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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第2巻 上 (0042)

政信津軽郡代として波岡城に居り、 為信之が輔佐としい郡内叛族の裁定に功あり。,(天正)十八年二月二十七日津軽為信は遂に駿河に上り、 秀吉の東征を待ちて沼津に謁し、 津軽一郡安堵,されば南部は津軽を目して叛臣と呼び、 世々之を悪み、 津軽は又南部の臣にあらずと称して永く之〓対抗,、 津軽聞記、 津軽家譜、 津軽一統志、 奥羽永慶軍記)南部氏は糠部・鹿角・閉伊・岩手の四郡のほか,田舎・平賀・鼻和のいわゆる津軽三郡を合わせた七郡を本領と
鹿角市史 第1巻 (0496)

したので、 急ぎ津軽に下向した。,しかし、 この頃すでに、 陸奥守北畠氏の津軽平定大動員をうけた安保氏らは、 津軽各地に戦果を挙げ,建武元年十一月、 津軽北条氏余党の乱はほぼ平定され、 主謀者は国府に送還、 その他は津軽に留置されることになった,このような降人を安保氏や瀧瀬氏が預けられたことは、 彼らが津軽合戦で国府方武将として活躍した結果にほかならない,瀧瀬彦二郎・安保弥五郎は、 その通名の示すとおり安保一族の庶子であるが、 鎌倉末期の得宗領津軽に所職
鹿角市史 第1巻 (0582)

一生一人扶持ヲ賜フ大湯五兵エ昌光二男一生浪人ニテ鹿角郡ニ死大湯彦右エ門-某大湯彦右エ門兄ト倶ニ津撃へ出奔シテ津軽土佐守,ニ仕テ二百石ヲ領ス兄ト倶ニ津軽へ出奔シテ津軽土佐守ニ仕テ二百石ヲ領ス母毛馬内氏父トニ津撃へ出奔シテ後土佐守,奈良惣領の大湯佐左衛門督(左衛門督ともあり)の嫡男四郎左衛門が王正十九年誅死し、 二男二郎左衛門は津軽牢人後召返,され弐百石、 三男彦左衛門は津軽越中へ奉公、 その後大湯は毛馬内靱負従弟大湯五兵衛領知す、 と述
鹿角市史 第2巻 上 (0351)

建置き、 他領者の紛れ入らぬ様に申渡されている(同前))安永二年二月毛馬内町山師伊勢屋四郎治、 津軽黒石薩摩屋四兵衛,が「恐れ乍ら願上奉り候事」として、 昨年古遠〓・相内両御山より杉柾井に木舞桶木取を剪出し津軽出と共に,毛馬内土場にて商売することの御証文を頂戴し杣入したが、 津軽出往来の古道は背負いにて運ばねばならぬ場所,であり、 折柄諸物価高直のため諸懸りや雇夫日用代等も〓いの外相増し、 津軽出と地払だけでは引合兼ねる,木品の出し方は山元にて御改めを得た後八戸出は夏坂村御番所を通り、 秋田出は松山村御番所を通り、 津軽出
鹿角市史 第1巻 (0495)

唐角郡で、 新たに姿を現わしてくる武士に、 安保弥五郎入道や瀧瀬彦二郎入道らがいる前述のように糠部・津軽地方,この安保弥五郎入道は、 まず建武元年六月に津軽平賀郡沼楯村領主としてあらわれる(建武元年六月日曽我光高申状遠野南部文書,沼楯村は、 鎌倉期得宗領津軽の中で、 得宗御内人片穂氏や曽我氏が地頭代として所務をとってきた所領である,新政権樹立後の津軽は、 なお北条氏余党の拠点となっていた。,手継証文をもつ曽我光高は、 幕府滅亡直後は父光頼と共に鎌倉で警固役を勤めていたが、 一族の曽我経光らが津軽石河城
鹿角市史 第1巻 (0436)

御社有り年号ハ知らず昔此猿賀野権現何の国より御飛成され候哉此さるかの一夜御越をかけ成され候と申す其より津軽,へ御飛成され候と承り候今ノ猿賀神宮是也」とあり、 ここでは津軽との関連も述べられている。,その後安東氏・北畠氏や津軽歴代藩主が深く信仰し、 秋の例大祭は岩木山神社・小栗山神社と並んで津軽の秋,の三大祭りとして賑わってきた(船水清『津軽の祭りと行事』)。,しかし、 田道将軍戦死の地は津軽にも伝えられている。
鹿角市史 第1巻 (0545)

聞老遺事』は元亀三年と永禄六年の二説をあげ、 『南部系図』は天正十年正月病没としている次には、 津軽地方,この頃津軽は大浦為信の台頭が著しく、 津軽〓史料によると元亀二年為信は石川城を攻撃して南部高信を滅ぼし,さらに諸勢が加わり、 まもなく三百五十騎となったので五十騎は馬門に残し置き、 三百余騎をもって津軽,津軽を平定した高信は石川城に居城、 石川氏を称し津軽郡の統治に当たった奥南落穂集』によると、 この,石川高信の津軽統治から六年後、 天正六年(一五七八)七月波岡(行丘)城一N目の北畠具家が叛臣に弑され
鹿角市史 第1巻 (0455)

安倍氏の故地が津軽であったかどうかは措くとしても、 その関係はきわめて深いものであった。,では安倍氏の本拠衣川棚と津軽地方を結ぶ主要連絡路は、 どこにあったか。,しかし岩手と津軽を結ぶ一番の捷路は、 安比川の上流から分水嶺を越え、 米代川に沿って鹿角へ出、,盆地を北上して津軽側平川上流へ抜ける線であった。,厨川を脱して津軽へ至る間に、 鹿角に隠仕
鹿角市史 第1巻 (0532)

鹿角進出毛馬内氏の入部三戸南部氏が鹿角郡に勢威を振うようになったのは、 いつの頃からであろうか岩手県史』は「津軽諸郡,嘉吉三年十三湊に本拠を置いた下国安東盛季は、 南部義政の津軽侵攻に敗れ蝦夷力島松前の地へ去った。,三戸と津軽の連絡路には北の野辺地口と、 中間の七戸口と、 南の鹿角口があり、 南部氏にとって鹿角,の重要性は、 対秋田安東氏との接触点であるのに加えて、 津軽維持のためにも欠くべからざるものになっていた,御家菱備之事の条に、 「十四代守行公之時鹿角郡安保氏より御取合確執之節羽州秋田氏と御合戦有り(中略)津軽
鹿角市史 第1巻 (0549)

森嘉兵衛氏は、 前述したようにこの記録は永禄九年から同十一年の間のことをさしていると考えられる(『津軽南部,その前の天正九年六月に、 津軽石川城に在った南部高信が病没し、 津軽諸郡の形勢も混沌たる様相を呈してきた,津軽郡代をその子政信が継ぎ、 大光寺左衛門佐光親・浅瀬石隠崎政吉・大浦右京亮為信が補佐したが、 浅瀬石隠岐,この前後と思われる時期に、 津軽の緊迫した状況を伝える浅水城の南弾正少弼慶儀状がある「送而申入候此さかひ,不調ニ候ては津軽之儀於末代あひすたるべく候(中略)然者七戸へ銕〓御合力之由承候而可然
鹿角市史資料編 第31集 (0043)

且御境目御墨引往来仕候者ノ義候間、 為御知被下旨ノ入御念忝令存候、 此末当領ニテも随分吟味可仕候、 定テ右ノ次第津軽御領役人衆迄,拙者共無別儀罷有候、 然ハ旧冬極月廿日以御飛札申入候為御返答同廿六日ノ御飛札令拝見候、 先達テ申通津軽領碇関者,それより御墨引を越、 当領新遠部西ノ又へ参候、 彼者共御墨引往来仕候者二候間押各様へも為御知、 弥以津軽御領碇,申納候、 御堅固ニ御越年弥重ノ御事ニ存候、 拙者共無別条罷有候、 然ハ其元御領西ノ又ニテ御捕被成候津軽領碇関,ノ者共ノ儀、 旧冬被入御念被仰下候間、 其御地より津軽へ御届被成候哉承度由申入候所ニ、 毛馬内御役人様
鹿角市史 第1巻 (0583)

ニ従テ仕信直公二千石大湯五兵衛昌忠昌光子彦六大湯門之助昌邦昌忠子正保中早世断絶大湯彦三郎昌村昌吉子仕津軽大湯四郎左衛門昌次昌光二男九戸一味死大湯次郎右衛門昌吉昌次子仕利直公出奔津軽行大湯彦右衛門昌致昌次二男仕津軽,〓また、 大湯彦右衛門は津軽二代藩主信牧に重用され、 元和八年現西津軽郡木造町にある亀ヶ岡城の築城奉行
鹿角市史 第1巻 (0490)

建武二年南部師行への陸奥国宣(遠野南部文書)軽曽我文書九一通・津軽小河文書一〇通・津軽工藤文書七通・津軽安藤文書五通,遺憾ながら津軽と糠部に偏して鹿角関係は六通のみであるが、 鹿角地方の動向はこれら他地域を通して垣間見
鹿角市史 第1巻 (0500)

津軽平賀郡の岩楯村などの郷村領主であった曽我貞光が、 足利方に与して、 津軽戦場で合戦したときは津軽,但し、 貞和三年(一三四七)五月日曽我貞光申状案では、 安藤家季らと共に浅利清連にも「津軽合戦奉行也,」と注記しているが、 これは、 暦応二年(一三三九)鹿角勢が津軽に攻めこんだ時、 浅利清連も安藤師季,と一緒に津軽で軍勢を指揮し合戦したことからくる曽我貞光の認識によるものであろう。
鹿角市史資料編 第1集 (0063)

釈迦内江進軍可致御沙汰、 此夜白沢村に宿陣、 成田久エ門宅同廿五日晴天白沢より進軍長走辺松原ニ而津軽藩津島仙蔵岩崎久作,と申者万太郎清助に出逢、 黒沢覚右エ門殿に面談致度旨頼合に付本人罷出應接二相成候得共、 津軽不引ニ,津軽藩昨日陣場迄引約束、 此夜野陣無事。,同三日粕田村ニ而鶏買の村夫津軽ものニ被押候由、 村肝入より注心、 世夜合戦の音有之、 釈迦内の方,此日も津軽藩應接長谷川弥六鳥谷森甚弥惣締重○候趣口上、 実は黒石の城主参候趣承る。
鹿角市史 第1巻 (0505)

従来、 二藤次館は津軽郡境に近い現小坂町の新遠部の館、 當館は當麻館すなわち毛馬内古館、 大豆田館,典拠が津軽の旧曽我文書なので、 津軽側から「連合軍」が侵入したものと安易に考えられていた。,しかし、 二藤次でいえば津軽側は遠部沢、 分水嶺を越えて鹿角は古遠部沢と新遠部沢に岐れるが、 津軽
鹿角市史 第1巻 (0454)

また『平泉雑記』安倍家系ノ条に「(長髄彦ノ)兄安日ハ東国ニ追放セラレテ津軽ニ住シ卒度浜安東浦ヲ領ス三十八代斉明帝,このように、 安倍氏が奥六郡に南下し勢威をふるうまでの実力は津軽地方で培われたとする説に、 わりと,高橋富雄氏は、 中世に浄法寺天台寺領が津軽田舎郡平内郷・鼻和郡目谷内、 平賀郡内日照田にあったことと,このさいはての地にのがれて、 また盛り返したという程度のことでなくて、 古代の安倍時代から、 奥六郡と津軽,いますと組織的、 ということですが、 そういう関係がもうできていたために、 本国安倍が滅んでも、 津軽安倍
鹿角市史 第2巻 下 (0306)

ここが確保されて、 はじめて津軽へも道は通じ、 又秋田へも通行可能だったのです」と述べている。,一一世紀に入り、 奥六郡に覇を唱えた安倍氏の時代、 その遠祖が津軽外が浜・安東浦等に勢力を築いたとすれ,『藩翰譜』第八ば(本拠衣川と故地津軽との間に絶えず連絡がとられ、 鹿角道を経るのがもっとも近道であった,鹿角を通過し巻山峠を越え犀川を下って贄柵に至るコースであったと伝えられ、 奥六郡-糠部-鹿角-比内-津軽,そのほか津軽地方には北
鹿角市史 第2巻 上 (0050)

その時期を天正八年とする点においては『盛藩年表』も同様であるが、 『盛藩年表』は花輪城代とせず津軽郡代,つまり「天正八年大光寺光愛、 高三千八百石を賜り津軽郡代となる。,大浦為信と同役たり」といい次いで同一〇年三月条で「浪岡政信君の後見大光寺光愛(津軽を)出奔して羽州比内郡,大光寺系図は比内出奔の時期について、 同一六年としているが、 いずれにせよ大光寺正親は大浦為信の津軽席捲,に際し、 津軽大光寺城を退去して秋田領比内の山田村に潜居していること、 その後同一七年に南部氏は比内大館城
鹿角市史 第2巻 下 (0103)

津軽との藩境地帯は杉材の産地として知られ、 藩政初期からその剪出しが盛ん一一であった。,『雑書』正保四年(一六四七)極月()四日条に月、 津軽境鹿角小坂山、 遠辺ケ沢壱村杉五分壱ノ役材木上,右の遠辺ケ沢は津軽藩境の山々のことで、 中でも古遠部・新遠部山は大森林地帯である。,雑書』寛文一二年(一六七二)八月一四日条に、 藩境の山に津軽祉三人、 御当領杣三八人など専門の杣人
鹿角市史 第2巻 上 (0054)

弟3図大光寺氏略系図(『参考諸家系図』『系胤譜考』による)南部家二〇世二一世入光寺正親は、 初め津軽城代,に起用されたが大浦為信の津軽地方席捲によって没落、 大光寺城を退去して比内山田村に潜居したことは前述
鹿角市史 第5巻 (0473)

津軽郡中名字1391 · 465 · 466 · 483 ·,2482下9 · 14115361491 · 494 · 4991386津軽諸城,の研究沼館愛三津軽南部の抗争森嘉兵衛津軽の祭りと行事 船水清東日流外三郡誌1386 · 405
鹿角市史 第1巻 (0553)

てどこまで真に近いかわからぬが、 世にいうわずか三日の差で父祖経営の津軽六郡合浦一円の地を為信領と定,その以前大浦為信もまた秀吉の許へ伺候すべく津軽を出発したが、 途中悉く南部氏、 秋田氏に阻止されたと,同様のことが『館越記』にも記されているともあれ三戸南部氏にしても津軽氏にしても、 非常な難局のなかにありながら,また南部氏の前田氏との往来、 津軽氏の上洛路、 小田原参陣の経路として、 まず鹿角路が浮かびあがってくることに
鹿角市史 第5巻 (0043)

(一三三九)軍に任命する南部政長、 津軽岩楯城を攻撃を落して三ヵ月滞陣、 曽我貞光と激戦繰返す。,遠野南部家文書八坂神社文書興国二暦応四(一三四一)石塔義房、 津軽曽我一族に命じ、 糠部の南部諸城,南部政長、 根城に入って防戦する北朝方曽我師助が津軽から鹿角を経て糠部南部政長を激しく攻撃し、 鹿角南朝方瀧瀬彦次郎以下
鹿角市史資料編 第29集 (0069)

昨廿四日之夜御引上ケニて罷帰る之よし、 今廿五日ニ出勤いたし大館二様子承候処、 三位殿初薩長筑之三藩共ニ津軽江罷通,秋田領一里程も入込ミ陳屋しつらい御境目寄ニ並木剪倒ふー乱妨之所為二付、 大館公御支配之事故使者を以津軽家,ニ及候処、 段々誤り入日長筑之人数も御通ふし可申、 薩州のみ相断候と申事ニ候、 然れ共前書之通津軽,、 円申入候得共、 三ツ矢沢御警衛人数之儀は御引揚、 見廻之者一両人も可被申付置候、 旦別紙津軽,より申参候間、 為見得御達申候、 右申入候以上五月廿七日田中武左衛門五月廿七日四戸清九郎殿石川渕殿津軽家老共
鹿角市史 第1巻 (0506)

古代氏族に物部一族大豆田氏がみえ、 曽我貞光軍忠状で南朝方倉光孫三郎が拠る津軽小栗山楯を倉光館と称している,津軽から新遠部沢沿いに侵攻してきたとみるよりは、 巻山峠越えに鹿角南部に侵入し、 北上して鹿角から,草刈場鹿角郡成田氏もまた、 津軽へ進出していた。,建武三年正月、 成田六郎左衛門尉は南部師行らと津軽藤崎・平内城に拠って安藤家季軍と合戦し、 この時曽我貞光
鹿角市史 第3巻 上 (0062)

同時に旧領の内北・三戸・二戸の三郡は津軽越中守(〓円)、 九戸、 鹿角・閉伊・岩手・紫波・藩松代松本稗貫,鹿角市史資料編第二集』所収)によると、 正月七日(旧暦、 この項以下同じ、 去冬より徳川脱艦の者達が箱館から津軽湊,せるとの風聞があったが、 此程箱館に異国人一〇万人渡来しアメリカ・フランスから兵糧弾薬三年分運び、 津軽表,同一二日、 昨夜花輪の北に大砲の音二〇発ばかり聞えた、 いよいよ徳川勢の津軽討入が始まったか、
鹿角市史 第3巻 上 (0244)

この時の開鑿計画は、 濁川村地内の古遠部の入口、 若木立村から津軽の坂梨峠までの一里半ほどに新道を,連絡を取りあい、 その開鑿願を国に出している(明治一二~一四『道路掛事務簿』・以下同岩手県からの「津軽街道開鑿費下渡方上申,」とする上申書では、 盛岡から二戸郡を経て鹿角郡へ至る道路は、 岩手と青森県津軽地方を結ぶ要路であること,なおここで津軽街道と称するのは、 秋田県側の公称鹿角街道のことである。 秋)。 )。
鹿角市史 第1巻 (0556)

南部勢比内大館城を攻略津軽地方の情勢は、 天正十六年大光寺左衛門佐光親の大光寺城徹退、 波岡彦次郎以信,の急逝等によって南部氏の勢力が潰滅的打撃をうけ、 代わって大浦為信の津軽制覇が着々と進行していた。,比内浅利頼平は一旦津軽へ逃れ、 秋田愛季に奪われた旧領を回復するため大浦為信の援助を受けつつ屡々比内,『津軽一統誌』によると、 天正十四年九月為信は比内に出るため初めて碇ヶ関道を開き「矢立ノ杉トイフ大切所
鹿角市史資料編 第1集 (0067)

願人諏訪己代治の亡父にして、 慶応四年七月廿六日、 御用人格隊長を命ぜられ勤仕し、 同八月八日津軽境警備隊長,」とあり、 筆者諏訪内右エ門は、 北家の津軽境警備隊、 士分四十三名)下卒十一名の隊長として出陣,この記録は、 津軽藩に備えた別動隊の動静として意味あるものと思う。
鹿角市史 第5巻 (0042)

上京一一月尊氏幕府を開く一二月後醍醐天皇吉野遷座正月成田六郎左衛門尉、 南部師行·同政長らと共に、 津軽藤崎城,(マ マ)八月一日鹿角郡国代成田小二郎左衛門尉を対治のため、 北遠野南部家文書朝方の比内浅利清連と津軽平賀曽我貞光代官曽我光俊,; 鎮守府将三月成田小次郎左衛門尉、 同六郎、 安保小五郎、 瀧瀬彦次郎入道が南部政長らと共に津軽大光寺楯
鹿角市史 第1巻 (0041)

津軽の騒擾と鹿角、 平正十年前後の情勢、 信直の襲封、 信直秀吉へ通款す、 信直斯波氏を滅ぼす,中世鹿角の終焉、 鹿角地士の離散、 大里氏・大湯氏円子氏、 鹿角地士と比内・秋田方面、 鹿角地士と津軽方面四兵農分離
鹿角市史 第2巻 上 (0352)

○安永三年四月女永三年四月兎尻御山より十和田御山迄雑木津軽出春木につき、 盛岡十三日町善蔵(善兵衛とも,相方津軽黒石町金兵衛が帯刀で勤めており、 右御山働き中苗字帯刀御免にしていただき度いとのことで、,又嶺続両沢残らず、 古遠部御山の内四ツ熊沢残らず、 御境際三間除き槻・桂の外雑木残らずを春木に剪出し津軽,請合同町金次郎、 銀主は津軽黒石最上屋勘七である(『雑書』)。
鹿角市史 第1巻 (0577)

○玉内村玉内大炊之助(阿保氏)領、 津軽へ牢人す。,衛門は津軽へ落行のちに次郎左衛門召出され二百石拝領し彦左衛門は津軽に奉公す。
鹿角市史 第1巻 (0587)

津軽へ亡命した鹿角地士について、 『津軽旧家子孫由緒概略書上』(引前市立図書館蔵)から摘記すると、,人夫道中迄遣サレ恙無ク参着仕ル仙洞院様御屋形之内御〓所脇居所仰付ケラレ母并ニ忰伴次郎御養育成下サレ候由右之趣津軽一統志
鹿角市史 第2巻 下 (0617)

下迄行ったところ、 秋田か津軽かわからぬ敵が古達部口、 新渡戸口より寄せて来て濁川村に放火、 早速駈付,また『秋田藩江討入之日記』によると九月二十五日今未刻頃濁川村江津軽兵二百五十人斗り不意ニ押寄鉄炮厳敷打掛,この津軽兵による濁川村攻撃は、 戊辰戦最後の戦いであったとともに、 全期間を通して鹿角郡内における
鹿角市史 第5巻 (0049)

湊合戦覚書天正一四(一五八六)南部信直、 斯波氏を滅ぼす天正一六(一五八八)南部氏の勢力津軽を撤退、,津軽一円大浦為信掌握する天正一七(一五八九)四月、 南部勢が鹿角郡より比内に侵入し大館城を攻略した
鹿角市史 第2巻 下 (0333)

年号月日何通何村商人宿何屋誰印同村老名誰印同村肝入誰印同村検断誰印何国何郡何村何之誰殿覚一、 仙台より早池峯山岩鷲山参詣之者一、 八戸松前津軽黒石秋田,より伊勢参宮之者一、 津軽黒石よりの飛脚足軽同心修験者一、 諸国より来候俳諧師算者筆道指南絵師立花師之類一
鹿角市史 第2巻 上 (0522)

同二弥兵衛間歩青山庄左衛門同右同四加賀七兵衛間歩青山庄左衛門同右慶安元根田影平五枚九両山検断左五兵衛雑書・慶安元・五・二津軽孫助同元本平普請間歩越後,太郎右衛門同右同三本平三両間歩白根ノ仁左衛門同右同市助同三本平切取間歩越後ノ太郎右衛門同右同三本平三両間歩津軽
鹿角市史 第1巻 (0515)

現存史料の上で、 中世鹿角を鹿角四氏をもって記した初見史料は、 近世津軽藩で編纂した『津軽一統誌』,解釈される『青森県史』第一巻)この遺文は、 いま原本はなく史料的性格になお問題をもつが、 戦国期津軽側
鹿角市史 第1巻 (0586)

そのほか県北一円に亘って鹿角から移ったという伝えをもつ安保氏、 成田氏、 奈良氏が多い鹿角地士と津軽方面青森県中津軽郡,鹿角黒土氏の裔、 同村村市館は鹿角成田氏の族類と、 それぞれ伝承をもっているといわれる(沼館愛三『津軽諸城
鹿角市史 第2巻 上 (0341)

なお『雑書』寛文一二年八月に「鹿角新渡部山へ八月三日より津軽杣三拾三人、 御当領杣弐拾三人〆五拾六人杣入申由,」「新渡部山杉杣取合候事、 三人津軽杣三十八人御当領杣〆四十壱人入候由」と、 津軽杣の山入を記している
鹿角市史 第1巻 (0444)

鹿角は当時、 東のいわゆる七時雨道より鹿角に入ってから、 北へ津軽をめざす道と西へ秋田をめざす道とが,陸中巌手郡より本郡に入り、 津軽に通ふ直路の旧名にして、 今も、 盛岡花輪の駅路は之に由る。,一つには、 津軽の「其の党多種にして幾千人なるを知らず。
鹿角市史資料編 第29集 (0158)

し候趣、 当月朔日二野辺地出立道中七日振二て帰山、 此節徳川勢箱館へ討入裁判所乗取、 官軍肥筑津軽之三藩大,に敗走津軽へ逃退、 徳川勢軍艦五艘ニて追懸津軽青盛を焼討ニ付、 肥前之参謀田村乾太左衛門早ニて盛府
鹿角市史 第1巻 (0550)

この境が不調では津軽の恢復は末代まで覚束なくなる、 七戸口へ鉄砲隊応援の由承った、 鹿角口についてはどうなったとも,聞くことができないでいる、 津軽大浦のことは「少乙之様」になったようである、 と局面を憂慮している,この書状から津軽固守のため野辺地口や七戸口とともに鹿角口においても何らかの作戦が展開されていたことが察知
鹿角市史 第4巻 (0450)

はじめ津軽地方を結ぶ道筋として、 それほど重要な位置を占めてはいなかったといわれる。,津軽からの荷を積んで坂梨峠を越えてくる馬は、 日に六十頭もあったといわれる。,なお小坂から津軽への最短の道としては、 濁川から野口を経て、 兎尻・西之又・登戸を通り、 温川(
鹿角市史資料編 第32集 (0031)

向暑候得共弥各方御無異御勤候由弥重ノ御事二候、 拙者義不相替罷有候一御境付新遠部御山より先東ノ又西ノ又御山津軽出春木願,先達テ御当所御町より願出候得とも御指支ノ筋御座候テ、 不被仰付由被仰渡御返被成候、 然所内々津軽取組此度,慶右衛門へも為見色々談合致見申候所、 御上ノ御沙汰ノ程ハ難計候、 先年古遠部新遠部杉山願ノ趣ニて、 津軽者願主
鹿角市史 第5巻 (0474)

~593 · 595徴兵調袖扣塵の中 和田芳恵3上753下698ツ通達綴(諏訪綱毅家文書)津軽一統誌津軽記,2上7津軽旧家子孫由緒概略書上 15373上22· 24·29 · 61&
鹿角市史 第1巻 (0552)

信直は当然その命に従う決意をしたが、 出陣中津軽や九戸に背後をつかれる虞れが十分あり去就に迷って懊悩,嚮導として三月下旬南部を発し、 兵革の時節故所々道を避て田子より浄法寺に出、 鹿角比内を歴る所に津軽為信,この遭遇の地点を『奥南落穂集』は、 「(為信が)津軽郡四万五千石ノ安堵書ヲ賜リ従五位下右京亮被成下、
鹿角市史 第2巻 上 (0043)

しかるに豊臣秀吉は、 同政権に参じた者に本領を安堵する立場であり、 津軽三郡はすでに津軽為信に安堵,されていたことから、 あくまでも郡数七郡そのものを安堵し、 その後津軽三郡の代替地として志和・稗貫
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