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鹿角市史資料編 第20集
(0120)
以上十二月
内山
嘉兵衛印一方井勇右衛門殿晴山治平殿谷地藤治郎殿山口庄治郎殿右願之通被仰付申達候処、 難有仕合奉存候旨御請申出,右ニ付来春御百姓家一軒、 来秋一軒私物入ニ而普請仕度、 尤屋敷地之義ハ兼而
内山
嘉兵衛様ニ而、 犬落瀬村御蔵入畑形三十一枚御持地之内,以上十二月犬落瀬村御蔵入願人定平印同親類定右衛門印藤田寅治様
内山
嘉兵衛様小笠原喜右衛門様江渡儀兵衛様前書之通願出候間,以上十二月江渡儀兵衛小笠原喜右衛門
内山
嘉兵衛印藤田寅治印一方井勇右衛門殿晴山治平殿谷地藤治郎殿山口庄治郎殿右之通願出相伺候處
鹿角市史資料編 第13集
(0019)
ケ様之先例相心得候哉ト相尋候処、 和多右衛門申ニハ
内山
御立林ニ而風折風倒等御座候得ハ、 御山守共へ,被下置取片付被仰付来候得共、 御境通御墨引際之義ハ取片付方違も可有之哉、 乍去此度之松御墨引ニ懸不申内比良へ倒候間、
内山
之振合,難相分候ハゝ御勘定頭中へ御對談可被成下旨被仰下候間、 先例吟味之義吟味役共へ申達候処同人共申出候ハ、
内山
御立林,此度ハ御墨引際ニ御座候間右例トハ違可申哉、 乍去御墨引ニ懸不申内比良之例候間、
内山
御立林等之例ヲ
鹿角市史 第2巻 上
(0358)
大炭の焼場所は大部分熊沢山、 水沢山、 地沢山、 谷
内山
で、 年間御銅山五五万貫、 日根二〇,松館村から大炭上納になり漸く吹方手続きができた(文久三年九月記事)、 花軒田村佐藤兵衛にて大炭釜を柴
内山
鹿角市史 第1巻
(0577)
なおこの
内山
助右衛門について、 『鹿角由来集』は、 「一天正十九年辛卯九戸陣落居之時、 浅野弾正御家来
内山
助右衛門仰付
鹿角市史 第2巻 上
(0054)
世二一世入光寺正親は、 初め津軽城代に起用されたが大浦為信の津軽地方席捲によって没落、 大光寺城を退去して比
内山
田村
鹿角市史資料編 第20集
(0124)
藤田寅治
内山
嘉兵衛内用相済今日出立罷帰。
鹿角市史 第2巻 下
(0244)
第五は
内山
・入会山への加入の管理である。,他村からの入込者は、 村全体の承認がなければ
内山
・入会山への加入が出来なかった。
鹿角市史 第2巻 上
(0062)
一方『祐清私記』(
内山
助右衛門奥北の館破却之事の条)によれば、 城割の全貌は不明ながらその執り仕切りは,中央政権の武将があたり、 鹿角の諸城破却については岩手・志和・閉伊郡の諸城館とともに浅野長政の家臣
内山
助右衛門
鹿角市史資料編 第22集
(0078)
口上之覚
内山
嘉兵衛當六十三才右ハ兼而病気罷有候所、 養生不相叶今寅ノ刻病死仕候。,以上九月廿一日中村倉吉口上之覚実父之続合
内山
練蔵右ハ親嘉兵衛病死ニ付、 忌懸私を以御届申上候。
鹿角市史 第2巻 上
(0753)
その別項「諸入方年中大概」の中にもその出所を、 竹は「出所毛馬内御領柴
内山
小枝指小平、 亦花輪御領三矢沢,より出ル」、 扣木は「三矢沢より出ル」、 大炭は「花輪御領熊沢山、 夜明嶋、 襞部山、 谷
内山
鹿角市史資料編 第19集
(0120)
嘉永四年七月小笠原庄蔵関尚志様
内山
嘉兵衛相内求馬様藤田源内野辺地忠左衛門様渕沢忠右衛門様鵜飼悦之助様千葉茂様北万次郎様合,以上嘉永四年七月小笠原庄蔵印
内山
嘉兵衛印藤田源内印一方井勇右衛門様石川大助様宮野又四郎様工藤弓司殿乍恐奉伺候事右伺之通工藤十蔵
鹿角市史資料編 第13集
(0038)
随而恐多願上様衰存候得共、 毛馬内通御代官所小坂村之
内山
崎川添野形空地之場所、 新田披立候ハゝ八石程之高,七月泉沢織太印和井内佐学神子田求馬殿赤沢半蔵殿臼井並衛殿楢山茂右衛門殿口上之覚本紙奉願上候通、 毛馬内御代官所小坂村附之
内山
崎川添野形空地之場所御座候
鹿角市史 第2巻 上
(0350)
証文を取上げ、 且金増に願出る者があれば山留にし掴に申付けるであろう、 との条々を記している(毛馬
内山
本家文書,宝暦一二年四月田名部町佐藤庄左衛門が山本甚五兵衛に宛て、 新遠部山杉材木津軽出について金主を引請ける旨の一札を出している(毛馬
内山
本家文書
鹿角市史資料編 第20集
(0121)
内〓嘉兵衛、 小笠原喜右衛門、 江渡儀兵衛拝借之分、 當年上納向左之通覚一、 金六拾七両右ハ
内山
嘉兵衛,以上申十二月
内山
嘉兵衛藤田寅治山口庄治郎様右之通上納ニ付、 去未十二月差出置候六拾七両拝借始末相返ス
鹿角市史 第2巻 上
(0250)
一二月一一日中村七兵衛、 中原八太夫、 中野伊織家頼母衣綿〓女、 張付師五郎右衛門、 花輪毛馬
内山
見六人
鹿角市史 第3巻 下
(0271)
国有林の面積は五万○、 三五二町歩、 郡
内山
地の大部分を占め、 米代川上流はおもに針葉樹林が繁茂
鹿角市史 第2巻 下
(0230)
しかし長い年月の間には様々な事情が錯綜し、
内山
と入会山の境が乱れ、 村々相互の協定が守られないこともあり
鹿角市史 第2巻 上
(0398)
ともに、 毛馬
内山
崎家と斧松の交わりの深さを物語っている。
鹿角市史 第5巻
(0050)
浅野長政家来
内山
助右衛門、 鹿角の各館を破却した。
鹿角市史 第2巻 上
(0480)
その数少ない関係『鹿角市史資料編資料の一つに、 毛馬
内山
本家文書)のうち次の譲金覚書がある。
鹿角市史資料編 第34集
(0054)
ノ万蔵院臥居候を見何と饉存候哉、 下馬什罷通候、 夫よりまけ屋を袈沙掛坂と申候、 元来より大地
内山
,其上伊賀判形ノ絵図持参、 其外口上ニて隼人被申上候、 望月長兵衛罷出只今隼人申上候事偽ニ御座候、 鹿角比
内山
境
鹿角市史 第2巻 下
(0248)
正月一一日毛馬内より木引(搬出)二二-一四日古川より木引(川下し分)一一-一八日木切(伐採)柴内
内山
五
鹿角市史 第2巻 下
(0440)
出家二二人山伏神子一四六人
内山
伏四四人神子七人男四五人女五〇人社人一一人比丘尼二人座頭ゴゼ五一人内座頭二四人男一一人女一
鹿角市史 第2巻 上
(0523)
仁左衛門渡部氏所蔵文書承應三六枚間歩青山庄左衛門雑書・承應三・一〇・二五左次兵衛明暦元根田四枚山大水抜ノ下青山勝左衛門青山家白根史蹟同二本平之
内山
仕左五兵衛雑書
鹿角市史 第1巻
(0576)
また、 『祐清私記』
内山
助右衛門奥北の館破却之事の項には、 「先九戸近辺二戸・鹿角の両郡へ打入破却七館
鹿角市史 第5巻
(0561)
後谷地, うわだいうわだいうわだいらう わ の ば ばうらだてうみ や ちうちやまう ちの内野,
内山
,しちながねしばないやましもおりかないしもかしらなししばないやちなかしぼないむかいひら柴内熊堂, 柴内向平, 柴内谷地中, 柴
内山
鹿角市史資料編 第32集
(0103)
内大地村道添左右東北ハ御本田境限西ハ古川境限北西ハ作場道切此田形九人役程起目坪数千弐百坪一同弐石五斗程万谷村ノ
内山
田沢此坪数七百坪程田形五人役程地境
鹿角市史 第2巻 下
(0229)
村々ではその村専用の預り山を
内山
、 他の村と共同で利用する山を入会山と称し、 それぞれ相互に協定を
鹿角市史 第2巻 下
(0240)
これに対し松山村は、 それは松山・大欠の小境まで決定したものではなく、 上館・下館は往古より松山村の
内山
鹿角市史 第2巻 下
(0245)
例えば作場道の修復普請、 用水堰の修理、 草刈地・炊料山としての入合地・
内山
の管理運営など、 どれ
鹿角市史 第5巻
(0232)
る御次留帳大湯村灰山師半兵衛·喜六から、 来満山と十和田山において紺屋灰渡世の処小坂山柴
内山
高市山
鹿角市史 第3巻 上
(0313)
四九八円花輪吉田清兵衛三、 一九一円一三、 四六八円平元児玉善蔵一一、 六九八円一〇、 二一〇円毛馬
内山
本喜七
鹿角市史 第2巻 下
(0236)
蟹沢村、 中野村、 芦名沢村三ケ村へ御書付ニテ仰渡さる〇四ケ山は大湯と嶺分御領、 △四ケ処は芦名沢
内山
也
鹿角市史 第2巻 上
(0389)
また毛馬
内山
崎家では、 代々六左衛門・六右衛門を交互に名乗ることになっていたようで山崎家過去帳)、
鹿角市史資料編 第20集
(0047)
委細同人書〓〓一、 百文肝入孫太郎一、 七拾弐文藤田寅治付有之一、 百文中通老名覚十郎
内山
嘉兵街一
鹿角市史資料編 第20集
(0109)
以上南部壱岐
内山
口庄治郎印御目付中様萬延元年申十月廿八日三日殿様例刻御登城被遊、 御供御平常之通。
鹿角市史資料編 第20集
(0110)
十一月千葉賢助南部壱岐
内山
口庄治郎勤番ニ付相詰。 御目付中様鹿角飛脚壱人着。
鹿角市史資料編 第22集
(0091)
御供御平常之通御鑓御鑓御十八日殿様例刻御登城、 御供御平常之通御鑓誠一郎様例刻御登城、 御供御平常之通一、
内山
練蔵跡式無相違被下置候間申遣候所
鹿角市史資料編 第17集
(0062)
以-五月十五日三日市太夫次郎名代澤山仲之准南部土佐様御
内山
口寿助様右ハ十五日遣候得共今日江記。
鹿角市史 第5巻
(0309)
同秋田魁新報三 ·馬政局の産馬奨励金を大湯諏訪冨多、 毛馬
内山
本幸蔵が授与された。
鹿角市史 第5巻
(0083)
七· 九白根銅山山先久左衛門ら、 銅吹に入用の炭を小坂相
内山
にて焼くことの炭焼証文を与えられた
鹿角市史 第1巻
(0589)
、 慶長十一年夏桜庭安房守追而館崩御廻シ被成候、 先年
内山
助右衛門廻候時急用ニ付罷登り相残所有之ニ
鹿角市史 第5巻
(0158)
こおり下野国の藤八が八戸へ運ぶ絹布三 箇を、 毛馬
内山
本家文書商人宿に取押えられた旨を同町宿老へ訴え
鹿角市史 第5巻
(0164)
毛馬
内山
本甚五兵衛が乳牛村窮民救済のため同村立林より松五〇〇本の地払を願い出許された同同同天明二(一七八二
鹿角市史 第2巻 下
(0428)
毛馬
内山
本氏が妙光寺より勧請し、 初め白根に建立した後毛馬内に移したと伝えられる。
鹿角市史 第4巻
(0141)
八菊幡平地区では「谷
内山
に雲が陰から上ってくると寒くなる」、 「五ノ宮様がボッチかぶれば寒くなる」とか
鹿角市史 第2巻 下
(0329)
〓は毛馬
内山
本家文書の内。 文書にはたんに未年とあるが、 石井伊賀守は
鹿角市史 第2巻 上
(0397)
渡部斧松この鹿角鎌の製法を学び取るために毛馬
内山
崎家へ弟子入りした渡部斧松は檜山の生れである。
鹿角市史 第2巻 上
(0544)
なお毛馬
内山
本家菩提寺日蓮宗本光院も、 初め白根に開山され後毛馬内に移っている。
鹿角市史 第2巻 上
(0742)
大炭の焼場所も御銅山附御山の内で、 大方熊沢山、 水沢山、 地沢山、 谷
内山
等であった。
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