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鹿角市史 第3巻 上
(0606)
第四章教育と文化の展開※このほか現在は
小坂
町に属する地区に、 荒谷青年団、 万谷青年団、 上川原青年団,(以上七滝村)、
小坂
小学校同窓会、
小坂
婦人会、
小坂
元山小学校〓会、 母の会、 濁川青年会,、 余路米青年会(以上
小坂
町)があり、 同様の活動を行なっていた。
鹿角市史 第4巻
(0456)
・
小坂
間の
小坂
軽便鉄道が開通し、 一般旅客・貨物の運輸営業を開始した。,これによって鹿角の人たちは
小坂
にでれば、 大館、 秋田、 東京まで鉄道を利用して行くことができるようになり,
小坂
に行くときに客馬車・人力車の利用者は少なく、 ほとんどは
小坂
まで歩いたという。,ただ列車を利用して盛岡に行くには、
小坂
・大館・青森・盛岡と大きく回らねばならず、 大旅行であった,、 多くの貨物は同駅まで鉄道輸送され、 そこから山元までの間約一里半は馬鉄と呼ばれた鉱山専第4図
小坂
鉄道
鹿角市史 第1巻
(0376)
これらの土器片は
小坂
X式と考えられる。,6、 その他の遺跡鹿角は地形的にみると
小坂
町も含まれなければならない。,それゆえに、 鹿角市内ばかりではなく
小坂
鉱山附近の遺跡を若干紹介することにする。,これらの研究は
小坂
町の安保彰氏によって、 米代川の支流である
小坂
川流域を中心に進められ、 遺跡の多,土器の型式は
小坂
X式と設定され、 鹿角市内から出土した土器片の多くは
小坂
X式に〓定されている。
鹿角市史 第3巻 下
(0384)
一つは
小坂
道で
小坂
鉱山ヨリ五里半」「
小坂
鉱山より藤原を経て鉛山の麓に達するものにして道路稍や嶮峻なるも,青年諸士には反て趣味あらんか」、 もう一路は「毛馬内町ヨリ六里半」の大湯道で「
小坂
鉱山停車場より毛馬内町,明治後半の標準的な観光日程は、 大館から
小坂
鉄道四二年開通営業で
小坂
に入り、 当時東洋一と称された,
小坂
鉱山を見学してのち、 いわゆる
小坂
道で十和田湖に向かい、 翌日また
小坂
へ戻ることが多かった。
鹿角市史資料編 第14集
(0057)
小坂
村一、 瀧ノ澤下モ御立林岩澤材御山守与十郎印西は畑限東は畑限北は長八林限南は岩澤ノ澤出口限杉百七拾三本小木右御林西,より東迄弐拾七間程、 北より南迄八拾間程、
小坂
川江四丁程、 川出通用并木性宜土地黒野土ニ御座候,三本目通五尺廻りより四尺廻り迄一、 拾本小木右御林西より東迄弐拾弐間程、 北より南迄五拾間程、
小坂
川江四丁程,一、 安右衛門畑ノ下長根御立林
小坂
村御林守角助印西は長根限東は左部長根間ノ澤限北は小道限南は澤はぶ限杉四拾本内一,一、
小坂
村後通御立林同村御林守圓治印凸は畑限東は屋敷限北は半左衛門林限南は八幡堂限杉三拾弐本内一六本目通五尺五寸廻
鹿角市史資料編 第15集
(0057)
在江戸吉兵衛典膳毛馬内町検断甚内
小坂
村肝入甚左衛門願人毛馬内町忠八同
小坂
村甚平請人毛馬内町専助同倉助同
小坂
村留之助同甚内同半曲
鹿角市史 第3巻 下
(0572)
二三年四月一日から花輪高等女学校は県立花輪高等学校と、
小坂
高等女学校は県立
小坂
高等学校と改称し、,また八月花輪高校は定時制課程中心校として同校定時制
小坂
分校が設けられ、 普通・家庭・丁業の三科が置かれた,その後の推移一六年四月、 鹿角工業高校は
小坂
高校に統合され、 校名を
小坂
高等学校毛馬内校と称した。,なお定時制課程も
小坂
高校定時制となったが中心校は従来通り毛馬内校に置かれた。,翌二七年、
小坂
高校から独立して毛馬内高等学校と改称し、 定時制課程も同時に所管することとなった。
鹿角市史 第3巻 上
(0261)
、 市外区は毛馬内を除く毛馬内村のほか、 錦木・末広・七滝・山根・荒谷・大地・上向・大湯・草木・
小坂
地区,一五年七月一日の大湯郵便局の開設で大湯と草木は大湯局に組替えされ、 一七年七月には
小坂
局の開始で
小坂
村,・上向村が
小坂
局に組替えされている。,その後
小坂
局は二二年三月三〇日に一旦廃止され、 二三年四月一日に
小坂
鉱山郵便局が開設されるが、 この,間一年間は
小坂
村に郵便局がなく、 その配達は毛馬内郵便局が行なった。
鹿角市史資料編 第31集
(0124)
左次右衛門百文青山吉郎兵衛御肴一折馬渕貫右衛門殿御樽壱ツ御肝入忠右衛門御肴一折一御樽石田軍太殿御肴一折御樽御山見ノ惣兵衛御肴一折百文
小坂
村弥左衛門百文黒沢安左衛門殿百文田口和多右衛門殿一百文瀬田石市蔵百文
小坂
御山見弥平太円百文
小坂
,ノ甚左衛門一百文岩沢ノ平蔵「百文松山ノ太郎左衛門一百文同村六助一御樽肴立山市内殿弐百文
小坂
村肝入半右衛門殿一弐百文
小坂
村肝入半右衛門殿一五十文同村勘右衛
鹿角市史 第2巻 下
(0290)
、 高百拾弐石弐斗壱升弐合本本高高百石に付八十五匁内一、 六拾弐石七斗九升六合
小坂
〓
小坂
村石ハ皆無,以上天保四年巳十一月地主毛馬内町九郎兵街地主毛馬内町九郎兵衛組頭
小坂
村十兵衛同毛馬内村丑之助大地村肝入勘五郎毛馬内村同佐助
小坂
村同小笠原半七村瀬周作様中嶋良平様家文書
鹿角市史 第1巻
(0371)
北秋田郡作坂遺跡・湯車遺跡・
小坂
町堀切沢・大谷地・火薬庫敷地・貯水池西側遺跡などから出土している。,弥生時代の後期に位置し、
小坂
町内ノ岱・大谷地・尾樽部・カラミ山および鹿角市内各所から出土している。,後北c式土器
小坂
X式と同時期、 もしくは若干新しい時代に位置する。,県内では
小坂
町・曙岱遺跡から出土している。,によって県北を中心に研究が進められ、 とくに
小坂
町では弥生
鹿角市史 第3巻 上
(0413)
また四〇年一一月に秋田銀行
小坂
出張所の開設をみた。,当時
小坂
鉱山は合名会社藤田組一資本金六〇〇万円)経営のもと、 事務所本館の建設三一年新築)、
小坂
鉄道建設一四一年開通,(匹〇・・一
小坂
鉱山は鉱業として全く完全し東洋第一の鉱山として世界に恥じざるは論なく、 人口として(,第48表明治40・41年の秋田銀行
小坂
支店の業績(1)預貸金残高(2)為替取扱高
鹿角市史 第2巻 上
(0337)
その主な地帯は
小坂
新遠部山・古遠部山一帯である。,私記』
小坂
遠辺山(両遠部山)が藩内有数の杉材生産地帯として、 藩御用木の伐出や山師商人の買付が盛んであったことは,○正保四年極月四日条○慶安元年六月晦日条○同年七月朔日条○同三年九月一〇日条一、 津軽境鹿角
小坂
山遠辺,一、 綿屋喜兵衛鹿角
小坂
前平山遠辺四ケ所之御山ニて臥木三百本御礼金五枚之御運上ニて下され度しと訴状上,一、 名久井御仮屋入用之材木三百七拾枚杉板弐拾五丁杉打割壱万枚長柾右之通鹿角
小坂
へ仰付けらる。
鹿角市史 第3巻 下
(0328)
〓起き、 これと呼応して日本農民組合
小坂
支部が結成され、 一五年いわゆる竹槍事件に発展した。,
小坂
鉱山の煙害賠償要求問題につき鉱山側では、 農民側の要求なる五ケ年間損害の全額前拂ひはいろいろの弊害,
小坂
鉱山の既往五ヶ年間の煙害賠償前拂ひ額の五万八千円は本年で切れるので、 過日来小作農民組合では本年度,の損害を調査中であるが、
小坂
町、 七瀧村を中心とし五ケ村田畑百町歩、 農民四百三十名に対しての,昭和二年一月二九日、
小坂
鉱山は前年度の煙害賠償額を総額六万七、 三六九円と発表した。
鹿角市史 第3巻 下
(0165)
小坂
警察署明治四三年四月に設置された花輪警察署
小坂
分署は、 大正一五年六月
小坂
警察署となった。,が遅延するなどの不便さからであった鹿角時報、 昭一〇・二・二一付その後、 郡町村会でも一二年六月
小坂
警察署新設,なお、
小坂
警察署新設のころの警察官等の配置は次のようであった。
鹿角市史 第2巻 下
(0358)
藩政の初期には、 鹿角
小坂
にも番所の置かれていたことを示す史料がある。,『雑書』慶安四年(一六五一)一一月九日条「安ケ平助次郎鹿角
小坂
御目付仰付けられ遣わさる、 小保内与五右衛門代,」、 同じく同年三月二五日条「小保内与五右衛門鹿角
小坂
御番代り遣わし候ニ付て今日帰ル」とあるのを始め,、 承應三年(一六五四)三月一二日条「鹿角
小坂
御番飯巻清丞申付ル、 安平助次郎代り」とみえる。,、 同濁川、 同熊沢」と、
小坂
と濁川を別個に掲げている。
鹿角市史 第3巻 上
(0221)
四二年第三回通常総会出席者は、 米山彦郎、 林忠蔵(
小坂
)、 梅津清治、 舟越三郎(掲)、,四三年六月県医師会一四一年八月三〇日創立第三回総会が
小坂
鉱山事務所で開かれ、
小坂
病院見学ののち
小坂
小学校
鹿角市史資料編 第5集
(0142)
小坂
村鏡得寺一、 禅宗、 禅宗工藤弥次左衛門松之助女房源七女房弥助女房丑太女房権兵衛女房圓次た祢〆,門様へ由上候而大地村肝煎清左衛門より此方へ肝煎忠助へ拂相立宗門書上什候以上天明六年午四月廿五日、
小坂
村御百姓七太郎与十郎卯太郎此度百姓被下置御代官三浦平之水様御勤中之節被仰付御同役大須賀仲太様御下役勝又所左衛門様
小坂
御蔵入高廿五石去己年御石高被仰付右江百姓被下置右者共細越村御座候,ヘハ
小坂
村被仰付候以上午四月廿五日天明六年午五月廿一日一、
小坂
村百姓共歳二郎卯太郎与十郎右三人今日肝煎半左衛門同道
鹿角市史 第1巻
(0115)
河〓の礫層の上にのり、
小坂
火山灰、 または鳥越火山灰におおわれる。,
小坂
火山灰層鹿角における第四紀火山灰の中で、 最も古いといわれている。,
小坂
町で
小坂
川をはさんで両岸の段丘構成層として分布する。,これと重鉱物組成の類似したものが
小坂
東方の曙台から牛馬長根の丘陵に見られるが、 その関係は不明である
鹿角市史資料編 第30集
(0005)
点で、 わずか数項目ながら
小坂
銀山開発当初の記事に注目したい。,○慶応二年五月毛馬内通
小坂
村銀山、 御国益所御手行ニ成サルル旨仰出ラル。,但銀山働方ノ儀ハ是迄ノ通請負ノ者ニテ御取計申ス可ク候○慶応三年二月毛馬内通
小坂
村銀山へ此度高炉御築立ニ,へ六割増ニシテ賃銭下シ置カレル○同年四月玄米二百駄、
小坂
銀山御入用米時相場ヲ以テ御買入仰付ケラル。,ヲ以テ御救ノため御手当銭御国益御用所ヨリ下シ置カレル○明治二年二月
小坂
銀山働方御手山御銘儀ヲ以テ
小坂
村与作甚左工門願上去
鹿角市史 第3巻 下
(0584)
すでに二九年八月に七滝村に対し
小坂
町より合併の申し入れがあり、 七滝村では九月、
小坂
町との合併か,しかし三〇年一月四カ町村合併案が崩れたため、 二月再び三カ町村合併か、
小坂
町合併かを問う住民投票,を行い、 その結果
小坂
町との合併多数を確認したことであった。,二月一五日七滝村長より
小坂
町長へ、
小坂
町との合併を希望するとの回答を行った。
鹿角市史 第3巻 下
(0091)
天正一三年一〇月七日煙害のため収穫皆無に近かった
小坂
町細越の農民老若男女一〇〇余名が日本農民組合盟東同盟本部川俣清音,一一月下旬、 さらに中央から可児義雄、 加藤勘十らも参加し、 日本農民組合
小坂
支部が結成された。,鉱山の争議団は、 交誠会とは別に日本鉱夫組合
小坂
支部を結成して罷業に入っていた。,争議は長びき、 争議団は
小坂
農民組合から資金や食糧の援助をうけ、 とくに三月二〇日争議団と会社側警戒夫,との衝突に際して、 竹槍、 鎌、 鍬をもって武装した
小坂
農民が応援に加わり、 ついに流血事件に
鹿角市史 第3巻 下
(0327)
小坂
煙害賠償
小坂
鉱山の煙害問題について、 はじめ毛馬内町の被害農民・地主たちは
小坂
鉱煙毒除害期成同盟会,大正四年通常県会に掟出された「
小坂
鉱山煙害除毒工事の施設命令を
小坂
鉱山に発令せられ度件」の意見書は満場一致,大正期後半、 鉱業界不振のため縮小をつづけた
小坂
鉱山も、 同一二年銅価の騰貴にともない転炉を増設するおど
鹿角市史 第3巻 上
(0374)
毛馬内もまた
小坂
鉱山の発展を背景に、 郡北部一帯の農村部をかかえ、 独自の商圏を作っていた。,花輪一七二、 毛馬内一〇九、 現小大湯五六、 宮川二八、 尾去沢二七、 錦木二四、
小坂
一九,
小坂
)を別にすると、 大湯が花坂町輪・毛馬内に次ぐ商店街を形成していたことがわかる。,商業人口統計一前掲郡統計要費)によると、 商業戸口一、 〇一八戸中、 花輪二七三、 毛馬内二五一
小坂
二四九,
小坂
はいずれも花輪・毛馬内と肩を並べているが、 明治後期に急速に発展した
小坂
鉱山の存在によるもので、
鹿角市史 第4巻
(0458)
毛馬内町からは離れていたが、 当時の毛馬内駅は不老倉鉱山、 大湯温泉、 十和田湖、
小坂
、,また毛馬内を起点に大湯を経て三戸・八戸に至る来満鉄道(三戸鉄道)の計画や、
小坂
鉱山への資材・鉱石運搬,のため
小坂
まで延長する案などもあり、 ことに毛馬内・
小坂
間は工事施行を認可されたが、 実現することなく
鹿角市史資料編 第14集
(0114)
右御場所西より東迄四拾五間程、 北より南迄九拾五間程、
小坂
川汀四拾間程、 川出通用并木性土地共,右御場所西より東迄七拾間程、 北より南迄弐百間程、
小坂
川江六丁程、 川出通用并木性土地共前同断,右御場所西より東迄五拾七間程、 北より南迄八拾五間程、
小坂
川汀弐丁程、 川出通用并木性土地共ニ,右御場所西より東迄三拾五間程、 北より南迄八拾間程、
小坂
川江四丁程、 川出通用并木性土地共ニ前同断,此反別九反三畝五歩同村御山之内、 左部長根と申所
小坂
村願人作兵衛印西は沢限東は山根道限北は畑限南は畑限杉弐千拾四本内一
鹿角市史資料編 第14集
(0117)
右御場所西より東迄弐拾八間程、 北より南迄弐拾五間程、
小坂
川江弐丁程、 川出通用并木性土地共ニ,右御場所西より東迄拾三間程、 北より南迄拾弐間程、
小坂
川江壱丁程、 川出通用并木性土地共ニ前同断,此反別五畝歩同村御山之内一、 毘沙門と申所
小坂
村願人弥左衛門印西は畑限東は屋敷限北は山道限南は山道限杉弐百三拾壱本内一,右御場所西より東迄三拾弐間程、 北より南迄百三拾間程、
小坂
川汀五丁程、 川出通用并木性土地共ニ,右御場所西より東迄六拾間程、 北より南迄三拾間程、
小坂
川江七丁程、 川出通用并木性土地共ニ前同断
鹿角市史資料編 第14集
(0058)
弐尺廻迄一、 四拾本小木罘壱本目通弐尺五寸廻り右御林西より東迄弐拾五間程、 北より南迄三拾五間程、
小坂
川江五丁程,半七林限杉拾九本目通五尺廻より三尺五寸廻迄桂弐本目通四尺廻右御林西より東迄五拾間程、 北より南迄五拾五間程、
小坂
川江五丁程,壱尺五寸廻迄一、 五拾五本小木柴壱本目通三尺廻右御林西より東迄弐拾九間程、 北より南迄五拾五間程、
小坂
川江五丁程,七拾五本小木松弐本目通四尺廻より三尺廻迄右御林西より東迄三拾五間程、 北より南迄五拾五間程、
小坂
川江六丁程,八拾九本小木桂壱本目通壱尺廻槻三本目通弐尺五寸廻より弐尺廻迄右御林西より東迄九拾間程、 北より南迄七拾五間程、
小坂
川江弐丁程
鹿角市史資料編 第14集
(0118)
右御場所西より東迄弐拾三間程、 北より南迄百三拾間程、
小坂
川江六丁程、 川出通用并木性土地共ニ,右御場所西より東迄拾五間程、 北より南迄四拾五間程、
小坂
川江七丁程、 川出通用并木性土地共ニ前同断,此反別弐反弐畝五歩同村御山之内一、
小坂
村後通御林同・同人西は畑限東は屋敷限北は吉祥院林限南は山道限杉弐百拾九本内一,右御場所西より東迄四拾弐間程、 北より南迄七拾弐間程、
小坂
川江五丁程、 川出通用并木性土地共ニ,右御場所西より東迄四拾間程、 北より南迄拾間程、
小坂
川江九丁程川出通用并木性土地共ニ前同断。
鹿角市史資料編 第14集
(0121)
此反別廿町八反歩同村御山之内一、 館の澤と申所
小坂
村願人七蔵印西は畑限東は峯限北は畑限南は畑限杉百五拾本小木但天保二年杉百五拾本,右御場所西より東迄弐拾間程、 北より南迄拾五間程、
小坂
川江拾壱丁程、 川出通用不宜木性土地共宜敷御座候,右御場所西より東迄拾五間程、 北より南迄拾八間程、
小坂
川江三丁程、 川出通用并木性宜敷土地黒野土,右御場所西より東迄拾五間程、 北より南迄三拾間程、
小坂
川江壱丁程、 川出通用并木性土地共前同断,此反別壱反五畝歩同村御山之内、 館ノ沢と申所
小坂
村願人金十郎印西は小澤限東は畑限北は小道限南ははぶ限杉弐百本小木但天保二年杉弐百本
鹿角市史 第5巻
(0308)
和歴(西暦)明治四二(一九〇九)一 般 的 事 項一月
小坂
鉄道株式会社設立二月 本県消防組規則施行細則,を定める四月県火災予防組合規則を公布す五月 私鉄
小坂
鉄道開通同七月月県立大館中学校焼失理髪営業取締規則定,秋田魁新報七·二八新聞記者遊覧団一行、
小坂
·毛馬内を経て大湯九 ·一泊,、 二九日·三〇日十和田湖遊覧の上同地二泊、 三一日
小坂
一泊ののち鹿角を離れる。,正教会信者数一四三名と報告す秋田県庁文書同九·一三鹿角郡長、 毛馬内町長、 七滝村長、
小坂
鉱山側
鹿角市史 第3巻 下
(0587)
のうらに、 十和田湖を傘下におさめて名実ともに十和田町にしたいというつよい希望のあることを察知した
小坂
町,この分町問題について、 三月三〇日県知事より町村合併調整委員の調停に付する旨の通知があり、
小坂
町,から一〇月に入って調停受諾の回答をし、 同一〇日に県知事より
小坂
町選挙管理委員会に対する投票請求、,十和田湖畔をめぐる紛争は、 十和田町・
小坂
町とのはげしい綱引の末、 湖畔は
小坂
町区域にとどまることで
鹿角市史 第3巻 上
(0472)
付、 真金山金山官営真金山〓明治六年二〇月、 工部省は、 前々年)の
小坂
銀山・十和田銀山官営につづいて,
小坂
や大葛の官営はいずれもイギリス人ゴッドフレーの鉱山調査に基いて行われた。,一〇年、 官制改正によって大葛支所は廃止され、 一時
小坂
分局の所管に移された。,一〇年五月、 旧盛岡藩主南部利恭は
小坂
・大葛一真金山を含む鉱山の一五カ年間貸下げを願出て、 許可された,同年一二月南部家は資金繰りの事情からか、 鉱業会社岡田平馬に
小坂
・大葛の資金調達と製出金銀銅の販売方
鹿角市史 第3巻 上
(0395)
それは
小坂
鉱山の新製錬所の建設が、 三三年に着手されたことと関連がある。,
小坂
の大熔鉱炉は当時世界第一等ともよばれ、 三五年に本格操業を開始した。,三〇年三月に『
小坂
藤田組からの
小坂
村尾樽部の粘土払下願があることからしても、 煉瓦製造はこの時期から,
小坂
を中心町史』に盛んになったとみられる。
鹿角市史 第1巻
(0323)
〓草木
小坂
遺跡(鹿角大規模農道・秋田県教育委員会)(所在地〉鹿角市十和田草木字
小坂
九の(遺跡概況>,草木
小坂
遺跡出土土器
鹿角市史 第3巻 下
(0078)
小坂
の第一回争議解決のあと、 争議中に生まれた労働会を解散し、 最初の労働組合である
小坂
鉱山協同交誠会,新聞記事によれば、
小坂
鉱山は九年七月坑夫五〇〇名を解雇し、 翌八月には上級役員二六名並に医員、,同年一二月の新聞記事では、 不景気時代に入って鉱山の受けた打撃は諸工場のそれよりも強く、 一一月になって
小坂
鉱山三七八名
鹿角市史資料編 第32集
(0036)
よりふなの木平迄ノ内草刈場出入ノ儀亀田右三ケ所
小坂
御百姓共より荒川村万や村右三ケ村入合可仕旨、 荒川村
小坂
村入合二草刈候様,より大地村領付ノ様ニ承罷有候、 子細ハ古来より取次差上候願書大地領亀田山と数度申出候、 然訴二此度
小坂
村領付,被仰付筋承候て以後取次可申旨、 安左衛門へ再三申談候へハ安左衛門被申候ハ左様ニテハ御用置成、 其上大地村
小坂
村各,末々各御無念ニハ罷成候ハゝ拙者罷出可申披候、 其上拙者方より各へ書付相出シ、 尤各より被仰上候義ハ
小坂
村荒川村,六〇奉御内見入候覚
小坂
山本内沢頭より袈裟懸坂迄ノ間ニ張番五ケ所先年被仰付候故、 若御境越候砌其人しれ
鹿角市史 第3巻 上
(0507)
し、 盈岡鉱山監督局より中嶋藤右衛門へ鉱業特許證書換許可となったのは、 三三年八月のことであった
小坂
鉱山,では、 二〇年代に入って黒鉱処理の研究が懸命に続けられ、 二九年には亜鉛雷大湯村と
小坂
鉱山錬設備が,この水力電気は、 わが国の鉱山にあっては足尾銅山に次ぐ早いもので、 かつ
小坂
の操業近代化への画期的,
小坂
は着々と鉱山の電化を進め、 三五年の電気ポンプによる坑内排水、 竪坑の電気巻揚機、 電動空気圧縮機,銚子発電所に次いで四マ・三四年三月、
小坂
・扇平間〓)に発電所建設用の索道を架設する。
鹿角市史 第3巻 上
(0458)
病没し不遇(字古米沢萬陸の少年時代を送ったが、 明治一五年柴内小学校助訓となり、 翌一六年に工部省
小坂
鉱山寮事務見習,この年は
小坂
銀山の第二次官営とよばれた最終の年で、 一七年
小坂
は大阪藤田組に払下げられている。,
小坂
銀山は慶応以降に開かれた新しい山であり、 当時大島高任によるドイツ人技師クルト・ネットーの招聘や,一九年技長に赴任してきた工学士仙石亮
小坂
初代所長のち工学博士)について数学・物理・化学・英語その他の新知識
鹿角市史 第1巻
(0231)
花輪字八幡平〓・〓〃花輪字新斗前〓〃花輪字万谷野〓続縄文土器片弥生弥生続縄文土器片弥生弥生続縄文式・
小坂
,x式続縄文土器片弥生土器片(田舎館式弥生弥生弥生式土器片
小坂
x式弥生式土器弥生式土器片
小坂
X式続縄文弥生続縄文土器片弥生
鹿角市史 第1巻
(0380)
8秋田さきがけ新聞・昭五六年十一月十二日版9・〓伊藤玄之『日本の考古学』(弥生時代)昭四八〓安保彰『
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,昭五七〓『鹿角市新斗米館跡第〓次発掘調査報告書』昭五六鹿角市教育委員会〓奥山潤・安保彰「十和田湖西南部(
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鉱山,後続形態(上)」『考古学雑誌』〓-2・3昭三八※注1~〓までの内容は、 奥山潤・安保彰論文、 及び『
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鹿角市史資料編 第13集
(0035)
先
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村へ罷越休足、 夫より
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村之者共斗御先立尾樽部家ノ下へ罷越、 夫より赤坂ト申処より内野平へ,砂子沢御立林際へ登、 春木沢頭通り罷出、 夫より下り古銅山之辺へ罷越、 尾鎌部沢へ下り、 同晩
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村一宿也一,、 七月朔日
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村宿迄毛馬内検断弥右衛門、 肝入五郎兵衛、 万谷肝入弥三治、 荒川肝入菊助并荒川村万谷村牛馬長根村子坂村御百姓共相詰,、 当日ハ
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村之者共相除キ前書五ケ村之者共斗御先立、 尾鎌部家ノ下タへ廻、 夫より段々野月平、
鹿角市史 第3巻 下
(0617)
合同協議会がもたれ、 各町村九月定例議会に市実現の合併協議会設置を提案するか否かの協議の席上、 木村
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町長,その後開会された
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町議会においても、 不参加の意志表明決議をあげ態度を決定した。,この年一二月、 鹿角市実現問題の打開をはかるため、 四カ町村長と議長は
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町を訪れ、 同町長・議長,世論そのものも大きな高まりをみせつつあった〓年三月定例議会において八幡平関村長は、 どうしても
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町,の協力を得られなければ、 四ヵ町村で合併しそののち
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町との段階合併も考えられる、 行政施策が経済発展
鹿角市史 第3巻 上
(0337)
鹿角郡長河野隆性の一〇月一二日付県知事宛「
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鉱山烟害に関スル報告書」『
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町史』所収には、 各町村,その内七滝村の芦名沢部落は、 被害調査から除外された結果、 一〇月七日部落民一〇〇名ばかりが
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鉱山事務所,四二年に入ると、 一月政友会吉植庄一郎・戸狩権之助両代議士の
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鉱山煙毒調査をはじめ、 農商務省による,
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鉱山附近に五ケ所の稲田試作地設置があり、 九月押川農商務次官の鉱山視察などが相ついだ。
鹿角市史 第3巻 上
(0020)
大湯町に造られた
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鉱山の発電所銚子発電所(第1発電所として明治30年に運転開始する)止滝発電所(第2,発電所・明治35年開始大湯発電所(第4発電所・明治41年開始)(明治36年・藤田組「
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鉱山写真帳」、
鹿角市史資料編 第14集
(0107)
壱尺廻迄雑木弐百本目通壱尺五寸廻より壱尺廻迄右御場所西より東迄七拾間程、 北より南迄百七拾間程、
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川江弐丁程,三百本目通壱尺五寸廻より壱尺廻迄一、 七百本小木右御場所西より東迄六拾五間程、 北より南迄百三拾間程、
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川汀半町程,忠平林限南は小笠原半右衛門植立限杉三百本小木右御場所西より東迄四拾間程、 北より南迄六拾間程、
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川江七丁程,峯限東は峯限北は沢出口限南は峯限杉三百本小木右御場所西より東迄三拾間程、 北より南迄八拾間程、
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川江弐丁程
鹿角市史資料編 第14集
(0153)
右御場所西より東迄拾五間程、 北より南迄五拾間程、
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川江三丁程、 川出通用并木性土地共ニ前同断,拾本目通壱尺五寸廻り一、 九拾本小木松壱本目通三尺廻り右御場所西より東迄弐拾間程、 北より南迄三拾五間程、
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川江三丁程,りより壱尺五寸廻り迄一、 五拾本小木桂百本小木右御場所西より東迄拾七間程、 北より南迄弐拾間程、
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川江弐丁程,壱本目通壱尺五寸廻り一、 四拾六本小木栗拾本小木右御場所西より東迄三拾間程、 北より南迄拾五間程、
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川江弐下程
鹿角市史 第3巻 上
(0382)
四一年六月一二日、 花輪の商店が郡長及び毛馬内・
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からも来賓を招いて聯合店会を開き、 売出しについて,鹿角の市鹿角の市は、 藩政時代から花輪、 毛馬内、 そして大湯、
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が主なものであ第〓表鹿角,また
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の一六・一七日のように、 鉱山の賃金の支払日に合わせた市立てもあった。,影響は市の存続にも関わる程大きく、 例えば一二年の調査では大湯市がなく、 松山市が花輪・毛馬内・
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鹿角市史 第1巻
(0369)
秋田県では秋田市四ツ小屋小阿地と、
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町内から出土している。,ただし
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町発見のものは欠損している位置が悪く不宗全なもので、 確実に石庖丁といえるかどうか疑問視されている,田舎館併行型式土器(青森県弘前市郊外田舎館遺跡出土三、 天王山併行型式土器(福島県白河市天王山遺跡出土)四、
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,X式土器(
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町出土羽状撚糸文土器五、 後北c式土器(北海道の中心部に最も濃く分布している土器群に分類
鹿角市史 第2巻 上
(0611)
一、 同
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ノ内鍋久保鉛山文化十年二月見立願人毛馬内町六右衛門。,一、 同杉原鉛山文政十二年六月願人
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村多左衛門。,一、 毛馬内通御境附兎尻鉛山文政六年五月見立
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村忠平、 西ノ又沢と申す処鉛躰模様至て宜キ也右の鉛山
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