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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第4巻 (0017)

小田島治右衛門家(花輪六日町)六日町に残るコモセ豊口甚平家(毛馬内)の大戸花輪・毛馬内の造り酒屋
鹿角市史 第4巻 (0189)

六日町町内化輪六日町では、 老名・議員の協議によって町内が運営されていた。,(六日町)町内には乙名三人、 議員七人がある。 乙名は大人で、 町の宿老だ。,六日町には財産があるので、 乙名は財産の監査を行うと共に、 議員との協力によって町内諸行事の自治機関,六日町以外には乙名、 議員の制度はないが、 唯若者組の制度だけは厳然としてあるのだ。
鹿角市史 第4巻 (0197)

これは新田町が無断で新田開墾を行なったため六日町の用水堰への水が不足となり、 六日町では新田町と絶交,しかし二カ月後、 新田町老名・新田町一同が六日町に詫びを入れ解決している。,明治四十一年、 六日町では谷地田町と共同で火災予防組合を組織し、 午後十時から翌午前二時までの三回巡視
鹿角市史 第4巻 (0196)

明治三十一年の米価騰貴の際、 県の窮民救済に先だって六日町では自町内と隣接する新田町・舟場道の窮民調,六日町はオキガタの寄付などにより町内財産として田畑・山林などを所有し、 田畑を小作に出す程であったので,明治三十八年のいわゆる六日町大火の事後処理にあたっても、 当面の食糧として六日町全戸に籾三駄、 新田町,六日町大火の際の罹災者救済にあたり、 杉立木伐採に不正があったとして、 監督者が町内から始末書の提出
鹿角市史 第3巻 上 (0216)

また火災予防組合規則公布に伴い、 六日町・谷地田町では四二年四月から、 夜一〇時から翌朝二時まで三回巡回,三八大火(「ノ)後に、 六日町では火災の早期発見のため、 火の見櫓を建設している。,鹿角では花輪町の内、 六日町、 谷地田町、 大町、 新町が指定された。,大火後の六日町、 谷地田町では影響をうけたと思われるが、 花輪における対応は明らかでない。
鹿角市史 第2巻 下 (0088)

柵は、 南は六日町のはずれ、 北は組丁のはずれ、 ほかに今泉の北端と、 三カ所に設えられている,かつて六日町の南に新田町を隔てて、 土塁を廻らした桝形があり「城がしら」とよばれていたことからも、,萱屋町御同心丁関堀替井柵之外江橋懸共ニ被仰付」とあるが、 柵の外へ橋をかけるという柵そのも第4図新田町・六日町境
鹿角市史 第2巻 下 (0054)

花輪の市に関連して問題と思われるものは、 三日市と六日町の地名・町名の由来である。,そのかつての三日市の残影が、 六日町の南端に接する地区にその名をとどめたとするのは、 荒唐にすぎるだろうか,六日町は、 盛岡六日町との関係が深くその移植町名であるとの伝承も行われてきた。
鹿角市史 第3巻 上 (0379)

花輪の町並み花輪の町並みは鹿角街道に沿って細長い形に発達し、 上手から六日町・谷地田町・大町・新〓と,中でも六日町は尾去沢鉱山に近かったせいか、 藩政期や明治初期からの大商家が多かった。,ートル雨が降っても六日町の南端から新町の北はずれまで、 傘なしで歩行できた。,長年寺この町並みも三八年五月二七日の大火で、 新田町・舟場の大部分、 六日町の全部と谷地田町の一部
鹿角市史 第4巻 (0198)

大正七年五月、 各町内も火災予防組合を設立することとなり、 六日町では町内を四地区にわけ、 任期三年,明治三十四年花輪で赤痢が蔓延したとき、 六日町では次のような対策をとった。,○新田町・舟場道・六日町一帯の消毒○監視人二名によるオセド使用監視-午前五時から午後八時まで○午後八時
鹿角市史 第4巻 (0190)

『明治二十七年八月老名議員協議録』六日町町内文書)によると任期・定員についてはその時々により変遷があったが,老名や議員の選出について、 『協議録』によると初めのころは六日町町内に居住する人に選挙権・被選挙権があり,同なお六日町惣代人三名連記の『(月並)市場変更御依頼書・明治三十二年九月付』によると、 この惣代人前
鹿角市史 第4巻 (0611)

この集りは時中断した時期もあったが、 その後復活し現在は横丁・新町・六日町などのほか、 他町内でも,六日町では今は五月十九日に、 火伏せの行事と合わせて行なっている。
鹿角市史 第4巻 (0174)

第三章マチとくらし第2図昭和初期の花輪六日町通りら直角に西へ上町・中町・下町と続き、 下町の西端には,その町並は鹿角街道に沿って新町・大町・谷地田町・六日町と、 ほとんど直線状に約千メートルにわたっている
鹿角市史 第2巻 下 (0151)

無尽人数覚無尽人数覚一、 かじや長助一、 六日町兵吉一、 久保田与平次一、 岩や重太一、 桶,庄八一、 能登や与五郎一、 大和屋喜八事喜助一、 桶や甚之助一、 肴や庄太郎一、 山本や次郎八六日町喜一
鹿角市史 第4巻 (0775)

だんぶり長者狐平長者の由来、 トンボのお告げ弘法伝説高屋弘法大師信仰、 因果説評恩徳寺弥陀三尊の由来六日町仏像
鹿角市史 第3巻 上 (0209)

三八年花輪六日町では「六日町新田町角両方用心」のため、 町内有力者五名が一〇円前後を拠出、 不足分
鹿角市史 第3巻 上 (0383)

県の諸市場取締規則にもとづき、 その時まで区域内に含まれていた六日町が除外されたが、 これにより六日町,〓の侭に経過するときは中には生活の途を失う者も出来候」という有様となった(「月並市場増設及変更願」・六日町町内文書
鹿角市史 第4巻 (0074)

大正九年)……明治末のオキガタの家族…一明治末よそ行きの着物の幼児…女の仕事着…小田島治右衛門家(花輪六日町,)…六日町に残るコモセ…豊口甚平家(毛馬内)の大戸…豊口家の階段…
鹿角市史 第3巻 上 (0411)

しかし三八年五月に起きた新田町内の失火は延焼し、 舟場道、 六日町、 谷地田町に至るまで一三七戸,この間の事情を六日町の『大火救興録』六日町町内文書)は「殊に銀行(小田島昌蔵)にては手違いより安田、
鹿角市史 第3巻 下 (0013)

毛馬内下小路通り(大正初期花輪町上通り毛馬内本町通り(昭和初期)花輪町下通り思い出の町角花輪六日町通り
鹿角市史 第3巻 下 (0447)

寄附となる四、 〇〇〇坪の女学校敷地を何処に決定すべきかについて、 議員協議会が開かれ候補地として六日町裏,西村忠次郎が挙げられたが、 民政系委員は第一候補に馬場、 第二候補に舟場を主張し、 政友系では六日町
鹿角市史 第4巻 (0192)

花輪六日町ではオセド(御伊勢堂)の使用についc明治三十八年十月、 次のような掲示をしている一事務簿』,・六日町町内文書)。
鹿角市史 第4巻 (0205)

六日町協議録』によると「谷地田町ニ於て軽く屋台を出し趣とて明三二・通知旁々同意を促し来り」)などとみえる,またシャギリ七・二〇と呼ぶ高砂の翁、 〓は大町・谷地田町・六日町の三町内輪番で出し第15図シャギリ
鹿角市史 第4巻 (0176)

文化住宅の建設昭和六年、 花輪六日町の石木田新太郎は不老倉鉱山役員住宅の資材で、 六日町裏通りに〓
鹿角市史 第3巻 上 (0215)

花輪六日町・谷地田町では両町内共同して夜廻組合を結成し、 三一年四月一五日から夜廻当番四戸一組が夜一,六日町では、 このほか三一年一〇月現在、 水籠一五〇箇、 内紙張水籠五八箇、 武力水籠九二箇、
鹿角市史 第3巻 下 (0651)

二八年より開始された花輪町のコンクリート舗装工事は、 二九年の第二期(坂の上~六日町間)、 三〇年,の竿三期(六日町~新田町間、 大町~新町袋丁角間)、 三一年の第四期(袋丁角~横丁中央間)、 三二年
鹿角市史資料編 第29集 (0030)

甚太郎御差向被成候四月十九日天気よろし筆致啓上候、 然は其御山御入用ニ内々銭三百五拾貫文、 下田勘解由七百五拾貫文、 六日町孫助附越銭為替取組被仰付候条,藤井初蔵上野熊太郎佐藤吉弥一条友次郎づ帷子繁治○石川渕殿高橋儀助殿(上注)右四月十九日相達松館村肝入六日町孫助呼上
鹿角市史 第4巻 (0494)

この結果、 上ミ市場は長年寺角を境に南へ魚類八十間、 雑品を六日町南はずれまで百五間とし、 下モ,市日は次の市日までの十日分の魚を購入する日であったし、 市遣いをすることは魚を買うことでもあった六日町
鹿角市史資料編 第9集 (0104)

川原木舎様但し御用人より御家老兼一名ニ而差遣置札同断伊勢守様六日町御仮屋江七時御着直々晴山隼太持参差出,御肴一折御樽一荷已上南部土佐御肴台御樽台江御名札付御使者上下着工藤弓司若党壱人草り取壱人乗台弐人刀指壱人御使者宿六日町御菓子屋大谷江相頼御状使共
鹿角市史 第2巻 下 (0055)

大里六日市が不振におちいり、 隣接する花輪の上ミの町内に肩代わりされ、 その市立ての行われた町が六日町,然しそれも『手鏡記録書』にある花輪三大火事のうち、 承応二年六日町大火の記事(後年の天明三年以降に書
鹿角市史 第4巻 (0383)

明治四十一年に建てられた花輪・六日町町内の蔵の外壁は、 荒壁七回塗、 砂壁三回塗、 石灰壁一回塗仕上,棟端飾りとして蔵印に六日町町内を表す〓がほどこされていた四、 囲炉裏と照明囲炉裏の機能囲炉裏はシビト・ヒビト・
鹿角市史資料編 第6集 (0025)

肝入目論見願書左之通目論見覚一、 本役被仰付仮肝入熊之助一、 組頭惣助一、 同喜代〓一、 六日町宇之,〓六日町治兵衛一、 谷地田町治六一、 同町善右者共之内江御目鑑を以肝入役被仰付被成下置度奉願上候以上
鹿角市史 第5巻 (0464)

; 799 · 801 · 803 · 805 · 806ム六日町老名議員協議録六日町町内文書無功徳
鹿角市史 第4巻 (0493)

明治三十二年秋田県市場取締規則による市日開設区域は、 六日町から新町までの三百九十間七〇九・〇九メートル,その後、 六日町町内百五間一九〇・九○メートル増地され、 上ミ市場のときに雑品を陳列することになった
鹿角市史 第2巻 下 (0082)

その象徴は六日町の「おせど」である。,六日町はこの泉井戸を中心に開けたともいう。 谷地田
鹿角市史 第2巻 上 (0320)

中小路六七軒焼失閏一二・一七毛馬内町七〇軒焼失)大湯村五軒焼失(『三歳異変』一・一一大湯町五軒焼失四・六花輪六日町二二軒焼失
鹿角市史 第3巻 上 (0384)

なお三二年六日町町内文書にみる当時の花輪市の様子は次のようである。,つに分けて交互に立こ、 上ミ市は長年寺角を境としてそこから南へ魚類陳列場を六三間、 その他の売場を六日町南
鹿角市史 第2巻 上 (0071)

花輪町の範囲は、 六日町から組丁に至る市街地区域をいった。
鹿角市史 第4巻 (0041)

商習慣、 毛馬内・花輪の商工会第三節マチの組織…………………………………一〇五マチの運営組織、 六日町町内
鹿角市史 第4巻 (0862)

一、 郷土の人々明治三十四年花輪六日町生れ佐々木彦一郎一昭和十一年死去)/第3図佐々木彦一郎彦一郎は
鹿角市史資料編 第27集 (0058)

壱組伍長阿部喜兵衛組数合七〓平民同長治郎家数都合三拾八軒伍長阿部喜兵衛平民同長治郎同幸間同藤治同又六一此度花輪六日町神明御輿修勧化奉賀願主祭主并田村勇助両人
鹿角市史 第2巻 上 (0568)

開立年限附』には、 花輪通の金山として黒沢御山をあげ、 寛延元年(一七四八)山師六日町武平治が稼行
鹿角市史資料編 第12集 (0072)

十一月廿三日八ツ時寒二入一、 先達而谷地田町若者共之騎馬丁ちん八ツ、 六日町より二ツ、 大町より,二ツ借上ケ候処、 谷地田町二ツ、 六日町一ツ、 大町一ツ、 都合四ツ紛失ニ付、 右四ツ代銭ニ
鹿角市史 第4巻 (0366)

同じように花輪六日町でも長年寺角までの上コモセ側の堰はションベン堰で、 下コモセ側の堰で食器などを洗
鹿角市史 第4巻 (0437)

花輪では鍛冶同業者が上ミ(新田町・六日町)と下モ(組丁・下夕町)との二つに分かれ、 自分たちの方の刃物第
鹿角市史 第2巻 下 (0594)

八月四日花輪町六日町善次郎此場合奉恐察、 玄米五駄為信志奉願上候間、 御軍用へ御加被下度申出、
鹿角市史 第4巻 (0762)

暗夜にひびく上り囃子(本囃子)の屋台が十台、 稲村橋に詰め、 次に舟場から六日町を通り新田町の桝形
鹿角市史 第3巻 下 (0181)

花輪宮川線は、 六日町を分岐点として、 西道口を経て曙村に至り長嶺に出て碇発電所の所で県道鹿角街道
鹿角市史 第4巻 (0207)

(〇・一〇・一三横町二万五千円新町七万五千円入町約一〇万円旭町約一〇万円谷地田町約二〇万円六日町約一三万円舟場町約七万円
鹿角市史 第5巻 (0295)

六日町町内文書鹿角のあゆみ同この頃柴平村万松寺火災。
鹿角市史 第3巻 上 (0218)

三八・五・二七花輪町で大火、 新田町、 舟場通、 六日町、 谷地田町に類焼、 長年寺角で鎮火
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