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鹿角市史 第2巻 下
(0595)
八月第一次
扇田
合戦佐渡は十二所の残敵掃討と警備を後詰の南部吉兵衛隊に任せ、 一一日午前中
扇田
の索敵を,南部軍は
扇田
郊外で軍列を整え、 旗鼓堂々と
扇田
へ進駐した。,黒の軍服に猩々緋の陣羽織を燃え立たせ、 砲軍をきしらせての進駐は、
扇田
人の耳目を驚かせた。,南部軍は
扇田
の村役人に布告文を読聞かせ、 本陣に定めた市内寿仙寺に入った。,茂木筑後は
扇田
の村役人に密計を授け、 敵方将士を饗応し、 酒肴をととのえてその歓心を買うよう命じていたのである
鹿角市史 第3巻 上
(0471)
輪舟場から川舟に積んで、 十二所沢尻または
扇田
の倉庫まで運んだ。,
扇田
からは宮越扱店の取扱いとなって、 能代港へ輸送された。,しばらくの間は依然能代港、
扇田
河岸、 川舟遡行によらざるを得なかったが、 県道鹿角街道の改修が,進むにつれ、 まもなく川舟を廃止し、
扇田
・尾去沢山許間は荷馬車を使用するようになった。,尾去沢向けの貨物は、 宮越扱店の荷馬車によって
扇田
へ送られ、
扇田
からは佐藤扱店の荷馬車をもって松山
鹿角市史 第2巻 下
(0597)
第5図
扇田
神明社の合戦図(田中北嶺筆『戊辰戦役図絵』)十一日の夜、
扇田
の下もの方より敵不慮に襲ひ来,るを、 身方大小銃を放ち是を拒き居うちに、 敵又別に一手を
扇田
の上みの方へ廻し、 身方の後を絶来,十二日夜も明ぬ頃より砲聲烈しかりしを、 昨日楢山氏十二所より進軍して
扇田
に着陣のよしなれば、 我軍勢,を催促の相図なるべしと思ひ、 両将下知して発軍の用意をし曙るを待居たるに、 案に変りて昨夜より
扇田
鹿角市史 第2巻 下
(0601)
善知鳥坂の戦に破れた秋田勢は、
扇田
神明堂に拠り頑強に抵抗した。,桜庭隊は中山村の敵を駆逐し、 川向いから猛射を浴せ、 本隊の一部は迂回して
扇田
の街の下手から火を懸,その戦況を『出陣日記』は川向の身方は二時計り討合、 日の暮る頃銃隊を分て炮発しながら
扇田
の下もの方へ,第二次
扇田
合戦は大勝であった。,寄郷市川村を含めて
扇田
四〇〇戸の内、 類焼を免れたのは徳栄于、 寂光院ほか僅か六戸だけであったという
鹿角市史 第3巻 上
(0265)
〓十二所花輪間拾銭毛馬内大館間拾五銭毛馬内
扇田
間〃毛馬内十二所間拾銭毛馬内大湯間〃毛馬内尾去沢間〃大湯
扇田
間拾銭大湯十二所間,〃大湯尾去沢間〃大湯花輪間〃尾去沢花輪間五銭花輪大館間拾五銭花輪
扇田
間〃(発)毛馬内花輪間〃大湯大館間拾五銭
鹿角市史資料編 第1集
(0077)
昼頃御同人御進軍なり右に付台の御本陣え旦那様御転陣被成候事、 川村左学川守田民人物見に遣わされ候所御国勢は
扇田
渡,長谷川菊弥御用済に付御返し被成一、 川守田織右エ門御機嫌伺として罷り出る同十二日一、 今曉七つ時半頃炮声
扇田
,付通達いたし御出張の御用意の所へ御同心参り早々応援可被成旨申来り既に御進軍の所に杉村岩治殿参り申上候は
扇田
不意,遣わさる尤も杉村岩治殿花輪人数召連出勢操出候に付右勢駆抜早々罷越申す可き旨仰せ付けられ遣わさる右両人
扇田
手前神明林,候間御出兵御扣え被成候様早々罷帰り申上ぐ可き旨申す〓付直に罷帰り申上る一、 十二所御上小荷駄方より大炮
扇田
鹿角市史 第2巻 上
(0724)
附賦、 五百箇とカ千箇とカ箇数相揃候上、 秋田役人中え宿伝四郎相断箇数見分を得、 調相済候処ニて
扇田
,
扇田
御銅宿兵右衛門一、 十二所より
扇田
迄弐里弐丁程甚平御銅壱箇ニ付川下舟賃拾弐文、 但此間陸道平地,能代港御銅問屋清水九兵衛能代港御銅問屋清水九兵衛一、
扇田
より能代迄拾五里半程越後屋太郎右衛門
鹿角市史 第2巻 下
(0596)
び、 市中見廻りと称して二、 三〇人ずつ撤収し、
扇田
入口の神明堂に本陣を移した。,しかし四方に分散している第4図
扇田
口戦況図(盛岡市中央公民館所蔵)諸隊を集合させるいとまはなかった。,彼我の〓弾が飛び交い、
扇田
市中は忽ち戦場となった。 当日は咫尺を弁ぜぬ濃い霧であった。
鹿角市史 第2巻 下
(0354)
拾壱文同領沢尻村より十二処迄駄賃、 但し此間道法一里程一、 六文同領十二処蔵敷一、 拾弐文同領十二処より
扇田
村迄運賃,、 但し川路弐里程一、 五文同領
扇田
村蔵敷一、 四拾文
扇田
村より能代迄運賃、 川路拾六里
鹿角市史 第2巻 下
(0634)
二浦長太郎戦死す、 同十二日敵夜襲の際
扇田
より仁井田への出口に於て〓卒佐々木六助綱盛、 農兵米沢由蔵,敵進んで神明堂の本陣に迫るや盛岡の士六名は其堂前に於て健闘の末、 関村大蔵富隆は
扇田
入口に奮進共に戦死,此戦や敵味方共死傷者多く開戦以来の惨状なりしを以て、 世俗之れを
扇田
合戦と云ふ。,毛馬内の士町井卯助昌阜、 九月四日谷地頭の敵攻撃の際同所山上に於て花論の士川口猪太郎義業、 同日
扇田
鹿角市史資料編 第29集
(0110)
昨日大館落城之よし風説承り、 今朝常助吉太郎江中間弐人相添大館御本陳迄御使者として被遣、 大葛口打入し惣軍
扇田
,早々大葛へ新田廻りニて立越、 兵粮方御引上ケ可被成旨忠蔵方へ通達可致旨申付遣候、 中通勇助四ツ時頃
扇田
,より罷帰り、 惣御同勢
扇田
口迄昨夜押出候得共夜中之事故敵味方難見分義も有之、 同士打等有之候ては不宜事,ニ申出、 依之今朝爰元より附出候丸飯兵粮米附戻候、 小使豊治大葛忠蔵方迄書状為持遣候処、 不残
扇田
口,へ出張之由二て豊治罷帰る、 御銅山勢大葛口より御打入、
扇田
大瀧江打出夕方不残御帰陳、 兵粮方冨太郎甚八
鹿角市史 第2巻 下
(0034)
宣戦布告、 十二所合戦、 南部吉兵衛隊の十二所進駐、 小荷駄や農兵に徴用された百姓、 第一次
扇田
合戦,、 新沢口の戦い、 諸隊鹿角へ撤退、 第二次
扇田
合戦、 大館城攻略二、 南部軍の後退五六四坊沢合戦
鹿角市史 第1巻
(0578)
山林ニ隠ル、 信直公文禄二年大湯五兵衛を以テ召出サルヘキノ命アリト雖モ、 母固ク辞シテ同六月出羽
扇田
,ニ行テ
扇田
左門ニ寄居、 慶長二年
扇田
ヲ去テ鹿角郡へ帰ル」とある。
鹿角市史 第3巻 上
(0470)
即ち、
扇田
その他の川舟発着場では、 花輪佐藤亀治が貨物一切の指定取扱人として業を営み、 能代港,その頃能代港を出て米代川を川舟で輸送される貨物は、 まず
扇田
舟場まで渾大館市はれ、 川岸の佐藤扱店,また特定の貨物は、 川舟を用いず、
扇田
倉庫から陸路駄馬で尾去沢倉庫まで運送されたという。
鹿角市史 第2巻 下
(0602)
大館城攻略一〇日
扇田
を焦土と化した南部軍は、 軍議の結果
扇田
攻略の余勢を駆り大館城攻略の手筈を整んた,餌釣村、 金谷村を焼き払い、 次いで山王台の敵と砲撃戦となったが、 佐渡隊は
扇田
周辺の残敵掃討に
鹿角市史 第5巻
(0261)
戊辰戦争–田中北嶺のスケッチ集から出陣式ま汁·んかの宝物シアーツ著
扇田
神明社の戦い的洛城 山西大地方進行集市武儿
鹿角市史資料編 第24集
(0021)
より一段と下直且御運送かゝり無之〓より御減可申候間、 當時御渡ニ相成御手配り被仰渡被下度候一、
扇田
村御備蔵,被仰付候様被仰上被下度奉願候、 達子村ニ不限惣而破損之村々御〓遅成迷惑筋相聞得申候間、 何分御尺取被成下度候以上一、
扇田
村助右衛門願三,宝而急之御用筋と存候得共取纒申上候、 たふん壱夜留候而指遣候間、 左ニ御承知可被下候一、
扇田
村平右衛門,役頭江前日申上候御用筋左之通以驛送奉呈上候、 秋暑退兼申候得共益御機嫌能可被成御座候、 弥重之御儀奉恭考候、 随而私無異儀當七日
扇田
詰合罷有大慶仕候
鹿角市史 第2巻 上
(0584)
之分但貫目壱万千三百弐拾弐貫七百五拾六匁、 金壱両ニ弐拾貫目カへ一、 金六百七両ト銭三百文右同断
扇田
圍之分但貫目壱万弐千百四拾壱,金壱両ニ弐拾貫目カへ右ハ〇銅四角たけ槇山立石崎狼倉鉱山銅也、 金七両三分ト銭五百五拾七文夏坂銅
扇田
圍之分但貫目弐百三拾六貫百目
鹿角市史 第2巻 上
(0631)
一四〇貫○四八匁)計六三、 九七六貫八〇六匁(十分一銅六、 三九七貫六八〇匁)以上秋田出銅、
扇田
改,匁申年吹出銅(十分一を引いた外)計銅八九、 五〇〇貫一〇〇匁内五八、 二七九貫七〇〇匁秋田出為登銅(
扇田
正味
鹿角市史資料編 第14集
(0005)
更に
扇田
に竹原塩百二十俵、 同六貫目入れ百俵、 在庫竹原塩百四十九俵の記載がある。,
扇田
の在庫塩は一俵六百六十二文、 毛馬内では貫五十文である。,この差は
扇田
の蔵敷料、 十二所番所の入役銭、 毛馬内迄の輸送費と利益が加算されたためと思われる。,西海廻りの塩が能代湊に陸揚げされ、 米代川を逆上り
扇田
経由で鹿角に移入されていたことを示すものであり
鹿角市史資料編 第1集
(0079)
日々差出し候様達しなり一、 柳五郎殿へ御見舞御酒三升被遣同廿日、 今晩八つ時御勢揃にて土深井村発足
扇田
,門工藤勘太郎根市蔵之亟根市熊太郎大里勇之助大里善助関七九郎岩花武平治佐々木平七北郷久米治吉田勇次郎右人数被遣、 今日惣勢押進曲田村川向の処にて合戦身方大勝利
扇田
村燒拂,それより少し引き退き
扇田
手前に佐渡様の陣を取り桜庭家は川向に陣取向井家は独古村近辺に陣を取り候由一、
鹿角市史資料編 第1集
(0084)
わし候ところ赤石の林より鉄炮打ちかけられ新左エ門先に帰り候えども練蔵おくれ候に付き尚新左エ門蔵之烝平七
扇田
迄遣,わし候に見え申さず罷り帰り後練蔵暮れ時まかり帰る右は
扇田
の酒屋に居り候由一、 松岡東馬殿御見舞に来る,御家にても夫々小荷駄土深井え賦る一、 川守田民人岩花武平治関七九郎大滝の西まで物見に遣す昨日より大館
扇田
鹿角市史 第2巻 下
(0038)
図南部吉兵衛への鹿角出張申渡し…五一工第2図戊辰戦争役関係要図…五四(第3図戦書朗読の図…五四四第4図
扇田
口戦況図,……五五一第5図
扇田
神明社の合戦図…五五一第6図大館城突入の図……五六三第7図板沢合戦の図…五六八第8
鹿角市史 第3巻 下
(0160)
その他の医療機関診療(鹿角時報、 昭三・八・二〇付)、
扇田
病院の出張診療鹿角時報、 昭五が行われていた,
扇田
病・九・一〇付院はその後、 毛馬内駅前へ出張所を設け、 駐在医員二名をおいて診療を行っていた(
鹿角市史資料編 第26集
(0051)
御山元より土深井迄壱里半一、 同所より秋田澤尻迄壱里一、 沢尻より十二処迄壱里一、 十二処より
扇田
迄弐里一,、
扇田
より大館迄壱里半一、 大館より釈迦内迄壱里一、 釈迦内より津軽領碇ケ関迄五里一、 同所
鹿角市史資料編 第1集
(0029)
駆払へぬ既にしてうと坂の敵の頭上より筒先揃へて打落しにそ敵勢は建たる藍色の大籏を横に臥せて足早に引退き
扇田
外,逃失たるにそ又発砲して彼の社内の敵の後を打けり川向の身方ハ二時計り迎合日の暮る頃銃隊を分て砲発しなから
扇田
,銃隊を分て残置少し引退きしに休し処より四五丁西の方なる茂樹の中より敵大砲を打出せとも夫にかまわす退て
扇田
向,の策略ありたしと申けれハ両人同心しけり○此夜我小荷駄は中山の辺に居て兵糧を陣中へ送りぬ○此夜楢山氏は
扇田
鹿角市史 第2巻 上
(0725)
右
扇田
より川下致、 九里程川下ニ荷上場村ト申処ニて右御銅水上致させ、 番所ニ於て役人立合荷上場村宿嘉兵衛罷出,駄賃舟賃共ニ合、 九拾六文外御銅壱箇ニ付土深井村蔵敷弐文、 沢尻村同三文、 十二処同六文、
扇田
同五文
鹿角市史 第3巻 下
(0195)
約八キロ
扇田
に本社を置き、 大正二年一一月に起工し、 翌三年七月一日に大館・
扇田
間五マイル()の営業
鹿角市史 第4巻
(0483)
米代川の舟運により、 その後は県道の改修が進むにつれ山元から花輪まで駄送され、 舟場から十二所または
扇田
,まで川舟で運ばれたり、 山元から
扇田
までは荷馬車が使用されるようになった。
鹿角市史資料編 第29集
(0108)
被立遣、 路用壱両相渡御用状壱通原様よりも壱通被遣候、 尤夜通し事故半駄賃伝馬御切手被下置候一、
扇田
御出陳楢山佐渡殿御本陳迄,、 大葛口打入之様子御注進言上として、 常助江中間弐人相添今夕五ツ時被立遣候但今日之
扇田
様子風説ニ,は、 二井田辺
扇田
近辺焼拂川向江御出張之よしニ付、 常助川越候ても参り可申哉之相伺候処、 手前小荷駄方御役人中江願上候
鹿角市史資料編 第12集
(0030)
一、 御陣場より両人飛脚来、 今朝
扇田
焼払ニ付近々御出陣之御模様之旨申来、 八匁玉五百、 三匁五分五百,一、 今晩そばヤ九右衛門江、 打死怪我人十三人、 医者共打寄介抱、
扇田
町中ニ而合戦、 奈良猪太郎殿附添,旦那様益御機嫌能被成御座候趣、 御添状持参御役所江さし出承候処、
扇田
夜打ニ而大狼狽いたし、 味方怪我人数多有之
鹿角市史資料編 第29集
(0122)
左之通申出岩太郎相尋候処御答右之通私儀忠太様より被相頼大館御出張神連助と申御仁江包物持参帰之砌、
扇田
村大沢,沢出善一郎様赤沢喜七子供岩吉松山之者壱人土深井之者壱人東やノ菊治岩太郎内牛士兵吉七人同道ニて参り、
扇田
,善一郎様蔵ノ戸を明ケ真先ニ這入候、 其外大沢出入之もの弐拾人計有之候内五人同道二二階迄上り、 岩太郎ハ
扇田
鹿角市史 第2巻 上
(0635)
九拾文湯瀬より田山迄、 同八文半沢尻より十二所へ一、 五拾九文田山より新町迄円、 同拾弐文十二所より
扇田
,へ一、 百九文新町より寺田迄但シ弐固附ニてハ七十三文也一、 同四拾文
扇田
より能代へ2、 同弐匁三分能代
鹿角市史資料編 第28集
(0006)
同二月旧宅江引移同三月釣燈鋳立森岡御城榊山大明神江奉納仕候、 其後猶々本職鍋釜吹支度仕候所毛馬内御役屋より御差留二て大ニ迷惑仕候、 右二付御他領秋田
扇田
村,幡州小竹丸船頭平兵衛ニ相拂、 御当舘御境口ニて代金員数六拾六両ニ相拂申候、 右杉柱四月世二日格別秋田
扇田
高橋彦市
鹿角市史資料編 第1集
(0012)
十八日今暁八ツ時秋田へ陣押大滝下モ鶏鳴打合いにて夜に入土深井ならびに沢尻に陣取十九日廿日
扇田
迄押し同処焼払廿一日
扇田
在新井田并田子鶴田
鹿角市史 第5巻
(0313)
支配人に内田平三郎就任、 本店を
扇田
に置く。,伏雲叢書一一· 六秋田鉄道、 大館·
扇田
間の敷設工事に着手。
鹿角市史資料編 第1集
(0027)
けり同十三日朝館に登り主公の御前に出て御障なく御帰陣あるを祝し終りて此日の勤に取かかりたり○此日楢山氏
扇田
合戦,のあらましを人の語るを聞けるに十一日の夜
扇田
の下の方より敵不虞に襲ひ来るを身方大小銃を放ち是を拒き居うちに,敵又別に一手を
扇田
の上の方へ廻し身方の後を絶来るにそ自ら手詰の戦になり敵は多勢にして身方の兵士壱人へ四五人
鹿角市史資料編 第1集
(0106)
十二処落城大瀧迄御手ニ入追々攻入新沢山ニ而は越路難所ニ而はか〳〵しく進兼候所八月廿二日大館落城二及ひ
扇田
二井田板沢迄攻随,ひ御銅山人数江高野恵吉大将として大葛口より攻入
扇田
江打出十二処大館平定と申様ニ相成候得共未夕敵将壱人も,而房沢本陳江朝欠被打込大炮兵粮被乗取九月二日より同四日迄追々合戦はけしく相成大館迄引退四日夜迄ニ大館出勢不残毛馬内へ退陳
扇田
方之御出勢十二処迄御退陳比節風説区々
鹿角市史資料編 第30集
(0102)
ノ人家を自焼いたし逃去、 尚追々大滝村向迄相進ミ候処、 蔵人手為後詰大滝村迄相進ミ候処、 敵兵
扇田
村手前山,敵大分砲発候得共味方山の手よりも頻リニ砲発、 暫時合戦烈シク互ニ色々策を以相戦候処敵終ニ敗走、
扇田
方,発機隊尚又山へ駈登り最初相登り候四小隊手分致し嶺通り攻下り候処、 暫時合戦敵忽敗走ニ付烈シク追カケ
扇田
村手前迄押行候処
鹿角市史 第2巻 下
(0632)
親熊太・羽州於川口討死)、 同川口啓蔵(親猪太郎・同於入瀧討死)、 同佐々木友次郎(親六助・同於
扇田
討死,2円男信士八月十二日
扇田
に於て討死、 十七歳、 花輪農兵、 六日町勇助子由蔵、 首きりとられ、
鹿角市史資料編 第24集
(0020)
弥々少銭も御眼なかに不相成筋と罷成候得ハ、 南部商ひ相止ミ候外無之、 兼而御指心得も可被為在十弐所町
扇田
村,、 兵右衛門銭ニ無之毛馬内七郎と申もの之銭携、 兵右衛門子共南部江五十集商もの駄送罷越候筋、
扇田
村神明堂前,其後兵右衛門并毛馬内之者共より調所ニ而口書為御取候由、 右口書之内毛馬内之もの越銭之砌之宿被尋候處
扇田
村問屋江泊
鹿角市史 第3巻 上
(0385)
市立てに参加する商人は、 花輪市の場合、 毛馬内はもちろん遠く十二所・
扇田
・大館からもやって来た。,これは
扇田
・大館方面からの市掛商人であったろうか、 毛馬内については、 北秋田の赤沢・黒沢からも小
鹿角市史資料編 第24集
(0019)
組親支配御足軽拝借毎家吟味為致、 新銭引上肝煎和右衛門へ預置申候、 尤銘々限員数調書を以和右衛門へ相渡置候、
扇田
村,村寄郷共新銭取集員数左之通ニ御座候一、 弐拾三貫四百九拾七文十弐所町寄郷共二別帳指出し候一、 拾五貫九百三拾三文
扇田
村寄郷共
鹿角市史 第1巻
(0580)
文禄二年には民部少親照が大里備前親易とともに羽州
扇田
に奔った。
鹿角市史 第2巻 上
(0585)
金四千六百五両壱分ト銭壱貫四百拾九文永松白根両山銅山本圍一、 金六百拾四両三分ト銭八百五拾七文御拾歩壱銅秋田
扇田
圍一
鹿角市史資料編 第29集
(0099)
拾三貫六百六拾五文〓一、 御手代常助、 昨十一日十二処御陳所迄被遣合戦之様子相伺候処、 大に御勝利ニて
扇田
辺,御物書取違ニて御銅山江被仰遣候ニ付、 右行違之分花輪御代官処より受取可申旨之御用状被遣、 旦十一日之夜
扇田
鹿角市史 第2巻 下
(0544)
佳日、 乙丸、 竹、 可昌、 昔、 尋風、 大奥君、 如月庵東山、 吉甫〔十二所文藻〔
扇田
鹿角市史 第3巻 上
(0247)
米代川筋の
扇田
舟場から上流は、 川床が浅く水勢も急だったので、 舟運には適していなかったためである
鹿角市史 第2巻 上
(0252)
奥州南部領鹿角郡花輪村、 毛馬内村ト羽州秋田領沢尻村、 十二所村、 味噌内村、 茂内村、 別所村、
扇田
村
鹿角市史資料編 第1集
(0011)
楢山佐渡殿陣押九日未明土深井より発向九ツ時十二所抜き同処残らず焼く十日九ツ時南部吉兵衛殿爰元出陣十一日佐渡殿
扇田
押十二日暁八
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