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鹿角市史 第2巻 上
(0647)
相哥
屋
、 伊勢
屋
の二人を尾去沢へ遣し置くよう奉行から命じたことはなく、 その引払いについて云い付ける,銅山支配が伊久
屋
権四郎から
南部
屋
八十治
へ移る過程で、 どうしてこのような悶着が起こったのかはよくわかっていない,
南部
屋
八十治
、 稼行す
南部
屋
八十治
は江戸の商人といわれ、 享保一九年八月「尾去沢銅山支配元仰付けられ,宛尾去沢銅山より請取り候様」厚遇されながら、 どういう訳か四乃月足らずで御免となり、 長坂金鋪も
南部
屋
八十治
,元文元年(一七三六)八〓一〇日付
南部
屋
八十治
宛遣証文には、 おおよそ次の箇条が認められている()。
鹿角市史 第2巻 上
(0662)
その理由は書付の別項に、 銅を船積みし大坂へ廻す道筋において問
屋
などへ銅を売買してはならないとあることから,当時尾去沢銅山支配元
南部
屋
八十治
は、 江戸小梅村銭座へ引当の銅も請負っていたことから、 幕府勘定所,「雑書』元文三年五月二八日条早保二〇年閏三月朔日長崎奉行細井因幡守から藩留守居に対し「日ノ丸ノ義山師
南部
屋
八十治
,
八十治
の跡福島源兵衛も寛保三年二月願に依って同様日の丸の船印を許されている。,った翌々年の寛延三年九月、 藩役人の照会に対し長崎奉行松波平左衛門より「長崎御用日の丸幟ノ儀先達て
八十治
願上
鹿角市史 第2巻 上
(0648)
繋川目橋普請等は、 鹿角郡高割の内一、 〇〇〇石分相勤むべき事附として、 山中道普請、 役
屋
普請,また『雑書』同年八月二八日条には、 赤沢山銅山に新見立がある旨
南部
屋
八十治
から書付が出されたので、,さきに権四郎の跡
八十治
の普請となっていた長坂金鋪につき、 同じく一一月一八日条に「鹿角長坂金鋪唯今迄御手山仰付,け置かれ候処、 此度売山成さるる旨仰出され」云々とあることは前述の通りで、
八十治
は赤沢を新たに見立,〓去沢銅山稼行に乗り出した
南部
屋
八十治
は、 長崎奉行より前借金一万両をうけ、 廻銅定数一カ年一〇〇
鹿角市史 第2巻 上
(0653)
問責となってあらわれるに及んで、 藩の面目失墜に狼狽した当局は遂に寛保二年九月二六日尾去沢銅山支配人
南部
屋
八十治
,を「御山御免」とし、 その跡山師を江戸日本橋桧物丁福嶋源兵衛、 金主大坂今橋嶋
屋
市兵衛に申付けた。,源兵衛は「先年
八十治
手先ニて数年御山も相勤め、 御山致方の次第も存じ候者、 猶又新六御山勤の中人柄共見届,なお源兵衛は、
南部
屋
八十治
が長崎奉行から借受けた一万両の未済分も引請けたという。
鹿角市史 第2巻 上
(0650)
前々から尾去沢銅は質入銅あるいは借方押えとなって、 能代、 大坂その外問
屋
等に囲われていると聞える,その上さらに前金拝借など願出ているが、 そのような請負人
南部
屋
八十治
に関わりなく藩役人が吟味を遂げ廻銅滞,長崎御用銅が年々不足となるのは、
八十治
が銭座へも銅を廻しているためではないか。,いずれ藩役人でよくよく吟味の上申出るように、 という厳しいものであった「雑書』元文四年)四月二五日条
八十治
,の銭座云々というのは、 かねて
八十治
が江戸小梅村銭座の鋳銭引当の銅をも請負っていたことを指したものである
鹿角市史 第5巻
(0134)
五 ·二七伊藤長治勤め中不届として身帯家
屋
敷没収さる八· 四
南部
屋
八十治
、 尾去沢銅山支配元仰,八·二三伊久
屋
権四郎、 長坂金鋪御用を勤める。,一一 ·長坂金鋪御用伊久
屋
権四郎を免じ、
南部
屋
八十治
に普請を仰せ付けられた。
鹿角市史 第5巻
(0135)
七·二一大湯沼久保のめつけ先般北九兵衛田
屋
の放火の件白状す。,八·一〇
南部
屋
八十治
宛に尾去沢銅山普請お手山の積りをもって預ける旨の遣証文がでる。,八·二八新見立の赤沢銅山、
南部
八十治
の稼行となる。,規定する八月 幕府、 潰銀の密売禁止一一月幕府再度蓄銭を禁じるこの年盛岡領内新田改めあり同藩、
屋
敷地
鹿角市史 第2巻 上
(0029)
『銅山行方御用目録』、 正徳のお手山〓長崎御用銅の時代六〇四大坂廻銅令、 稼行者の交替、
南部
屋
八十治
稼行,す、 御用銅渋滞す、 廻銅七〇万斤となる、 商人組合から森田
屋
六右衛門へ、 日の丸の船印、
鹿角市史 第5巻
(0139)
九 ·尾去沢銅山支配人
南部
屋
八十治
御山御免となり、 その跡山師を江戸日本橋福嶋源兵衛、,金主同 同大坂今橋嶋
屋
市兵衛が引請けた。
鹿角市史 第5巻
(0626)
414 · 629
南部
直房
南部
長義
南部
信家1497 · 4982上90·,#183; 457 · 458· 459 · 460 · 461
南部
南部
南部
南部
政光,1442
南部
通継2上18
南部
南部
光経(修理亮)1472 · 474光政1473
南部
南部
光康,みや致愛
南部
宗子
南部
宗経
南部
元子2下5962上453上6292上183上629
南部
盛信1538
南部
守行,; 269 · 296 ·592
南部
(
屋
)
八十治
2上585 · 594
鹿角市史 第2巻 上
(0677)
勝手向」に敏腕を振るったが、 明和六年一二月に至り平生我意を募らせ甚だ無調法な勤方として「家名身帯家
屋
敷家財共御返上,薄銅処理に苦慮尾去沢銅山が、
南部
屋
八十治
や森田
屋
六右衛門等請負稼行人の積年にわたる放漫な経営と双廻銅,秣田
屋
六右衛門の出奔によって生じた廻銅定例高の未納分は宝暦一二年と明和元年分で二四万七、 八〇〇斤、
鹿角市史 第2巻 上
(0644)
一、 銅代銀ハ大坂エ銅相廻シ、 吹
屋
方エ相渡し候斤数ニ随ひ、 其度々急度相渡す可く候。,尤役人ニ申付け置き候ノ条吹
屋
共エ承合申す可き事。,以上いの享保七年(一七二二)の頃までの銅山は和久
屋
平左衛門の稼行であったが、 まもなく尾山
屋
武兵衛に,『雑書』享保一〇年一二月二二日条によると、 尾山
屋
武兵衛からさらに尾山
屋
伝右衛門に交替した経緯が次のように,長治は相当の経済力をもっていたらしく、 同年中〓「銅山御役金ノ内御側御用金」として八〇〇両、
南部
屋
八十治
鹿角市史 第2巻 上
(0628)
元禄一二年の秋、 長坂の千太郎という大葛生まれの者が江戸へ登り、 盛岡藩上
屋
敷の門前で訴状を出したが,長坂は元禄・宝永の頃には阿部小平治が稼行しており、 中心部に岩井
屋
大切鋪がある。,岩井
屋
は小平治の
屋
号であった。,その後享保一九年(一七三四)伊久
屋
権四郎が一時「長坂金鋪御用仰付けられ」たが間もなく御免となり、
南部
八十治
,その後長坂山は仙台岩井
屋
六郎兵衛と盛岡本町清兵衛の請負となったが山勢は良くなかったらしく、 寛保二年
鹿角市史資料編 第31集
(0016)
筋相當候ハ、 早速可訴、 万二一隠蜜於仕ハ越度可申付事一吹出鉛他拂脇賣御停止被仰付候、 拾歩一ノ外
南部
屋
八十治
鹿角市史 第2巻 上
(0619)
』に「尾去沢銅山寛文六丙午年見立、 同年三ツ矢沢初ル、 右御山境、 東ハ赤沢崩西道より流川笹小
屋
外落合限,この記事には「右山師共左ニ」として「長尾重右衛門、 三上多兵衛、 川内
屋
留兵衛、 熊谷治兵衛、,山野目小平治、 和久
屋
平左衛門、 天王寺や治右衛門、 関新助、 和久
屋
平左衛門、 生子
屋
長左衛門,、 尾山
屋
武兵衛、 同伝左衛門、 伊久
屋
長治、 藤田権四郎、
南部
屋
八十治
、 福嶋源兵衛、,嶋
屋
市郎兵衛、 泉
屋
専左衛門、 盛岡廿三人組、 盛田
屋
六右衛門、 明和弐年酉ノ十一月四日より
鹿角市史 第2巻 上
(0646)
伊藤長治の追放後、 尾去沢の稼行を請けたのは伊久
屋
(幾
屋
)権四郎であった。,しかし伊久
屋
権四郎の稼行はごく短命に終り、 翌年の夏には早くも交替せざるを得なかった。,『雑書』享保一九年一一月二六日条に、 尾去沢銅山支配を
南部
屋
八十治
へ仰付けられたにつき銅山台所を引渡,すべきことを、 大坂の菱
屋
喜平次方から派遣され滞在していた金主相哥
屋
新右衛門、 伊勢
屋
藤兵衛に対し
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