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鹿角市史 第5巻
(0489)
· 1~3 2上722 3上443 →
尾去
沢川口家文書
尾去
沢鉱山山史3上409 3下108,· 284 · 296
尾去
沢御銅山附社地神木書上帳(関フミ家文書) 2下400
尾去
沢御銅山附社地大書書上帳,2下367
尾去
沢御銅山…御勘定下帳3上362
尾去
沢 · 白根鉱山史 麓三郎 2上193·,3上561· 564
尾去
沢大日山神宮記2下423
尾去
沢銅山開坑原由2上613
尾去
沢銅山御見分諸御用控帳,2上694 · 708
尾去
沢銅山据附諸器械明細書3上384
尾去
沢郵便局沿革史3下150おしら
鹿角市史 第3巻 上
(0449)
注〓、 村井文書、 麓三郎『
尾去
沢・白根鉱山史』三三二ページ。,注〓、 村井文書、 『
尾去
沢・白根鉱山史』三三五ページ。,注〓、 前掲「
尾去
沢銅山事件」、 『日本政治裁判史録』三二四ページ。,注〓、 内田文書「雑要録」、 『
尾去
沢・白根鉱山史』三四九ページ。,注〓、 前掲『
尾去
沢・白根鉱山史』三六二ページ。
鹿角市史 第2巻 上
(0034)
第四章鹿角の鉱山【写真・図】第1図白根金山跡遠望…四三一第2図西道金山跡…四三六第3図延宝期、
尾去
沢,水路石垣…五三〇第5図立石・駒木銅山図…五六一第6図銅山行方御用目録…五九六第7図日の丸の船印六二八第8図
尾去
沢銅山三沢銑通,六三四第9図真金山金山略絵図……六八第〓図細地銅山図………六八三第〓図箇方と木札…六八七第〓図鹿沢(「
尾去
沢御銅山図,…六六三弟3表
尾去
沢銅山諸役方人数及び給与…六九五第4表
尾去
沢銅山三山本番及び金工働人数・給与…:七〇,一第5表
尾去
沢銅山坑外諸働人数及び給与…七〇五表見返し「白根金山図」(『
尾去
沢・白根鉱山史」から)畏見返
鹿角市史 第1巻
(0229)
花輪字赤坂〓の内〃花輪字赤坂〓の内花輪字百合沢〃花輪字百合沢花輪字赤坂花輪字赤坂花輪字赤坂花輪字甘蕗
尾去
沢字六角平
尾去
沢字東在家,〓
尾去
沢字
尾去
〓・〓
尾去
沢字
尾去
〓・〓の2
尾去
沢字
尾去
〓
尾去
沢字前門川端〓-〓八幡平字後口田〓八幡平字岩淵
鹿角市史 第3巻 上
(0012)
尾去
沢鉱山
尾去
沢鉱山精錬所(大正2年「鹿角郡案内」から明治40年前後の
尾去
沢鉱山(明治41年「東宮行啓記念写真帳,
尾去
沢鉱山廻焼爐(明治36年設置)(大正2年「鹿角郡案内」から
鹿角市史 第4巻
(0231)
昭和三十九年
尾去
沢鉱山発行「鉱山のしおり」によると、 明和二年(一七六五)白根・不老倉等が休山し、,従業者は
尾去
沢の元山・田郡・赤沢等に移転したという。,また寛政六年(一七九四)にも鉱夫が白根・不老倉から
尾去
沢に移っている(盛岡藩「雑書』明治期に再興し隆盛,した不老倉鉱山は昭和二年に休山したが、 従業員は
尾去
沢、 小坂、 北海道、 関東方面の鉱山へ移動,
尾去
沢の職場転換仙北郡
尾去
沢鉱山には、 昭和十五年十一月閉山した
尾去
沢と同系列の荒川鉱山()の従協和町新潟業員
鹿角市史 第3巻 下
(0600)
会社は三九年九月、
尾去
沢製錬所の従来月間一、 四〇〇トン処理体制を七〇〇トンに半減し、 九〇名,を企業内に配転、 できるだけ早い機会に
尾去
沢製錬所を廃止する等の合理化案を労働組合に提示した。,に切り替えるとし、 四一年月以降
尾去
沢および古遠部の精鉱を小名浜送りとする旨の申入れを行った。,この
尾去
沢製錬所廃止問題は、 地域にも大きな波紋をひろげ、 一一月
尾去
沢町議会は廃止対策特別委員会,(「
尾去
沢鉱業所概要」より)
鹿角市史 第2巻 上
(0619)
尾去
沢銅山という名称は、 右に「
尾去
沢御銅山ノ内」とある如く、 初めに
尾去
沢という単独の銅山が存在,したのではなく、
尾去
沢三沢と後年よばれる田郡沢、 元山沢、 赤沢などの各山を網羅する広い地域の,
尾去
沢銅山の始まりといわれる寛文六年(一六六六)の頃、 この地域の中心はなお西道にあった。,『雑書』同年三月一日条に「鹿角
尾去
沢銅山奉行大矢三右衛門仰付けらる」とあるのが
尾去
沢の初見と思われるが,、 その
尾去
沢はどの範囲をさしていたのであろうか。
鹿角市史 第4巻
(0090)
〔
尾去
沢地区〕
尾去
沢は明治二十二年、
尾去
村・
尾去
沢鉱山・三ッ矢沢村が合併し
尾去
沢村となり、 鉱山,
尾去
沢鉱山は、 慶長四年(一五九九)五十枚金山、 同七年西道金山などの発見に始まり、 寛文年間に,
尾去
沢鉱山の発展は、 東に米代川をはさんで隣接する花輪の商工業の降盛にも大きく影響していた。,その後は旧坑道を活用した観光化が図られ、 同五十七年以来、 マインランド
尾去
沢として再生している。
鹿角市史 第3巻 上
(0013)
絵巻物「
尾去
沢鉱山作業之図」(明治初期)・
尾去
沢鉱山
尾去
沢鉱山株式会社蔵義之〓呼流門之〓内操〓之〓
鹿角市史 第2巻 上
(0468)
尾去
沢発見伝説
尾去
沢銅山は寛文六年(一六六六)の田郡沢銅山見立と、 それに続く元山沢、 赤沢の銅〓,
尾去
沢銅山とはこれら三沢を中心とし、 その他地続きの沢々の稼行場を総称しての呼び名であった。,と記されているので、
尾去
三光院海沼家の先祖の筆に成ったものと思われる。,近世
尾去
慈顕院は、 毛馬内不動院、 柴内大蔵院とともに、 鹿角羽黒派=伏三頭襟頭の一人であった。,「抑奥州南部鹿角郡
尾去
村の奥に大森と申す山あり」という書出しに始まる内容はおおよそ次の通りである。
鹿角市史 第1巻
(0021)
日
尾去
沢鉱山坑道▲上へ上へと掘り上げていった坑道▲黒色泥岩の中を走る鉱脈火成岩
尾去
沢鉱山地質鉱床断面図,(鈴木勝見作成1982)▲上へのびる鉱脈昭和57年5月「マインランド
尾去
沢」として公開される。
鹿角市史 第3巻 上
(0266)
一番花輪町役場一番花輪町役場一二番石木田小太郎二二番山崎乙治(山久)三番安田銀行二番安田銀行一三番田中伝吉二三番関善次郎「甲
尾去
沢村役場四番,〔甲
尾去
沢村役場一四番大里周蔵二四番工藤治六乙鉱山石木田支店一五番石木田新太郎二五番岩手屋(料理屋)乙鉱山石木田支店一五番石木田新太郎二五番岩手屋,(料理屋)〓番花輪税務所一六番栗山文次郎二六番柏田医院六番鹿角電燈会社一七番
尾去
沢鉱山ホテル二七番花月亘七番花輪小学校一八番,)二八番浅利佐助八番石井留之助(塩屋)乙広川屋(")二九番高瀬旅館(恒造九番管原庄助一九番
尾去
沢鉱山販売所一,〇番
尾去
沢鉱山二〇番花輪警察異その後、 五年四月一日毛馬内局、 一二年二月一日大湯局と広がっていき
鹿角市史 第3巻 上
(0054)
鹿角郡花輪町の図」(裏)「鹿角郡大湯温泉の図蓑虫山人全国周遊絵日記(秋田編)から【口絵写真】明治五年
尾去
沢鉱山,石明治六年毛馬内村絵図(部分)その一…2円〃その一…明治六年大湯村絵図(部分)その一…一〇その二…明治四十年前後の
尾去
沢鉱山,…一一
尾去
沢鉱山精錬所一一
尾去
沢鉱山廻焼爐(明治三六年設置)…一一絵巻物「
尾去
沢鉱山作業之図」(明治初期,)…一一
尾去
沢鉱山碇発電所(明治四四年五月運転開始)…一一
尾去
沢鉱山永田発電所設置と同型の発電機…不老倉鉱山
鹿角市史 第3巻 上
(0440)
月一日
尾去
沢滞在中に井上の名で「今般当山の全権を掌握したので、 槻本幸八郎へ目代を申付け在山する様申渡,を解き、 岡田一手の鉱業に更めることにした」とあることからも、 五、 六年当時の
尾去
沢の運営状況,七年一月岡田平蔵は大阪で没し、 義弟岡田平馬が継いで
尾去
沢の経営に当った。,一二年二月秋田県令石田英吉宛「
尾去
沢銅山坑区券御書換済御届」に上ると、
尾去
沢銅山稼行を以て鉱業会社設立,一〇年一月
尾去
沢銅山の営業貪本として大蔵省国債局より五万円拝借することを出願した。
鹿角市史 第3巻 下
(0023)
諏訪霊泉画「溪山無盡之図」(大里氏蔵)奈良清四郎画「夏の八幡平」(大館市・中田氏所蔵)高柊洋介画「曉の漁」(
尾去
沢公民館蔵,(
尾去
沢公民館蔵)中村直一画「奥入瀬」(十和田公民館蔵)奈良祐功画「朝市」(
尾去
沢鉱山クラブ蔵)
鹿角市史 第3巻 上
(0429)
第二節
尾去
沢鉱山をめぐる紛争一、
尾去
沢銅山事件悲運の道明治維新の変革は、 ついに
尾去
沢銅山をもその,すなわち明治元茂兵衛(午から
尾去
沢銅山の経営を藩から委任され、 不況のなかを鋭意山勢の維持に努めていた,四年九月破産に至らしめ、 銅山をも五年三月大蔵省財産として没収してしまうことになった、 いわゆる
尾去
沢銅山官没事件,そもそも盛岡藩が鍵屋茂兵衛に対して
尾去
沢銅山の経営権を移譲したのは、 初めから意図的なものであった。
鹿角市史 第3巻 下
(0349)
同二年頃から
尾去
沢鉱山山許と土深井の間に、 馬車軌道が敷設された。,同四年一二月秋田鉄道は土深井までのびてきて、
尾去
沢駅を開業したので、 多くの貨物は
尾去
沢駅まで鉄道輸送,土深井の
尾去
沢駅には、 その後鉱山専用のホームや倉庫等が建設され、 大正一二年秋田鉄道が花輪まで開通,したのちも、 鉱山の全貨物は
尾去
沢駅を発着駅としていた。,なお
尾去
沢駅のホーム・倉庫設備や馬車軌道はそのまま残し、 大きさや重さの過大なものの輸送にもっぱら当
鹿角市史 第1巻
(0263)
鹿角市内における晩期の代表的な遺跡としては、 東在家遺跡(
尾去
沢
尾去
字東在家)、 玉内遺跡(八幡平玉内,この他に、
尾去
沢字
尾去
・十和田末広字神田・花輪字猿ケ平等でも良好な資料が出土している。,(浅石勇氏所蔵)玉内出土(海沼寿世氏所蔵)
尾去
出土
鹿角市史 第2巻 下
(0463)
大日信仰と
尾去
沢銅〓の関係は、 慶應二年(一八六六)に記された『
尾去
沢大日山神宮記』(
尾去
沢両社神社所蔵,しかし
尾去
沢銅山の山内には独立)た寺院は一カ寺もなく、 庵寺が数軒あったにすぎない。,
尾去
沢では、
尾去
村の曹洞宗長泉寺末庵である笹小屋の大慈庵や、 花輪の浄土宗円徳寺末庵である観音庵,「雑そして、
尾去
沢銅山の宗門改は、 円徳寺が行うよう藩の指示があった(書』)。
鹿角市史 第3巻 下
(0125)
尾去
沢鉱山の繁栄と不離一体の関係を保ちながら、
尾去
沢の村政は順調に堅実に発展した。,同明暗の
尾去
沢〓八月の村会は満場一致で町制施行を決議し、 県は申請により九月二九日の施行を告示した。,同年一一月三日の佳日をえらんで、
尾去
沢町制実施并びに役場新築落成祝賀式が鉱山協和館において盛大に挙行,宮城佐次郎町長は「従来
尾去
沢は政争の波紋もなく鉱山、 役場、 学校が三位一体となって平和な自治体を,建設して参りました」と述べ、 吹原弥生三鉱山長は「
尾去
沢町民の九割が
尾去
沢鉱山従業員並びにその家族でありますので
鹿角市史資料編 第26集
(0004)
盛岡藩において、 明和二年(一七六五)一〇月
尾去
沢銅山を御手山(藩直営)とし、 以来御銅山と相唱え,申す可き事」を申渡してから、 御銅山はもつぱら
尾去
沢に限っての呼称となった。,』(鍵屋茂兵衛関係書)、 『
尾去
沢銅山砒通』(原書名尾夫沢御銅山三沢並赤沢永坂崎山砒通之図)、 『,)、 「
尾去
沢銅山図」、 『=法之事』、 「
尾去
沢田郡御鋪内図」、 「
尾去
沢元山御鋪内図」、,「
尾去
沢赤沢御鋪内図」等が知られている。
鹿角市史 第5巻
(0287)
尾去
沢鉱山山史明治二六三月 度量衡器取締規則定む(一八九三)同天然痘流行により種痘普及手続を達す六月,八 ·三本郡最初の幻燈会を
尾去
沢笹小屋学校に開く。,元光庵明細帳一二 ·
尾去
沢鉱山、 東京電灯株式会社の設計による直一二 ·流二五キロワット,の薪木燃料汽力発電所を設置
尾去
沢鉱山山史三菱合資会社創立し
尾去
沢鉱山も同社経営となる。,
尾去
沢鉱山で電話交換を開始、 東北最初という。
鹿角市史 第5巻
(0390)
ブーム五月風俗営業取締法改正同日ソ両国議員団相互訪問が実現同太平洋横断海底電線敷設完成二·七
尾去
沢国定,北鹿新聞三 · 一二
尾去
沢鉱山労組第二波部分無期限ストに入る。,三 · 一九
尾去
沢労組第三波生産部門無期限ストに入る。,三·二七
尾去
沢労組正午より一斉スト突入、 約一、 〇〇○人が鉱山事務所で総決起大会を開く,四·一七
尾去
沢労組一、 九二四人一斉に無期限スト入る四·二〇県営柴平発電所起工式
鹿角市史 第2巻 上
(0754)
銅山周辺の村々のうち、 御銅山附として最も銅山と深い繋がりをもっていたのは、
尾去
村・西道口村・蟹沢村,りいわゆる「
尾去
三ケ村」であった。,)文久三年二月十六日床屋御普請ニて人足手配難渋ニ付、
尾去
三ケ村より相雇ニて壱人ニ付日雇代百廿四文いたし,炭方大炭蔵も未だ出来栄ニ至兼石鳥屋、 松館、
尾去
三ケ村より昨日迄相雇相詰申候。,○此節田郡ケ成御模様宜ニ候得共釦下け方難渋ニ付、 在方稲苅盛ニて甚迷惑ニも有之可く候得共、
尾去
三
鹿角市史 第2巻 上
(0691)
米千四百四拾駄代金九百七拾両右ハ水沢山ニて天明四年中買入米(以下水沢分は省略)一、 米四千五百駄代金弐千六百弐拾五両右ハ
尾去
沢銅山,ニて天明五年両鹿角ニて買入米一、 米六千駄代金三千五百両右ハ天明六年中
尾去
沢銅山ニて両鹿角より買米一,、 米六千駄代金弐千五百両右ハ
尾去
沢銅山ニて両鹿角より買米天明七年分ニて右ノ通り一、 米六千駄代金弐千両右,ハ
尾去
沢銅山ニて天明八年中両鹿角より買米一、 酒田米七百拾三石三斗六升駄ニ〆九百六拾四駄代金七百五拾九両也右
鹿角市史 第4巻
(0218)
必需品の配分、 衛生救護などのため多くの団体が活動に従事した動員救助団体・秋田県庁・秋田県警察部・
尾去
沢鉱山,・
尾去
沢町・
尾去
沢尋常高等小学校・花輪警察署・近隣町村消防組・近隣町村處女婦人会・関係並有志其他医療団体,鹿角北部には小坂、 南部には
尾去
沢の大規模鉱山があって、 それぞれ自山に製錬設備を持ち昼夜にわたり,
尾去
沢鉱山の煙害は
尾去
沢地内、 隣接の花輪地区・八幡平地区に及んでいた。
鹿角市史 第5巻
(0316)
この頃
尾去
沢鉱山·土深井間に馬車軌道が敷設された。,秋田県酒造史小真木鉱山の歩み鹿角郷土誌宮川郷土読本
尾去
沢鉱山山史大正四(一九一五)一月 米価調節令の公布三月,
尾去
沢鉱山焼鉱場の大改造行われ、 鉄筋コンクリート建、 移動式ポット六台、 一二トン釣起重機、,
尾去
沢鉱山山史二·三 ·立憲同志会秋田支部総会に馬渕匡次郎らが出席秋田魁新報二不老倉鉱山,
尾去
沢鉱山碇発電所第二期工事、 発電機增設。 秋田魁新報
尾去
沢鉱山山史300
鹿角市史 第2巻 上
(0005)
尾去
沢銅山の水抜・樋引図(「
尾去
沢鉱山屏風図」から)
鹿角市史 第2巻 上
(0624)
遣候證文、
尾去
沢、 田郡両所銅山、 河内屋留兵衛ニ来年子ノ五月より巳ノ四月迄五ケ年ノ日前ニ遣し,
尾去
沢銅山について前者には「西道ノ内
尾去
沢銅山」、 後者には「
尾去
沢、 田郡両所銅山」と表現されている,初めの頃西道の地名で広い地域を包括していたのが、 後には西道にかわって
尾去
沢の名で広範囲を総称するようになった
鹿角市史 第2巻 下
(0394)
である『萬延申歳両鹿角扈従日記』一八六〇・盛岡市中央公民館所蔵)に一、 仏具壱面壱通右は寛文十一年
尾去
沢御銅山御祈願所被仰付,とあり、 大日堂が寛文一一年(一六七一)に
尾去
沢銅山の祈願所とされたことが知られる。,単に
尾去
沢銅山だけではなく、 鹿角郡内の鉱山の祈願所でもあった。,
尾去
沢や白根には、 別当が直接出向いて祈祷を行うこともあった(一安倍家文書及
尾去
沢阿部家文書『あつめ
鹿角市史 第4巻
(0012)
鉱山のくらし昭和初期の
尾去
沢鉱山
尾去
沢鉱山倶楽部中沢の共和館製錬所の閉炉式
鹿角市史 第2巻 上
(0618)
三、
尾去
沢銅山〓正徳以前の
尾去
沢銅山銅山の始まり前項において、 白根をはじめ鹿角北部の銅山その他,ここでは先ず、 さきに触れなかった
尾去
沢および周辺の銅山にかかわる初期の状況についてまとめてみる。,前に掲げた藩政後期の書留といわれる『諸山開立年限附』には、 この地域の銅山として一、
尾去
沢御銅山
鹿角市史 第3巻 上
(0265)
〓十二所花輪間拾銭毛馬内大館間拾五銭毛馬内扇田間〃毛馬内十二所間拾銭毛馬内大湯間〃毛馬内
尾去
沢間〃大湯扇田間拾銭大湯十二所間,〃大湯
尾去
沢間〃大湯花輪間〃
尾去
沢花輪間五銭花輪大館間拾五銭花輪扇田間〃(発)毛馬内花輪間〃大湯大館間拾五銭,通話呼出(着)通話呼出毛馬内一七四四五-小坂八一〇一花輪一-三-
尾去
沢-一二-大湯--三-一般の家庭や
鹿角市史 第3巻 下
(0496)
円通寺の創建と庵寺の統廃合鉱山地帯である
尾去
沢には、 江戸時代からの三つの庵寺大慈庵・薬師庵・独楽庵,昭和九年七月三〇日の信徒惣代会議により大盛寺の堂宇移転新築が議決されたが、 移転先の
尾去
沢村
尾去
字中沢四番,この大盛寺の建立に当たって、 信徒などや
尾去
沢鉱山関係の寄付によるところが大きかったが、
尾去
沢町,新寺が完成して約一カ月後の一一月二〇日に
尾去
沢鉱山中沢ダムの決壊による大惨事で死者三六二名、 さら〓
鹿角市史 第4巻
(0241)
「明治三十五年頃、
尾去
沢鉱山では女子の日給は九銭、 白米一升十一銭、 食油一升四十銭であった。,その頃の様子は前記資料に「
尾去
沢主婦会の調べによると、 女の入坑者が増え若い女も、 うす着一枚になって,
尾去
沢鉱山では昭和十一年までは用度といい、 当時は主食の米だけは鉱山構所内の米倉庫で従業員に渡され、,小真木鉱山には
尾去
沢鉱山購買会の分店があった。,三十二年に花輪でテレビ放送が受像できたことに伴い、 三十五年には
尾去
沢鉱山住宅地内の家庭に、 ほかの
鹿角市史 第2巻 上
(0668)
一、 鹿角郡
尾去
沢御用銅七拾万斤、 巳ノ正月より五月廿九日迄出銅弐千弐百九拾壱箇拾壱貫匁、 左ハ,〓〓第8図
尾去
沢銅山三沢凱通の図(「
尾去
沢・白根鉱山史」から)
鹿角市史 第3巻 上
(0633)
三〇年特許銀分採収法錦木村米沢万陸二八年特許再度使用書翰袋(花輪町)栗山長治郎特許灰吹器(
尾去
沢村)青山秀治郎特許安全擢子,(
尾去
沢村)青山秀治郎三九年特許無煙カンテラ大湯村大峡隆三大湯村佐々木泰三特許文字消し炉(
尾去
沢村)青山秀治郎特許無煙万年,カンテラ(花輪町)川又善治(
尾去
沢村)青山秀治郎〓一年特許横田「サーキット・ブレーカー」毛馬内町横田正雄四二年実用新案児童用計数器四二年実用新案児童用計数器
鹿角市史 第4巻
(0786)
尾去
沢のもう一つの伝説では、 やはり神の使いの姫が鉱山のありかを教えてくれる。,あるとき
尾去
沢の近くに不思議な美しい女があらわれ、 佐藤清助という若者の家へ来て、 この山の下を掘,また
尾去
沢の一部である長坂に関し、 やはり佐藤清吉第4図近代の
尾去
沢鉱山
鹿角市史 第2巻 上
(0719)
大坂廻銅のルートほぼ時代を、 藩営に移った明和以降に限りながら、
尾去
沢御用銅にかかわる大坂廻銅の,
尾去
沢銅山は既に秋田阿仁、 伊予別子・立川とともにわが国三大銅山であり、 長崎貿易御用銅の内宝暦四年,吹屋はこの
尾去
沢銅を間吹によって再精し、 棹銅に鋳て長崎へ送った。,長崎廻銅支配人井上庄兵街長崎廻銅支配人井上庄兵衛廻銅支配人井上庄兵衛〓奥州南部
尾去
沢銅山銅正味拾弐貫目入,〓奥州南部
尾去
沢銅山銅正味拾弐貫目入御用皆掛拾弐貫七百目御用皆掛拾弐貫七百目皆掛拾弐貫七百目〓人升〓〓
鹿角市史 第3巻 上
(0439)
これら取調の底流にあったことは、 井上が以前から
尾去
沢銅山経営権の返上と岡田平蔵払下げを目論み、,世論は、 首謀者とみられる井上馨が僅か贖罪金三〇円で司直の追求を逃れた点と、
尾去
沢銅山を村井に返,二、 苦難の鉱業会社鉱業会社となる明治五年四月二〇日、
尾去
沢銅山の稼行は村井茂兵衛から岡田平蔵に,新政府の為替方であった小野組とも関係があり、
尾去
沢銅山を手を入れた後、 同じく東北各地に鉱山をもつ,また井上馨も一時期
尾去
沢の経営に深く関わっていたとみえ、 六年九
鹿角市史 第3巻 上
(0444)
三、 紛擾事件起るその発端八年、
尾去
沢鉱山は一層の経営困難に陥り、 ついに賃金の精算も米の配給,一九年、 鉱業会社は
尾去
沢売山を含めて打開策を練った。,その内容は辻は鉱業会社の負債七万円を引受けるとともに、 岡田等と組合を結んで
尾去
沢鉱山の経営に参加しかつ,この契約はやがて
尾去
沢鉱山の経営に、 三菱が参加することを予測させるものであった。,代言人佐伯剛平兀自由党員)、 小真木鉱山支配人河野幾蔵や青山金一郎らを先頭に、 小真木関係の人夫を主体とする多人数が
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沢
鹿角市史 第3巻 下
(0602)
四七年四月一日、
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沢鉱業所は三菱金属鉱業株式会社より分離、 資本金二億円をもって
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沢鉱山株式会社,三七年曲り屋鉱床を発見、 翌年四月古遠部鉱区開発事務所を
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沢鉱業所支所として統合した。,三九年より本格操業に入り、 四〇年古遠部鉱山が鉱業所に昇格、
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沢鉱業所より分離独立した。,従業員の大部分は、
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沢鉱山の社宅からバスで通勤していた。
鹿角市史 第5巻
(0293)
尾去
沢鉱山は、 旧来の日本吹法を全廃しストー鹿角郡産業調査書ル焼窯の新設と真吹法を採用した。,
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沢鉱山山史明治三一(一八九八)一月 公立学校に学校医を置同く旨の勅令公布本県農事水産、 蚕糸伝習所及巡回教師,
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沢鉱山、 宮川村に永田発電所を建設。,秋田銀行八十年史
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沢鉱山山史適産調四·一五花輪六日町·谷地田町両町共同の夜廻組合,五·一
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沢赤沢出火し、 一二戸焼失す。
鹿角市史 第5巻
(0318)
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沢鉱山山史九·二三御即位大典記念として花輪横町に郡公会堂落成一〇· 五宮麓小学校,一二·一二午前一時
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沢笹小屋出火、 庵寺など五軒焼失。,一二·一八午後一〇時
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長泉寺焼ける。,同同伏雲叢書一二·花輪愛友団がつくられ同人誌愛友を回覧しあう一二·
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沢鉱山碇発電所第三期工事発電機増設,
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沢鉱山山史同 同 こ同この年各町村の納税実績向上し一躍県内上位となった農産物の価格暴落しいわゆる豊作貧乏
鹿角市史 第5巻
(0099)
鉱山の国·鹿角885中观角都不去深却知山国道教會日マイナメイン一南
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沢銅山図/瓶毫社
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沢元山
鹿角市史 第2巻 上
(0647)
相哥屋、 伊勢屋の二人を
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沢へ遣し置くよう奉行から命じたことはなく、 その引払いについて云い付ける,よって会所や喜平治と談合し、
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沢に居る両人を引取るよう申し合わせるであろう、 とのことであった,南部屋八十治、 稼行す南部屋八十治は江戸の商人といわれ、 享保一九年八月「
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沢銅山支配元仰付けられ,銅山支配時代と同じく五人扶持と公用時の伝馬を許され、 かつ「金鋪入方金一ケ年百三四十両計り宛
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沢銅山,
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沢銅山開坑原由』、 鹿角郡
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沢銅山を当辰年より申年迄五カ年間無掴にし、 お手山の積りをもってお
鹿角市史 第2巻 上
(0029)
白根の消長、 立石・駒木銅山二北部の銅山…五六七狼倉・四角嶽・〓銅山、 『諸山開立年限附』三
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沢銅山五八四,〓正徳以前の
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沢銅山五八四銅山の始まり、 銅山御手山となる、 槇山銅山・永坂銅山、 『銅山行方御用目録,丸の船印、 公儀御巡見衆御答書上写、 山先の交替、 槇山金銅山第四節藩営時代の御銅山…六三八一
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沢銅山
鹿角市史 第3巻 上
(0017)
尾去
沢鉱山碇発電所(明治44年5月運転開始、 500kW発電機を設置)
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沢鉱山永田発電所設置と同型
鹿角市史 第2巻 下
(0040)
五十枚金山・夏山金山など〓槇山金山・その他の金山第三節銅山への移行一、 白根銅山二、 北部の銅山三、
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沢銅山,〓正徳以前の
尾去
沢銅山〓長崎御用銅の時代第四節藩営時代の御銅山一、
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沢銅山、 藩直営となる〓産銅高
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