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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第1巻 (0490)

だがこれらの文書だけでも、 成田頼時と南部師行の立場は鮮明に示される。,陸奥国府によって、 抜擢されたのは、 ひとり成田頼時だけではなかった。
鹿角市史 第1巻 (0489)

を付与された郡奉行の存在に、 地域の人々は国代また郡守護と称して、 その下に結集したのである国代成田頼時鹿角郡奉行,現付史料の上では、 南部師行は元弘四年早々から確認できるのに対して、 成田頼時が姿を現わすのは建武四年,もし成田氏ら鹿角諸氏相伝の中世文書が現存していれば、 紛れもなく成田頼時も南部師行と同時期に鹿角郡奉行
鹿角市史 第1巻 (0492)

府に勤番していたことからみて、 成田頼時が奥州成田一族を代表してこの頃すでに鹿角郡奉行に抜擢されていたと,南部師行が単なる「又次郎」で官途名をもたないのに対し、 成田頼時が「小次郎左衛門尉」であった点も注目,成田頼時は、 おそらくは武蔵成田氏惣領家の直系につらなる有力庶子であった。
鹿角市史 第1巻 (0511)

遠野南部氏が享保二年(一七一七)に編纂し了えた『八戸家伝記』では、 前述の鹿角合戦の最中に、 曽我師助・成田頼時,暦応四年合戦の鹿角側の指揮者が成田頼時でなく瀧瀬彦次郎入道となっているのは、 この合戦の前後に成田頼時
鹿角市史 第1巻 (0494)

なお、 この外ヶ浜奉行尾張弾正左衛門尉を成田頼時に比定する説(『東津軽郡誌』』『大日本地名辞書』)が,いずれにしても、 このような北畠氏の政治方針によって、 鹿角郡奉行所が設置されるや直ちに地元を代表して成田頼時
鹿角市史 第1巻 (0039)

第二節国代成田氏の盛衰四三六一建武新政陸奥国府体制…四三六元弘没収地に指定、 陸奥守北畠顕家の鹿角政策、 国代成田頼時
鹿角市史 第1巻 (0506)

暦応二年=延元四年(一三三九)三月には、 成田頼時が越後五郎・遠野南部文書貞和三年五月日曽我貞光申状案,暦応二年=延元四年(一三三九)三月には、 成田頼時が越後五
鹿角市史 第1巻 (0491)

暦応二年(一三三九)三月津軽大光寺合戦に成田頼時と共に参陣している成田六郎も同一人物であるとすれば(遠野南部文書暦応二年五月二十日曽我貞光軍忠状
鹿角市史 第1巻 (0509)

鹿角の成田頼時も比内の浅利清連も、 また糠部の南部政長も日本全体の動向のなかで、 前途を見定め進退
鹿角市史 第5巻 (0041)

南部師行は成田頼時とともに鹿角郡奉行に任命されていた。
鹿角市史 第1巻 (0497)

鹿角に基盤をもち、 郡奉行成田頼時の下に結集していた武士層であった、 とみなすことのできる徴証の一
鹿角市史 第1巻 (0501)

鹿角・比内を併管する侍大将に抜擢された、 と考えられるかくして、 鹿角では、 南朝方の郡奉行成田頼時
鹿角市史 第1巻 (0473)

例えば建武新政期に鹿角郡国代として現われる成田頼時は、 当時この郡内一円に勢力をもっていた成田一族として
鹿角市史 第1巻 (0575)

直接九戸籠城はしていないが、 柴内氏と花輪(円子)氏・大里氏の同族関係からみて、 かつて建武新政期に成田頼時
鹿角市史 第1巻 (0496)

安保弥五郎入道の子息とみられる安保小五郎と瀧瀬彦二郎入道とは、 のちに成田頼時らと行動を共にして、
鹿角市史 第1巻 (0505)

大里楯こそ、 当時における成田頼時の拠点であったからであろう。
鹿角市史 第1巻 (0507)

図式だけでは解釈しきれない錯綜した動きを、 内包していたのである鹿角郡の成田一族や安保一族が、 成田頼時
鹿角市史 第5巻 (0671)

669折戸 昌一3下708折戸多次郎3下474織部(花輪御山見)2下54尾張弾正左衛門尉1444 →成田頼時尾張中納言秀次尾張屋伊右衛門
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