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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第1巻 (0500)

、 足利方に与して、 津軽戦場で合戦したときは津軽の侍大将に属し、 鹿角・比内を転戦したときは浅利清連,鹿角侍大将浅利清連の徴証といえる。,但し、 貞和三年(一三四七)五月日曽我貞光申状案では、 安藤家季らと共に浅利清連にも「津軽合戦奉行也,現実には、 浅利清連の担当区は鹿角・比内地域だったのである口絵に掲げた建武五年五月十一日浅利清連注進状,-たがって鹿角・比内での浅利清連の地位は、 確実に足利氏から保証されていたといえよう。
鹿角市史 第1巻 (0501)

浅利清連の系譜は、 定かではない。,甲斐国浅利郷を名字の地とする甲斐御家人浅利氏が、 鎌倉初期に陸奥国比内郡を領有したと伝えられ、 浅利清連,浅利清連は鎌倉期以来比内郡に勢力をもつ浅利一族であり、 おそらくは津軽北条氏余党の乱鎮圧のときに実力,鹿角は、 元弘没収地の宿命を負っていただけに、 浅利清連の登場と同時に、 所領のくみ替えも大規模,別述の建武五年五月十一日浅利清連注進状は、 この軍忠状の注進披露状であり、 貞光は貞和三年五月日申状
鹿角市史 第1巻 (0503)

)建武四年曽我貞光軍この軍忠状に「承り了んぬ源(花押)」と證判を与えたのが、 奉行浅利清連である。,その浅利清連の注進状では、 「比内郡凶徒新田彦次郎政持等並びに鹿角郡国代成田小次郎頼時、 同じく南部又次郎師行
鹿角市史 第1巻 (0024)

-北畠顕家が南部師行に鹿角郡闕所地へ地頭を入れることを命じた書状-(遠野南部文書)建武五年五年十一日浅利清連注進状
鹿角市史 第5巻 (0042)

(マ マ)八月一日鹿角郡国代成田小二郎左衛門尉を対治のため、 北遠野南部家文書朝方の比内浅利清連と津軽平賀曽我貞光代官曽我光俊,南部師行らこれに従う七月一一日浅利清連は曽我貞光勢と共に鹿角郡に打入り、 二藤次楯·當(雷
鹿角市史 第1巻 (0502)

「(建武三年)八月一日、 鹿角郡国代成田小二郎左衛門尉を対治せんが為めに、 (奉行浅利清連)御発向
鹿角市史 第1巻 (0040)

南北両朝の対立はじまる、 侍大将浅利清連の鹿角併管、 大里館攻防戦、 草刈場鹿角郡三国人一揆・鹿角四頭
鹿角市史 第1巻 (0509)

鹿角の成田頼時も比内の浅利清連も、 また糠部の南部政長も日本全体の動向のなかで、 前途を見定め進退
鹿角市史 第1巻 (0499)

鹿角の内乱も、 この政策の機微を念頭にしながら実像に迫らなければならない侍大将浅利清連の鹿角併管陸奥守北畠氏
鹿角市史 第1巻 (0045)

二一大清水のオオヤマザクラの群生林…二一中世文書・建武元年三月廿一日陸奥国宣……二四同・建武五年五月十一日浅利清連注進状
鹿角市史 第1巻 (0489)

して、 成田頼時が姿を現わすのは建武四年(一三三七)八月曽我貞光軍忠状であり、 建武五年五月十一日浅利清連注進状
鹿角市史 第1巻 (0507)

南部六郎政長らと共に、 数百騎を率いて津軽に攻入り、 安藤師季や浅利清連らと合戦し大光寺外楯を打落
鹿角市史 第5巻 (0472)

·775道路改修ノ要否二関スル調査意見書 3上182 · 189遠野南部文書(浅利清連注進状
鹿角市史 第5巻 (0650)

シモン目時藤次郎 3上608釈崇源2下490釈草順釋之杜多崑山沙弥浄光2下5052下4911451 →浅利清連沙弥藤原浄通
鹿角市史 第5巻 (0688)

左覚浅水孫左衛門浅利尾張守浅利 勝頼浅利寛三2下34· 352上483145715003下123浅利清連
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