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鹿角市史 第3巻 上
(0240)
一六年の秋田県の道路政策案は、
来満街道
について次のように記している。,
来満街道
のうち青森県夏坂村から秋田県境までの数里は、 青森県が二五・二六両年度継続として改修工事を行,このように
来満街道
の改修は、 単に当該地方を益するだけではなく、 船川港から五城目街道を経て本街道,このように、 県は
来満街道
の重要性を説いている難工事続く米満街道の改修工事は三四年の臨時県議会の議決,『
来満街道
改修工事禀申書類』秋田県庁所蔵)によれば改修すべき路線は、 起点の松ノ木から古川橋付近まで
鹿角市史 第3巻 上
(0241)
この改修に先だち、 三三年大湯村の行なった
来満街道
の調査では、 通行する人、 荷物について次のように,いために人馬の交通が出来なくなることもあるが、 四、 五日間にすぎないとも述べている東北その後の
来満街道
,調査意見書』諏訪家文書)でも、 鉄道と道路の関係について、 毛馬内を中心にしての利便は、 三戸駅から
来満街道
,この意見書ではさらに、
来満街道
の改修後に本郡のう
鹿角市史 第3巻 下
(0178)
第三節交通・通信の整備観光道路と産業道路明治後期から本格的に整備されて来た
来満街道
は、 未改修県道のうち,鹿角関係では、
来満街道
は、 大湯上ノ湯から青森県境間、 十和田街道は、 大湯から銚子の滝間、,
来満街道
は、 九カ年にわたり最も多額の経費を要する工事とされ、 他県と連絡する広域交通道路として重要視
鹿角市史 第4巻
(0449)
来満街道
松の木から分岐し、 東北行して毛馬内・大湯を通って来満山中を越え、 三戸に達するのが
来満街道
,藩制期、
来満街道
の果した大きな役割は尾去沢銅山から野辺地湊へ向かう御用銅の駄送にあった。
鹿角市史 第3巻 上
(0239)
来満街道
来満街道
は鹿角街道から錦木村松ノ木で分岐して、 毛馬内・大湯を通り、 来満山中(旧継立塲を,さらに一九年には青森県令から秋田県令に対し、
来満街道
の県境付近の連絡促進工事について協議したいという
鹿角市史 第3巻 下
(0179)
同五年に
来満街道
の改修工事費の一部として、 不老倉鉱山から秋田県へ一万円が寄附されている。,同八年、 秋田県の道路改修計画により、 大館三戸線(
来満街道
)と十和田湖線(十和田街道)の改修が、
鹿角市史 第2巻 下
(0029)
旅行、 在町商人宿二、 鹿角の街道二九四〓鹿角街道二九一横断路・鹿角往来、 困難だった街道維持〓
来満街道
二九九奥筋往来
鹿角市史 第3巻 上
(0243)
四四年一二月には大湯村長から県に対し、 大湯中之橋の架橋申請が出されている(明治四〇『
来満街道
改修工事実施設計,現鹿角郡その道筋は、 毛馬内の仁叟寺前で
来満街道
から分岐し小坂村一)を通り、 北上して坂梨峠を越え
鹿角市史 第2巻 下
(0339)
〓
来満街道
奥筋往来鹿角街道から室田(松の木)で分岐して毛馬内に入り、 毛馬内から大湯を経て来満山中を,越え三戸(青森県)に達する街道が、 いわゆる
来満街道
である。
鹿角市史 第4巻
(0450)
濁川街道明治にはいると不老倉鉱山の開発により、 来満山の山麓を越える来満越えや不老倉峠越えが、
来満街道
,濁川街道は毛馬内で
来満街道
から分岐し、 北に向かい小坂を経て坂梨峠から碇ケ関に達する道とある。
鹿角市史 第5巻
(0277)
定む八月自家用酒製造人心得を定む九月秋田山林事務所は官林二·一九県布達により鹿角街道、
来満街道
,の街道名に改五 ·められ、
来満街道
は来満峠に至ると表記される。
鹿角市史 第3巻 上
(0040)
・舟運の整備…一七五〓新しい道路政策…一七五〓鹿角を通る主要道…一七六鹿角街道、 長道を開く、
来満街道
鹿角市史 第4巻
(0053)
一陸上交通…三六一〓鹿角街道、
来満街道
、 濁川街道、 銅山道、 花輪大湯線二河川交通…三六八米代川
鹿角市史 第4巻
(0424)
これらの牛は藩制時代には尾去沢銅山の銅を、
来満街道
を通って野辺地まで運ぶために使われた。
鹿角市史 第3巻 上
(0247)
二六年の「
来満街道
筋船舶出入表」十和田支所蔵)には、 荷馬車で運ぶようになったので船便が少なく一、
鹿角市史 第4巻
(0257)
藩制時代の大湯は
来満街道
の宿駅として旅人の多かった所であり、 街道を通って運ばれる物資の集散地だった
鹿角市史 第3巻 上
(0493)
また三三年九月、 郡役所の
来満街道
路線調査にかかわる役場照会に対し、 鉱山は次のように回答している
鹿角市史 第4巻
(0439)
原料は、 八戸方面から
来満街道
を牛の背で塩や魚と一緒に運ばれた玉ハガネを使用した。
鹿角市史 第2巻 下
(0343)
来満街道
道橋の普請や伝馬機能の維持、 不時の人馬徴用による付近の村々の経済的・労力的負担は頗る重いものであった
鹿角市史 第3巻 下
(0368)
五年には、 難工事といわれた県費負担道路・
来満街道
の改修について、 鉱山は同街道小又沢より鎌ノ沢間改修費
鹿角市史 第3巻 下
(0654)
一つの路線に林道と市道の二つの路線名が付けられており、 不老倉林道は、 旧県道である
来満街道
を継承
鹿角市史 第4巻
(0254)
江戸時代の後期になると、
来満街道
を越えて往き来する人たちや、 十和田参りの人たちの宿として利用されたことは
鹿角市史 第4巻
(0480)
市内では鹿角街道に鶴田・下タ町・花輪(新田町)の三カ所、
来満街道
には中ノ渡に設けられていた。
鹿角市史 第2巻 下
(0340)
来満街道
は下小路から仁叟寺横の寺の沢坂道へ入り、 登りつめて上野の台上を北東へ進み腰廻村の上へ出た。
鹿角市史 第3巻 上
(0248)
を通って大湯に達する寺坂道大湯道または花輪道ともいった)の改修を行なって、 花輪方面から大湯を経て
来満街道
鹿角市史 第3巻 上
(0394)
については「マルメロ罐詰三千個、 三百六十円、 行先東京府、 青森県、 本県内」(「毛馬内町
来満街道
貨物継立表
鹿角市史 第4巻
(0090)
小坂への入口でもあり、 かつ
来満街道
に沿う宿場町、 在町として商業が盛んであった。
鹿角市史 第4巻
(0856)
その後は
来満街道
を越え、 三戸城を経て九月一日に盛岡城へ帰っている。
鹿角市史 第2巻 下
(0174)
来満街道
は御用銅輸送の銅の道であり、 八戸方面の海産物や奥塩・上方塩の塩の道でもあり、 また綿や木綿
鹿角市史 第5巻
(0461)
ラ
来満街道
改修工事実施設計来满街道改修工事禀申書類落馬記 杉村楚人冠3上1843上1813下351 4183
鹿角市史 第3巻 下
(0180)
来満街道
の改修工事は、 秋田県と青森県の協定により両県の継続事業として行われて来た。
鹿角市史 第2巻 下
(0313)
がいわゆる鹿角街道で、 毛馬内から大湯を経て関、 田子、 三戸、 とつながるのが奥筋往来明治以降の
来満街道
鹿角市史 第3巻 上
(0235)
境に至る道路は鹿角街道となり、 錦木村)で鹿角街道から分れ毛馬内村を経て大湯村来満峠に至る道路は木
来満街道
鹿角市史 第2巻 下
(0066)
同心丁の下手から
来満街道
は北向きに下の湯へ坂を下る。
鹿角市史 第5巻
(0499)
ラ
来満街道
来満鉱山ラジオランプリ里正里長里道理念寺 [石野]龍江寺 [夏井]隆昌寺 [小枝指]龍神信仰流木拾
鹿角市史 第3巻 上
(0242)
七滝このような状況から、
来満街道
と大湯村で分岐し大湯川にそって発荷()に達する道路の改修は、 鹿角郡村政
鹿角市史 第2巻 下
(0065)
八戸南部氏や三戸南部氏が鹿角経営、 津軽経営のために往来した重要路、 八戸-三戸-大湯の、 後年
来満街道
鹿角市史 第2巻 下
(0341)
阿久谷川に沿う不老倉道は更に奥へ延びているが、
来満街道
は萬延この上折戸から北側の山路へかかる。
鹿角市史 第4巻
(0788)
シロは疲れを忘れ、 主人のために雪の
来満街道
をまた三戸めざして夜通し走り続けた。
鹿角市史 第5巻
(0565)
677 · 7814423下2762上233· 238 · 250ラ
来満街道
来満鉱山来満峠来満山
鹿角市史 第5巻
(0549)
#183;426 · 456 · 5172下273 · 299~301→
来満街道
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