西市南部地区飛行場対策協議会と改称)を結成。続いて市側も大阪国際空港騒音対策協議会(8市協)を発足させました(川西・伊丹・宝塚・尼崎・西宮・豊中・池田・箕面)。また10月には市制施行10周年を迎え、記念式典が行われました。この年、アジア初となる東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業しました。

【世帯数】15,036世帯
【人口】58,009人

12 昭和40年 1965 川西市を走る鉄道では、能勢電気軌道(現・能勢電鉄)能勢口駅が川西駅に改称された後、 京阪神急行鉄道(現・阪急電鉄)能勢口駅・能勢電気軌道川西駅を川西能勢口駅に改称。能勢電気軌道能勢妙見口駅が妙見口駅に改称され、今日の駅名になりました。日本航空がジャルパックを発売したこの年、海外旅行の大衆化が始まり、ジェット機の時代が到来することは明白でした。対応を求められた政府により、ジェット機深夜便時間規制が閣議了解事項として施行されました。

【世帯数】16,205世帯
【人口】61,282人

13 昭和41年 1966 市長選挙で新人の伊藤龍太郎氏が当選。投票率は60.77%に逹しました。新市長の誕生と同時に、市庁舎増築と市民会館が完成。北部清掃工場も稼働を開始しました。また4月には加茂小学校が開校しました。川西市は人口膨張に対応した都市的形態整備、市財政の窮迫化という困難な課題への取り組みを開始。日本でも総人口は1億人を突破(法務省の住民登録集計による)。4年制大学の学生数も100万人を突破しました。

【世帯数】17,369世帯
【人口】65,047人

14 昭和42年 1967 川西市初の大規模住宅団地である多田グリーンハイツの分譲が開始されました。急激な人口増により、環境整備や教育などの公共施設の拡充整備に市の財政が大きく圧迫されるため、団地造成者に対して負担を求める全国初の『川西市住宅地造成事業に関する指導要綱(後の川西市開発行為等指導要綱)』を5月に施行。「川西方式」として高く評価されました。この年『国民生活白書』は「国民の9割は中流意識を持っている」と発表。株式会社タカラ(現・株式会社タカラトミー)が発売した「リカちゃん人形」が大ヒットしました。

【世帯数】18,407世帯
【人口】68,575人

15 昭和43年 1968 市民の投票による市花と市木の選定の結果、市花はりんどう、市木はさくらと決まりました。りんどうが選ばれたのは、多田院を開いた源氏が旗印にササリンドウを用いていたために最適であるとの意見が多かったことによります。さくらが選ばれたのは、多田神社や満願寺など各社に多く植えられていて市民を楽しませてくれていることから選ばれました。また大和団地の分譲が開始されました。東名高速道路の一部が開通し、川端康成がノーベル文学賞を受賞したのもこの年です。

【世帯数】20,012世帯
【人口】71,726人

16 昭和44年 1969 猪名川の水質汚濁を防止するため、4月に川西市火打皮革汚水処理場が稼働。第1次市総合計画で、長期開発計画の中で市の進むべき方向が住宅都市化であると明確に規定され、工場誘致条例が廃止に至りました。また市内で初めての共同利用施設(航空機騒音対策事業として建設された防音設備を備えた施設)である「東久代会館」と「市民運動場」が完成し、市内初の全日制高校として県立川西緑台高校が開校しました。そして12月に国を相手どった航空機騒音公害訴訟が始まりました。日本では全共闘と機動隊が激突する東大安田講堂事件が起こりました。

【世帯数】22,308世帯
【人口】78,846人

17 昭和45年 1970 清和台団地の分譲が開始。県下一の人口急増都市になった一方で、公共施設の拡充整備も急ピッチで進め「青少年野外活動センター山の家」などが完成しました。大阪ではアジア初の国際博覧会である日本万国博覧会(大阪万博)が開催され、77カ国が参加し、入場者は6,400万人を超えました。また中国自動車道(豊中・宝塚IC間)が開通したのもこの年でした。

【世帯数】24,156世帯
【人口】87,127人

18 昭和46年 1971 1956年に市営塵芥焼却場(南部清掃工場)が、1966年に一庫字西ノ尾に「北部清掃工場」が稼働を開始していましたが、人口が増え続けていることによりゴミ排出量が両工場の処理能力を上回るようになっていたため、北部清掃工場をより北の一庫字深谷に新築移設することになりました。この頃、第1次ベビーブームで生まれた「団塊世代」が成人し、第2次ベビーブームが発生。生まれた世代は「団塊ジュニア」と呼ばれました。

【世帯数】25,488世帯
【人口】92,080人

19 昭和47年 1972 市の人口が12月に10万人を超えました。建築基準法に違反していた密集住宅地区を解消するために進めていた花屋敷1丁目住宅地区改良事業が完了しました。また財団法人川西市都市整備公社が設立され「市民体育館」が完成。一方、7月の梅雨前線と9月の台風20号は甚大な被害を及ぼし、災害対策の重要性が浮き彫りになりました。アメリカからは沖縄が返還され、日本と中華人民共和国との国交が回復するなど、大阪万博以降、日本はますます世界に開かれていきました。

【世帯数】27,480世帯
【人口】98,330人

20 昭和48年 1973 新住宅地開発指導要綱を施行し、私道の市道化対策要綱を制定するなど住環境の整備を推進しました。また保健センター、中央公民館がオープン。さらに大型スーパーマーケットが相次いで開業しました。またこの年、川西藤ヶ丘ニュータウン(湯山台)の分譲が開始されました。一方で日本では第1次オイルショックが発生し原油価格が4倍に。これにより高度経済成長は終わりを迎えました。

【世帯数】29,797世帯
【人口】105,859人

21 昭和49年 1974 5月に東谷行政センターが設置されました。8月には市制施行20周年記念式典が行われ「文化会館」がオープン。川西市下水道条例を制定し、川西市公共下水道が通水しました。また警察庁発表の全国都市別犯罪危険率で、川西市が日本一安全な都市にランクされました。1973年に引き続き大型スーパーマーケットが開業。日本は前年度にGNPは100兆円を突破したものの、初のマイナス成長を記録しました。

【世帯数】31,690世帯
【人口】112,352人

22 昭和50年 1975 市民の生活向上のための施設の整備を推進。野球場や球技場、テニスコートを備えた「東久代運動公園」が開園しました。休日応急診療もスタートし、社会福祉法人川西市社会福祉協議会が設立されました。日本経済は高度経済成長期から一転。狂乱物価と呼ばれたインフレーションに見舞われ不況が深刻化し、完全失業者が全国で100万人を突破しました。

【世帯数】32,504世帯
【人口】115,773人

23 昭和51年 1976 5月に東畦野の旧北摂山荘跡地にお年寄りの生きがい作りの拠点として「川西市老人福祉センター」が完成しました。建物は鉄筋コンクリート造り2階建てで、大広間に加えお年寄りの健康管理や各種の相談を受けられる相談室や機能回復訓練室などがありました。この年、政財界を巻き込んだ国際的な贈収賄事件であるロッキード事件が発生。田中角栄前首相が逮捕されました。

【世帯数】33,485世帯
【人口】119,337人

24 昭和52年 1977 3月に黒川小学校が休校となり、その後、木造平屋の校舎は公民館として使用されることとなりました。また6月には川西市同和対策審議会が設置され、その後の答申に基づき1979年度を初年度とする「川西市同和対策事業総合計画」が策定されました。日本では都市への人口集中が進み、東京都千代田区にある中央大学は都心脱出計画を発表。他に法政大学・東洋大学なども移転を決定し、大学の地方化が始まりました。

【世帯数】34,325世帯
【人口】122,561人

25 昭和53年 1978 5月に歴史民俗資料館が完成。10月には能勢電気軌道株式会社が能勢電鉄株式会社に社名を変更し、12月に日生線が営業を開始しました。12月には加茂6丁目に市内で2番目のゴミ処理施設となる「南部清掃工場」が完成。日量75tのゴミ処理能力を持ち、低公害で近代的な公害防止施設を設置しました。日本では第2次オイルショックが発生し、原油価格が急上昇。新東京国際空港(成田国際空港)が開港したのもこの年です。

【世帯数】35,191世帯
【人口】125,832人

26 昭和54年 1979 スポーツやレクリエーションを通じて、市民の心身の健全な発達を図るため、市民プールが小花に完成しました。プールは鉄筋コンクリート造りで、川西市の頭文字にちなんでアルファベットの「K」をかたどっています。この年、初の国公立大学共通1次試験が実施され約32万人が受験しました。

【世帯数】35,997世帯
【人口】128,636人

27 昭和55年 1980 10月に川西能勢口駅付近連続立体交差事業が認可され、事業がスタート。事業の目的は交通体系を確立し、高架化することで8カ所の踏切をなくし、交通渋滞の緩和や街の機能回復と豊かな環境を創出することでした。また11月には「総合センター」が完成。同和対策事業の一環として建設されました。そして12月には市内で最初のコミュニティ組織である「多田小学校区コミュニティ推進協議会」が設立されました。この年、日本の車の生産台数は初めて1,000万台を突破し、世界一になりました。

【世帯数】38,101世帯
【人口】129,834人

28 昭和56年 1981 5月に「心身障害者福祉センター」(小戸作業所)が完成。国際障害者年にあたるこの年、心身障がい者の職業的・社会的な自立を図ることを目的に開設されました。センターは鉄筋コンクリート2階建てで、エレベーター、障がい者用トイレ、スロープ、手すりなどを設置。また6月には県立川西保健所も完成しました。神戸では神戸ポートアイランド博覧会が開催され、35カ国が出展。180日間で入場者は1,610万人に上りました。

【世帯数】38,852世帯
【人口】131,486人

29 昭和57年 1982 4月に多目的ダムとして治水と利水を目的に総工費約625億円をかけて建設された「一庫ダム」が完成。完成を記念して第1回一庫ダム周遊マラソン大会が開催されました。また川西北コミュニティ連絡協議会が設立され、さらに県立西猪名公園が久代に一部オープンしました。この年、機長の心身症に由来する誤操作で日航機が羽田で着陸寸前に海上に墜落。「逆噴射」 という言葉が流行語になりました。

【世帯数】39,430世帯
【人口】132,794人

30 昭和58年 1983 6月に多田東小学校区コミュニティ推進協議会が設立されました。また9月に発生した台風10号による記録的な豪雨で、約500戸が浸水被害を受けた川西市は災害対策本部を設置。被害状況の把握と災害復旧作業などに取り組み、被災者を対象に市税の減免措置や災害援護資金の貸し付けなどの救済制度を設けました。10月には市立川西病院が東畦野に新築移転しオープン。人口増加と高齢化社会への移行による医療需要に応える総合病院として整備拡充されたもので、全身用X線コンピューター断層装置など最新医療機器を備えました。

【世帯数】40,225世帯
【人口】134,444人

31 昭和59年 1984 3月に大阪国際空港騒音訴訟の裁判上の和解が成立しました。また8月1日に市制30周年を迎え、記念式典をはじめ多彩な記念行事を行いました。記念式典は1日に市文化会館大ホールで開催し約1,000人が出席。このほか世界的バイオリニスト辻久子さんの演奏会などを開催しました。10月には総合体育館がオープン。市制30周年記念事業として建設されたもので、地上2階、地下1階建てで従来の市民体育館の約2倍の規模でした。この年の日本人の平均寿命は男性74.20歳、女性79.78歳となり、男女とも世界一になりました。

【世帯数】40,800世帯
【人口】135,491人

32 昭和60年 1985 将来の20万都市に備えるために進めていた、北部清掃工場の改築工事と粗大ゴミ処理施設の新設工事が3月に完成。新工場は地上3階地下1階建てで、完成により市内のゴミ処理能力は日量175tから225tにアップしました。また市はコミュニティ作りを推進し、6月には牧の台小学校区、7月には久代小学校区にコミュニティ推進協議会が設立され、再開発ビルパルティ川西がオープン。8月には川西市コミュニティ協議会連絡会が発足しました。G5によるプラザ合意の結果円高が進んだこの年、日本では日本電信電話公社が民営化されNTTが誕生しました。

【世帯数】40,753世帯
【人口】136,376人

33 昭和61年 1986 5月に「久代老人・児童センター」がオープン。鉄筋コンクリート造り2階建てで、1階が老人福祉センター、2階が市内で初めて建設された児童センターでした。児童センターでは児童厚生員と体育指導員が遊びを指導し、子どもたちの情操を豊かにする遊びに加え、体力増進が図れる遊びもできました。また同月、予防検診から機能訓練まで総合的な保健サービスを提供するため「保健センター」を新築移転しました。日本経済は円高不況から一転、バブル景気と呼ばれるかつてない好景気が始まりました。

【世帯数】41,637世帯
【人口】137,936人

34 昭和62年 1987 生活や福祉にかかわる施設の拡充を進め、5月に旧保健センターを改築した「婦人センター」「一の鳥居福祉作業所」「武道場」がオープン。6月には東谷小学校区コミュニティ推進協議会が設立されました。また放置二輪車が歩行者の通行の妨げとなるほどあふれかえっていたことから、能勢電鉄平野駅前の平野バスターミナルに、市内では初の有料立体駐輪場がオープン。「川西市自転車等の駐車秩序に関する条例」と「川西市自転車等駐車場の設置および管理に関する条例」を制定し、放置二輪車一掃をめざしました。この年、日本国有鉄道が分割民営化し、JR各社が誕生しました。

【世帯数】42,570世帯
【人口】140,147人

35 昭和63年 1988 5月に阪神間で2番目の本格的な弓道場が総合体育館北隣にオープンしました。射場は6人が一度に矢を射ることができ、矢道には一面に芝生が敷かれています。また11月に郷土館「旧平安( ひらやす)邸」がオープン。同建物は郷土館として母屋や離れ座敷などを公開し、蔵4棟はガラスケースを取り付けて美術展示室として活用を始めました。日本では、リクルート社が与野党議員やマスコミなどの幹部に未公開株を譲渡するなどしたリクルート事件が発生しました。

【世帯数】43,430世帯
【人口】141,700人

36 平成元年 1989 構想から15年、総事業費約337億円をかけた川西能勢口駅南地区市街地再開発事業(住宅・商業街区)の核となる再開発ビル「アステ川西」および百貨店が4月にオープンしました。また7月には知的・身体障がい児の通園施設および在宅障がい者のデイ・サービス施設を併設した心身障害者総合福祉センターがオープン。さらに北陵小学校区コミュニティ推進協議会および明峰小学校区コミュニティ推進協議会が設立されました。昭和天皇の崩御により明仁親王が即位し、平成に改元されたこの年。消費税(3%)が開始され、海外では中国で政府が民主化デモを武力鎮圧する天安門事件が発生しました。

【世帯数】44,109世帯
【人口】142,362人

37 平成2年 1990 3月に県立川西緑台高校が、第62回選抜高校野球大会に出場。善戦むなしく2回戦で敗退しましたが、野球部の健闘をたたえ、同校に市民賞「りんどう賞」が贈られました。8月には千葉県佐原市と姉妹都市提携しました。また同月には市長選挙が行われ、辻正男氏が第3代市長に当選し、9月に辞職。10月に行われた市長選挙で柴生進氏が第4代市長に当選しました。さらに11月には郷土館「旧平賀邸」がオープンしました。世界では、イラクがクウェートに侵攻して湾岸危機が発生。東西ドイツの統一やソ連(現・ロシア)が大統領制に移行するなど、情勢が大きく変化しました。

【世帯数】44,100世帯
【人口】141,254人

38 平成3年 1991 3月にけやき坂小学校区コミュニティ推進協議会が設立されました。また4月にはアステ川西内に8万冊の蔵書とビデオやオーディオライブラリーなど、最新の機器を装備した中央図書館がオープン。7月には市民温水プールがオープンし、幼児用のだ円プールや6コースある25mプール、気泡の出るワールプールのほか、身体障がい者専用の更衣・シャワー室も完備されました。さらに11月にはりんどう祭が初めて開催されました。この年、日本はバブルが崩壊。長期にわたる景気低迷期に入りました。

【世帯数】46,937世帯
【人口】143,868人

39 平成4年 1992 1月に柳谷の市斎場西隣に公営霊園がオープンしました。2月に議員、市長の自己規制である政治倫理の確立と向上に努めるため「川西市議会議員及び市長の倫理に関する条例」が施行されました。5月には市庁舎が新築され移転。鉄骨鉄筋コンクリート造り地下2階、地上7階建てとなりました。この年、市制施行以来初めて1991年度(平成3年度)に普通地方交付税不交付団体となりました(その後1995年度においても同様)。日本ではPKO協力法が成立。自衛隊がカンボジアに派遣されました。

【世帯数】47,866世帯
【人口】144,331人

40 平成5年 1993 4月に第3次市総合計画「川西こころ街計画2002」がスタート。この計画は高齢化の進行、情報化、国際化の進展、女性の社会参画の増大といった時代の変化に対応し“生活創造都市”に向けてのまちづくりを総合的に進めるために策定しました。策定にあたっては市民アンケートの実施、総合計画審議会の設置、市民フォーラムの開催など、さまざまな調査や協議が重ねられました。また11月には文化財資料館がオープンしました。日本ではプロサッカーリーグ(Jリーグ)が開幕し、国内でインターネットサービスプロバイダ(ISP)が誕生しました。

【世帯数】48,876世帯
【人口】145,129人

41 平成6年 1994 4月から株式会社川西水道サービスが業務を開始。水道事業の維持管理体制の強化と、よりきめ細かなサービスの向上を図るため、第三セクター方式で設立したものです。また1993年にオープンした生涯学習センターにおいて、5月から生涯学習短期大学「レフネック」が開講されました。さらに8月に市制施行40周年を迎え、記念式典を実施しました。日本では円高が加速し、戦後初めて100円を突破。価格破壊が進み就職難が深刻度を増しました。

【世帯数】49,856世帯
【人口】145,909人

42 平成7年 1995 1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生。国内で史上初めてとなる震度7を観測し、死者・行方不明者は6,400人を超えました。川西市では死者4人、重傷者75人、家屋全壊554棟にのぼり、直ちに「川西市災害対策本部」を設置。仮設住宅の建設、申告・納税の期間延長や税の減免などの特例措置に加え、各種救済制度による支援を実施しました。東京では地下鉄サリン事件が発生し、世相に暗い影を落としました。

【世帯数】50,925世帯
【人口】146,722人

43 平成8年 1996 1月に初の川西市民栄誉賞を野球選手の古田敦也さんへ贈りました。4月には阪急川西能勢口駅前に2つの再開発ビル「パルティK2(ケーツー)」と「シャンテ川西」が完成。「パルティK2」には、主に若者をターゲットにした60の専門店がそろったショッピングモールがオープンしました。「シャンテ川西」には、文化サロンやスタジオを併設し、480人を収容できる市の音楽ホール「みつなかホール」がオープン。さらに能勢電鉄(上り・下り線)の高架も完成し、川西の玄関口がより便利になりました。日本でバブル崩壊後の経済を活性化するため「金融ビッグバン」と呼ばれる大規模な金融改革が行われたのもこの年です。

【世帯数】52,884世帯
【人口】150,090人

44 平成9年 1997 6月に加茂小学校区コミュニティ推進協議会が設立されました。また9月にはインターネットに市公式ホームページを開設。掲載する情報や企画を市民から募り構成しました。さらに11月に阪急電鉄・能勢電鉄「川西能勢口」駅共用ホームが完成し、立体交差事業が完了。直通列車(阪急日生エクスプレス)が運行を始めました。この年、北海道拓殖銀行と山一證券が破綻。日本では金融不安が加速し、銀行への公的資金注入や金融再編が進みました。

【世帯数】54,071世帯
【人口】151,977人

45 平成10年 1998 3月に県道川西篠山線と国道173号の間に架かる新しい銀橋が全面(四車線)開通。4月には阪神高速道路大阪池田線(延伸部)も開通し、大阪までのアクセスが飛躍的に向上。新猪名川大橋は「ビッグハープ」として親しまれています。また7月には県立一庫公園が一部オープンしました。この年、ボランティア活動をはじめとする市民の自由な社会貢献活動としての特定非営利活動の、健全な発展を促進することを目的に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行されました。

【世帯数】55,489世帯
【人口】153,772人

46 平成11年 1999 5月に緑台・陽明地区コミュニティ推進協議会が設立されました。また6月には「川西市子どもの人権オンブズパーソン制度」の運用が開始されました。いじめなどの人権侵害から子どもを守るために学校や家庭、地域、行政の連携を促進するもので、子どもの人権擁護を目的にした制度の条例化は全国で初めてでした。さらに12月には阪神高速道路池田線高架下に「ドラゴンランド」がオープン。川西の説話として伝わる龍をモチーフにした長大遊具を設置しました。日本ではIT関連企業の株価が高騰するITバブルが発生しましたが、その後過剰投資で崩壊しま

【世帯数】56,857世帯
【人口】155,840人

47 平成12年 2000 4月に仕事と子育ての両立を支援するため「かわにしファミリーサポートセンター」を設立、7月にオープンしました。育児の援助を受けたい人と、行いたい人が会員となって互いに助け合う組織です。また7月には加茂遺跡が国史跡に指定されるとともに、清和台地区コミュニティ推進協議会が設立されました。さらに1999年度(平成11年度)の決算成果報告書をもって行政評価がスタートしました。この年、要介護者に適切なサービスを提供するため、介護保険制度や介護サービスなどに関する規制などを定めた介護保険法が施行されました。

【世帯数】57,880世帯
【人口】156,828人

48 平成13年 2001 4月にコミュニティセンター「加茂ふれあい会館」がオープンしました。旧加茂小学校跡地に立地し、集会室やコミュニティ室、茶室として使える和室を備えています。バリアフリー構造を採用し、障がいがある人や子ども連れの人にも配慮した施設です。また4月にはバス運行の円滑化と利便性の向上のため、清和台から川西能勢口の間で公共車両(路線バス)優先システムを導入しました。アメリカでは航空機による同時多発テロ事件が発生。多くの死傷者を出しました。日本ではユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)が開園しました。

【世帯数】58,858世帯
【人口】157,662人

49 平成14年 2002 6月に川西能勢口駅東の再開発ビル「ジョイン川西」に生活支接型複合施設「パレットかわにし」がオープン。男女共同参画センター、市民活動センター、パートサテライト(のちにパートバンクと名称変更)を併設し、情報収集や提供、人材や組織の育成、交流やネットワークづくりの支援などを開始しました。また8月には「大和サービスセンター」がオープン。住民票の写しの交付などを開始しました。この年は記録的な渇水となり、一庫ダムの貯水率は12月に7.8%まで低下しました。2002 FIFAワールドカップが日韓共催で開催され、熱戦が繰り広げられたのもこの年です。

【世帯数】60,033世帯
【人口】159,124人

50 平成15年 2003 2月に阪神北部広域行政研究会が終了し、阪神北部広域行政推進協議会で引き続き広域的連携を推進しました。3月には国土交通省所管公共事業の再評価で住宅街区整備事業(中央北地区)の「事業中止」が決定されました。また4月には、第4次市総合計画「川西こころ街計画2012」がスタート。各種団体や事業者の代表、公募の市民からなる総合計画審議会で議論が重ねられ、めざす都市像を「わがまちと実惑できる夢現都市」とした総合計画が策定されました。11月には川西小学校区コミュニティ推進協議会が設立されました。東京都港区には六本木ヒルズが開業。高級賃貸マンションに住むベンチャー企業オーナーらがヒルズ族と呼ばれ、動静が話題になりました。

【世帯数】61,056世帯
【人口】159,936人

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