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鹿角市史 第2巻 上
(0228)
「東洋文庫」本"盛藩年表』
盛岡
藩士中島積水高寛編。,『参考諸家系図』『
盛岡
砂子』等の編著が多数ある。,明治一六年(一八八三)迄の藩内外記事を収録した年表『御家被仰出』
盛岡
藩の藩法集南部家文書・
盛岡
市中央公民館蔵第二節藩政確立,『参考諸家系図』
盛岡
藩士星川正甫吉寿の編になる
盛岡
藩士系図集。,南部家文書・
盛岡
市中央公民館蔵
鹿角市史 第2巻 上
(0229)
『御役被仰付類』
盛岡
藩人事書留の一。,南部家文書・
盛岡
市中央公民館蔵「寛文印知集』「続々群書類従」本。,続群書類従完成会編『南部領郷村高辻帳』南部家文書・
盛岡
市中央公民館蔵御書抜』
盛岡
藩士沢田定堅著岩手県立図書館蔵盛府百官,、
盛岡
藩政末期から明治期にかけての編年体資料集。,岩手県立図書館蔵『郷村私説』
盛岡
藩士星川正甫著
鹿角市史 第3巻 下
(0312)
青森県下の経済界の動揺は岩手県に大打撃を与え、 石手県内の
盛岡
、 第九十、 岩手の各行はともに取付,
盛岡
銀行は、 花香温泉への投資、 政治資金流出が直接原因とされているが、 この時の恐慌による損害額,
盛岡
銀行〓和六年一一月二〇日付鹿角時報には、 「
盛岡
銀行新装/花輪町の一偉観」の見出しの記事が〓げられている,
盛岡
市に本店を有し、 同県経済界に断然頭角を抜く金田一国士会頭の
盛岡
銀行は、 花輪線全通を機会に鹿角郡,その上
盛岡
銀行花輪支店も
盛岡
へ引揚げを行い新整理案を発表するとの風説が
鹿角市史 第5巻
(0264)
に至り降伏嘆願書を差出す十一月
盛岡
藩主父子東京へ護送される十二月
盛岡
藩の封地没収さる嗣子南部彦太郎磐城白石十三万石,関係事事項九 ·二
盛岡
軍、 岩瀬合戦、 板沢合戦などで大敗す。,九· 五
盛岡
軍大館を撤退、 新沢口を通り藩境まで兵を引く。,この日より官軍諸藩兵続々進駐、 やがて
盛岡
へ向う。,出典一〇·一四南部領取締りの秋田藩は
盛岡
城中に南部表鎮撫行政司庁を開設した。
鹿角市史 第5巻
(0463)
; 495· 511· 513~515 · 5172上7133下411
盛岡
御城下騒動日記
盛岡
市史,#183; 95·96 · 117 ·493· 593 3上106
盛岡
中学校校友会誌,3上641
盛岡
南部家文書(秀吉安堵状) 1517
盛岡
の美術(絵画)2下477 · 478 &,#183; 481
盛岡
藩御国住居諸士
盛岡
藩学通史
盛岡
藩勘定所事務分掌2上992下429 ·
鹿角市史 第2巻 上
(0231)
南部藩編』農林省(昭和五~九年『御国中御蔵米豆籾雑穀本払大図積並賦方取調書』岩手県立図書館蔵写本『旧
盛岡
藩勘定所事務分掌,』岩手県立図書館蔵『南部藩秘私録』文政一〇年(一八二七)
盛岡
藩士船越五郎右衛門著岩手県立図書館蔵『御国住居諸士,』天保一五年(一八四四)-推定-の身帯帳岩手県立図書館蔵古今賜俸録』
盛岡
藩士横川良介著。,安政四年(一八五七)一二月二三日、 八四才で没岩手県立図書館蔵『身帯御加増分地召出之類』地召出之類』
盛岡
藩人事留,南部家文書・
盛岡
市中央公民館蔵。
鹿角市史 第3巻 上
(0070)
二、 めまぐるしい新県の変遷
盛岡
県治現在市内の肝入文書等のうち明治二年の行政の動きを書きとどめたものとして,その御用留帳に初めて「
盛岡
県御役所」と明記した示達七月のあらわれるのは、 旧六月一一日()夜柴内村から,五月に行政官〓一九日よび民部官から政府発行の金札を差別なく通用させるようにとの告諭で、 末尾に「
盛岡
県御役所,次に
盛岡
県治下のおもな動きをたどってみる。,なお小坂銀山については間もない七月一六日に、 暫時休くさ』山となる旨、
盛岡
県御役所から通達があった
鹿角市史 第2巻 下
(0620)
○同月五日
盛岡
からの藩士ら一八人拝見願出。,○同月六日官軍は一昨日より五日迄八~九〇〇人程も花輪に宿陳のところ、 今日から追々
盛岡
へ出立する由にて,
盛岡
藩士ら上下六人拝見願。,尤も昨日
盛岡
へ向って二〇〇人程出立したとのこと。,また
盛岡
からは三〇〇人程今日出立して秋田へ通行するとの知らせがあった。
鹿角市史 第2巻 上
(0032)
諸士…七九第〓表鹿角に知行を有する重直・重信代新規召抱の諸士…七九第〓表鹿角郡村々分高書上……八第〓表
盛岡
藩,表両鹿角御給人員数の推移…八六第〓表両鹿角御給人表(明治二年)…八八第〓表鹿角郡高辻の推移…九第〓表
盛岡
藩惣高,・表高の推移…九一第〓表鹿角郡内郷村高…九七第〓表貞享元年高直し時基準
盛岡
藩高辻比較…九八第〓表
盛岡
藩御蔵高,…二七第〓表
盛岡
藩天和期の〓歩算定基礎…二〓第〓表通別粟歩の格差分布…一二カ第〓表両鹿角の村別粟歩……,一三〇第〓表凶荒による
盛岡
藩の損毛高…三第〓表両鹿角の〓歩……一三六第〓表
盛岡
藩蔵入地年貢米の納入形態
鹿角市史 第3巻 下
(0316)
和議成立の時期はわからないが、 鹿角時報九年八月一日付の紙上春秋欄に「
盛岡
銀行和議成立し清算人の整理案,そして七カ年賦の返済を終え、 昭和一六年八月二七日をもって
盛岡
銀行は清算を完了したのである。,
盛岡
銀行花輪支店が整理を打切って
盛岡
へ引きあげた跡へ、 九年一〇月一日第四十八銀行花輪支店が谷地田町,大正一一年
盛岡
銀行が初めて鹿角に進出してきた年、 全国で一、 七九四行あった銀行が、 昭和九年すなわち,
盛岡
銀行の廃業となった翌年には四八四行に減少していた。
鹿角市史 第2巻 上
(0086)
第一章
盛岡
藩政における鹿角第13図毛馬内代官所見取図(
盛岡
市中央公民館蔵「毛馬内通御役屋御本陣図」から,巻第2号から)第16図専正寺寺門(元花輪代官所門)第14図花輪代官所見取図(「花輪代官所図」から)(
盛岡
市中央公民館蔵
鹿角市史 第2巻 下
(0613)
第三節
盛岡
藩の降伏一、
盛岡
藩降伏す停戦の申入れ南部軍は大館撤退後、 次第に藩境間近く戦線を縮少し,九月二〇日未明、
盛岡
から藩主の直筆書を持った急使野田丹後が到着した。,
盛岡
においては、 春以来藩主名代として京都にあった三戸式部が九月一八日帰藩するに及んで、 情勢が大,三春・米沢藩なども降伏し、 仙台藩は九月一五日帰順を決定して既に総軍引揚を指令しており、 ひとり
盛岡
藩
鹿角市史 第2巻 上
(0124)
第四節御蔵高と給所高
盛岡
藩の石高することができる。,第五期は、 一旦陸前国白石城一三万石を宛行われた四二世利恭が、
盛岡
に復白石市帰し
盛岡
藩知事に任命,しかし鹿角に限ってみれば、 南部家が封土没収になった明治元年一二月を期に明治政府の直轄地となり、
盛岡
藩,
盛岡
藩惣高と鹿角の高辻
盛岡
藩をはじめとする諸藩は、 領内の生産性向上のため、 全時代を通じて新田開死
鹿角市史 第2巻 上
(0021)
目次口絵序凡例一第一章
盛岡
藩政における鹿角…第一節
盛岡
藩の領域確定と鹿角…2円青垣山を繞らせる国のまほらば,、 南部氏の支配になる、 南部内七郡考、 幕藩体制と
盛岡
藩天正の城割と関城の存置、 花輪城預かりと
鹿角市史 第2巻 上
(0047)
ちなみに『歯部史要』によれば「文化十四年(一八一七)十一月古来唱へ来りし南部藩を改めて
盛岡
藩とす」とあるが,国統大年譜』の同年一一月三日の条には「古来南部領と唱候処、 南部は甲州甲斐国現山梨県)の村名に付、 自今
盛岡
,、 江戸往来の節、 御家中の荷札、 是迄は南部家中何之誰と一統に認め来り候処、 以来
盛岡
何之誰,依て向後御城下住居の者に限らず、 在々の者共、 都て「奥州
盛岡
何郡何町何村誰」と認め申すべき旨、,それを
盛岡
と改変し、 右のような経過があり文化一四年の幕府届出となるに至ったのである。
鹿角市史 第3巻 上
(0434)
オールトにしても、 村井経営の尾去沢銅山産出の銅が目当てであったことは明ら茂兵衛かで、 三年一一月
盛岡
県,三年閏一〇月、 同一二月の両度にわたり、
盛岡
県は外債等の支払にあてるとして、 大蔵省より一五万両,四年正月、
盛岡
県は先の太政官弁官の許可により、 江刺県に対し県官員銅山出張のことを懸合におよんだ,同正月二九日
盛岡
県少属佐藤吉弥、 史生葛西省吾・山口才吉・三嶋富次郎の四名が、 尾去沢銅山取締の為,四年に入って英商オールトは、 償還金の遅延につき、 ついに
盛岡
藩債償却延滞の訴訟を大阪出張弾正台に
鹿角市史 第2巻 下
(0286)
依て是より
盛岡
へ罷越し、 銘々存入残らず申上げ、 何方へなり他所へ致す所存なり。,百姓達は五戸、 三戸、 鹿角からそれぞれ
盛岡
へ向けて出発した。,代官の通報により
盛岡
から三戸へ向った目付は、 途中鹿角の一揆勢と出会った。,御買米・大豆御免、 馬役・山役冥加銭・塩役御免など一二、 三カ条の要求を全部認めることにして、
盛岡
強訴,この訴状を持って毛馬内町から一七人の代表が
盛岡
へ上った。
鹿角市史 第5巻
(0265)
一一·一八
盛岡
の鍵屋茂兵衛、 尾去沢銅山の経営権を、 家老連名の証文をもって藩より委譲される,明治二(一八六九)二月 奥羽人民告諭でる五月松代藩、
盛岡
県御役所を設立す五月 南部家白石移転、,家臣三千八百五十五人永暇となる七月 南部利恭七十万両の献納を条件に
盛岡
復帰を許される八月 南部利恭
盛岡
藩知事,御觸帳五·一一
盛岡
県へ花輪毛馬内両通の諸事務、 館、 官所等の引渡しが双方役人より行われた
鹿角市史 第2巻 下
(0311)
盛岡
藩もまた領内街道を整え、 前記見聞記には、 明暦四年(一六五八)日半道のように左右に松を植え、,花巻筋、
盛岡
、 郡山、 雫石道、 奥筋に夫々役人を派して新道を造り曲りを直し、 〓道幅,『南部叢書』天和年中(一六八一~八四)の『邦内貢賦記』)に
盛岡
城下より「江戸日本橋迄百三十九里」とある,
盛岡
藩は
盛岡
城下の、 奥州道中筋の継目駅所のかれた鍜冶丁一現在紺屋町)所在の一里塚を領内主要道の一里元標
鹿角市史 第2巻 下
(0517)
月嶺は鹿角第一というより、 八一八七(当時
盛岡
藩を代表する画人であった。,した写生であり、 それを基に文人的な気分を乗せて表現した作品は他に卓越しており、 幕末期における
盛岡
藩絵師,のなかで中枢的存在として活躍している(梅原廉『
盛岡
の美術(絵画)』・
盛岡
市教育委員会御抱え絵師としての,
盛岡
市川口家文書
鹿角市史 第3巻 上
(0066)
なお旧
盛岡
藩『覚書』明治二年旧五月四日の条には、 山屋・帷子・片岸・福田四人に対し「五御代官所井びに,あつめくさ』「鹿角市史資料編第二集』所収によると、 旧五月一〇日花輪表へ松代・松本両藩の諸役人と、
盛岡
表,因みに
盛岡
県官員表を示すと、 次のごとくである。,第1表
盛岡
県官員(明治二年五月現在第一節一新された行政(『岩手県史』第六巻から」
鹿角市史 第2巻 上
(0634)
それ以後の産銅は
盛岡
出となり、 残りは山許に囲銅として保管され翌春の一番改めに加えられる。,月一五日迄の吹出銅二万五、 四一〇貫は、 十分一役銅二、 五一三貫を差引いた外の二万二、 八九六貫が
盛岡
出,
盛岡
出は、
盛岡
から北上川を下って石巻湊から大坂へ向って船積された。,この御用目録には、
盛岡
出と秋田出両方面の道中駄賃が次のように記されている。,
盛岡
出銅道中駄賃一、 三拾三文花輪より大里迄但シ三固附壱駄ニて一、 三拾八文花輪より小豆沢迄
鹿角市史 第3巻 上
(0252)
一方、 一五年には日本鉄道会社が東北線の建設に着手し、 二三年に
盛岡
、 翌年には青森までの開通をみた,三〇年になると、 政府が
盛岡
市における私設鉄道(大館・好摩間)の計画を許可して仮免状を下附したが、,その翌年、 鹿角・北秋田両郡郡民と
盛岡
市とが提携して、 帝国議会に対し大館・
盛岡
間鉄道敷設の請願書,鹿角鉄道敷設の運動鹿角鉄道一大館
盛岡
間の鉄道)敷設の請願は、 四三年から毛馬内町長・大館町長および
盛岡
市長名
鹿角市史 第2巻 下
(0548)
又江戸の小林見外編『槻弓集』には「南部
盛岡
一徳庵社中」として毛馬内の知則、 幽篁、 麟趾、 王民,一徳庵は於曽此一の庵号で、 これら毛馬内の主な俳人たちは
盛岡
の於曽此一に師事していたことがわかる。,一徳庵此一は辻嵐外門、 安政初年頃
盛岡
に来てまたたく間に勢力を広げ、 南部領内を席巻したといわれる,師此一が、 慶應四年五月
盛岡
において割腹自決を遂げた王民近内藤十湾・内悦人に寄せた切々の弔文は『鹿角志
鹿角市史 第2巻 下
(0039)
第一節
盛岡
藩の領域確定と鹿角二、 御境附御法令〔第二巻・上目次〕第一章
盛岡
藩政における鹿角第一節
盛岡
藩,村々二、 農業生産力の向上三、 農業と生活第二節林産資源に恵まれた鹿角一、 杉材木の他領出二、
盛岡
藩
鹿角市史 第5巻
(0263)
関四月奥羽諸藩の重臣白石に会す諸藩解兵届を提出し兵を引上げる五月 白石に奥羽越公議府を開設する六月九条総督
盛岡
,に入る九条総督
盛岡
を発し秋田に転ずる七月 江戸を東京と改称する命ずる。,五·二〇
盛岡
より銃隊到着、 長年寺·恩徳寺に宿陣。,八·一二未明扇田神明社の
盛岡
軍に夜襲あり、 多くの死傷者でる。,八·二九前山に展開の
盛岡
軍、 初めて官軍の反撃をうけ247
鹿角市史 第2巻 下
(0642)
一三万石を下賜された南部彦太郎(利恭)は、 翌二年六月に版籍を奉還したが、 その七月二二日に至り旧地
盛岡
,へ復帰を許され、 翌八月
盛岡
藩知事に任ぜられた。,南部知藩事利恭今般格別之御詮議ヲ以、 改而
盛岡
江復帰、 金七拾萬両献納被仰付候事。,七月七月大政官翌々五日、
盛岡
の南部吉兵衛より書付が届き、 月番はじめ家老・用人全員に披露された。,かくて鹿角は、 二度と南部氏ないし
盛岡
の管轄下に戻ることはなかったのである。
鹿角市史 第2巻 上
(0199)
これに対し
盛岡
以南の郷村には新山舟橋料を負担させていた。,鹿角御買米制度
盛岡
藩の御買米制度には二様あるが、 いずれも租税でないとはいえ、 租税と同一の性質をもって,
盛岡
藩において一般的に御買米制度と言われるものは、 江戸の市場に売却して利益を得るため、 領内花巻二郡,、 郡山四ケ在、
盛岡
近在、 雫石、 大迫、 沼宮内通の村々から二万石の作徳米を強制的に買上,『
盛岡
藩勘定所事務分掌』によれば、 村高に応じて高一〇〇石に付何駄と高割し、 買入価格については「
鹿角市史 第2巻 上
(0230)
硝備考』安政四年
盛岡
藩医佐藤昇庵(佐藤信淵の嫡)と、 信淵の門人大久保仁斎との共著。,秋田県立図書館蔵『大小御役末々迄人数積』安政二年(一八五五)
盛岡
藩役職座順並に定員調。,
盛岡
市中央公民館に「南部家文書」として、 本書のほかに『花輪御給人由緒帳』を含め全藩士分を収録した『,南部家文書・
盛岡
市中央公民館蔵『内史略』
盛岡
藩士横川良助直胤の編著。
鹿角市史 第2巻 下
(0043)
在町の成立『部氏が、 慶長二年(一五九七)不来方の地を
盛岡
と改めて築城を始め、 完成の後藩主が入城,一七世紀末の
盛岡
の商工業人口は一万二、 〇〇〇人から一万四、 〇〇〇人台、 それに武士人口が召仕等,を含め約二万三、 〇〇〇人で、
盛岡
の全人口は約三万五、 〇〇〇人前後と推定され、 領内総人口,の約一〇パーセント強を占めていた(渡辺信夫「城下町の成立・
盛岡
」豊田武編『東北の歴史』中巻所収もちろん,例えば鹿角と
盛岡
との間は約二三里の里数、 途中寺田や荒屋に宿泊して、 普通二、 三日を要する行程
鹿角市史 第2巻 上
(0035)
第一節
盛岡
藩の領域確定と鹿角青垣山を繞らせる国のまほらば育垣山を繞らせる鹿角は、 地域的には奥羽山脈,米代川の転上流に位置して、 古くから陸奥国に属し、 近世にはその領域の大半を同分水嶺の東側に占める
盛岡
城主南部氏,しかしながら、 地勢上からみて確かに辺境の地には違いないとしても、
盛岡
藩財政上から、 ひいては,
盛岡
藩の治政上からみれば重要な意義を有する土地柄だったのである。
鹿角市史 第5巻
(0224)
和歴(西暦)同一 般 的 事 項
盛岡
藩現金二万両を江戸豪商より借入、 これを兌換券発行準備金として藩札七福神札,幕府救小屋を建て窮民を救済する三月幕府諸秤の私売を禁ず七月 ロシア船漂民を護送し択捉島に渡来するこの年春
盛岡
藩主利済広小路御殿,などを造営す一一月安俵通の農民重税銭札通用等に反対し蜂起、 彦部大迫花巻辺を誘引達曽部大迫乙部を経て
盛岡
,日詰志和三·二一
盛岡
より勘定方出張し米札の引替を命じる。,普請願出て聞届けらる四 ·七花輪通樺細工師新助·定助子共へ御側御用のため支度出来次第
盛岡
鹿角市史 第2巻 下
(0621)
官軍諸隊の殆どは一両日程度の滞在で
盛岡
へ向っているが、
盛岡
入城にともなう諸隊集結の行動であった。,
盛岡
城の開城は一〇月一〇日に行われ、 無事引渡しを終えた。,この間のことを『秋田県史資料上』一二二の註記は「十月十日進駐諸隊
盛岡
に到着、 平穏に城地接収。,大総督府の同一六日付の指令により、 秋田藩が
盛岡
藩所持の武器弾薬悉くを急拠引取ることとなり、 同藩
鹿角市史 第2巻 上
(0400)
即ち
盛岡
での酒造は小幡太郎兵衛、 平野源五郎の二人、 糀商売は太郎兵衛、 源五郎に助四郎、 内膳,
盛岡
市中の密造酒が摘発され藩役人がその容器を毀して廻ったため、 本町新町附近の街路は一時酒が川の如く,史要」翌万治三年も長雨と洪水で凶作となったため、 藩では領内の酒造業者を三三軒に限定し、
盛岡
市中六軒,この例における一カ年酒屋一軒の御礼金は、
盛岡
以外一〇両、 七両、 五両の三段階で、 花輪・毛馬内,一、 拾五軒
盛岡
壱軒雫石弐軒郡山弐軒花巻壱軒大迫(略)壱軒花輪壱軒毛馬内右弐拾ケ所酒屋数三拾九軒、
鹿角市史 第3巻 上
(0064)
安穏に家業を出精いたし可申、 かへすかへすもさわぎ立申まじく事明治二年己巳二月行政官印(句読点筆者
盛岡
県,二年二月二五日一旧一月一五日、 朝廷直隷地を管理するため会計官権判じはやしともゆき半七、 山事林友幸(〓)が
盛岡
,壱人の見込、 未明差立候様談合に相成り申し候」云々と記されている(『御用留帳』倍賞家文書林権判事の
盛岡
下向,ののちは、 同人の指示によって旧
盛岡
藩からの、 各取締藩への引渡し事務準備が着々と進旧三月行した。,小幡は鹿角郡を含む
盛岡
県(乙戸郡一部、 鹿角郡、 岩手郡、 紫波郡、 閉伊郡一部、 稗貫郡一部
鹿角市史資料編 第27集
(0011)
成下度此段奉歎願候以上助十一下度會計官江歎願書差上御取納無之落渡前々御座候、 随て重畳〓神田枝多助入奉存候得共何卒旧地
盛岡
城江被差置被成下度其筋御取成御助,ケ被勇助成下度此段奉歎願候以上助十郎佐吉権蔵豊吉市兵衛
盛岡
鹿角郡花輪村百性佐十太郎兵衛印権蕊善助印豊吉后助市兵街熊本様御役人中様賀州様佐竹様黒田様藝州様備州様鍋嶋様隆州様彦根様長州様土州様因州様福井様仁助八戸祥八戸様長州藩木戸準一郎様
盛岡
鹿角郡花輪村百性太郎兵衛印善助印周助六兵衛昌治専助仁助佐助善七忠太郎直治十治伊助林平周治神巴兵衛小豆沢村徳右,エ門市太郎大里村源右エ門長助乍恐奉歎願候事奥洲
盛岡
鹿角郡百性去秋領主南部美濃守無調法之義御座候ニ付城地御取上別段思召
鹿角市史 第2巻 下
(0035)
第四節
盛岡
藩の処分五八六一、
盛岡
藩の謝罪五八六藩主父子の東京召喚二、 鹿角の戦死者五八九戦死傷者
鹿角市史資料編 第28集
(0005)
花輪町佐藤新蔵、 堰向定助は新銭使用の無調法により、
盛岡
まで引付になっている贋金づくりも各地で行,文政六年七月秋田から柴内村へ来てきせる・かんざしなど小細工師をしている贋金づくりを逮捕するため、
盛岡
,ようやく十月中旬になって
盛岡
へ板籠で送られた。 時代とはいえ仰々しい、 苛酷な扱いであった。,毛馬内横丁打物師吉五郎の贋金細工が露見し、
盛岡
からきた徒目付や同心に取押えられ、 その翌日
盛岡
へ,天保四年八月、
盛岡
より役人が派遣され、 穀物隠匿の一斉摘発が行われた。
鹿角市史 第2巻 上
(0040)
南部内7間一-2第一章
盛岡
藩政における鹿角質11年館知状10郡1-正宝5年鋳造
盛岡
城時鐘在銘7郡「階上
鹿角市史 第3巻 上
(0433)
三年四月、 政府は
盛岡
藩の七〇万両献金について、 残金の納入免除を指令した。,幸三年七月、
盛岡
藩知事南部利恭が辞職し、
盛岡
藩は
盛岡
県となり県制を布くことになった。,一〇月高知商社よりの藩借入金始末に、 村井は尾去沢銅山稼人名義で調印するよう命ぜられ、 かつ
盛岡
県産物商社頭取
鹿角市史 第2巻 下
(0471)
五郎の父は毛馬内御境古人田口和多右衛門の子で、 秋田藩大館の江忰通英の婿養子となり医学を修業、
盛岡
,即ち御薬園とよばれていた現在の
盛岡
市中央公民館である。,その背景には、 文化元年(一八〇四)幕命による
盛岡
・津軽両藩の東蝦夷地警衛、 同四年同じく西蝦夷地,への配備、
盛岡
藩兵のエトロフ島におけるロシア兵との交戦、 文政八年(一八二五)「異国船打払い令」,弘化元年(一八四四)九月には
盛岡
郊外茨島において総勢一万二、 〇〇〇人に及ぶ藩兵調練の大演習が行われ
鹿角市史 第2巻 下
(0622)
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からの帰途に鹿角を通過する官軍の模様を、 『出陣日記』は「同十四日諸藩の兵隊
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へ往もあり秋田津牲,支配人手代初め末々の者まで御手伝金を命ぜられたので、 一同で上納金をまとめ金子惣高五三二両一朱を今朝
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,秋田藩の駐兵○月末に南部領取締りを命ぜられた秋田藩は、 藩士を
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へ派遣して監察使より
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城の引渡しを
鹿角市史 第5巻
(0133)
す同幕府年貢金納制を定む五月 幕府米穀買占を禁じるこの年藩、 諸士知行新田の御礼銭高を定める同 同
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城内太鼓堂造立領内夏旱魃,損毛高三万八、 〇〇〇石余一·二二花輪通熊沢かっち兄川かっち先年より柾山に
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商人等が請けていた,処、 この度鉈屋町六兵衛二·が証を
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へ附出し商売することを願出許さる高屋村観心坊、 弘法大師座像,五·一二
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商人伊久屋権四郎、 伊藤長治追放後の尾去同 同雑書沢の稼行を請く。
鹿角市史 第2巻 上
(0227)
〔引用書目〕第一節
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藩政における鹿角雑々秘録』長沢某の草稿を弘化元年(一八四四)に藤武元(氏名不詳),が浄書して『郷村摘志』と題した
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領内地誌の原本。,岩手県立図書館蔵写本『徳川実紀』新訂増補『国史大系』本吉川弘文館竹清私記』
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藩士伊藤嘉兵衛祐清の藩史的伝承
鹿角市史 第4巻
(0856)
此村へ先年毛馬内典膳之連枝居城セられし由ニて號る也上山守古(
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藩士・生年没年不詳)刀延元年(一八六〇,)八月、
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藩主利剛が鹿角地方を巡視した時、 中奥御小姓として仕えていた上山守古は約一カ月に及ぶ,八月三日に
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を出発し寺田に泊まり、 四日は浄法寺泊、 五日田山泊、 六日は湯瀬に入り大日堂を経,その後は来満街道を越え、 三戸城を経て九月一日に
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城へ帰っている。
鹿角市史 第5巻
(0203)
国後島に来高田屋嘉兵衛を介しゴローニン釈放の交渉開始九月 幕府ゴローニンらをニコルドにわたす一二月幕府
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藩主南部利敬,に蝦夷地警衛費一万両を貸与するこの年
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藩蝦夷地の警備を同同免除される
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藩江戸麻布屋敷が焼失する藩領内霖雨夏冷凶作,#183;二九花輪御役屋より各村々へ、 他領諸荷物役取立請負をこれまでの紺屋丁平助に代わり当年より
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御用達村井市左衛門
鹿角市史 第3巻 下
(0665)
戦後も鹿角の郵便輸送方法は、 国鉄花輪線を利用しての運送であったが、 名称から見ていくと
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大館間,の場合、
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には仙台鉄道郵便局の
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分室が置かれ、 一方大館には大館分室が設置されていた。,
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発あるいは大館発の列車に郵便車が連結されて乗務員が乗り込み、 各駅に停車するほんの数分が受渡の時間
鹿角市史 第3巻 上
(0258)
花輪-田山の線は寺田を経て
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へ通じ、 そしてこの線は八年三月から月九回の定期便を開始した。,すなわち
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差立が二・五・八二・一五・一八・二二・二五・二八日、 花輪差立が三・五・九のつく日の各々九回,八年九月には
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大館間小線路が順送便となり、
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差立は半ノ日ス)、 大館差立は丁ノ日一偶数日日とされ
鹿角市史 第2巻 下
(0546)
これらの献額から、 天保以降において花輪の俳諧が実に隆盛をきわめていること、 その交流は
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方面より,麟趾は毛馬内の御役医、
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工藤玄良門で医学を修業した。,
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の貫洞卓堂
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藩士、 初め士由門、 のち大梅・卓朗に師事)および於曽此一の教えも受けたといわれ
鹿角市史 第5巻
(0072)
和歴(西暦)一 般 的 事 項主の苛政を幕府に愁訴する八月 三月より是迄
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藩領内より産する紫根を、,新町順長に取扱わせ雫石を経て秋田に発送、 京坂にむけ輸出する九月 夏井門兵衛は
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より鬼柳までの道路橋梁修理,、 葛西庄兵衛·吉岡半左衛門は
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宮古間および
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雫石橋場間の道路橋梁修理を命じられる鹿角関関係事項項出
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