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鹿角市史資料編 第12集
(0040)
、 昨夜八時
十二所
御陣所より川守田民人川村善太郎来、 御陣所御人数増御目付より達有之申来候趣。,、
十二所
詰工藤熊之助病気ニ而帰御添状さし出。 一、 市内廻根市経八関廣路。,一、 柳田文之丞
十二所
江物聞被仰付一昨日罷越候処、 今日罷帰候よし。,一、 夜ニ入関蘭右衛門
十二所
御陣所より参候よし。 届もなく添状もなし。,九月二日夜中大雨昼天気一、 川村理右衛門殿
十二所
御陣所江御帰。
鹿角市史資料編 第30集
(0100)
小銃五六発討候得共敵相見得不申候、 追々人数繰込候処人家明家二付一同葛原村へ押入百姓生捕探索中、
十二所
,数発打出し候ニ付、 鳥蛇隊ニテ防戦未ダ杉林下人家疑敷犯共ニテ火をカケ候処、 川端ノ敵大ニ散乱ニ付
十二所
向,野平へ進ミ大砲数発討懸候處、 敵屯集ノ処へ榴弾二発相発し佐渡手ニテも厳敷討立敵大敗走、 其促追討
十二所
放火致,ノ山の上へ備立蔵人手
十二所
川向野原へ備立居、 其より追々進軍軽井沢手前迄参り候処、 佐渡手ニテ退歩,引揚桜庭手はサルマ手前迄進軍備居候ニ付、 今日ノ戦不致候事八月十日□ノ刻兵隊繰出しサルマ村向野原へ備立
十二所
鹿角市史 第2巻 下
(0588)
十二所
合戦秋田進攻
十二所
口の南部軍は『諸口配兵人数取調帳』栗山文一郎編『戊辰戦役絵図』所収)にもある通,り○
十二所
街道追楢山佐渡を将として発機隊三小隊、 鳥蛇隊一小隊、 昭武隊、 花輪給人の一番手、,本道の沢尻街道から
十二所
正面まで、 塩谷、 岡本、 菊池の諸隊が布陣し、 後陣として大館から応援,戦闘は本街道筋から開始され、 楢山本隊は少数の
十二所
勢を忽ち藩境線から駆逐した。
鹿角市史資料編 第12集
(0041)
右ニ付而御割為御挨拶罷出留主居老人并幼少合弐拾四人、 御馬廻拾四五人外病人茂有之候得共快気仕候得ハ
十二所
江出張仕候,一、 奈良定七郎
十二所
詰被仰付旨御沙汰ニ付申達候処、 膝かふ腫痛仕候ニ付明日立候処ハ御免被成下度旨申参,一、 小田嶋恒弥川又貞治
十二所
出張被仰付差紙を以相達。,、 今ばん
十二所
江夜討一、 奈良織太御城下より帰宅之よし、 添状共御役所江さし出候。,九月四日天気高山白く雪ふる一、 小田嶋恒弥川又貞治
十二所
江出張御添状相下渡。
鹿角市史 第2巻 上
(0724)
然し藩営以前には、 土深井から秋田領沢尻、
十二所
へ出し米代川を船で下して、 能代湊を積出港とすることが,より秋田領沢尻村迄拾六丁程沢所村御銅宿助〓助作御銅壱箇ニ付駄賃八文、 但平地此間ニ南部秋田御境川有
十二所
御銅宿
十二所
御銅宿一,、 沢尻村より十二処迄拾六丁程十所御銅宿伝四部伝四郎御銅壱箇ニ付拾壱文、 但平地川有右
十二所
ニ出入改方番所有,扇田御銅宿兵右衛門一、
十二所
より扇田迄弐里弐丁程甚平御銅壱箇ニ付川下舟賃拾弐文、 但此間陸道平地
鹿角市史資料編 第12集
(0042)
一、
十二所
向き合戦ニ而、 御給人川口猪太郎打死ニ而来り候よし。,九月五日朝大霜今日も朝より〓声聞得ル、 川村多喜人
十二所
江物見被仰付、 御同心石井友太郎召連朝七ツ,一、 川村喜代太
十二所
戦場江物見被仰付罷越。 一、 川守田織右衛門奈良織太昼九ツ時罷帰。,一、 川村左学出勤、 明日
十二所
江出張仕候間添状願出御役所江申上る。,一、 川村喜代太
十二所
戦地迄物見罷越、 夜五ツ過罷帰。
鹿角市史 第2巻 下
(0590)
南部吉兵衛隊の
十二所
進駐翌一〇日、 佐渡は花輪へ使を出し、 南部吉兵衛に
十二所
の警備を要請し、,以上同十日同十日楢山佐楢山佐渡南部吉兵衛殿
十二所
出兵の要請を受けた吉兵衛は、 家臣一同へ軍忠を尽すよう,
十二所
に到着したその手勢は、 兼ての打合せ通りに周辺の残敵を掃討し、 守備についた。
鹿角市史 第3巻 上
(0265)
〓
十二所
花輪間拾銭毛馬内大館間拾五銭毛馬内扇田間〃毛馬内
十二所
間拾銭毛馬内大湯間〃毛馬内尾去沢間〃大湯扇田間拾銭大湯
十二所
間
鹿角市史資料編 第12集
(0043)
、 川村左学病気快方
十二所
江出張。,九月七日朝霧雲一、 川村俊平
十二所
江物見被仰付罷越。 、 山谷善作出勤直々
十二所
江出張。,一、 宮金太郎
十二所
江荷才領被仰付参ル。,、 川村俊平宮金太郎夜五ツ時
十二所
江罷帰、 朝五ツ時より平内大滝之間ニ而大小〓大打合段々様子見候処,、 浅利勇七、 菅生富右衛門、 奈良寅五郎、 於
十二所
敵さしかかり仕掛置候三貫目木筒出来壱発打候処
鹿角市史資料編 第12集
(0044)
タ
十二所
ヨリハ引取申間鋪と及御答罷帰候処、 はや柳五郎殿御達候而新田江引取候旨飛夫参候間、 即刻御官所江罷出御物書佐藤善之助殿右之段宜被仰上被下度,九月八日昼前日当り八ツ時より雨、 森田広治岩館喜代治
十二所
江物見被仰付罷越、 昨夜三矢沢新田江御引揚,、 森田廣治岩館喜代治新田より暮前罷帰、 川村善太郎病気ニ付同断昨夜
十二所
より退軍、 敵
十二所
江充満惣軍敗北之,九月十日雪追々晴天一、
十二所
江物見今日ハ相扣可申旨御沙汰ニ付申達し置く。
鹿角市史 第2巻 下
(0599)
残る者は敵が夜討の模様であると本陣に急報したので、
十二所
に集合した諸隊は繰り引き父互に撤退)することとなった,『秋田藩江討入之日記』には「
十二所
に於て諸将軍議相談之上、 都合もこれ有り兵隊繰引ニ而、 吉兵衛手土深井野原江陣取,南部吉兵衛には、 楢山・向井両将から
十二所
の残敵掃討と国境の守りを堅めるよう指示があったが、 吉兵衛病気,今十七日夜九ツ時秋田へ諸手進軍に付、 御手前儀手勢引連れ別所口より出兵、
十二所
近在へ隠れ居候残兵
鹿角市史 第2巻 下
(0585)
この布告文は秋田領へ討入の後
十二所
には高札として立て、 ほかに板木に摺って占領地の村々へ配布している,漸く切落しの急坂を下り狐窪に到着した時、 遙か
十二所
の方から砲声が聞こえて来た。,各隊は、 既に楢山隊は
十二所
へ討入ったものと馬を急がせ、 葛原の東四五丁の柳平に布陣した宣戦布告この,前後楢山佐渡、 向井蔵人から
十二所
の秋田藩守将茂木筑後へ宛てた戦書が届けられた。
鹿角市史資料編 第1集
(0078)
士無人に御座候間御家士一人拜借仕り度旨申すに付岩花武平治遣わさる、 敵敗走の者山越にて
十二所
を襲はんとする,趣相聞え候に付佐渡様ならびに御国勢
十二所
へ引退く向井并に桜庭は川を渡りやがて
十二所
へ引取一、 夜九つ,依って貝にて相図致し候義左学民人申合せ罷り登り候へども敵勢相見え申さず下山一、 昼八つ時軍勢残らず
十二所
引揚沢尻土深井迄引取旦那様沢尻手前,楢山佐渡様向井蔵人様より御奉書左に一筆啓上致し候今十七日夜九時秋田へ諸手進軍に付御手前儀手勢引連れ別所口より出兵
十二所
近在
鹿角市史資料編 第30集
(0102)
より箱館戻りノ一小隊へ七戸権兵衛差副為應援参り候ニ付、 不人数ノ処大幸也九月十八日卯ノ上刻佐渡方兵隊
十二所
,相廻り味方ノ後へ相廻り挟討ノ様子ニ相見得候ニ付何分苦戦、 且蔵人旗本へ大砲ノ玉頻リニ打込、 無拠
十二所
出口左山,ノ崎へ村井中村二小隊為登置、 今朝杉田斎宮一小隊引連着二付直々
十二所
押へニ備置候処同様山ノ手為登候事,煙山律之助預り隊村井定之助預り隊戸田内権二郎預り隊三小隊引連レ罷登り、 嶺通責下り、 吉兵衛手ハ
十二所
後,ノ大山へ擬兵ニ出張、 蔵人手
十二所
館ノ後杉林を越押行同所出口左ノ山へ登り、 一統兵糧を用へ直様向山
鹿角市史 第2巻 下
(0355)
即ち銅は
十二所
迄駄送し、
十二所
から舟に積込み米代川を下って能代迄運んでいる上流の森林地帯で伐採された,一七八一)五月三日条「大湯来満山公儀御用材木、 花輪米代川筋扇袋御境流木致候ニ付、 同所御境古人秋田
十二所
古人
鹿角市史 第2巻 下
(0589)
楢山氏の軍勢は、
十二所
の郊原と三哲山の半腹と其麓と其南なる森林の中より大小炮を烈しく打立る。,敵勢初は三階橋の辺に進出て居たるが、 後に
十二所
の外れ杉林の中より大小炮を打立たり。,未の刻
十二所
の南の方の山に軍勢の見へて大小〓の烟り立けるを敵かと疑ひしに、 こは別所口より打入し新御番頭石亀左司馬殿軍勢,緒戦で勝利を博した佐渡は、 兵を
十二所
三哲山に伏せ、 本隊は沢尻に宿陣した。
鹿角市史資料編 第12集
(0039)
一、 七時川守田織右衛門
十二所
へ被遣候。,右ハ工藤茂助狐狸之業かいろ〳の申分ニ而、 川口与十郎殿中新田江詰合別所より
十二所
御陣所迄被仰遣候向ニ,、 中軽米里理、 岩館喜代司、 川守田弥一郎、 高橋円司、 阿部兵五郎〆五人
十二所
へ出立。,八月晦日小雨一、
十二所
御陣所江五人交代被遣。 一、 昨晩罷帰候人数参る。,一、 菅生富右衛門、 奈良寅蔵、 勇次郎、 詰候上洗たく御暇ニ而参候所今日
十二所
御陣所江添状願出下渡
鹿角市史資料編 第30集
(0115)
山へ五戸歩武者并震激隊ハ日暮より毛馬内迄引揚ノ義申遣候間、 着ノ上早々被差遣候申遣之、
十二所
口出張,被下方御勘定奉行昭井賢蔵へ申達候事七戸権兵衛太田錬八郎より秋田へノ文通左ノ通一筆致啓上候然ハ昨廿四日於
十二所
口應接,度右得御意如斯御坐候以上九月廿五日太田錬八郎七戸権兵衛山口鉄之助様狩野源蔵様右之通為差遣候処返書来左ノ通御札致拝見候然ハ昨廿四日於
十二所
御應接,頓テ御取毀シ相成候哉ト申ニ付此場所へ台場等新規取建ト申二も候得ハ、 其儀ハ御懸念被下間敷ト申向候処
十二所
口,無之候得ハ、 一應問合ノ上御挨拶可及夫迄ハ御扣被下度申向御境目へ休息為致置、 伺ノ上同所江罷帰申向候ハ
十二所
口往還土深井松山等
鹿角市史資料編 第12集
(0028)
一、 昼頃より
十二所
当、 火の手見ゆる。 一、 暮合丈左衛門殿御帰、 新八熊司も帰る。,承候所最初難戦候所、 近近味方強く為成、 忽
十二所
迄打入所々江放火、 見物眼覚候如く生き軍初而見候,八月十日曇近々雨ニなる、 廻方夜明而来、 只今
十二所
より早参候、 承候得ハ
十二所
焼払大館江打入候御訴,一、
十二所
辺戦地迄物見両人被遣。 川村左学、 工藤友蔵也。
鹿角市史 第2巻 下
(0034)
、 開戦前夜第二節鹿角口の戦い…五三九一、 南部軍の侵攻五三九遂に開戦となる、 宣戦布告、
十二所
合戦,、 南部吉兵衛隊の
十二所
進駐、 小荷駄や農兵に徴用された百姓、 第一次扇田合戦、 新沢口の戦い
鹿角市史 第2巻 下
(0592)
覚○
十二所
出張の小荷駄取調一、 八月十日
十二所
出張之節、 惣人数調左之通一、 八拾人侍一、 拾壱人御同心一,人足六拾人馬引三拾人合而九拾人、 昼扶持壱人ニ付弐合五勺ニ〆此米弐斗弐升五合味噌九百目但シ壱人ニ付拾匁ツヽ一、 八月廿三日
十二所
江出張日数調左之通八月廿三日
鹿角市史 第2巻 上
(0725)
以上このように能代湊出しの御用銅は、 土深井から秋田領沢尻へ運ばれ、
十二所
までは駄送、
十二所
,
十二所
、 荷上場、 鶴形の各番所で各々箇数・貫匁の改切手を受け、 能代沖ノ口番所での改めを経たのち
鹿角市史 第3巻 上
(0258)
境-戸嶋-久保田-土崎湊-一日市-森岡-桧山-荷上場-綴子-大館(〓カ所)枝道筋=(鹿角の例)大館-
十二所
,-毛馬内-花輪花輪・毛馬内で集められた郵便物は隔日に
十二所
を経て大館へ、 大館からは毎日綴子を経て本道筋,同月大館花輪間も毎日差立、
十二所
交換持戻便で毛馬内局立
鹿角市史 第4巻
(0483)
このほか山元から土深井を経て、 秋田〓
十二所
までは駄送、
十二所
から舟で米代川を下り、 能代湊から,まではおもに米代川の舟運により、 その後は県道の改修が進むにつれ山元から花輪まで駄送され、 舟場から
十二所
鹿角市史 第2巻 下
(0598)
この奇襲で楢山佐渡を討ちもらした秋田側は、
十二所
待機の南部軍後詰の来援を聞き、 間もなく退却した,諸隊鹿角へ撤退扇田神明社の戦いで多大の損害を受けた佐渡の本隊は、 陣容を立て直すため
十二所
まで退却し,午後七時この夜の戌の刻()、
十二所
の佐渡本陣で三将の軍議が持たれた。
鹿角市史 第2巻 上
(0242)
恐れ乍ら目安を以南部秋田ノ境目論地言上仕り候一、 秋田領
十二所
と南部ノ境目ハ、 前代より十文字野と,以ト慶安三年寅ノ閏十月日
十二所
越
十二所
越後沢尻刑部大館傳助御奉行所様茂内甚兵衛
鹿角市史資料編 第1集
(0069)
同九日之事一、
十二所
合戦之義者、 花輪人数秋田別所と申処燒拂、 三階橋ニ而合戦致、 其時毛馬内人数葛原村五六間,(軒)燒拂、 次々拾軒も燒拂、 浦山も燒拂、 其内ニ花輪勢
十二所
ノ城江〓火致、 城初市中大火ニ,花輪勢〓ニ進ミ炮発致、 其時敵夜九つ炮発之節味方銃隊壱人被打候由、 夫より花論勢大ニ進ミ炮発致、
十二所
勢敗軍之由
鹿角市史資料編 第1集
(0011)
(盛岡より来り花輪に)到差八月八日夜九ツ時爰元(ここもと)楢山佐渡殿陣押九日未明土深井より発向九ツ時
十二所
抜,時迄此節手負死人共当方にて十六人内戦死二人深手負三人と聞く十三日吉兵衛殿夜九ツ時帰館昨日桜庭祐橘殿毛馬内帰館佐渡殿
十二所
引取沢尻村
鹿角市史資料編 第30集
(0101)
不得止事一先兵隊繰引曲田村出先迄引陣取、 佐渡手大ニ苦戦討死手負も有之由、 乍併終ニ敵追拂敵討死数多有之内、 四ツ時頃繰引
十二所
,へ陣取、 蔵人手
十二所
川向へ野陣、 此節敵葛原口へ相廻り襲討ノ策有之由桜庭手より報告有之尚又毛馬内町,へ新沢口敗走最早討入ニ相成り可申トノ事、 平山ノ報告ト申事有之大ニ心配
十二所
へ渡り佐渡方ト相談軍議ノ,模様ノ旨本陣へ注進いたし、 夫より直様夫々へ兵隊相廻吟味ノ処敵一人も相見不申終り夜を明候事八月十三日
十二所
鹿角市史資料編 第30集
(0109)
平隊照武隊半隊水沢村へ残置之九月七日
十二所
ノ方ニ当り大砲音頻リニ相聞得候ニ付、 桜庭祐橘へ早々出兵葛原口相堅,村井定之助隊毛馬内大砲隊桜庭手へ相廻し葛原出張ノ事、 南部吉兵衛大滝村ニ於テ合戦色々防戦致シ候得共迚モ押へ兼
十二所
町外,御側隊米代川相越へ沢尻へ引、 残り十一人白根へ着高野恵吉葛巻道衛ハ何レへ相廻候哉于今相知不申よし、
十二所
敵味方勇戦依,テ御境へ踏止り血戦ノ趣、 其夜八ツ時迄合戦有之趣申来之、 佐渡方土深井迄進軍
十二所
へ番兵差置候由共
鹿角市史資料編 第12集
(0038)
一、
十二所
口より幕弐張半高張弐張被遣候様御役所迄申出被遣。,、 若旦那様
十二所
江被為入候ニ付、 御本丸御人不足ニ而市中昼廻なし。,、 八時着洗濯願、 菅生富右衛門
十二所
より来、 病気願川村源之助、 佐藤喜蔵、 吉田勇次郎、,、 御同心関富次郎
十二所
御陣所より病気ニ付罷戻候旨申出、 御役所江直答被為申上。
鹿角市史資料編 第1集
(0093)
なり〓同八日夜九ツ頃御官所より楢山佐渡様大将として花輪御給人并に御城下より詰居候銃隊残らず其外野兵とも
十二所
,へ出張一、 同九日
十二所
焼打いたし楢山様大勝利なり、 同十日旦那様四ツ頃御出張昼頃
十二所
へ御着陣、,同十四日
十二所
引拂御帰陣楢山様には土深井に御滞陣、 同十七日夜九ツ頃新田へ出張旦那様にては御病気
鹿角市史 第2巻 下
(0620)
官軍宿陳の様子を聞くに、 肥前小城藩秋田藩共に五〇〇人程が滞陳のところへ加え、 大館と桧山および
十二所
茂木,花輪宿陳の肥州小城藩四〇〇人程は、 今日
十二所
へ引返した。,秋田
十二所
桧山の人数は花輪宿陳の所、 今日帰国の由、 大館人数は田山辺より引返し今日花輪泊りの趣である
鹿角市史 第2巻 上
(0379)
その例として
十二所
市吹谷氏の祖は、 慶長期に白根・西道など鹿角の金山奉行であった北十左衛門信景の娘マツ,その子九左衛門は
十二所
で金銀を吹くことを業としたので吹谷と称した。
鹿角市史資料編 第1集
(0024)
中十二訴の方の大小銃の音烈しくなりけれハ両将急き馬に跨葛原を出玉へ軍を進め猿間村に出れハ楢山氏の軍勢ハ
十二所
,し或は役司の馬上にて采を揮り士卒に下知するを米白川を隔て見たり敵勢初は三階橋の辺に進出て居たるか後に
十二所
,を繰出し米白川の岸に陣を布せ敵勢の横を撃楢山氏へ応援しけれハ敵頓て此方へも炮発しけり未の刻過になれハ
十二所
,夜風寒けれハ其辺の柴を拾ひ集め又は下卒に命し山より木を剪らせ篝を焚て寒さを凌きける此夜諸軍勢の篝火に
十二所
数百軒,を出て田甫を四五丁進けれハ米白川岸に野原の有けるに両将陣を布て暫し休らへぬ此野は只川を隔るのミにして
十二所
鹿角市史 第2巻 下
(0226)
)正保三年(一六四六)五月先年大湯から比内へ欠落した作左衛門が
十二所
与力の下女一人を連れだし、 去る,下女は花輪給人が付添い
十二所
へ返すこととし、 作左衛門は花輪の町末において見せしめの為成敗し、 罪状,○同年同月
十二所
から西道口へ欠落してきた善四郎、 今蔵、 下女いとを返すよう塩谷民部から申入れがあった
鹿角市史 第2巻 下
(0591)
(三浦五郎左衛門隊)双一〇人農兵四一人同二三人(頭取山本喜代志)村夫三〇人(同豊口唯志)計一〇四人○
十二所
口,また
十二所
出張まで花輪の留守を守っていた南部吉兵衛隊二〇〇余名の内、 半数以上が知行所から徴収された
鹿角市史資料編 第1集
(0079)
行御人数残らず御山内を廻り十八日夜明方下新田へ着支度調同処出兵人数共残らず別所口へ押し同村放火惣勢九時
十二所
,つ時御勢揃にて土深井村発足扇田へ御進撃尤も本道は佐渡様山手は向井様川向は桜庭様押出一、 御家勢之内
十二所
袴腰山,袴腰山へ登らせ候御家勢は暮頃帰る一、 合戦の物見として土深井よりは川村左学花輪よりは川村新太郎遣わされ
十二所
台
鹿角市史 第2巻 下
(0595)
八月第一次扇田合戦佐渡は
十二所
の残敵掃討と警備を後詰の南部吉兵衛隊に任せ、 一一日午前中扇田の索敵を,緒戦であえなく
十二所
を放棄せざるを得なかった茂木筑後と応援の須田政三郎は、 戦勝に酔っている南部軍の
鹿角市史 第5巻
(0065)
石井伊賀守直弥卒去同幕府農民の鉄炮免許制とする六· 二花輪境ばっかい沢小川の出入に付、
十二所
塩谷民部,二六湯瀬番所目付小保内源十郎夜に馬二頭取押える閏一〇·南部秋田の境目十文字野、 楢柏木などの論地について
十二所
鹿角市史 第3巻 下
(0196)
引続いて
十二所
町大瀧までの第二期工事四マイル一分が大正四年正月までに完成し、 営業運転が行われた。,第三期工事の
十二所
駅・尾去沢駅(現在の土深井駅)を通り末広駅までの六マイル二分は順調に行われ、 五年五月一日
鹿角市史 第2巻 下
(0609)
問板沢から扇田に進出した連合軍は次々と
十二所
の南部軍に攻撃をかけ、 大館にある南部軍の退路を断つ構えを,前掲書の九月六日条には玉薬も手薄となった事や、
十二所
口や葛原口に敵軍が進攻し退路が新沢口一つになった
鹿角市史 第2巻 下
(0582)
鹿角口の諸隊編制○
十二所
口先鋒花輪一番手二〇〇人余(所給人・与力・同心及び奴・農兵を含む)剣鎗昭武隊一小隊鉄炮発機隊三小隊鉄炮同心鳥蛇隊一小隊楢山佐渡手勢計五五,農兵一〇〇余人『秋田藩江討入之日記』には、 家士四二人此下凡一七人同心一人計六〇人とある花輪堅め(後
十二所
進駐
鹿角市史 第2巻 下
(0614)
以上盛岡藩向井蔵人九月廿日盛岡藩向井蔵人秋田御藩御出張御隊長中様円楢山佐渡右の停戦申入書は、
十二所
口,結局秋田領に侵入している諸隊全員を藩境内に撤収し、
十二所
口に於て応接することになった。
鹿角市史 第2巻 下
(0546)
臥〓追善のもので、 参加者も専正寺献額と殆ど同じで、 大館の五鼎、 洪竹、
十二所
の直蓬、,献額から、 天保以降において花輪の俳諧が実に隆盛をきわめていること、 その交流は盛岡方面より大館・
十二所
鹿角市史 第5巻
(0263)
楢山·向井より
十二所
茂木筑後宛戦書を発する八 ·九未明毛馬内の向井·桜庭隊進発,正午までに
十二所
落ち、 人家ほとんど焼ける。
鹿角市史 第3巻 下
(0651)
三四年に花輪町から尾去沢町を経由して大館市
十二所
に通じる道路が、 県道
十二所
・花輪線として再度認定された
鹿角市史資料編 第1集
(0034)
みしにそ四五日の暇を乞て薬を服しけり○此日向井氏ハ毛馬内を出て小坂に入御境を衛る楢山益人殿先の日より
十二所
,ひなしと思ハる夜に至れとも不止なり同十五日十三日よりの戦ひ昼夜不止又今日も夜に及へり○此日佐渡殿大に
十二所
,此夜敵此民家に火を掛マ沢尻の山と葛原の川岸と両方より鉄炮烈しく打出し佐渡殿の帰路を絶んとしけるに佐渡殿は却て
十二所
鹿角市史資料編 第30集
(0114)
於テ御談判ノ一条重役共へ申聞候処、 御内命ノ儀承知不致候テハ御挨拶も致シ兼候ニ付、 今朝三式部殿
十二所
口,へ御出ノ趣故委曲其節御應接ニ可及趣二候間左ニ御承知可被成候、 猶以後日談判ノ義も候ハゝ
十二所
口ニ於テ,昨日於袈裟掛御境及談判候一条早速御重役へ被仰聞候処、 御内命ノ趣旨御承知無之候テハ難被及御挨拶ニ付、 三戸式部
十二所
口
鹿角市史資料編 第1集
(0077)
として行き同所勘右エ門方へ御宿り御昼支度被成候内川村左学川守田民人十一所御陣所見立旁物見として被遣右両人
十二所
小荷駄方佐々木直作殿,佐渡様より申来り候は庄内、 仙台にては久保田城へ近く詰め候由後れては御申訳も無之故即刻進軍致候間
十二所
御警衛被成可,候様申上候者も有之由右は敵の謀に候間御出兵御扣え被成候様早々罷帰り申上ぐ可き旨申す〓付直に罷帰り申上る一、
十二所
御上小荷駄方
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