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鹿角市史 第3巻 下
(0662)
さらに四七年一一月二七日に八幡平・十和田間、 十和田・
碇ケ関
間の路線発表があり、 五一年二月一二日,日本道路公団仙台管理局十和田省理事務所提供の資料による安代-鹿角八幡平-十和田-小坂-
碇ケ関
中心杭設置五一年六月
鹿角市史 第3巻 上
(0245)
濁川街道の様子を知るものとして、 二九年一二月九日にこの道路を
碇ケ関
口から越えた内藤十湾の『漫遊記』,駅馬ニ跨カリ前八時
碇ケ関
ヲ発シ、 濁川嶺ノ険ヲ度ル。
鹿角市史 第3巻 上
(0246)
これは東京から弘前まで列車に乗り、
碇ケ関
に一泊した翌日の行程である。,通運会社が
碇ケ関
と濁川にあって、 人馬継立をしていたものを駅と称していた。
鹿角市史 第2巻 下
(0352)
一、 濁川村ヨリ津軽
碇ケ関
マテ五里、 此間弐里半計り至テ山坂ニテ難所馬足通用セザル也。,一、
碇ケ関
ヨリ弘前マテ六里、 此間村数七、 八ケ村在(下略.
鹿角市史 第4巻
(0450)
濁川街道は毛馬内で来満街道から分岐し、 北に向かい小坂を経て坂梨峠から
碇ケ関
に達する道とある。,青森・北海道からの物資は明治三十二年の奥羽北線の
碇ケ関
開通から小坂鉄道の開通まで、 この道を人の背か
鹿角市史資料編 第26集
(0033)
毛馬内より濁川村迄弐里半此間万谷村荒川村岩川村小坂村細越村なと村数有是は徃還筋同様、 濁川村より地軽
碇ケ
,
関
迄五里此間弐里半斗至而山坂ニ而難所也馬足不通用也、
碇ケ関
より弘前迄六里此間村数七八ケ村有、 大行道
鹿角市史資料編 第29集
(0129)
働申度申出吟味仕候処左之書付持参秋田松木之由松壱人、 右は弘前通油川組新城村子之助方へ働ニ参候、 尤弘前表ニて御印紙申請、
碇ケ
,
関
口帰国之旨宿権田郎下書有、
碇ケ関
御関所改相通者也慶応四辰三月卅日金治兵衛町奉行中野辺地より持参之切手大館之松木村由松右之者当春中
鹿角市史 第4巻
(0503)
近郷からの行商毛馬内では市日以外の魚は
碇ケ関
から峠越えに小坂を経て、 馬車で運ばれてきていた。
鹿角市史 第3巻 上
(0613)
客馬車二〇年頃、 郡交通の要衝である松ノ木に青森県
碇ケ関
から数名の者(氏名不詳)が来て、 客馬里を
鹿角市史資料編 第26集
(0051)
十二処より扇田迄弐里一、 扇田より大館迄壱里半一、 大館より釈迦内迄壱里一、 釈迦内より津軽領
碇ケ
,
関
迄五里一、 同所より弘前迄六里一、 同所より青盛迄拾壱里〆弘前迄拾九里青盛迄三拾里〓〓
鹿角市史 第3巻 下
(0191)
小坂町から青森県
碇ケ関
村に達する道路は、 県道を廃せられていたが、 毛馬内営林署により修復されること
鹿角市史 第3巻 下
(0602)
選鉱は総合浮遊選鉱とし、 銅、 鉛、 亜鉛、 硫化鉄の各精鉱を得たのち、 奥羽線
碇ケ関
駅ヘトラック
鹿角市史 第2巻 下
(0601)
『鹿角口戦争実記』には八月二十四日、 新沢口進撃足沢内記、 三浦五郎左衛門今日大館へ着、 直に
碇ケ
,
関
押として長走え出張とあり、 大館城攻略遅延の不覚によって大館駐留を許されず、 直ちに津軽国境警備
鹿角市史 第3巻 上
(0235)
次いで一九年には、 鹿角から青森県
碇ケ関
に達する濁川新道開鑿を地方税によって行う許可を、 内務大臣
鹿角市史 第3巻 上
(0243)
藩政期において、 毛馬内通濁川村と南津軽郡
碇ケ関
村を結ぶ濁川道は、 いわゆる間道であり藩濁川街道の
鹿角市史 第3巻 下
(0664)
〓六年一〇月には十和田・
碇ケ関
間の工事に着工し、 六一年七月三〇日に開通し、 これにより東北自動車道
鹿角市史 第3巻 下
(0684)
総合優先浮遊選鉱によって銅・鉛・亜鉛・硫化鉄の各精鉱が生産され、 シクナーとフィルターで脱水ののち奥羽本線
碇ケ
,
関
駅へ運ばれていた。
鹿角市史 第4巻
(0877)
碇ケ関
より峠を越えて発荷にくだる。
鹿角市史 第2巻 下
(0313)
ほかに毛馬内から小坂、 濁川を経て津軽
碇ケ関
へ出る道筋○九メ一・八一八も知られていた。
鹿角市史 第1巻
(0280)
前者の出土地としては、 青森県では深浦町寅平(前・中)、
碇ケ関
村大面(円下b)、 秋田県では小坂町内
鹿角市史 第3巻 上
(0244)
一二年に秋田・青森両県から内務卿へ宛てた上甲書に「従来、 樵夫・牧童の通へる小逕」が濁川村と青森県
碇ケ
,
関
村との間にあるとしている(明治一二~一四『土不課道路掛事務簿』〓)。
鹿角市史 第1巻
(0556)
『津軽一統誌』によると、 天正十四年九月為信は比内に出るため初めて
碇ヶ関
道を開き「矢立ノ杉トイフ大切所
鹿角市史 第2巻 上
(0387)
花輪組丁山崎徳太郎家には、 慶長年間に京都山崎で鍛冶を営んでいた三兄弟が、 犬をめぐる争い事から山崎を去り、
碇ケ
,
関
を経て鹿角入りし、 花輪日向屋敷に住み、 次いで新町に居を移し鍛冶を営んで来たという伝承がある。
鹿角市史 第5巻
(0600)
碇ヶ関
(村)〔青森県〕石仮戸鉱山石切沢石通 〔八〕石鳥谷(屋)(村)石名坂石野(村)石野渡り板子沢板沢
鹿角市史資料編 第29集
(0121)
、 御当国より御打入候儀御扣被下度申来ニ付、 長走り御人数も御引上ケ御警衛のみ被差置候、 津軽
碇ケ
,
関
出兵も追々引取候と申事二候一、 扇田小荷駄締役奈良格二郎より常助を以被仰遣候趣ニは、 此間扇田村大沢
鹿角市史資料編 第30集
(0005)
九月四日の条に、 長走村における津軽藩
碇ケ関
出張隊長等と向井隊御徒目付工藤孝蔵等の折衝のなかで、
鹿角市史資料編 第29集
(0064)
乗船松前へ渡海為致候よし、 然るに津軽家二ては鎮撫使之外相随ふ薩長之人数は壱人も相通し不申手賦ニて、
碇ケ
,
関
より一里程佐竹御領分へ押入、 並木剪倒ふし陳屋しつらい堅固二警衛いたし候ニ付、 鹿角へ相廻り可申哉
鹿角市史資料編 第30集
(0107)
候申出、 尤毛馬内の者一人穢多ノ者一人都合四人同道ノ内穢多ノ者取押られ候由申出有之、 於長走村津藩
碇ケ
,
関
出張隊長ノ由長谷川弥六北村弥平次より御役方面会ノ儀申来、 長走村陣馬村トノ間ニ於て工藤孝蔵石川波之助出張
鹿角市史資料編 第30集
(0108)
其後野辺地出張役々より御問合申候次第も有之筈、 右等ノ御処置振承知致度ト申向候処金之丞甲候ハ弥六初
碇ヶ
,
関
出張ニ候得ハ弘前ノ事実近頃ハ相分兼候由挨拶ニ付、 左候テハ猶以御談合通隊長へ申出かたく孝蔵弥以御国論真実
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