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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史資料編 第3集 (0062)

ヶ年総死亡数文政八年より(此年両帳に亘る)嘉永三年ニ及ぶ、 二十六ヶ年間総数一千四百三十五人、 本町三百八十一人,、 一ケ年平均五十五人強文政十一年五十一人天保元年七十五人同年本町分二十人同三年五十九人同年本町分九人同四年六十四人囘年町町分十九人囘五年百七十九人同年本町分六十五人同六年五十二人同年本町分十二人同七年六十人同年本町分十六人同八年百二十九人同年本町分二十九人同九年八十八人同年本町分二十二人同十年百三十四人同年本町分三十三人千四百七十人,、 八、 十、 三ヶ年計数四百四十二人、 本町百二十七人を以てしても未タ天明四年一ヶ年ニ及ハズ,より三十三年迪、 十ヶ年間総死数八百四十四、 本町百七十八人ニ上ル。,是不老倉鉱山発展、 外来人の増加と本町ニ於ける自然人口増加之為なるべく、 本書の調査も是ニて打切る
鹿角市史 第2巻 上 (0538)

○明暦四年三月十三日一、 白根御米売り、 本町壱町ニて十年餘り勤め申スニ付て、 訴状上り候ニ付、,本町、 新町此の二町ニて替ル替リ相勤め申す可き由仰出ださる。,このことは明暦四年三月の記事に、 白根の払い米を本町一町だけで一〇年余りも勤めてきたので、 願い出,もあることから今後本町と新町の二町で交互に勤めるように、 とあることにかかわる。,藩がこのように城下町商人に払い米の特権を与え、 しかも個人というよりは城下町の本町や新町といった特定
鹿角市史 第2巻 下 (0101)

余に「白根金山米賣、 本町四郎兵衛代同町清蔵を今日遣ス」とあり、 この年の白根納米は盛岡本町の四郎兵衛,白根への納米は一〇年余り本町の商人が独占していたとみえ、 『雑書』明暦四年三月一三日条には一、 白根御米賣,、 本町壱町にて十年余り勤申に付て訴状上候ニ付、 本町新町此二町にて替々相勤申可き由仰出さる。,として、 本町の独占に対し新町から不満の訴状が出されている。
鹿角市史 第2巻 下 (0057)

毛馬内町の始めは寛永年中乙亥年(同一二年一六三五一で、 元来上小路が本町である。,へかけて毛馬内氏、 のち桜庭氏の家中屋敷地区が定まり、 その下タの低地に商・職人町として御町(現在の本町,毛馬内家数一九一軒、 人数一、 五三〇人、 内給人三六〇人、 足軽一四五人、 町一〇丁の内本町四丁,本町(上町・中町・下町)西端の他領往来ぞいに山見同心の御山見町、 街道にそう町の南端に十五人御同心丁
鹿角市史 第2巻 下 (0084)

御町用水」とも記録される)は慶長の町割り以来と伝えられるが、 汁毛川から引かれた水は下小路を流れた後本町,本町では両側に分かれ側溝状に流れ下っているが、 古い時代にはおそらく生活用水として堰縁に洗い場流し場,清水を多量に使う本町の酒屋筋では、 起源は明らかでないが既に宝暦(一七五~六四)以前に立派な上水道を
鹿角市史 第4巻 (0174)

来満御道は本町から横丁を曲り萱町に続く町口には、 十五人御同心丁が置かれていた。,谷地田町は本町とも呼ばれ、 六口町にかけての町裏が寺小路となっていた。
鹿角市史 第3巻 下 (0007)

急耕ヲ教ヘタリト云フ年南〓雑部五郡封セレせ々南部藩ノトトリ宅慈置毎營ハカ縣又対縣料明治三〓〓田事テ〓至本町,不老會塗毒真木〓山〓一精洋ヲ有ゼ錢ミ対シノ資ノ供金ヲ爲シ以テ商汚〓臣盛リ阪鉄道、 杖田笠道等希送株團設〓、 本町
鹿角市史 第3巻 下 (0013)

毛馬内下小路通り(大正初期花輪町上通り毛馬内本町通り(昭和初期)花輪町下通り思い出の町角花輪六日町通り
鹿角市史 第5巻 (0075)

三·一三白根金山への米売、 盛岡本町一町で一〇年余り勤めたので以来本町新町二町で交互に勤めるよう
鹿角市史資料編 第3集 (0061)

享保二十年迪四十八ケ年間死亡総数(檀徒数不明一千七百十七人、 内本村分六百二十三人一ヶ年平均三十五人八分弱、 本町分同十三人弱此四十八,総数三千三十四人、 本町分九百十八人五十年平均一ケ年六十人強、 是ニ大凶作を包含せる以外五十人以上死亡率多数,元文三年五十四人同五年六十三人寛保元年五十八人同二年五十二人同四年八十三人同三年九十五人同年本町分九十人安永五年八十六人同六年五十四人囘三年七十五人同三年五十四人延享三年五十六人寛延元年八十一人宝暦三年五十八人同二年八十二人囘六年三百六人明和八年百二人天明元年百一人同四年五百十四人
鹿角市史 第3巻 下 (0393)

大湯新町長谷地政民は、 その式辞のなかで「本町は十和田湖往環道路の関門を扼し十和田風景の普美又よく我国,に冠絶し世界的名声を博するに及び貴顕万人観賞の的となり自然温泉地たる本町に歩を停むるの鹿角特報、 昭三数歳毎
鹿角市史 第2巻 下 (0087)

もう一つの親井戸は現在の大里文雄家屋敷にあって、 二つの水が集められて本町つき当たりの制札場の待ち井戸,そこから本町通りのほぼ中央を一メートル内外の地下で下り、 上町と中町の境目近くで北側に折れ、 多助屋敷
鹿角市史資料編 第28集 (0029)

〆十一味内蔵〓蔵人〓御制衣服御沙汰左之通丹波(丹波○勘解由○在江戸卯兵衛願人本町七兵衛請合野辺地町伝之助本町検断左七一
鹿角市史 第3巻 下 (0006)

明治三年二月江梨尋ノ所書トサ町支廳ヲ〓ケ〓郡及陸〓二戸郡ヲ毒治ス明治五年三月以降秋田縣ノ管轄二帰シ明治十二年一月本町郡後所
鹿角市史 第4巻 (0492)

取締人は花輪では個人であったが、 毛馬内では本町通り三町内から選出されていた。
鹿角市史 第5巻 (0649)

1551140014692下503白山(小豆沢)4647銀栄3上429 · 430四郎兵衛(盛岡本町,;御用達)上12 · 455 2下203神左内甚三郎(山守)2上3872上483新七(盛岡本町
鹿角市史 第4巻 (0173)

第1図昭和10年代の毛馬内本町通り(昭和初期、 ムラの人々がマチに出る服装は、 女は自分で織ったヌノ
鹿角市史 第4巻 (0750)

その順序は、 一日目が本町通り、 二日目五軒町、 三日目上町、 四日目中町、 五日目下町、
鹿角市史資料編 第5集 (0084)

當処月山様之御発礼同様誠ニ面白事ニ手前ニてハ赤飯を盆ニ仕へ参り候人数へ不残仕へ候事御通り筋共横丁廻り本町
鹿角市史 第5巻 (0139)

この秋盛岡本町利兵衛が熊沢御境ぶな森よりおっこ生木材木剪出、 地他払の証文を請け山働す。
鹿角市史 第4巻 (0171)

花輪では横丁・新町・大町・谷地田町・六日町と、 鹿角街道に沿う町並が御預かり御町で、 毛馬内では本町通
鹿角市史 第4巻 (0205)

同町は町通りの中央部にあったことから祭典の中心となり、 本町と呼ばれていた。 。
鹿角市史 第4巻 (0739)

大神楽は、 笛吹きの死亡により中止となっているご神幸は里宮から下町-横丁-萱町-南-城ノ下-五軒町-本町
鹿角市史 第5巻 (0211)

公事抄一二 ·十和田鉛山請負の五戸町与三右衛門が御礼金を納め兼ね、 毛馬内本町七兵衛へ鉛山
鹿角市史 第5巻 (0310)

尾去沢鉱山山史六·一花輪本町通りに初めて軒燈が点火された。
鹿角市史 第3巻 上 (0173)

明治二十二年四月十一日元毛馬内村外二ケ村戸長本田延司鹿角郡長小田嶋由義殿毛馬内町選挙録毛馬内町議員二級選挙本町会
鹿角市史 第4巻 (0198)

また本町通りの各商家では昭和に至るまで、 防火用水として一斗五升入りの醤油樽や二斗入りの樽に水を満たし
鹿角市史 第2巻 上 (0537)

○同年十月廿八日一、 白根御金山米売り本町四郎兵衛代り、 同町清蔵を今日遣ス。
鹿角市史 第5巻 (0208)

六·一九三日の間盛岡榊山本社光堂遷宮の祭礼を仰付け同られ、 毛馬内では本町三丁より屋台并小踊芝居色々見世物
鹿角市史 第2巻 上 (0078)

赤尾氏は宇多源氏浅井氏と伝え、 近江国浅井郡赤尾村滋賀県伊香郡木之本町赤尾カ)の在名によって赤尾氏に
鹿角市史 第2巻 下 (0493)

○『御醫師御願之部』(年次不明)八月廿六日一、 一、 花輪御役医格武村操庵弟立庵忰立右は江戸表本町四丁目新道住居御町醫川村寿庵方江為差登
鹿角市史 第5巻 (0137)

諸山開立年限附この年長坂金山、 山師盛岡本町清兵衛·仙台岩井屋六郎兵衛が稼行す。
鹿角市史 第5巻 (0096)

に毛馬内家数一九一軒、 人数一、 五三〇人、 内給人三六〇人、 足軽一四五人、 町一〇丁内本町四丁
鹿角市史 第2巻 下 (0295)

代官所に差出す願書や村々への廻文は、 花輪に医学修業に来ていた盛岡本町合羽師新七の弟周徳に認めさせた
鹿角市史 第4巻 (0077)

八四第〓図ワラダ…八工【表】第1表雪の統計五六第三章マチとくらし【写真・図】第1図昭和〓年代の毛馬内本町通
鹿角市史 第5巻 (0374)

レベル小真木鉱山の白根竪坑掘下げ工事8Lに達した小真木鉱山の沿革一一·花輪町本町通り第二期道路舗装終
鹿角市史 第2巻 上 (0400)

盛岡市中の密造酒が摘発され藩役人がその容器を毀して廻ったため、 本町新町附近の街路は一時酒が川の如く
鹿角市史 第3巻 上 (0483)

その県知事への届書によると、 今般有限責任小真木鉱山会社創立許可、 本社を東京日本橋区本町二丁目におき
鹿角市史 第2巻 下 (0061)

本町通りの町屋の大部分が間口三、 四間、 奥行三〇間前後であるが、 最大のものは中町の若松屋市右衛門
鹿角市史 第2巻 上 (0628)

その後長坂山は仙台岩井屋六郎兵衛と盛岡本町清兵衛の請負となったが山勢は良くなかったらしく、 寛保二年
鹿角市史 第5巻 (0570)

保田菩提野〔花〕菩提野湿原菩提野扇状地仏沢袋部(山)掘合坂〔毛〕堀内本郷〔藤里町〕盆坂本城〔森吉町〕本町
鹿角市史 第2巻 上 (0350)

請人毛馬内町甚六)秋田出することを許され、 米代川の川通証文を与えられた(『雑書』)○寛保元年秋兒保元年秋盛岡本町利兵衛
鹿角市史 第2巻 上 (0472)

年迄七ケ年御礼三千五百貫文無差引上納仕筈、 銅鉗一通ニ相成候テ御礼銭弐千六百貫文ノ積、 山師森岡本町清兵衛同仙台岩井屋六郎兵衛
鹿角市史資料編 第28集 (0016)

未ノ年迄五ケ年中被仰付置候処、 同人義不繰合二て御礼金五両并拝借米拾五駄不納仕候上働方相及兼候ニ付本町七兵衛江譲山
鹿角市史資料編 第8集 (0153)

京都大坂表引替御用相勤候者之内へ差出、 江戸近国奥羽最寄より差出候者ハ江戸引替御用相勤候者共之内并本町壱町目御金改役処江直々差出
鹿角市史 第2巻 上 (0352)

とも)が五カ年中御礼金一、 二〇〇両で去年春より請負いながらその納金に難渋していた処、 代わって本町吉郎治
鹿角市史資料編 第28集 (0089)

目明江御預組合親類附添、 外ニ御同心両人附添御給人見廻、 御同心賄長松親類組合難渋願出ニ付、 本町通壱組江壱日宛賄被仰付
鹿角市史資料編 第24集 (0084)

渡被成候、 若無判一て致密〓候者在之候ハゝ、 見當次第捕押可申出候、 右水漆御買上之儀は御蒔絵師儀作本町廣治
鹿角市史資料編 第28集 (0036)

く近村馬足通路也、 十一月廿六七日迄同十二月世三四日迄馬足通路仕候、 至て雪薄キ年ニ御坐候、 本町并脇町共
鹿角市史資料編 第2集 (0122)

付木丁江徒桐油頼遣候処同月廿日ニ帰宅いたし廿一日八戸江罷越候、 八月廿一日向ノ平斉殿去ル十日ニ盛岡表へ罷越候処今日罷帰り本町
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