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鹿角市史 第5巻
(0074)
七·二五
白根金山
本平の内、 金躰宜しき間歩に運上金増額の措置がとられる。,八·二七
白根金山
根田沢の陰平と中山両平の大水抜普請同同に青山庄左衛門が着手した。,大日本史編纂に着手す三月藩主重直帰国す五月中嶽の妙泉寺と遠野の妙泉寺、 早池峯山別当二·一五
白根金山
,石田儀兵衛の跡山を白根の仁左衛門が請け、 金体に切り付け切取日前を与えられた四·一五
白根金山
根田陰平中山両平
鹿角市史 第2巻 下
(0062)
その背景として、 慶長から寛永にかけて最盛の時期にあった
白根金山
の繁昌ぶりが念頭を去らない。,
白根金山
は寛永以後ようやく衰勢に向い、 ぞくぞくと商人・山師や寺院が毛馬内に移動していることを思えば,てが基本的には在住の給人層や桜庭家中、 商・工業者といった消費人口との関係において成立したとしても
白根金山
,なお
白根金山
図(一七世紀前半の金山時代のものと思われる)には、 その山裾に市神社が描かれ、 現在も
鹿角市史 第2巻 上
(0476)
一六五一)秋田方目安状に「鹿角沼山ハ今ホとハ西道と申候、 彼の金山ハ慶長十二年之前後ニ出来仕候」「
白根金山
,市内石鳥谷渡部家文書の内「
白根金山
井処々銅山鉛山御尋候者可申上事」(天和元年)に次の文のあることが注目,同西道金山慶長拾壱年ニ掘始、 其翌年西道より運上金百枚
白根金山
より七拾枚右両口〆百七拾枚、 古信濃守代,このように、
白根金山
の開坑を慶長三年に限ることは無理のようである。
鹿角市史 第2巻 上
(0474)
一、
白根金山
〓
白根金山
の繁栄白根の始まり鹿角の金山は、 慶長の初めに次々と発見された。,この
白根金山
慶長三年発見は、 白根の見立人であり、 金山山先であった青山庄左衛門家の由緒書にも同様伝
鹿角市史 第5巻
(0075)
三·一三
白根金山
への米売、 盛岡本町一町で一〇年余り勤めたので以来本町新町二町で交互に勤めるよう,三·二六熊沢物留番所の御番に上野久兵衛が命ぜられた六·一九
白根金山
預りのきりしたん,九·一三
白根金山
にてきりしたん穿鑿の人数改めと米改横田宇左衛門手控雑書めを三ヵ月毎に行うよう
鹿角市史 第2巻 上
(0465)
この慶長期における鹿角の産金について、 同じく藩士星川正甫(一八〇五-一八八〇)の『食貨志』には
白根金山
発見,この書にも、
白根金山
の隆盛ぶりが前掲『祐清私記』とほぼ同じ内容で描かれているが、 その中の「公(,二、 鹿角の産金伝説白根発見伝説鹿角の金山でもっとも早く発見されたといわれる
白根金山
について、 前掲
鹿角市史 第2巻 上
(0016)
寛永五年白根御金山之内根田沢請証文明暦三年・
白根金山
のこと白根の仁左衛門あて
鹿角市史 第4巻
(0665)
毛馬内萱町の誓願寺境内に安置されている木造千手十一面観音立像(鹿角市指定文化財)は、
白根金山
の金場,そののち
白根金山
は大きく盛え、 勝女はお勝菩薩と尊敬されたと伝えられている。
鹿角市史 第2巻 上
(0529)
以上寛永廿年六月晦日毛馬内九左衛門石井伊賀守楢山五左衛門石亀七左衛門
白根金山
青山庄左衛門〓(雫石・青山家文書,慶安二年己丑十二月廿三日毛馬内九左衛門判、
白根金山
中切支丹宗門ノ御改め、 数年ノ如く仰付けられ候間
鹿角市史 第2巻 上
(0379)
吹谷氏繁栄の源となった「吹屋」の技術は
白根金山
・西道金山などに濫觴をもつことは容易に想像できることである,また享和三年(一八〇三)毛馬内に新鍋座を開いた福本長兵衛の先祖は
白根金山
の金掘八兵衛であろう)吹谷氏の
鹿角市史 第2巻 上
(0034)
第四章鹿角の鉱山【写真・図】第1図
白根金山
跡遠望…四三一第2図西道金山跡…四三六第3図延宝期、 尾去沢,表尾去沢銅山三山本番及び金工働人数・給与…:七〇一第5表尾去沢銅山坑外諸働人数及び給与…七〇五表見返し「
白根金山
図
鹿角市史 第2巻 上
(0547)
白根談叢』余録に、
白根金山
で活躍した人々の子孫として次の諸家を述べている。,毛馬内山本家の祖先は伊勢国より奥州に下り、 最初
白根金山
に落着き、 のち毛馬内に移った。,先祖喜七郎は紀州和歌山加藤嘉明の従臣、 主家滅亡の後、 会津を経て盛岡の医師関恕閑を頼り、 その伝で
白根金山
鹿角市史 第5巻
(0051)
(一五九八)城用材の柚取を命ずる八月 秀吉没すこの春
白根金山
、 北十左衛門発見す。,同同この年青山庄左衛門
白根金山
山師になるという。 花輪幸稲荷神社再建す。
鹿角市史 第5巻
(0052)
白根金山
盛んとなり、 鉱石一〇〇タより金四〇ー八〇タを出す。 商人多く集まり繁昌する。,慶長九(一六〇四)一月 松前 (蛎崎) 慶広に蝦夷地統治を令すこの夏
白根金山
、 みよし金とち金という
鹿角市史 第2巻 上
(0501)
吹金弐拾目九分三厘ハ、
白根金山
禅門間府慶安四年御掘分之銀子之内、 大工掘子分ニ四ケ一引、 相残五百四拾四匁弐分七,慶安五年六月八日弥六郎(八戸九左衛門(毛馬内)青山庄左衛門(雫石・青山家文書)〓山先青山庄左衛門と大水抜普請
白根金山
鹿角市史 第5巻
(0068)
月幕府江戸市中の浪人を調査するこの年幕府江戸市中の振売札の改めを実施する鹿関関角角係事項出 典六· 八
白根金山
禅門間歩,同雑書八·一三長左衛門
白根金山
中の者共へお預けとなり、 金山沢中の者、 五人組、 検断請取
鹿角市史 第2巻 上
(0467)
第1図
白根金山
跡遠望の美事な山芋を掘り当てた所へ案内してもらうと、 案の定一面の砂金山であった。,この伝説の主人公北十左衛門は、
白根金山
初代の金山奉行として実在の人物である。
鹿角市史 第5巻
(0066)
六·三
白根金山
柳平古間歩普請の結果金体みつかり、 白根の仁左衛門が請ける。,一〇·三〇
白根金山
の内牛沢金剛坊間歩、 化敷、 菱沢間歩同などの大水抜を青山庄左衛門が請
鹿角市史 第2巻 下
(0106)
家伝によると、 山本家の初代伊勢九郎兵衛寛文〓年歿)は伊勢国の浪人で、 三戸から
白根金山
へ移ったという,わが国開闢以来の金山と謳われた
白根金山
も次第に衰えを見せ、 寛文(一六六一~七三の頃から銅山に移行した
鹿角市史 第2巻 下
(0425)
初め
白根金山
にあったが、 同山の衰退により享保一〇年(一七二五)毛馬内桜庭氏采地の現在地に移された。,木造十一面千手観音立像)は元禄五年(一六九二)の作といわれ、 像高は台文化財共で一六〇・五センチ、
白根金山
鹿角市史 第5巻
(0064)
二·二一
白根金山
の山仕鍛冶久七所に居るきりしたん長左衛門訴人され、 欠落する。,一九花輪城代米田四郎兵衛江戸へ登り、 目時勘太夫花輪城代を命ぜられるも数日後江戸登りとなる四 · 五
白根金山
本山切取間歩跡山越後太郎右衛門請
鹿角市史 第2巻 上
(0027)
和銅の発見伝説三諸山開立年限附四三七鹿角郡の金山第二節封内富饒・鹿角の金山…四四〇一白根の金山四四(〓
白根金山
鹿角市史 第2巻 上
(0479)
うち一〇〇枚は「南部領
白根金山
玉秋田金(吹金)の品位で湊(ロ)目の封付という意味であり、 一枚は四〇,即ち
白根金山
吹金が、 秋田土崎湊の吹屋か天秤屋によって、 田舎目に近い一枚四〇匁八に封包されて幕府
鹿角市史 第2巻 上
(0590)
、 白根山奉行青木勘太夫、
白根金山
御奉行工藤権九郎代り田中久太夫煙山七郎右衛門代り服部万左衛門、,、 鹿角
白根金山
奉行佐々木弥五右衛門代り沢里十兵衛。
鹿角市史 第2巻 下
(0415)
開山は雙林寺一一世自然玄悦、 開基は
白根金山
山先青山庄左衛門昌隆で、 昌隆の名を隆昌にかえて寺名としたという,ただ
白根金山
の発見は一般的に慶長三年(一五九八)以降としていることからすれば、 天正五年開山は平仄が
鹿角市史 第5巻
(0063)
五·一〇
白根金山
検断左五兵衛病死につき、 子左内に跡役を仰せつける。,八· 三二番真鶴一羽柴内村窪二郎獲り即時江戸へ上る八·一六
白根金山
本平の内普請山、
鹿角市史資料編 第31集
(0028)
渡候、 但御運上増ニ望者候ハゝ、 早々可渡者也寛永五年六月廿六日利直判近江茂兵衛越中与茂七一已上
白根金山
根田影平
鹿角市史 第2巻 上
(0475)
白根金山
発見の実年代を特定することは、 なかなかの難事と云わねばならない。,寛政元年(一七八九)幕府老中の指示で書上げた『御当家御記録』にも、 「鹿角
白根金山
ハ慶長初年より始也
鹿角市史 第2巻 上
(0477)
また、
白根金山
の開始にともなう周辺の地域変化にも留意すべきである。,いずれにしても
白根金山
の開始に並行する年代であり、 古館・西町地区から急遽移転が行われ、 新城とともに
鹿角市史 第2巻 下
(0101)
余に「
白根金山
米賣、 本町四郎兵衛代同町清蔵を今日遣ス」とあり、 この年の白根納米は盛岡本町の四郎兵衛,藩ではまた、 蔵米を有利に捌くため脇米の入ることを厳しく取締り、 慶安三年八月
白根金山
に三戸より脇米
鹿角市史 第2巻 上
(0488)
毛馬内の庄介については明らかでないが、 広嶋吉兵衛は寛永一八年四月より吹屋として
白根金山
の「御買上金井御賣米代金,毛馬内石田家系譜によると、 石田三成の遺児とも云われる初代儀兵衛勝正は、 慶長一一年一八歳にして南部
白根金山
鹿角市史 第4巻
(0114)
正保三年(一六四六)に
白根金山
に建立されたのを後に毛馬内へ移したものであり、 明治に入ってから花輪に
鹿角市史 第2巻 下
(0040)
ゴールドラッシュ二、 鹿角の産金伝説三、 諸山開立年限附第二節封内富饒・鹿角の産金一、 白根の金山〓
白根金山
鹿角市史 第2巻 上
(0486)
〓
白根金山
根田影平、 運上弐牧ニ被下候。 運上増ニ望者候ハ、 早々可渡候也。
鹿角市史 第2巻 上
(0540)
(楢山治太夫(奥瀬)九兵衛(北)毛馬内御蔵川井左助殿山屋三十郎殿〓〓一、 毛馬内御蔵米百駄ハ、
白根金山
御売米
鹿角市史 第1巻
(0393)
石野はかつて、
白根金山
が盛えた頃の寺のあった所といわれてい
鹿角市史 第4巻
(0757)
慶長三年(一五九八)の
白根金山
発見は、 鹿角の鉱山の隆盛をもたらした。
鹿角市史 第4巻
(0173)
毛馬内の町づくりは
白根金山
の隆盛にともなって、 〓長年間(五九六六一五)、 藩主直々の縄張によって
鹿角市史 第4巻
(0209)
また中央部にはかつて
白根金山
として栄えた小真木鉱山が位置し、 その南部には和銅元年(七〇八)の発見と
鹿角市史 第2巻 上
(0493)
白根金山
の運上山に関わる正保以後(一六四四~)の証文として、 現在判明しているものを次に掲げる。
鹿角市史 第2巻 上
(0035)
藩政初期に
白根金山
のほか尾去沢諸金山等が開発され、 諸国に喧伝されていた事(『徳川実紀』慶長二年四月是月条
鹿角市史 第2巻 上
(0569)
同じく青山金右衛門覚書)には「
白根金山
慶長三戊戌年見立、 ○年久敷く大盛、 寛文八年之頃より釦銅鉉之
鹿角市史 第2巻 上
(0507)
右の書上には年代を欠いているが、 初めは正保二年(一六四五)のもの、 堀切兵庫助の
白根金山
奉行在任
鹿角市史 第2巻 上
(0510)
白根金山
の留木は、 おもに小坂古遠部山から下げ渡されていた。
鹿角市史 第2巻 下
(0394)
真金御山第三十二吉一、 橋野御山第一大吉一、 西道金山第三十八半吉一、 金沢御山六十五末吉、
白根金山
三十九凶
鹿角市史 第5巻
(0065)
がしき折花輪城主を早く定め大光寺譜代の侍共を寄騎とするよう石井伊賀守建白を遺すこめどめ八·二六
白根金山
鹿角市史 第5巻
(0073)
青山庄左衛門、
白根金山
根田沢四枚山水抜一一口の内一部の排水に成功す。
鹿角市史 第2巻 上
(0402)
石野の一軒は、 同所が
白根金山
の山許であったからで、 花輪の酒屋数は寛文七年と同じである。
鹿角市史 第2巻 上
(0571)
菊松の親広嶋古兵衛が
白根金山
の普請を数年続けたが経費ばかり嵩み、 成功しない。
鹿角市史 第4巻
(0787)
白根金山
発見の伝説はかなり近年のもので、 江戸初期の北十左衛門という歴史上の人物が主人公となっている
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