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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第5巻 (0050)

出 典文禄元(一五九二)文禄の役南部信直、 肥前名護屋参陣文禄四(一五九五)秋田実季と浅利頼平、,慶長三三月 秀吉、 南部信直に伏見一·二五南部信直、 秀吉に鹿角の木材を献上す。
鹿角市史 第5巻 (0049)

湊合戦覚書天正一四(一五八六)南部信直、 斯波氏を滅ぼす天正一六(一五八八)南部氏の勢力津軽を撤退、,聞老遺事専正寺由来天正一八(一五九〇)南部信直、 小田原参陣し秀吉より南部内七郡(鹿角を含む)を安堵
鹿角市史 第2巻 下 (0184)

最後までふみとどまった大里修理・大湯四郎左衛門・長内弥左衛門等は、 南部信直に抗して九戸城に籠り仕置軍,ともあれ鹿角は、 近世大名南部信直の領地として完全に掌握されることとなり、 中世的な一村一館の、,へと切り換わる転轍機の役を果したのは太閤検地と、 それに続く藩の惣検地であった太閤検地によって、 南部信直
鹿角市史 第2巻 上 (0042)

奥州では)伊達氏以外にて最も早く秀吉に使を送りし者は南部信直、 津軽為信の二氏なりとす。,(中略)爲信は旧大浦と称し、 南部信直の弟政信に事えたり。,(中略)同十八年南部信直(は)其子利直と共に小田原に至りて秀吉に謁し、 津軽為信、 九戸政実二氏の
鹿角市史 第5巻 (0048)

同永禄一二(一五六九)鹿角出陣のため南部信直勢は来満路を越えて大湯へ出、 九戸政実勢は七時雨路を越え,、 浪岡城を攻略、 北畠顕村自刃、 北畠氏滅亡天正一〇(一五八二)南部晴政没し、 晴継も死す南部信直
鹿角市史 第1巻 (0567)

南部信直は三月下旬小田原城攻囲陣参加のため三戸城を発し、 出羽・越後・信濃を経て関東の野州に到り、,すなわちそれは気一〓幸一〓〓〓ま一〓ら〓、 一あ〓一〓〓ヘ〓り第16図南部信直宛秀吉安堵状書き下し文
鹿角市史 第5巻 (0051)

公国史青山家系事蹟鹿角志慶長四(一五九九)一〇月南部信直、 二戸郡福岡城に没す世子利直跡を継ぐ一一月北信愛剃髪入道,同 同同柴内村羽黒田の検地につき南部信直と羽黒山在庁雲林坊との間に争いがあった。
鹿角市史 第2巻 上 (0041)

『寛政重修諸家譜』一南部信直の譜によれば「この年(天正一九年)和賀・稗貫・紫波三郡を加百十へられ旧領を,豊臣秀吉による領知安堵状一)の中では異例と目されるような、 単に郡数のみを記入した状領域不明確な南部信直宛所領安堵状
鹿角市史 第1巻 (0556)

この比内合戦について、 元禄期に書かれた『奥羽永慶軍記』南部信直秋田比内を攻るの事の条を要約すると、,イ、 南部信直の女を大館城主秋田忠二郎実泰に嫁がせた時婿引出物として鹿角郡三百町を付けたが、
鹿角市史 第4巻 (0405)

する定六が南部の高名なマタギとして参加し、 御用働きをしたため与えられた子孫永久の免状で、 後に南部信直
鹿角市史 第2巻 上 (0337)

慶長期、 豊臣秀吉が「祐清伏見城修築用材搬出を南部信直に命じ、 徳川家康もまた「鹿角材木御無心之御状
鹿角市史 第5巻 (0047)

鹿角由来集永禄八(一五六五)南部信直、 晴政の長女の婿となる七月頃、 安東愛季の廻文に安保三人衆と
鹿角市史 第2巻 上 (0474)

南部信直が、 鹿角を含めた所領安堵の朱印を秀吉から交付され、 その奥州再仕置軍の武威によって、
鹿角市史 第1巻 (0583)

地士中の旧族である大湯氏としては、 当初の南部信直と九戸政実の勢力拮抗する情勢のなかで、 家名存続
鹿角市史 第2巻 上 (0150)

慶長六年十一月十七日慶長六年十一月十七日利直御重判波岡六左衛門(『系胤譜考』)(これより以前、 南部信直
鹿角市史 第4巻 (0651)

盛岡藩祖として南部光行・南部信直を祀り、 祭典は五月十日に行われる。
鹿角市史 第1巻 (0600)

戦闘に終始したことによる天正十九年九戸の争乱に際し、 九戸方の大湯四郎左衛門の籠る大湯鹿倉館を、 南部信直方
鹿角市史 第1巻 (0553)

古来伝統的な交通要衝としての郷土の側面を考えざるを得ないのである信直、 斯波氏を滅ぼす大正十四年九月、 南部信直
鹿角市史 第2巻 下 (0452)

この文書の年代は、 南部信直生存中の慶長四年(一五九九)以前であろう。
鹿角市史 第1巻 (0550)

天正十一年、 南部信直は志和野大萱生城を攻撃し、 この戦陣に鹿角郡の長牛縫殿介友義が弟彦六とともに
鹿角市史 第2巻 下 (0437)

即ち二七面あった内の一面は南部信直の代に取り上げられたが、 残った面については「山神、 鬼、 十郎
鹿角市史 第2巻 上 (0038)

同年七月二七日付南部信直宛の豊臣秀吉書状は五カ条からなるが、
鹿角市史 第2巻 下 (0065)

昌光・昌忠父子は南部信直・利直に仕え、 九戸陣には「大湯五兵衛二千石、 四十五人」、 慶長六年(
鹿角市史 第1巻 (0052)

図天正十七年大館城攻略径路図…五一(第〓図津軽大光寺氏系図…五一一第〓図鹿角花輪氏系図…五一一第〓図南部信直宛秀吉安堵状
鹿角市史 第1巻 (0557)

二、 南部信直は赤沢大明神一ノ関まで切取り、 所々に要害を構え関所を作り人数を配置して南部に帰った
鹿角市史 第5巻 (0662)

538 2上8· 352下3742上353上401 · 402 3下211511 →南部信直
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