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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第2巻 上 (0175)

)・大湯村・石鳥谷村・谷内村(以上鹿角郡)、 白鳥村二戸郡)金定・米沢村・坂本村(以上二戸郡金目定和賀,(〓賀)米定役金加一、 石井勝左衛門(二〇〇石)・大湯村銭定・立花村(師賀)米定・笹間村郡和郡和郡和賀笹間村,(〓賀)米定役金加和賀・〓賀)米定役金加米定役金加・湯本村湯本村(〓賀)米定役銭加和賀〓賀)米定役銭加米定役銭加一
鹿角市史 第2巻 上 (0041)

郡・和賀郡・志和郡・岩手郡・閉伊郡・鹿角郡・糠部郡の七郡が確認できる。,『寛政重修諸家譜』一南部信直の譜によれば「この年(天正一九年)和賀・稗貫・紫波三郡を加百十へられ旧領を,南部重直宛徳川家光領知状陸奥国北郡三戸二戸九戸鹿角閉伊岩手志和稗貫和賀十郡都合拾万石目録在別紙事如前々全可令領知之状如件寛永十一年八月四日,南部家旧蔵文書・盛前市中央公民館蔵)つまり右に記載する一〇郡中、 天正一九年に加増された志和・稗貫・和賀
鹿角市史 第2巻 上 (0043)

されていたことから、 あくまでも郡数七郡そのものを安堵し、 その後津軽三郡の代替地として志和・稗貫・和賀三郡,すなわち南部領の領域七郡とは当初より「南部大膳大夫分国諸城破却共書上之事」にみられる「稗貫郡」「和賀郡,にみえる「陸奥国北郡、 三戸、 二戸、 九戸、 鹿角、 閉伊、 岩手、 志和、 稗貫、 和賀,それは延宝七年一一月に鑄造され、 今日旧盛岡城内鎮座の桜山神社に現存する盛岡城時鐘在銘「所領大郡所謂和賀
鹿角市史 第2巻 上 (0177)

)銭定・大湯村銭宕銭定和賀・小山田村一米定郡一、 安宅登(一五〇石)鹿角・大湯村六)、 渋民村・長山村以上岩手郡一,松山村・腰廻村一以上鹿角郡)金定一、 四戸茂助(一二八石)・大湯村金定・横川目付(師賀)米定戸郡和和賀
鹿角市史 第5巻 (0081)

柴内六右衛門与力新田柴内村に一〇〇石の検地をうける同寛文一一(一六七一)一月 紀州高野山遍照光院霞区域につき争い和賀,、 稗貫、 斯波三郡を江戸盛岡藩邸に訴えでるこの年岩手郡、 和賀郡、 雫石、 沢内に検地行わる,三月五日とする旨を布達した六月 花巻地方大暴風吹く同 盛岡·八戸両藩の領境に境塚を築くこの年和賀郡岩崎新田
鹿角市史 第2巻 上 (0176)

〇〇石)以上鹿・大湯村・小枝指村・新斗米村・草木村(角郡一、 宮田瀬兵衛(二〇〇石)・大湯村金定金定和賀,・小山田村一)、 亀ケ森村・太田村以上稗貫郡一、 織笠庄助(二〇〇石)・大湯村金目定・臥牛村(郡和賀
鹿角市史 第2巻 上 (0182)

以上の諸形態について藩内全域を郡単位でみれば、 和賀・稗貫・志和・岩手・鹿角の五郡は米定を中心とする,地域であり、 特に和賀・稗貫二郡は所務高の約九五パーセントを米納が占めている。
鹿角市史 第5巻 (0564)

リ龍ヶ森両国鉱山2上2143下324 · 555六月田六郎沢〔花〕六郎長根ワ和井内若木立和賀和田鰐口屋敷
鹿角市史 第1巻 (0523)

守行の頃の南部氏の勢威は強く、 『吾妻むかし物語』永享年中和賀稗貫一乱の事の条に、 「むかし永享七年,(略和賀小次郎と須々孫某確執に及び(略)其頃奥州の惣轄南部遠江守(略)軍勢を催さる、 先糠部五郡、
鹿角市史 第1巻 (0568)

進行奥州仕置の総帥は中納言秀次で、 信直は浅野長吉(のち長政)勢の先導をしつつ、 奥州仕直軍の一員として和賀,えられる(『奥南旧指録』)秀吉は八月九日会津に到着、 小田原に参陣しなかった大崎・葛西両氏、 あるいは和賀氏
鹿角市史 第1巻 (0569)

特に葛西大崎一揆や和賀・稗貫一揆などは一時猖獗を極めた。,ここに再び南部勢の和賀・稗貫両郡への出兵や蒲生氏郷勢・伊達政宗勢などの出動となり、 浅野長政は二本松城
鹿角市史 第5巻 (0092)

される同藩、 幕命により領内酒屋の調査行う同同藩、 領内の民戸四万八、 九〇〇人余と書上ぐ同 和賀郡村崎野新田成,る同和賀郡滝倉、 三戸郡夏坂の銅山経営される鹿鹿角関係事 項四 ·二揚山銅六三八箇松山番所改
鹿角市史 第2巻 上 (0131)

範囲を領内全域に拡げると、 和賀・稗貫・志和・岩手の四郡の村々はいずれも一七・五パーセント増、 残
鹿角市史 第5巻 (0031)

盤具公母礼らが降伏する延暦二三(八〇四)この年、 多賀城の鎮守府が胆沢城に北進 (推定)陸奥に和賀
鹿角市史 第5巻 (0050)

和歴(西暦)(一五九一)一 般 的 事 項奥州再仕置軍下向し、 九戸城落城す信直、 和賀·
鹿角市史 第5巻 (0605)

和井内十之丞和井内次郎2上2743下329和井内灯湖3下676和井内久五郎2下334和右衛門(冠田村)2上572和賀小次郎,#183; 375· 524若山 牧水2下34· 80· 813下418和賀
鹿角市史資料編 第13集 (0004)

和賀兵乱(岩崎合戦)の際は、 所領六千石、 騎上十騎、 従兵百二十人の大身であったから譜代の旧臣,与力新田披立を交付されている」八左衛門は、 浄法寺氏没落により松岡姓を名乗っていたが、 松岡堰を開さくして和賀川流域
鹿角市史 第1巻 (0508)

観応三年=正平七年(一三五二)多賀府を攻撃し、 宮城郡山村城を居城としている鬼柳文書文和二年正月日和賀義綱軍忠状
鹿角市史 第5巻 (0051)

二 ·根市盛程、 南部利直に召出され、 のち中野家附慶長六(一六〇一)三月 和賀岩崎に一揆起
鹿角市史 第5巻 (0086)

また春には窮民に施粥を行う、 飢饉和賀郡沢内地方最も甚しい同 盛岡藩惣年貢高書上、 一三万六、
鹿角市史 第1巻 (0445)

のことであり、 その間における状況は模糊として明らかでない陸奥北部に建てられた奥六郡、 胆沢・江刺・和賀
鹿角市史 第5巻 (0056)

和賀鬼柳文書工藤利悦作成資料寛永一一(一六三四)八月 徳川家光領知状、 南部重直に一〇万石安堵閏七
鹿角市史 第5巻 (0097)

同 同 同兼務、 以後寺社町奉行と称する南部領内凶作となる藩、 新舫制度を定む和賀郡大石沢、 同片野沢
鹿角市史 第2巻 下 (0427)

)の創立、 盛岡本誓寺末で、 開山は意頓とされる(〓明治初年「寺院明細帳』伝えによると土沢岩手県和賀郡断
鹿角市史 第3巻 上 (0077)

その管轄は気第一図仙・江刺・和賀・閉伊四郡におよび()、 県役所は参照市江刺)に仮設されたのち、
鹿角市史 第2巻 下 (0628)

南部領は新政府において直隷地として支配することになり、 鹿角郡をはじめ九戸・閉伊・岩手・紫波・稗貫・和賀
鹿角市史 第1巻 (0571)

なお、 九戸落城直後和賀・稗貫・志和三郡が信直に加封された。
鹿角市史 第5巻 (0132)

鬼柳通山口村煤孫村、 (一七三一)年貢坪役銭の賦課に反対し強訴、 続いて黒沢尻通も蜂起、 一揆は更に和賀
鹿角市史 第5巻 (0180)

津軽出五カ年中五〇〇貫文で許される同一一 ·藩は幕府へ願い出て不老倉·白根·和賀郡水沢
鹿角市史 第5巻 (0210)

幕府二朱銀改鋳を令示四月幕府代官森覚蔵に房総沿岸警備を命じる三月盛岡藩、 塩の御手売(専売制) を実施この年和賀郡二子通中島村
鹿角市史 第5巻 (0225)

天保八(一八三七)一月 領内和賀·稗貫両郡の農民伊達藩に越訴す三月同盛岡藩七福神札を禁止藩諸士
鹿角市史 第2巻 下 (0344)

鹿角にかかわるもの「和賀鬼柳文書』)が初見であろう。
鹿角市史 第2巻 上 (0174)

毛馬内三左衛門(八〇〇石六斗三升)以上鹿・大湯村・三ケ田村(恥〓唐)金目定〓以上鹿角郡・柴内村・乳牛村)小山田村和賀郡
鹿角市史資料編 第25集 (0074)

来巳年より物成郷村等請取可申事明治元年十二月南部彦太郎陸中国陸中国九戸郡鹿角郡閉伊郡岩手郡紫波郡稗貫郡和賀郡右
鹿角市史 第2巻 下 (0642)

その管轄地域は岩手・紫波・八戸藩支配地を除く)と和賀郡の一部であった。
鹿角市史資料編 第12集 (0084)

尚御和賀郡判物之儀ハ追而大政官より御沙汰可有之事。
鹿角市史 第4巻 (0113)

また毛馬内常照寺は元禄十四年(一七〇一)に岩手県和賀郡に創立されたも
鹿角市史 第1巻 (0525)

経路は仙北・平鹿経由であること、 おそらく主として岩手郡雫石から峠越えして生保内に至るかもしくは西和賀
鹿角市史 第5巻 (0094)

瘡守稲荷社建立同 藩、 領内の漆木数書上漆木三〇万一、 五〇〇余本、 櫛漆七〇〇盃同 閉伊郡田代、 和賀郡鍋倉両銅山開発
鹿角市史 第2巻 上 (0089)

花巻八通とは、 花巻二郡とも花巻八代官所ともいい、 和賀、 稗貫の二郡に位置する八幡通、 寺林通
鹿角市史 第2巻 上 (0156)

大里村、 小豆沢村、 尾去村、 甘蕗村、 鏡田村、 狐平村は、 志和郡、 稗貫郡および和賀地方
鹿角市史 第2巻 上 (0128)

盛岡藩の新田開発の中心は、 いわゆる口郡と称された地域で、 中でも和賀郡(一〇一・〇パーセント兜)
鹿角市史 第2巻 上 (0549)

にその直筆の書状が伝わっている、 などとしている北(南部)十左衛門は頗る豪勇の士で、 慶長五年の和賀兵乱
鹿角市史 第2巻 上 (0579)

『雑書』延宝五年正月八日条によると、 鹿角白根銅山の役金を和賀水沢銅山と同様、 床一丁に付金一両であったのを
鹿角市史 第1巻 (0453)

奥中山峠の北、 安比川流域とも、 和賀地方ともいわれるが明証を欠いている。
鹿角市史 第1巻 (0518)

してみる必要を感じるのである鹿角四頭という一揆形態は、 奥羽の現存史料では、 永徳二年(一三八二)の和賀郡一揆契状
鹿角市史 第5巻 (0100)

年盛岡藩蔵米給所高書上同藩与力新田改めあり、 与力新田は沼宮内通以同 同 同 同北は一〇〇石迄となる稗貫 · 和賀検地書上藩諸運上
鹿角市史 第5巻 (0102)

住民を盛岡へ移し三戸町と称す藩、 新山舟橋を土橋に架替える福岡 · 鹿角 · 和賀地方検地行
鹿角市史 第2巻 上 (0324)

品種鹿角は、 南部領内にあっては米産地の一つに数えられ、 『勘定考弁記』村井白扇・宝暦一〇年写)に「和賀郡
鹿角市史 第2巻 上 (0594)

この人口は領内鉱山の総計であるから、 和賀郡水沢銅山、 当楽銅山その他の鉱山も当然含んでいるが、
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