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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第4巻 (0258)

三、 湯瀬温泉湯瀬村コ湯瀬は旧藩時代は鹿角街道の番所が設けられ、 宿駅の一つであった。,湯瀬という名前は川の瀬からも湯が湧くところから来ているといわれており、 長いあいだ山間の湯治場として,鹿角民謡の一つとして親しまれている「湯瀬村コ」で次のように唄われている。,湯瀬村コヤエ湯瀬村コ行けば木の中萱の中高い山から朝日さす前はしらかわ湯もござる上みや下もから伝馬コ来る,伝馬コ稼いで銭コとる永く住みたい湯瀬村ヿ昭和五、 六年頃までの湯瀬は、 旅館といってもほとんどが湯治宿
鹿角市史 第5巻 (0608)

有竹3上619有中宥傳(廻国僧)勇八(下沢)友来有隣湯川 玉泉湯川玉遷湯川 玉流雪女(花輪)湯沢 佐吉湯瀬,刑部湯瀬宮内2下5072下320 · 3212下114 · 1152下5013上,4823下4121145 · 1461527 · 5501507 · 535湯瀬謙吾湯瀬新右衛門湯瀬新左衛門湯瀬,#183; 129· 132 · 148 · 202 · 210湯瀬中務湯瀬福太郎湯瀬弥五郎,3下474湯瀬勇左衛門2下34湯瀬 勇七3下105 · 106湯瀬与一(文袋) 2下496弓屋勘兵衛
鹿角市史 第3巻 下 (0407)

テ上や下から伝馬()コ来る伝馬コ稼いで銭コとる永く住みたい湯瀬村ヿ湯は上の湯、 中の湯、 下の湯、,鉄道開通の効果その湯瀬が変貌したのは、 昭和六年の鉄道開通からである。,の温泉として湯瀬を有名にした。,〓一〇年八月一日付鹿角新報は「湯瀬でぞくぞく新築」の見出しで「湯瀬温泉はホテル、 姫の湯が二大旅館として,更に同年湯瀬駅長を会長とする湯瀬温泉振興会を組織、 会員は旅館、 料理屋、 芸妓屋等と有力者で、
鹿角市史 第1巻 (0162)

〓湯瀬地方の植物湯瀬渓谷の植生米代川の上流、 岩手県境に近い湯瀬地方は、 平坦地が少なく両側には著,植物について、 高田順氏が一九七四年から一九七六年の三か年にわたり調査研究をすすめ、 一九七七年「湯瀬地方,高田氏は、 総じて湯瀬地方は、 原野~林縁の植物、 岩壁地の植物、 崩壊地性草地の植物などに特徴,まずこの地方の特徴のひとつとして、 湯瀬渓谷の南側山腹は樹木におおわれているが、 北側には多くの草
鹿角市史 第1巻 (0204)

シータテハ○ヒョウモンチョウ○テングチョウ(数頭目撃)テングチョウ(高橋雅弥氏撮影)○テングチョウ鹿角市湯瀬,(一九七二年七月二日採集)湯瀬地方に広く分布し、 個体数も多いと考えられる。,○ヒメギフチョウ湯瀬の沢筋、 山麓部で早春に羽化して美しい姿を見せる貴重な種類である。,以上三種はいずれもその産地は極めて限られており、 湯瀬地方は貴重な分布地域と考えられる。,〓「鹿角市湯瀬の七月中旬の蝶類」新谷明弘(『秋田自然史研究』8号一九七七)より湯瀬居熊井沢とその周辺において
鹿角市史 第5巻 (0562)

ゆぜあんなんがんゆぜいしどおしゆ ぜゆざかやまわたりゆきた山堀沢, 山渡, 雪田, 湯坂, 湯瀬,, 湯瀬安南岩, 湯瀬石通, やまほりざわゆぜおおいわいゆぜおらく まいゆ ぜ さい たゆぜせきね,ぐ ちゆ ぜ いた ど湯瀬板戶, 湯瀬大岩井, 湯瀬居熊井, 湯瀬才田, 湯瀬堰根口, ゆぜぼうだいのゆ,ぜ ゆむかいゆぜふるだてゆ ぜ ひ とは ねゆ ぜ ひ せ ぐ ち湯瀬非瀬口, 湯瀬一羽根, 湯瀬古館,, 湯瀬棒岱野, 湯瀬湯の向, よこてひがしよこてまえだわしすよこてかわばたわ だよこてゆ ぜ
鹿角市史 第2巻 下 (0374)

承應二年(一六五三)閏六月一〇日条に「鹿角湯瀬物留御目付中野藤内今日秋田忠兵衛を以申付、 和井内嘉左衛門代,湯瀬番所の場所は山際の街道ぞいと推測されるのみで、 部落の上手か下手かもわかっていない。,延宝二年(一八七四)二月、 先年より又重兵左衛門が湯瀬御番を命ぜられていたのに更に番の者を置いたので,大和年中の物留条目とその改所として湯瀬番所が掲げられていることは、 前に述べた通りである。,貞享三年以降は、 湯瀬番所に代わり折壁番所が現われてくる。
鹿角市史 第1巻 (0620)

3湯瀬館湯瀬館は鹿角市八幡平字湯瀬古館に位置し、 米代川上流の溪谷に沿う湯瀬温泉集落の北側台地上の一部,〓礎石配列建物跡、 柱穴等と複合して検出〓35図湯瀬館地形図(『東北縦貫自動車道発掘調査報告書〓』から
鹿角市史 第3巻 下 (0406)

四、 湯瀬温泉湯瀬村コでいた。,かって湯瀬は鹿角街道の盛岡藩番所が置かれたこともある宿駅の一つであった。,湯瀬の名は川の瀬にも湯がわくところからと云われ、 温泉は長い間鄙びた湯治宿としてひっそりとたたずん湯瀬村,コヤエ湯瀬村コ行けば木の中萱の中高い山から朝日さす前はしらかわ湯もござる
鹿角市史 第1巻 (0372)

1、 湯瀬館遺跡湯瀬館遺跡は湯瀬駅の北西四〇〇メートル、 標高二四五メートル前後、 かつて湯瀬小学校,おもに撚糸文の文様が施され第51図湯瀬館遺跡出土土器ている。
鹿角市史 第4巻 (0260)

近世の湯瀬湯瀬は江戸期には山間のひなびた湯治場であったせいか、 その湯治記録はあまりない。,『南〓御領温泉場所大概』の湯瀬の部には、 次のようにある。,一、 湯瀬の湯鹿角郡〓馬継の宿也。 小家なれ共両側四五十間もあらん。,湯瀬温泉についての紀行文や記録には次のようなものがある。
鹿角市史 第3巻 下 (0403)

同一六年湯瀬ホテルに宿泊した平沼騏一郎当時内務大臣を花輪駅まで見送って帰宅後脳溢血に倒れ、 翌一七年村長在職二年,に努めていた関直右衛門は小坂町中村次郎、 花輪町根巾吉蔵らと相談し、 当代一流の記者杉村楚人冠を湯瀬温泉,湯瀬ホ後衆議テルにおいて朝日新聞社の秋田、 青森、 岩手三県の販売店大会が開催され、 楚人冠のほか,事の次第はそれだけであったが、 この事故はたちまち国内はもとより海外にまで「湯瀬発、 楚人冠八幡平,秋田県八幡平と湯瀬は瞬く間に天下に知れわたったのである。
鹿角市史 第4巻 (0261)

菅江真澄の天明五年『けふのせはのの』の九月二日、 湯瀬村の部分には次のような文章がある。,湯瀬といひて、 湯桁の三ならびたるところありけるに湯あびしてこよひはこゝに宿りぬ。,嘉永二年秋、 松浦武四郎は湯瀬の湯治宿の様子を次のように書き残した。,昭和十二年の『鹿角時報』には「湯瀬の思ひ出」と題する次のような文が掲げられている。,湯瀬は昔からの湯治場であり、 そこに集まる人を「湯治ト」と云った。
鹿角市史 第2巻 下 (0373)

二五石川忠右衛門小田代民右衛門弘化三・四根森新左衛門古沢長作同八・四・二三四戸伝右衛門駒ケ嶺与四郎同四・四・三〇関金蔵附田助内湯瀬,次いで寛永二二年(正保二年)六月の御留物の内「塩硝ハ鹿角湯瀬之留物札ニ斗書入」と記され一南部藩心資料、,数年おいて『雑書』慶安三年(一六五〇)九月二日条に「湯瀬御目付小保内源十郎去月廿六日ノ夜鹿毛三歳四歳二疋押,従ってこの時点では明らかに湯瀬番所が設置されていた。,翌四年三月四日条「湯瀬御番所小保内源右衛門代松田与兵衛今日申付ル」、 同五年五月二一日条「鹿角湯瀬物
鹿角市史 第2巻 下 (0356)

(八四)の『邦内貢賦記』には「所々御番所」として二五カ所を掲げているが、 うち鹿角郡内所在のものは湯瀬,いわゆる中番所は湯瀬のみで、 ほかは境目番所であったが、 土深井番所はまだ設けられていない。,銘々手形、 町馬は御町奉行手形、 材木、 柾、 蝋、 漆、 紫手形、 入女は小繋、 湯瀬,、 鬼柳にて御改一、 馬門、 湯瀬、 夏坂、 松山、 雫石五ケ所物留、 其外所々、 武具類,小繋()、 湯瀬ならびに夏坂通三円)はともに中番所、 鬼柳は仙台境、 馬門は津軽境、 松山、
鹿角市史 第3巻 上 (0023)

〓ル差湯瀬渓谷〓ノ石湯瀬の温泉石渡の風景
鹿角市史 第1巻 (0626)

湯瀬館全景(調査前)湯瀬館全景(調査後)
鹿角市史 第2巻 下 (0315)

即ち鹿角郡内の駅場は湯瀬・大里・花輪・神田・松山・毛馬内・大湯の七カ所であった。,より寺田江壱駄之駄賃銭百四拾文、 田山へ八拾五文田山一、 田山より荒屋へ壱駄之駄賃銭八拾五文、 湯瀬江百九文湯瀬一,、 湯瀬より田山江壱駄之駄賃銭百九文、 大里江四拾七文大里一、 大里より湯瀬へ壱駄之駄賃銭四拾七文
鹿角市史 第1巻 (0624)

第38図湯瀬館出土金属器実測図第39図湯瀬館出土銅銭拓影図
鹿角市史 第4巻 (0817)

木の元さ木の元さデァハヨーまして娘ご親もどさエーまして娘ご親もどさエー(伝承者、 尾去沢・佐藤順子湯瀬村,こ季節歌の春歌・秋歌を元にして作られたもので「兄川のヤーエ兄川の、 兄川沢目の湯瀬村こ」という前歌がついていた,〓湯瀬村こ湯瀬村こであハーヨ行けば木の中萱の中エーかやの中萱の中であハーヨ高い山から朝日さすエー朝日さす,こくるであハーヨ手間こ稼いで銭こ取るエー銭ことる銭ことるであハーコ銭ことる銭ことるであハーヨ長く住みたい湯瀬村
鹿角市史 第2巻 下 (0320)

花輪、 毛馬内両通の御用銭、 御用物、 御蔵米等を盛岡へ附送る分の御配符は、 御役屋切手から湯瀬村肝入宛,多数の伝馬が必要な場合は、 助郷の役を担う村々に助伝馬が割当てられて湯瀬へ詰め、 田山まで継立てをした,『文化十年御用扣』にも、 同年一一月湯瀬村肝入・老名・山守・惣百姓の連名で花輪通代官等に宛てた願書が,その後も駅役を命ぜられた村々の過重な負担は、 いっこうに改まることがなかったとみえ、 同じく湯瀬村,文面に曰く、 湯瀬村は高七五石一斗五升三合、 家数二五軒、 山合いなので田畑の至って不熟な困窮の
鹿角市史 第3巻 上 (0238)

に拠出を求めた記録も残っている(」八年から翌年にかけて、 花輪から玉内、 大里、 小豆沢を通り湯瀬,小豆沢から湯瀬までは一ノ渡橋を新たに架け、 旧道を進んでさらに米代川の左岸に新道を延長して笹ノ渡に至,そして妻ノ神から傘松の下を通り、 湯瀬へ入るというものであった。,一八年には、 湯瀬から岩手県境へ至る間でも大幅な改修工事が行われている。,湯瀬の先は、 米代川の右岸を川字々添に通っていた従来の道よりも一段山際に新道一タラ)を開き、 坂を
鹿角市史 第3巻 下 (0009)

昭和初期の湯瀬温泉昭和初期の大湯温泉易瀬温泉・関ホテル(湯瀬ホテルの前身)(湯温泉・千葉旅館(昭和初期
鹿角市史 第4巻 (0045)

三湯瀬温泉…七四〓湯瀬村コ、 近世の湯瀬、 近代の湯治四八幡平温泉郷…………七八〓蒸ノ湯温泉蒸ノ湯
鹿角市史 第4巻 (0015)

昭和20年代の湯瀬ホテル大湯温泉湯瀬溪谷・獅子淵〓瀬倶築品蒸ノ湯温泉の湯瀧「大日本職業別明細図・秋田県
鹿角市史 第4巻 (0262)

にはその頃の湯瀬はほんとうにふさはしい温泉であった。,今のホテル湯瀬ホ)は家名そのままに直右エ門と呼んだし、 上の湯は医者ど、 それから六助、 高見、,中の湯、 下の湯-これが昔のテル湯瀬の湯宿であった。,(中略)私達が初めて湯瀬に湯治したのは大正元年の冬でもあったらうか、 食糧を橇に積み代る〳〵橇を引き,ったら同じ宿で湯治してゐる、 花輪の九平衛と云ふ老大工がおろして呉れ、 それが縁となって古民謡「湯瀬村
鹿角市史 第3巻 上 (0119)

は中津山富右衛門次点は川村左学にてありしと第六回県会議員(二〇年一一月は、 中津山延賢の留任、 湯瀬哲太郎,湯瀬哲太郎は二〇年一二月大久保鉄作議長のもとで常置委員に選ばれたが、 県会役員をめぐる激しい勢力争いは,その結果議長始め殆どの役員が入れ替り、 湯瀬哲太郎、 三浦盛徳(〓)らを先頭に一六名の退場者をだすという,第七回県会議員二二年四月〓)は、 勝又、 湯瀬、 佐藤が再選された。,初めの臨時県会において湯瀬哲太郎が常置委員に選ばれている。
鹿角市史 第3巻 下 (0012)

湯瀬溪谷をゆく天狗橋(鉄橋)湯瀬溪谷獅子渕にかかる橋女神の渕をゆく秋田鉄道(錦木)永久橋となった稲村橋
鹿角市史 第2巻 下 (0307)

湯瀬の街道の嶮阻な有様は、 天明八年(一七八八)幕府巡見使に随伴してここを通った古川古松軒の目にも「,ちに天狗橋を架けてから人馬の通るようになったと伝え、 盛岡藩『雑書』では正保二年(一六四五)から湯瀬番所,の存在を確認できることから、 その頃には既に湯瀬を経て鹿角へ入る道のできていたことが知られる。,湯瀬峡谷に街道の通じる以前、 岩手や二戸から鹿角へ入る道筋はどこをどのように踏み分けていたのであろうか,伝承では、 田山から瀬ノ沢川ぞいに花輪越を越えたとも、 湯瀬峡谷を避けてその南側八森の麓を辿り長嶺
鹿角市史 第4巻 (0259)

第一節鹿角の温泉第3図昭和10年代の湯瀬温泉のである。,に指定され、 また八年には「日本十二秘勝」として八幡平が推選されるなど観光宣伝の気運が高まり、 湯瀬温泉,湯瀬は戸数百戸にみたぬ小村であるが、 此の景勝と、 今つ自然の力による温泉をもって、 全国に知られている,同三十一年八幡平の国立公園編入により湯瀬温泉の観光基地的役割はさらに高まった。
鹿角市史 第2巻 下 (0385)

第13図湯瀬温泉(『北奥路程記』から)と書かれているので、 湯守が置かれていたことは確かである。,近世における湯瀬は、 おもに宿駅として著われ、 温泉としての記録はあまり残っ湯瀬温泉ていない。,大明五年(一七八五)の秋、 此処に宿った菅江真澄は湯瀬といひて湯桁の三ならひたるところありけるに、
鹿角市史 第2巻 下 (0358)

この時点で既に湯瀬物留番所は設置されている寛永二二年湯瀬留物札」り、 一〇数キロを距てて二つの番所が,当時の鹿角往来は湯瀬越を本道にしていたとしても、 脇道として花輪から花輪越(古くは黒沢越と称した)を,折壁へ出る線、 坂比平から寒ノ背峠を越え兄川ぞいに館市へ出て本道に合する線等の存在を考えると、 湯瀬,御領分通分諸上納金米銭雑記』天和年間(一十一六八一(八四〓四)の項目に、 「所々御番所」の鹿角関係では「鹿角湯瀬
鹿角市史 第4巻 (0448)

難所のつである湯瀬渓谷では、 湯瀬から小豆沢に至る間の天狗橋や大崖の辺りが特に険しく、 冬季にはしばしば,湯瀬と大崖の間では毎年そばだつ巌から鷹の子取りが行われていたと伝えられる仏の木の追分から対岸の神田へは,明治十九年には玉内から大里までを直線で結ぶ長道が竣工し、 このほか湯瀬から県境に至る間でも改修が行われた,一方、 神田橋は明治二十一年に架橋されたものの、 湯瀬渓谷の橋の架設は難儀を極めたという盛岡に通ずるこの
鹿角市史 第1巻 (0203)

○フタスジチョウ(タテハチョウ科)本県では湯瀬で記録されただけ。 出現は七~八月頃と思われる。,チャマダラセセリ(高橋雅弥氏撮影)○フタスジチョウ鹿角市湯瀬(一九七二年七月二日採集)湯瀬の地域一帯に
鹿角市史 第3巻 下 (0638)

上水道の給水区域の拡大、 給水施設の改善等により、 平成二年末現在簡易水道給水地域は甚兵エ川原、 湯瀬,ヘクヘク(クヽ対象面積一、 四三六・八(花輪処理区一、 三八九・二湯瀬処理区二ケ所)タールタール汚水管渠幹線三七,〓雨水管渠幹線三八、 二五一〓メー枝線八六、 二〇〇〓トルポンプ場七ケ所(鹿角処理区五カ所、 湯瀬処理区二,カ所)処理場面積八六〇六〇平方〓メーメー)平方〓(鹿角処理区八一、 九二〇平方〓、 湯瀬処理区四、
鹿角市史 第2巻 上 (0726)

但此間平地川有舟渡し湯瀬村御銅宿湯瀬村御銅宿一、 花輪より湯瀬村迄弐里弐拾三丁四拾七間昨深林御針宿市市助御銅壱箇,ニ付駄賃弐拾九文、 但此間ニ大欠と申難所有、 右之手前ニ川有田山村御銅宿田山村御銅宿一、 湯瀬村
鹿角市史 第1巻 (0577)

牛右三ヶ所秋田境の要地なれは関城の為残置」と記されているので、 或いは前記十館のほかに湯瀬・小豆沢・,○湯瀬村湯瀬中務(成田氏)領、 のちに湯瀬刑部(安部氏)領となる。 一戸より来る。
鹿角市史資料編 第11集 (0064)

嘉永五年四月廿一日浦田善兵衞上村分左衛門印相坂江織吉田繁左衛門毛馬内より田頭まて駅々検断肝入、 四月廿一日夜九ツ時湯瀬村江着之処,、 御目付衆御勘定奉行衆御銅山方御用在之、 御銅山江登山ニ付湯瀬村人馬立払ニ相成田山江差立候様無之旨申出候,ニ付、 不得止事湯瀬逗留。,、 同廿二日湯瀬出立寺田泊。 一、 同廿三日寺田出立七ツ頃御城下江到着。 〓
鹿角市史 第3巻 上 (0695)

図」、 9「鹿角郡大里村宇良志奈伊ノ瀧ノ図」、 〓「宮川村一ノ渡」、 〓「銚子ノ瀧」、 〓「湯瀬,ノ温泉」、 〓「湯瀬温泉滞溜入湯」、 〓「石渡ノ風景」、 〓「笹渡橋ノ風景」、 〓「湯瀬渓谷」,、 〓「湯瀬渓谷」、 〓「八幡平知恵ノ瀧
鹿角市史 第3巻 下 (0401)

昭和六年に至って盛岡・大館間の鉄道が全通し、 湯瀬駅、 小豆沢駅と開業するのを見た直右衛門は、,山間僻村の故郷湯瀬が十和田・八幡平観光の拠点として、 無比の立地条件を備えていることに着目、 同時,に母堂の願いであった「鹿角一のはたごや」を実現すべく、 それまでの関直旅館から東北一の施設をめざす湯瀬,五代直右衛門の構想は、 青森より八甲田-蔦温泉-国立公園十和田湖-湯瀬温泉-八幡平-玉川温泉-田沢湖
鹿角市史 第3巻 下 (0192)

同年、 湯瀬温泉の湯瀬駅から道路に沿い、 下って踏切りを渡り姫の湯の前を経て上ノ湯に出、 真直ぐ,突き抜けてのち右折して湯瀬ホテルの前に出る湯瀬環状線が、 工費二、 五〇〇円の救農工事として行われた
鹿角市史 第3巻 下 (0197)

日に開業、 荒屋新町・田山間の一万一、 五〇〇メートルが四年一〇月二五日に開業、 田山・兄畑・湯瀬,この間、 最大の難工事であったのが、 この線の中で最高地点である龍ケ森信号所の前後の急勾配と湯瀬小豆沢間,の工事であった湯瀬・小豆沢間は、 特に湯瀬渓谷を縫うように五つの高大な橋梁と一つのトンネルが造られた
鹿角市史 第2巻 下 (0030)

物留高札二、 各番所の変遷三二〇松山番所、 番所番人の推移、 土深井番所、 熊沢番所、 湯瀬,・折壁番所、 濁川番所第四節鹿角の温泉三三湯治御暇願、 大湯温泉、 湯瀬温泉、 八幡平温泉郷第八章信仰
鹿角市史 第3巻 下 (0036)

宣伝、 国立公園候補地、 関直右衛門の活動、 楚人冠の落馬、 山の案内人、 観光鹿角の看板四湯瀬温泉,…三五一湯瀬村コ、 鉄道開通の効果第八章教育と文化三五一第一節教育の進展三五
鹿角市史 第3巻 上 (0250)

荒谷四里一一丁三二間三三銭八厘寺田通運会社〃荒谷~田山二里二九丁二八間二〇銭荒谷通運会社〃宿泊(賄料)一二銭五厘米川岩治〓月〓日田山~湯瀬三里一四丁四五間二五銭六厘田山内国通運会社,〃湯瀬~花輪二里二二丁四八間二〇銭二厘内国通運会社湯瀬駅"花輪~柴内-六銭花輪通運会社これによって
鹿角市史 第4巻 (0405)

マタギ文書現在確認されている市内のマタギ文書は、 大湯下草木の柳館博家の左多六文書と、 同堀内の湯瀬弥五郎家,湯瀬家文書は梵字風の記号で書かれており、 日月や人間の顔、 鳥第3図マタギ文書(湯瀬家)
鹿角市史 第3巻 下 (0198)

湯瀬温泉は、 大湯温泉以上に発展をみた。,関旅館は、 湯瀬ホテルに名称を改め、 大建造物で面目を一新して一躍湯瀬温泉の名をとどろかせた。,花輪方面からも湯瀬に出店する者が多くなり、 温泉街を形成していった。
鹿角市史 第2巻 下 (0338)

○元文四年三月田山村・湯瀬村二カ所に川雪代水が出て、 人馬往来が止まった。,○寛延三年(一七五〇)五月湯瀬村の内たたらと申す山道に倒死の者がでた。,○寛政一一年(一七九九)八月湯瀬村七ツ石と申す所に、 旅人態の者が水中に沈んでいるのを発見した。,○同三年九月田山往来湯瀬村の内名月上ノ橋が当七月の洪水で流れ落ち、 新規掛替を願い出た。
鹿角市史 第3巻 下 (0663)

殊に湯瀬渓谷の景観を損なわないようにとの配慮から、 トンネル三カ所、 橋五カ所は鉄道工事と同様の難工事,この五橋は、 それぞれ湯瀬渓谷の地形、 地質に適合し、 なおかつ自然景観に男和する近代的な大橋梁,で、 「湯瀬五橋」居熊井橋・笹の渡橋・渓谷橋・天狗橋・八幡平橋の名で観光名所ともなっている。,前述の大館・盛岡間のハイウエーバスは、 鹿角八幡平から高速道路に入り、 湯瀬パーキングエリア・田山
鹿角市史 第2巻 下 (0380)

湯瀬の例はわりに数が少なく、 大湯の例が多い。,当時大湯・湯瀬の一廻が何日であったかは詳らかでない「八戸市史八戸藩における大湯・湯瀬への湯治御暇願の例,鬼柳伝右衛門○文政一〇年七月二八日盛岡御領鹿角湯瀬往来四十日湯治御暇願之通。
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