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鹿角市史 第5巻
(0621)
#183; 5572上6653上388日戸 十(重)内 2上45· 60白渓2下505白道
桧山
五二郎
桧山
御前,3下6753下42 · 431509
桧山
作兵衛
桧山
作兵衛尉15071508
檜山
浩3下324平泉屋治兵衛
鹿角市史 第1巻
(0539)
雌雄分ち難からん程の手ごわさをもっていたのである四、 永禄の合戦秋田愛季鹿角を侵す水禄に入って、
桧山
城主安東愛季,
桧山
安東氏の舜季の子で、 湊安東氏の堯〓の娘を母にもつ愛季は、 やがて湊家を合わせ、 比内浅利氏,まもなくその鉾先は鹿角に伸び、 はげしい攻防戦を展開することになるが、 近世の史伝書はこれを「
桧山
陣
鹿角市史 第1巻
(0659)
やがて仏教との習合によって毘沙門天と結びつき、 判別し難くなったものもある米代川の下流、 能代市
桧山
,の
桧山
神社に合祀されている古四王神は、 坂上田村麿によって淳代に勧請され、 示亀三年(一五七二)に,安東実季が
桧山
に再興したと伝えられている。
鹿角市史資料編 第29集
(0151)
郎被遣候之處夜ニ入罷帰る、 花輪通之宿陳之様子承候處、 官軍肥藩秋藩共ニ五百人程滞陳、 右江大館公
桧山
并十二処茂木,御役人四戸清九郎花輪通江御用有之罷越、 御向立釦万手伝常助若党同処中通千代治御召連被成候、 暮方御帰り被成候、 秋田十二処
桧山
人数花輪,大館藩館直吉壱人奈良勇之助江用事有之同人宅迄罷通申度旨願出候ニ付、 案内なしニ相通し、 尤花輪へ立帰之趣申出候、 去八日頃より秋田
桧山
之辺
鹿角市史 第2巻 下
(0620)
同月一二日花輪通の官軍宿陳の様子を聞くに、 肥前小城藩秋田藩共に五〇〇人程が滞陳のところへ加え、 大館と
桧山
,秋田十二所
桧山
の人数は花輪宿陳の所、 今日帰国の由、 大館人数は田山辺より引返し今日花輪泊りの趣である
鹿角市史 第2巻 上
(0038)
当時の鹿角をとりまく群雄割拠の情勢を概観すれば、 東に三戸城主南部氏があり、 西には
桧山
城主安東氏,一方安東氏は秋田(〓)、
桧山
田郡山本北秋一の二郡を領有して確固たる勢力を有していたが、 東進策をもって
鹿角市史 第1巻
(0558)
寄手は阿仁城主加成播磨守、 米内沢城主右馬頭、
桧山
作兵衛尉、 野代伝右衛門尉、 船川仁兵衛尉,追討ちされ唐牛兵蔵は小繋六大夫に、 毛馬内源治は
桧山
与力の水間喜右衛門にと討取られる者も多かった。
鹿角市史資料編 第29集
(0152)
事と怪しミ若敵打入等ニも有之候ハゝ
桧山
大館十二処三家御当領江出兵も有之間敷、 能代より徳川勢攻入抔と,申風説も有之候得共真偽定かならず、 然る所御目付嶋川瀬織秋田より帰国ニ付
桧山
より久保田之方迄放火ニ相成
鹿角市史 第5巻
(0046)
和歴(西暦)一 般 的 事 項下国安東政季、
桧山
に入る鹿 角 関係 事項出 典長禄四(一四六〇)小豆沢大日堂
鹿角市史 第1巻
(0538)
か明らかでないが、 この措置はやがて起こる永禄の
桧山
合戦の前奏曲であったかも知れない。
鹿角市史 第5巻
(0189)
許可するこの年二月盛岡藩北郡の
檜山
同制度の弛緩を聞き取締を厳しくする五月伊能忠敬青森地方を測量し三厩に
鹿角市史 第5巻
(0056)
和歴(西暦)(一六二五)一般 的 事 項制を定む鹿係係角 関事 項出 典寛永五(一六二八)七月
桧山
御前
鹿角市史 第5巻
(0149)
;借金銀は返済不要と令示する幕府諸国に巡見使を派遣する同幕府諸大名に囲米命ずこの年盛岡藩、 田名部
桧山
御山制度
鹿角市史 第2巻 下
(0623)
一昨日より出張して来、 花輪三〇〇人、 毛馬内三〇〇人、 大湯二〇〇人、 十二所、 大館、
桧山
等
鹿角市史 第1巻
(0521)
比内には
桧山
安東氏の勢力が次第に浸透してきており、 十六世紀の初め浅利氏本流といわれる浅利則頼が甲斐国
鹿角市史 第3巻 上
(0255)
この時設けられた取扱処は、 県北では山本郡森岡(森岳)・
桧山
・荷上場・秋田郡綴子・大館であった。
鹿角市史 第3巻 上
(0258)
本道筋=下院内-湯沢-横手-六郷-大曲-刈和野-境-戸嶋-久保田-土崎湊-一日市-森岡-
桧山
-荷上場-
鹿角市史 第5巻
(0226)
大飢饉を呈す同田名部
桧山
山火事、 江三·七真金山、 田郡沢勝之助働方の処凶作のため山元手配届
鹿角市史 第1巻
(0577)
一天正十九年辛卯九戸陣落居之時、 浅野弾正御家来内山助右衛門仰付けられ南部中館崩しニ廻り申され候時分、 長牛城ハ先年
桧山
陣
鹿角市史 第1巻
(0589)
被成候、 先年内山助右衛門廻候時急用ニ付罷登り相残所有之ニ付安房被遣候、 其刻も長牛へ被参右之通
桧山
勢之時覚之館
鹿角市史 第2巻 上
(0397)
渡部斧松この鹿角鎌の製法を学び取るために毛馬内山崎家へ弟子入りした渡部斧松は
檜山
の生れである。
鹿角市史 第1巻
(0559)
忠二郎英季は間もなく病没し、 信直二女は三戸へ帰り
桧山
御前と呼ばれ、 同町長栄寺に墓がある。
鹿角市史 第3巻 下
(0376)
『鹿角のあゆみ』によると、 後生掛における硫黄山両国鉱山は昭和一二年三月谷内阿部仁八より兵庫県
檜山
浩
鹿角市史資料編 第29集
(0166)
両鹿角為御警衛秋田藩八百人一昨日より両通出張、 其内花輪百人毛馬内三百人大湯弐百人、 十二処大館
桧山
等之人数之
鹿角市史 第2巻 下
(0543)
羽州久保田〕涼雫〔羽州
桧山
〕祐左衛門〔八戸〕近藤平直〔盛岡〕沢田義昌〔花輪〕千友、 吐璋、 月琴、
鹿角市史 第2巻 上
(0483)
その落城の後には佐竹家に仕え、 その子孫は
桧山
に仕したという。
鹿角市史 第1巻
(0550)
比内もまた秋田愛季の侵略が着々と進み、 秋田側記録では天正十一年三月浅利義正が愛季と和睦の上
桧山
での
鹿角市史 第3巻 下
(0094)
川又敬孝、 亀山三五郎、 渋谷源吾、 田中清、 小松末治、 高屋金次郎、 川村市三郎、
桧山
五二郎
鹿角市史 第3巻 下
(0095)
弁士として加藤勘十、 高橋長太郎、 木村定治、 沢田芳雄、 本田政美、 斉藤三治、
桧山
五二郎
鹿角市史 第5巻
(0352)
三 ·後生掛の硫黄山両国鉱山を兵庫県
桧山
浩操業す四 ·一宮川村養蚕実行組合大日本蚕糸会
鹿角市史 第1巻
(0557)
米内沢阿仁常陸介資清一門、 阿仁播摩守一門、 片山駿河守、 山田十郎左衛門、 斎藤高橋、
桧山
作兵衛
鹿角市史 第2巻 下
(0600)
佐竹大和、 茂木筑後、 須田政三郎三将の会議で、 とかく連絡不十分だった諸隊の統一をはかり、 かつ
桧山
多賀谷長門隊二六
鹿角市史 第2巻 上
(0063)
其刻も長牛へ参られ、 右之通り
桧山
勢の時、 覚之館に候間居り申すべく候。
鹿角市史 第1巻
(0540)
西隣の勢力安東氏を利用しようとする党派の出るのは、 自然の成行きであったといえる永禄八年七月頃、
桧山
方
鹿角市史資料編 第30集
(0060)
不容易御不都合ニ付、 色々御金配御取尽被成候得共危急ノ御場合御都合二至兼、 無御拠当秋御収納米并御定例大豆
檜山
御礼金丈御引宛被成
鹿角市史資料編 第16集
(0116)
一、 取纒ケ処左之通十二処大館米内澤村船越村土崎村
桧山
能代村上院内湯沢増田横手六郷村角間川角館長野村大曲村刈和野村此程御布告之通澳国博覧會江御国産被差出候
鹿角市史資料編 第27集
(0086)
て割印を据可相渡事一右同断弾薬器械共銃砲之通可相心得事一取纒ケ所左之通十二所大館米内澤村船越村土崎港
檜山
能代村上院
鹿角市史 第5巻
(0572)
日暮躰(平)比内町〔北秋田郡〕日向屋敷桧木内〔仙北郡〕
桧山
平沢(平津沢)平間田〔岩手県〕平元(村)昼森沢冷川冷水
鹿角市史資料編 第1集
(0109)
御帰国被遊候但彦太郎様に佐竹侯之御姫君被進之旨風説有之候得共是は如何有之候哉、 前書官軍秋藩之内十二処大館
檜山
之三家同勢千人
鹿角市史資料編 第29集
(0006)
二條殿関白となり藩賊征伐を仰出され近々佐竹へ仙藩三千人徳川旗本三千人差向けられると」、 一〇月一四日
桧山
鹿角市史資料編 第1集
(0031)
を下して是を禁したり○此日楢山氏は扇田を出両将より少し後れて大館谷地町より打入しかこハ応援に来て居し
桧山
鹿角市史資料編 第1集
(0028)
あたりまて居たりしと思わるゝ○此時軽井沢村民なるよし我陣中に風と入来れハ是をからめ捕数〳〵物問ふ中に
桧山
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