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鹿角市史 第3巻 下
(0711)
〓
文化
財保護・芸術
文化
活動の推進鹿角市は昭和四八年、 新たに
文化
財保護の強化のため、 市
文化
財保護条例,を制定し、 市
文化
財の積極的な指定を行うこととした。,現在、 鹿角市における指定
文化
財は国指定四件、 県指定一一件、 市指定五三件の計六八件を数えている,また、 五〇年には市
文化
財保護協会の設立を図り、 全市的に歴史や
文化
財の調査・研究がなされるようになった,一方、 芸術
文化
活動の振興のため、 花輪芸術
文化
連盟と十和田芸術
文化
協会の合併を図り、 四九年鹿角市芸術
文化
協会
鹿角市史 第1巻
(0366)
第四節弥生時代(続縄文時代)第一、 弥生時代の生活数千年の歴史をもつ縄文
文化
は、 時代の流れとともに,、 徐々にその姿を変え、 ゆるやかな進歩の道程を示し、 東北地方に独得な
文化
を形成しながら弥生
文化
,大陸の農耕
文化
の影響をうけ西日本を中心に発達した弥生
文化
は、 次第に東日本にも波及してくる。,西日本の弥生
文化
は紀元前三-二世紀ごろに成立し、 弥生前期には中部地方にまで及び、 中期に入って関東,しかし東北地方の弥生式
文化
自体は、 きわめて縄文的要素をとどめるものであり、 ながい縄文
文化
の伝統
鹿角市史 第3巻 下
(0046)
世代交流ゲートボール大会(尾去沢公民館)、 青年会スポーツ大会(八幡平公民館)、 図書館の整備〓
文化
財保護,・芸術
文化
活動の推進…六六一〓社会体育の振興…六六社会体育の充実〓生涯学習の推進…六六六三
文化
活動…六六,〓〓
文化
環境…六六八新聞、
文化
団体〓文芸活動…六七一1俳句……六七
鹿角市史 第1巻
(0239)
刈器
文化
の次には尖頭器
文化
・細石器
文化
が後続する。,細石器
文化
に引き続いて九州地方を除く日本列島各地に有舌尖頭器が出現する。,このようにして、 大陸
文化
と隔絶した日本独自の
文化
(縄文
文化
)へと移行する。
鹿角市史 第3巻 下
(0719)
毛馬内には伊藤良三、 滝儀太郎らを中心に十和田郷土
文化
振興会、 錦木には駒ケ嶺政相のもとに錦木史跡保存会,が作られ、 尾去沢の似鳥清、 寺岡健太郎らによる尾去沢
文化
財保存会は、 鉱山鉱具・鉱山古文書の収集,と大森親山獅子大権現舞の顕彰につとめ、 ともに県
文化
財指定にみちびいた。,これら歴史や
文化
財の研究活動をいっそう強めるために、 五〇年八月鹿角市
文化
財保護協会が組織され、,四七年の市制施行後、 組織の市内一本化を要望する声が高まり、 四九年七月鹿角市芸術
文化
協会が新発足
鹿角市史 第1巻
(0429)
昭五三秋田県教育委員会〓『小平遺跡発掘調査報告書』昭五四鹿角市教育委員会〓「菩提野の竪穴跡」『大湯町環状列石』昭二八
文化
財保護委員会,』昭五七・三月秋田県埋蔵
文化
財センター〓桜井清彦・小岩末治「岩手県水沢市権現堂遺跡調査報告」・『考古学雑誌,多賀城周辺における古代杯形遺跡の変遷」『研究紀要』1号昭四九多賀城跡調査研究所〓・〓平山久夫編『北奥の古代
文化
,第一巻昭五四『小坂町史』昭五〇『水沢市史』第一巻昭四九『秋田県史・考古編』昭三五奥山潤「秋田県北半部の弥生
文化
終末期後,東日本における土師器の研究」『東京教育大学紀要史学研究』昭三九野崎準「東北地方における須恵器生産」『東北
文化
研究所紀要
鹿角市史 第1巻
(0362)
〓むすび大湯環状列石は、 縄文
文化
の謎を解く多くの重要な鍵を内包しているものといえる。,とくに墓域と集落との関係等々、 縄文人の集落や
文化
の解明に果たす役割は測り知れないものがあり、 縄文時代研究,阿部義平氏が「配石墓は土に化した縄文人の社会の石に残された記録ではなかろうか」といわれたことと、 秋田県
文化
課富樫泰時氏,〓1甲野勇「巨石
文化
」『科学朝日』昭二一・一一月「巨石
文化
と農耕の問題-大湯だより」『あんとろぽす』2,巨石遺跡」『民族学研究』〓-4一九四八後藤守一「大湯の巨石遺跡」『旅』昭二二・三日野津甫「日本にも巨石
文化
址
鹿角市史 第1巻
(0364)
の考古学』一九四〇吉川弘文館大和久・奈良『秋田県史・考古編』一九六〇秋田県『大湯町環状列石』一九五三
文化
財保護委員会,『小坂のあけぼの、 縄文期・弥生期』一九七五『岩木山』一九六八岩木山刊行会加藤・小林・藤本編『縄文
文化
,の研究・8、 社会
文化
』一九八二雄山閣〃『〃4、 縄文土器〓』ク円『〃9縄文人の精神
文化
』〃『東北縦貫自動車道発掘調査報告書,一九八一秋田県教育委員会『〃〓~〓』一九八二円鈴木克彦編『考古風土記』5~7号鈴木克彦編村越潔『円筒土器
文化
鹿角市史 第1巻
(0242)
いのように、 縄文
文化
は定着的狩猟採集
文化
として日本全域に分布するが地方によって差が認められる。,依存度の高い狩猟採集生活を基調とする縄文時代において、 南北に長い日本列島の自然環境の相違は必然的に
文化
,後進地域とされる東北地方が、 縄文時代においては
文化
の先進地であったことは興味深い事である。,第一、 縄文時代の生活と
文化
一、 土器の移り変わり〓草創期の土器日本列島最古の土器は、 長崎県泉福寺洞窟,このことから、 九州の旧石器人が、 旧石器
文化
以来の石器を継承しながら、 土器製作を開始したと解
鹿角市史資料編 第28集
(0009)
為寸志前書金高上納相済別紙送書付相渡遣上は、 後々違乱妨故障等一切無之候、 為念請取書付如斯御座候以上
文化
十三年子二月瀬田石村肝入孫作判大支配肝入五郎兵衛判彦助殿前書之通相違無之候以上子二月子二月和井内佐学判浅沼郷左衛門判横田宇左衛門判近内織右衛門判立山定見判竹沢喜右衛門右之通始末請取置御蔵毛馬内町人分,ニ相成申候以上一、 我娘おすけ丑六月廿九日病出同七月二日病死常照寺ニ葬る一、 本銭四拾五貫文内
文化
弐年丑十二月,、 五貫文五郎兵衛一、 五貫文源曲請合五郎兵衛同喜丘衛預手形ニて同一、 弐貫文同人直御役銭之由
文化
三年寅四月一,、 弐貫文同人直家普請入用之由
文化
三寅十二月、 壱貫文同人直御役銭之由
文化
六巳三月、 五貫文同人直御役銭并鋤鍬拵候曲
鹿角市史資料編 第13集
(0144)
尤去ル
文化
三年より数年相勤候付、 御賞御代物三貫文被下置候。,一、 宮喜右衛門右ハ寛政元年御境御用見習願上被仰付相励罷在候処、
文化
十年親喜右衛門病死仕跡役被仰付,一、 澤口弥平右ハ天明八年御境御用見習願上被仰付相勤罷在候処、
文化
十四年親弥平太病死仕跡役被仰付,一、 荒川孫物右ハ
文化
四年孫惣病死仕急養子願上被仰付、 当年迄十四年相勤申候。,一、 中館源三郎右ハ
文化
十一年中舘甚次郎看抱願上被仰付、 当年迄七ケ年相勤申候。
鹿角市史 第3巻 下
(0038)
〓第二節郷土の
文化
…四〇四一
文化
の向上…四〇〓新聞・会誌、
文化
の殿堂二文芸活動…四〇六〓俳句……四
鹿角市史 第3巻 下
(0721)
第四節教育と
文化
第38表鹿角市芸術
文化
功労受賞者
鹿角市史 第4巻
(0029)
鉱山用具(秋田県
文化
財指定)山子用具マタギ用具(鹿角市
文化
財指定)酒造用具
鹿角市史資料編 第23集
(0037)
仕度旨望申候間差遣申度奉願上候以御憐愍願之通被仰付被下置候ハゝ難有仕合奉存候此旨御序之節宜敷被仰上被下度奉頼候以上
文化
十年酉二月毛馬内御給人高橋縫之丞印中野三左衛門殿橋本定右衛門殿最初書上候願書,ハ認方不宜二付認直遣候様中野三左衛門殿より申来則如此認直遣去ル
文化
四年御本丸於大奥御男子御誕生被遊候ニ,り候処男子無御座私弟進聟養子仕度旨申上享和二年九月願之通被仰付候、 然所不縁二付引取申度旨申上
文化
四年五月願之通被仰付難有仕合奉存候,、 以御憐愍願之通被仰付被下置候ハゝ難有仕合奉存候此旨御序之節宜被仰上被下度奉頼候以上毛馬内御給人
文化
十年四月高橋縫之丞印中里三左衛門殿橋本定右衛門此願書,ニ留置
文化
十一年亥七月覚一二孫米松右者去年十月出生仕其節御訴申上候右之通去年七月書上以後由緒出入書上申候以上七月毛馬内御給人高橋縫之丞縄田小兵衛殿
鹿角市史 第1巻
(0363)
「縄文時代の配石遺構」『考古学ジャーナル』〓号一九七十5・6・7「特集縄文時代の配石遺構」『北奥古代
文化
,』3号一九七一北奥古代
文化
研究会8大場磐雄編『上原』長野県埋蔵
文化
財発掘調査報告2一九五七9・〓江坂輝弥,「配石遺構と敷石遺構」『古代史発掘』2巻一九七三講談社〓・〓吉田格「漁撈
文化
の展開」『世界考古学大系』,大湯環状列石周辺遺跡分布調査報告書』一九七七鹿角市教育委員会〓奥山氏宛吉田富夫氏書簡-坪井清足「縄文
文化
論
鹿角市史資料編 第31集
(0020)
内両鹿角拾分一御證文目録一安永九年十二月遣證文二安永九年子十二月遣證文三天明二年三月遣證文四天明三年夘二月遣継證文五寛政元酉年三月遣継證文六寛政九年閏七月乍恐奉願上候事七
文化
元年子十二月乍恐口上之覚八
文化
八年未正月覚九
文化
十一年戌八月遣副證文一,〇
文化
十三年子正月遣證文一一天保二年十一月遣證文一二慶応二年六月覚遣證文一花輪毛馬内御代官所他領出入諸荷物役并金銀銅鉛山入用炭釜諸材木春木割板拾分壱
鹿角市史 第1巻
(0037)
・c地区遺跡、 内岱・大谷地・カラミ山・尾樽部遺跡、 曙岱遺跡)第三章古代の鹿角三三第一節古代の
文化
,…三三一古墳
文化
の時代…三三一市内の古墳三三二枯草坂古墳三三四三三光塚古墳群三四一四石野古墳三四一二鹿角,における奈良・平安の土器
文化
…三四六1鳥野遺跡三四十2小平遺跡三四八3源田平遺跡三五
鹿角市史 第3巻 下
(0760)
第三章鹿角市発表をめざして第40表秋田県
文化
功労賞受章者(鹿角市分)第41表鹿角市
文化
功労者
鹿角市史 第1巻
(0367)
そういうことから山内清男氏は、 この期の
文化
を続縄文
文化
と命名して、 弥生式
文化
とは区別されている,〓れに対し、 伊東信雄氏は、 続縄文
文化
も広義の弥生式
文化
に入ると解されている。,近くからは弥生
文化
の特徴といわれる方形周溝墓(縦・横七メートル、 高さ一〇~四〇センチメートル)が確認
鹿角市史 第1巻
(0381)
第三章古代の鹿角一、 古墳
文化
の時代一、 市内の古墳考古学上の時代区分から言えば、 弥生時代の次,しかしながら、 この時代の鹿角の
文化
を明らかにする遺物や遺跡は発掘されていない。,それでも、 古墳時代の
文化
が畿内(奈良周辺)から徐々に東北に進展しながらこの鹿角にも古墳時代の
文化
をもたらしたことは
鹿角市史 第3巻 下
(0052)
六六一第〓表鹿角市体育協会加盟団体(平成三年度)…六六一第〓表鹿角市スポーツ賞…六六四第〓表鹿角市芸術
文化
協会加入団体,(平成四年度)…六七〇第〓表鹿角市芸術
文化
功労受賞者…六七一第〓表鹿角市功労者…七〇九第〓表秋田県
文化
功労賞受賞者,(鹿角市分)…七一〇第〓表鹿角市
文化
功労者…七一〇
鹿角市史 第4巻
(0176)
文化
住宅の建設昭和六年、 花輪六日町の石木田新太郎は不老倉鉱山役員住宅の資材で、 六日町裏通りに〓,玄関はコンクリートのたたきで、 水道はなかったが四軒ごとにオセドからひいた井戸があり、 新しく
文化
的,世にいう
文化
住宅で、 舟場の角に
文化
堂パン屋もあり、 戦後住人が相談して町内名を
文化
と名づけ、
鹿角市史 第1巻
(0241)
縄文時代の
文化
、 すなわち縄文
文化
は、 日本列島が大陸から分離したことにより派生した日本独自の
文化
,この
文化
は約一万一千年前から二千三百年前までの長い間、 大陸からの影響を受けることもなく、 純粋に,存続した極めて島国的な
文化
であった。
鹿角市史 第3巻 下
(0718)
三、
文化
活動〓
文化
環境新聞戦後、 言論の自由の回復によって地域新聞が続々と発刊をみた。,四九年一〇月「鹿角新報」〓)が創刊され
文化
面に力を注いでいたが、 六一年七月主幹の逝去基により廃刊となった,符節を合わせた高速道と日刊紙の出現は、 鹿角の
文化
と言論の発展にひとつのエポックを報社鹿角時事画するものとなった,
文化
団体ながく続いた重苦しい時代から解放され、 人々の自由に知識をもとめ教養を深めようとする気運が高
鹿角市史 第2巻 下
(0019)
. ×0cm(市指定
文化
財)双鶴絹本8×. 0cm大里氏蔵(市指定
文化
財)春秋図
鹿角市史 第3巻 下
(0720)
なお、 同協会では市の芸術
文化
の保存顕彰、 発展に貢献した人々を功労者として表彰し続けている第37,表鹿角市芸術
文化
協会加入団体平成4年度
鹿角市史 第2巻 下
(0228)
には欠落しても立帰って耕作に当たれば寛大に扱われていた年代もあるが、 次第に罰則が厳しくなり、
文化
五年,(一八〇八)に制定された刑法『
文化
律』には「欠落井ニ立帰り候者、 御仕置之事。,遠追放の場所は、 『
文化
律』によると「両鹿角、 沢内、 野田、 野辺地、 田名部」で、 在々,湯瀬村肝入直左衛門の『
文化
十年御用扣』(石鳥谷氏所蔵)にも、
文化
一〇年三月の伊勢参宮にかこつけて、
鹿角市史 第1巻
(0331)
五、 縄文時代晩期約八千年にわたって日本列島に独自の
文化
を築いた縄文時代も、 大陸系
文化
である水稲農耕,と金属器をともなう弥生
文化
にとってかわられる。,東北地方北部(奥羽地方)においてらん熟期を迎えた縄文
文化
は、 土器製作の上で、 その技法・装飾・文様,いわゆる亀ケ岡式土器に代表される縄文時代晩期は、 亀ケ岡式土器
文化
圏を形成した。
鹿角市史 第5巻
(0457)
11集 町井家文書 寛政10日記書留覚, 天保13酒屋日記, 他第13集御境御用留 ·
文化
,明治元 · 4御觸帳, 明治3通達綴 阿部家蔵第28集田中家諸御用留帳 ·
文化
,4号, 他第2号 花輪南部家諸御用留帳· 天保2~14, 寸陰館文書目録, 他鹿角市
文化
財目録,·第1~3集 鹿角市教育委員会編 · 刊 昭和48~51鹿角市の
文化
財平成 8鹿角市,センター編昭和56~57 秋田県教育委員会上津野(かづの)·第1~21号 鹿角市
文化
財保護協会編
鹿角市史 第1巻
(0428)
2東北歴史資料館編『東北の古墳』昭五二3氏家和典「南奥羽地域における古式土師器をめぐって」『北奥古代
文化
,昭四八学生社〓『日本の考古学・〓』昭五三河出書房〓坂詰秀一「東北北部における須恵器の生産」『北奥古代
文化
,』四号昭四七〓江坂輝弥「奥羽地方北部の古墳時代の
文化
」『北奥古代
文化
』四号昭四七〓・〓『世界考古学大系
鹿角市史 第3巻 下
(0420)
その著書『自動主義教育法の原理と実際』によると、 人類の
文化
を発展させる人間の育成が教育の目的であり,、 そしてその
文化
は個々の自我の認識主観によって創造されている。,依って自動は
文化
の本体であり、 自動こそ教育の原理であると力説している。,千葉はあらゆる
文化
の創造は好むところを徹底して行うことで成立するととなえ、 その『創造教育の理論と実際,これは「人生は独創的
文化
を創出する個々の創造性育成であり」「人間の一生は創造のためにある」として教育目標
鹿角市史 第4巻
(0433)
これは昭和二十八年十月に国指定の無形
文化
財となり、 その子の文一郎によって昭和五十三年には秋田県指定,の無形
文化
財となった(秋田県教委編『秋田県の諸職』平成三)。,しかし文一郎の死去後は技術を伝承する人もなく、 染色に使用した用具や染物などが鹿角市の有形民俗
文化
財,奈良良家)から昭和四十五年に寄贈された藍染の型紙と藍瓶があり、 五百八十六枚に及ぶ型紙が鹿角市有形民俗
文化
財
鹿角市史 第2巻 上
(0389)
一基には「
文化
元年甲子五月廿二日鍛冶六左衛門」とある。,今一基は裏面に「
文化
七年庚午歳七月十八日」、 右側面に「講中・本多弥吉・佐藤足松・大里清吉・講宿修善院,毛馬内山崎家では、 代々六左衛門・六右衛門を交互に名乗ることになっていたようで山崎家過去帳)、
文化
元年,に湯殿山詣をした山崎六左衛門が、
文化
七年には子の六右衛門と六名の毛馬内鍛冶仲間と共に再び参詣した記念碑
鹿角市史 第1巻
(0267)
このような北日本(円筒土器
文化
圏)地域での展開に対し、 東北地方南部(大木式土器
文化
圏)地域では石槍,一方北海道(北筒式土器
文化
圏)地域では石鑛よりも有茎尖頭器が多出し、 こヱでの有茎鏃は円筒土器
文化
圏
鹿角市史 第1巻
(0345)
昭和二十六年、
文化
財保護委員会(現
文化
庁)は、 第一回
文化
財専門委員会に諮問し、 愛知県吉胡貝塚,二、 調査の経緯と概要【昭和十七年神代
文化
研究所による調査
鹿角市史 第4巻
(0874)
大野武(昭和八年石川県生れ)尾去沢
文化
庁伝統
文化
課の主任
文化
財調査官などをつとめていた時、 鹿角を訪,主要著書の一つである『野兎狩り』昭和六十二年・秋田
文化
出版社)の中では尾去沢や花輪での野兎狩りについて
鹿角市史 第4巻
(0878)
講演の中では、 東北の
文化
は二つに分かれていることに触れた後に、 鹿角は地理的に興味のある場所だという,「東北の
文化
は日本海沿岸と、 太平洋沿岸に分かれており、 之を出雲の筋と、 伊勢の筋といった者もあります,鹿角は、 その地理上の位置から、
文化
史研究の上に非常に興味があるところであります。,このことから柳田が鹿角の
文化
の特異性を認め、 民俗調査に興味を示していたことが分かる。
鹿角市史 第4巻
(0809)
第三節民謡昭和鹿角出身の人文地理学者・佐々木彦一郎は、 『山島社会誌』のなかで、 東北の
文化
は二つに,していなかった江戸中期には、 西海(日本海)廻りの航路による北前船の行き来が、 北国と西国の沿岸交易と
文化
,そして陸中の北部・鹿角は、
文化
的にはそれらが混じりあったり古いものがそのままの形で伝わる、 いわば,滞留型の
文化
圏となっている。
鹿角市史 第1巻
(0396)
平安末期あるいは鎌倉期に入ることを土師・須恵器の形式から実証している一、 鹿角における奈良・平安の土器
文化
奈良,・平安時代の土器
文化
の時代を、 別に土師器
文化
の時代とも呼んでいる。,土師器とは、 弥生式
文化
時代の後に来る古墳時代から奈良・平安時代にいたるまで、 ながく製作使用された
鹿角市史資料編 第33集
(0081)
以被下置、 廿六日出船長崎より南蛮国迄六百一十一里右国中広サ十万里四方、 但し六里を以て壱丁といふ
文化
六年午,、 寺中鎮守ハ右心得を以取計可申事右ノ通被仰出五月中野三左衞門橋本定右衞門勤中(注)中野三左衞門は
文化
八年三月,から同十一年一月まで、 橋本定右衞門は
文化
九年一月から同十二年一月まで、 ともに毛馬内通代官である,一四四
文化
九年七月被仰出諸寺院へ別紙ノ通御沙汰被成置候間、 向後法事等ノ節ハ親族菩提寺へ打寄懇二執行致候
鹿角市史資料編 第24集
(0106)
二御座候、 尤御普請奉行花輪毛馬内双方より御給人立合ニ御座候、 此度御沙汰ニ付右之段申上候、 以上
文化
六巳年六月別当廣増寺中里判左衛門殿赤沢儀左衛門殿御国中寺社御上御普請処,明和年中迄養源院様御代別段思召入を以被仰付候寺社ハ不書上及、 往古より御普請処計書上候事右之通被仰出六月
文化
七年庚午十月十九日虎千代様去,迄百弐本被下置度旨申出候間、 吟味仕候処差支無御座候間願之通被仰付被下置度奉存候、 此旨宜被仰上被下度奉願上候、 以ト
文化
七年十二月覚一,自然俗家へ忍居も難計ニ付御国中御觸渡し被下置度旨願出候間、 若居合候ハゝ可申出旨御沙汰之事二月是
文化
八辛未年之事奥瀬内蔵殿病気之処養生不相叶去,以上六月十六日屋形様益々御機嫌能當月廿二日御発駕被遊候間、 明廿六日恐悦(以下欠)九月廿五日中野三左衛門是ハ
文化
八辛未之事同年之事赤沢儀左衛門月山本社拝殿當四月
鹿角市史資料編 第28集
(0004)
この書留帳は、 鹿角瀬田石住の鋳物師田中彦兵衛の子平左工門が父の没後
文化
十二年から嘉永七年(安政元年,同じく墓誌銘に「然ルニ
文化
六年巳年不慮ノ災難ニ値イ、 父子兄弟処々ニ分離シ、 田宅器財盡ク散失シテ,職業モ殆ンド断絶セント欲スとした、 その
文化
六年に何事が起きたのであろうか。,本書羽帳の冒頭に、
文化
六年六月末瀬田石村を引き払って北監物家来山口庄之進の世話により、 大湯上町,この書留帳冒頭の記事によれば、
文化
六年彦兵衛はいったん大湯上町に移り、 五年後の同十一年ふたたび
鹿角市史資料編 第24集
(0105)
桜庭家へ警衛被仰付、 松山ハ大湯江警衛被仰付、 大地小坂ハ御境役へ同断、 御給人之儀ハ応援被仰付
文化
十一甲戌年三月信受霊神利直公御神号信奉霊神重直公御神号信行霊神重信公御神号右之通此度御悦有之候間,一統相心得可申候、 大明神ニ御勧請被成候とハ相違候事故、 都而御寺向ハ是迄之通ニ心得可申候事同年十一月
文化
十五戊寅年四月十壱日,一統相心得可申候、 尤大明神と御勧請被遊候とハ違候事故、 都而御寺向ハ是迄之通相心得可申候、 以上四月廿二日
文化
十五戊寅年也,、 此年文政元年と改元、 此元ニハ五月六日御達しニ成る
文化
五戊辰年十二月廿八日屋形様江去ル十七日御老中方御奉書御到来翌十八日御登城被成候処,、 御領分高廿万石ニ被直下、 且又侍従被仰付候由江戸より申来候、 此旨可被得其意候十二月廿八日
文化
六己巳年正月六日御家老大萱生石見殿外衛
鹿角市史 第1巻
(0214)
昭和五十三年には、 県
文化
課の富樫泰時氏が「大湯浮石層と鹿角盆地の遺跡」を発表した。,昭六)武藤一郎「鹿角郡大湯町に於ける遺跡の研究」『秋田考古会々誌』2-5九四七(昭二二)甲野勇「巨石
文化
,後藤守一・小田島邦夫・斎藤忠「大湯環状列石調査」『教育あきた」一九五三(昭二八)斎藤忠他『大湯町環状列石』
文化
財保護委員会後藤守一,『菩提野竪穴調査報告』
文化
財保護委員会
鹿角市史 第5巻
(0009)
四千年前の国指定特別史跡·大湯環状列石、 重要無形民俗
文化
財の大日堂舞楽、 かつて日本の,尾去沢をはじめとする大小の鉱山など、 価値ある考古遺跡や産業遺跡が今に残され、 古くからの民俗行事や
文化
財,またここで調査された文書類は、 私達の先祖が作り伝えてきた貴重な
文化
遺産として、 後世に伝えていきたいと
鹿角市史 第5巻
(0028)
北東北縄文時代の終末期は、 ことにゆるやかな進歩の過程をたどり、 独自な
文化
を継続しながら徐々に弥生
文化
,この地方に弥生
文化
の及ぶのは、 ほぼ一世紀ごろといわれ、 その先駆は稲作と鉄器であった。
鹿角市史 第2巻 下
(0542)
化政期南部領内とくに盛岡周辺では
文化
年代に入っても、 素郷門と平角門が勢力を二分しつつ活躍して・た。,
文化
三年(一八〇六)、 錦木塚別当黒沢其石が錦木塚の祭礼に詩歌連諧を集めて手向けようとして近隣の俳人,見送らばまた暑からめ鹿角野外言の葉に置露深しにしき塚花輪月琴其おもかけのおりからの月同雪外なお同書は
文化
年中
鹿角市史 第2巻 下
(0036)
不動尊(安永四年)…尾去沢鉱山跡地(元山の尾根)に立つ庚申塔…田中北嶺筆「戊辰役スケッチ集」から(市指定
文化
財,)…一郷土の画人川口月嶺の作品から…円六三一一一○九八六一第五章鹿角の商業【写真・図】第1図
文化
一一年毛馬内町,5表天保一三年~嘉永二年鹿都屋の酒移出状況…九十第6表天保五年佐庄の大館・弘前への鉄移出…一〇第7表
文化
六年能代,からの移入綿…一〇一第8表
文化
一二年秋田からの移入綿…一〇一一第9表若松屋加入無尽一覧…一一八第〓表花輪通
鹿角市史 第2巻 上
(0324)
数例をあげると)
文化
元年四月毛馬内代官所の内箒畑村惣百姓共の願出により、 春の雪代水で欠込大破した大湯向村杉堰根口,)
文化
二年六月毛馬内村前川が雪代で出水し毛馬内川原丁まで欠込大破したので「右御場所川留切井堀先御普請」,○
文化
三年一一月毛馬内通柴内村の御蔵・給処御田地用水堤四カ所が大破したので来春の仕付前に土手繕普請をしたい,はかにも
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七年の古川村前川原の普請のため出人足一、 一九四人、 同一〇年の瀬田石村田地欠込普請に
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