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鹿角市史 第3巻 上
(0246)
〓
米代川
の舟運
米代川
の水運近世における鹿角の水運利用は、 筏による木材の運送のほかはほとんど史料に現,四年に毛馬内の鎌田忠太郎・大館の佐々木久助等の尽力により、
米代川
の沢尻・土深井)。,』秋田県庁蔵一五年に鹿角郡長は二級河川の範囲をさらに上流まで延長するように「
米代川
筋修繕区域更正願」を,県ではこれに答え、 翌年規則の改正を行なって
米代川
の限界を熊沢川合流地点まで遡ることとした。,『前掲書』〓)によれば、
米代川
の航路の起点は花輪字中川原であった)。
鹿角市史資料編 第14集
(0075)
右御林西より東迄拾弐間程、 北より南迄六拾間程、
米代川
江半里程川出不宜木性宜土地黒野土ニ御座候。,上谷地館御立林御林守萬治印西東北南は畑限杉百五拾本小木右御林西より東迄拾間程、 北より南迄弐拾五間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,御田畑限南は御田畑限杉三拾五本小木松百本小木右御山西より東迄弐拾五間程、 北より南迄百弐拾間程、
米代川
江壱里程,は御田地限杉三本目通三尺廻り栗五本小木雑木四本小木右御山西より東迄五間程、 北より南迄壱間程、
米代川
迄壱里程,弐尺廻り迄槻壱本目通三尺廻り雑木四本小木外ニ小柴立右御山西より東迄七間程、 北より南迄四間程、
米代川
迄壱里程
鹿角市史資料編 第14集
(0077)
より壱尺五寸廻迄雑木七拾八本同三尺廻より壱尺廻迄右御山西より東迄百間程、 北より南迄弐拾間程、
米代川
迄弐拾丁程川出通用并木性共宜土地黒野土,弐尺廻迄松弐本同弐尺廻〓六本目通弐尺廻より壱尺廻迄胡桃弐本同弐尺廻右御山西より東迄拾間程、 北より南迄八間程、
米代川
迄弐拾丁程川出通用并木性共宜敷土地黒野土,堰限杉拾四本内一四本目通弐尺廻一、 拾本小木柴壱本目通壱尺廻右御山西より東迄五間程、 北より南迄拾五間程、
米代川
迄弐拾五丁程,寺境内限杉弐本目通壱尺廻柴拾本目通壱尺廻雑木拾五本同壱尺五寸廻より壱尺廻迄右御山西より東迄四間程、 北より南迄八間程、
米代川
迄弐拾壱丁程,は道限北は屋敷限南は道限杉拾本小木柴三本目通壱尺廻右御山西より東迄八間程、 北より南迄三間程、
米代川
迄弐拾五丁程川出通用并木性共宜敷土地白野土
鹿角市史資料編 第14集
(0078)
堰限東は團ノ林限北は畑限南は堰限杉拾本小木栗弐拾本小木右御山西より東迄七間程、 北より南迄五間程、
米代川
迄弐拾丁程,壱尺廻迄桂弐本目通壱尺廻栗拾弐本内一、 弐本目通壱尺廻一、 拾本小木右御山西より東迄拾五間程、 北より南迄三間程、
米代川
迄弐拾五丁程,拾本目通三尺廻より壱尺五寸廻迄一、 五本小木右御山西より東迄拾間程、 北より南迄三間程、
米代川
迄弐拾五丁程川出通用并木性共宜敷土地黒野土,道限北は道限南は畑限柳五拾九本目通五尺廻より壱尺廻迄石御山西より東迄五間程、 北より南迄拾五間程、
米代川
迄弐拾五丁程,館神境内限北は堰限南は畑限杉五本目通壱尺廻桂壱本同壱尺廻右御林西より東迄弐間程、 北より南迄五間程、
米代川
迄弐拾五丁程
鹿角市史資料編 第14集
(0074)
堀合并松之助林限東は畑限北は畑限南は畑限杉弐拾本小木右御林西より東迄拾三間程、 北より南迄拾五間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,屋敷限東は長根はぶ限北は畑限南は屋敷限栗弐拾本小木右御林西より東迄七間程、 北より南迄拾弐間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,五拾本目通壱尺廻一、 百本小木外ニ小柴立右御林西より東迄八間程、 北より南迄弐拾弐間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,五拾本目通壱尺廻り一、 百五拾本小木外ニ小柴立右御林西より東迄拾弐間程、 北より南迄八間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,は坂限北は道限南は畑限杉三本目通弐尺廻り外ニ小柴立右御林西より東迄拾間程、 北より南迄七間程、
米代川
江半里程
鹿角市史資料編 第14集
(0076)
栗弐拾本小木雑木弐拾本小木右御山西より東迄八間程、 北より南迄拾弐間程、
米代川
江壱里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,畑限杉弐本目通壱尺廻り仏壱本目通弐尺廻り朱弐本目通弐尺廻り外ニ小杉右御山西より東迄八間程、 北より南迄三間程、
米代川
江壱里程,澤限松壱本目通弐尺廻り槻弐本目通弐尺廻り宋拾本目通壱尺廻り右御山西より東迄弐拾間程、 北より南迄三間程、
米代川
江壱里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,弐尺廻迄栗百三本内一、 三本目通壱尺廻一、 百本小木石御山西より東迄百五拾間程、 北より南迄六拾間程、
米代川
迄壱里程,限杉七拾本小木宋拾本目通壱尺五寸廻雑木三本小木右御山西より東迄弐拾間程、 北より南迄拾八間程、
米代川
迄壱里程川出通用不宜木性宜敷土地黒野土
鹿角市史資料編 第14集
(0073)
なら能木三本目通壱尺廻りかと路壱本目通壱尺五寸廻り右御林西より東迄弐拾間程、 北より南迄五間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜敷土地黒野土,畑限杉三拾五本小木栗四拾三本小木槻壱本目通壱尺五寸廻り外ニ小柴立右御林西より東迄五間程、 北より南迄弐拾間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜敷土地黒野土,罘弐拾本目通壱尺五寸廻りより壱尺廻り迄雑木拾壱本小木外ニ小柴立右御林西より東迄三拾五間程、 北より南迄拾間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,澤限杉六拾本小木柴拾本目通壱尺五寸廻りより壱尺廻り迄外ニ小柴立右御林西より東迄拾五間程、 北より南迄六間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜土地黒野土,道限杉百弐本小木栗拾五本目通壱尺五寸廻りより壱尺廻り迄外ニ小柴立右御林西より東迄三拾間程、 北より南迄拾五間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜土地黒野土
鹿角市史 第4巻
(0098)
〔大堰)は、 当初
米代川
の堰根川原から上中島あたりまで引水されて開田が行われていた。,やがて、 柴平地区の数筋の河川を合流させた大堰は、 やがて
米代川
に合流していく。,最もスケールの大きい開発は、 穴堰を掘って
米代川
上流の瀬ノ沢川から水を引いて菩提野の開田をしようとする,田地は
米代川
に沿って発達し、
米代川
に小坂川・大湯川が合流する三方落合周辺から大湯温泉までの低地にも
鹿角市史 第2巻 上
(0257)
以上前)掲書一〇本の御境柱幕府裁許絵図のお墨引線は、 境沢から土深井川渡、 川原館まで
米代川
の真中,其御絵図ニ境沢より
米代川
半分とふカい川江御墨引御座候。,其時分ハ川筋別条無之所近年度々洪水ニて當領江川欠致候ニ付、 先年流候
米代川
之跡只今川原ニ罷成候。,御絵図ニハ
米代川
半分双方之境ト御墨引御座候間
米代川
右流候跡只今川原ニ成候所へ、 御墨引之通各拙者共立合致吟味相談之上末々迄為證據之御境印之柱拾本此度立置申候
鹿角市史 第3巻 上
(0247)
米代川
筋の扇田舟場から上流は、 川床が浅く水勢も急だったので、 舟運には適していなかったためである,〓〓表明治二五年
米代川
の舟運の状況(明治二五年『
米代川
流域河川調査書』から)
鹿角市史 第2巻 下
(0353)
然し、 近世の銅山関係文書の中に、
米代川
の水運が花輪まで延びていたことを証するものは未だ見つかっていない,結局鹿角の水運は、 明治四年(一八七一)九日「
米代川
通船之儀ニ付御届」(『秋田県史』資料・明治篇上),江戸時代に何故
米代川
に舟運が発達しなかったか、 という理由について次の諸点が挙げられる。,次には鹿角盆地において
米代川
の流路が大きく変化していることである。
鹿角市史資料編 第14集
(0134)
右御場所西より東迄三拾間程、 北より南迄六拾間程、
米代川
江半里程、 川出通用不宜木性宜敷土地黒野土,右御場所西より東迄三拾間程、 北より南迄九拾間程、
米代川
江半里程、 川出通用不宜木性宜敷土地前同断,石御場所西より東迄五拾間程、 北より南迄七拾間程、
米代川
江壱里半程、 川出通用不宜木性土地前同断,右御場所西より東迄三拾間程、 北より南迄拾五間程、
米代川
江半里程、 川出通用不宜木性土地前同断
鹿角市史 第1巻
(0218)
花輪を中心とする北部は、
米代川
が北に向って流れ、 一部を除いて山地に接し、 段丘の発達はほとんど,これは、 北部の火砕流段丘より古期の段丘と見なされている花輪以北の
米代川
東岸の低平地は、 火砕流の,、 第三次堆積物が多いが、 花輪以南のV字形の平地は、 八幡平方向から流れる熊沢川や夜明島川が
米代川
,その北縁は風張台地に、 西縁は
米代川
東岸の低平地に接している。
鹿角市史 第4巻
(0452)
米代川
の舟運鹿角盆地にはその中央を流れる
米代川
をはじめ、 大湯川、 熊沢川、 福士川などの河川が,近世における
米代川
の水運は、 毛馬内通産出の木材がおもに能代へ向けて川流しされる筏による木材運送や、,
米代川
は鉄道が開通するまでの物資輸送の動脈で、 土深井・古川・毛馬内陣場・花輪舟場などには舟付場があった
鹿角市史資料編 第14集
(0141)
右御場所西より東迄三百五拾間程、 北より南迄百拾間程、
米代川
江壱里半程、 川出通用并木性共宜敷土地黒野土,右御場所西より東迄八拾五間程、 北より南迄拾五間程、
米代川
江壱里半程、 川出通用并木性共宜敷土地黒野土,石御場所西より東迄七百間程、 北より南迄六百間程、
米代川
江壱里半程、 川出通用并木性共宜敷土地黒野土,右御場所西より東迄弐拾間程、 北より南迄七拾間程、
米代川
江壱里程、 川出通用并木性共ニ宜敷土地黒野土
鹿角市史資料編 第14集
(0132)
右御場所西より東迄弐百間程、 北より南迄百五拾間程、
米代川
江壱里半丁程、 川出通用不宜木性宜敷土地小石交黒土御座候,右御場所西より東迄七拾間程、 北より南迄百弐拾間程、
米代川
江壱里半程、 川出通用不宜木性宜土地小石交土地黒野,右御場所西より東迄三百間程、 北より南迄弐百八拾間程、
米代川
汀壱里半程、 川出通用不宜木性宜敷土地前同断,五百本目通壱尺五寸廻一、 千本小木栗千本小木外ニ小柴立右御場所西より東迄八拾間程、 北より南迄百三拾間程、
米代川
江壱里半程
鹿角市史 第2巻 下
(0355)
即ち銅は十二所迄駄送し、 十二所から舟に積込み
米代川
を下って能代迄運んでいる上流の森林地帯で伐採された,即ち天明元年(一七八一)五月三日条「大湯来満山公儀御用材木、 花輪
米代川
筋扇袋御境流木致候ニ付、,相内右三ケ山此度御側御手山ニ仰付けられ候ニ就て、 御境付之御山之儀故折節見廻シ吟味ヲ遂ケ(略)尤
米代川
材木川下之節
鹿角市史 第2巻 下
(0337)
女神の断崖の岸は直ちに
米代川
が洗い、 人ひとりようやく攀じり渡る程度の足場しかなかったので、 大半,村を出るとまもなく北側が
米代川
ぞいに七間倉、 扇袋となり、 川筋に一〇本の書』藩境「御境柱」が建っていた,村の西際を流れる御境川こと土深井川にそって
米代川
岸の川原館まで出た後、 鹿角街道は藩境を越え秋田領沢尻村,には交通途絶の日も多かった七時雨山の難所を過ぎ、 梨ノ木峠の分水嶺を越え鹿角入ると、 前述のように
米代川
鹿角市史 第2巻 下
(0589)
煙の立揚り或は籏や合印の風に翻り日に映し、 役司の馬上にて采を揮り、 士卒に下知するを
米代川
を隔てゝ,我両将銃隊を繰出し、
米代川
の岸に陣を布かせ、 敵勢の横を撃ち楢山氏へ応援しければ、 敵頓て此方,南部軍は正面から楢山本隊、
米代川
右岸から向井・桜庭の銃隊、 別所口から山の手に廻った石亀隊の、,
米代川
対岸の向井隊は葛原村に、 桜庭隊は郊外の柳平に宿陣していた。
鹿角市史資料編 第31集
(0039)
写奥州南部領鹿角郡花輪村毛馬内村と、 羽州秋田領沢尻村十二所村味噌内村茂内村別所村扇田村大館山境諍論ノ事裁許申付覚
米代川
,其上冑石南部ノ者近年新規ニ申立候モ無紛相聞ノ条南部領申所非分也、 ふなの木坂栗木平馬立場嶺通慥ニ相見候事一
米代川
,小羽柾取リ候付、 南部百性与五右衛門より秋田百性和泉所へ遣候書状弐通有之間南部領ノ者申所旁以不謂事
米代川
,者覚候境分明ニ候事右今度為御検使設楽市左衛門中山茂兵衛設楽源右衛門被指遣見分ノ上評定ノ面々令相談裁断之、
米代川
,大場ケ平朴木峠大持長根龍ケ森土高場山捨神山迄嶺続すハり合横沢立菱山馬立場栗木平ふなの木坂迄限リ、
米代川
鹿角市史 第3巻 上
(0040)
主要道…一七六鹿角街道、 長道を開く、 来満街道、 難工事続く、 十和田顕勝道路、 濁川街道〓
米代川
,の舟運一八
米代川
の水運、 舟運の衰退
鹿角市史 第1巻
(0223)
・市川賢一「一〇〇〇年前のシラス洪水~発掘された十和田湖伝説」『地質ニュース』〓号一九六六藤原健蔵「
米代川
流域,の河岸段丘と十和田火山噴出物との関係」『東北地理』〓-2一九六〇内藤博夫「秋田県
米代川
流域の第四紀火山砕屑物
鹿角市史 第2巻 上
(0254)
楽源右衛門差遣され見分ノ上評定ノ面々相談裁断せしめ、
米代川
ノ南とぶカい渡、 高梨館外館ノ間より大場平,
米代川
ノ北東ハ大森、 赤沢山、 松森、 札立場、 日暮山、 水沢頭、 戸長根、 袈裟掛坂沢限,延宝五丁巳年六月四日(連署加判一一名省略)裁許の結果は、 概ね
米代川
より南の地域では南部側の主張が通
鹿角市史資料編 第34集
(0061)
十二所村味噌内村茂内村別所村扇田村大館山境諍論ノ事、 裁許申付ノ覚一
米代川
より南方ばっかい沢境ノ由、,者近年新規申立候モ紛無く相聞クノ条南部領申す処非分也、 ふなの木坂、 栗木平、 馬立場嶺通慥ニ相見候事一
米代川
,南部百性与五右衛門より秋田百性和泉処工遣シ候書状弐通之れ有るノ間南部領ノ者申す所旁以て不謂ノ事一
米代川
,候事右今度御検使トシテ設楽市左衛門、 中山茂兵衛、 設楽源右衛門差遣され見分ノ上評定ノ面々相談裁断せしめ、
米代川
,、 捨神山造嶺続すバリ合、 横沢、 立菱山、 馬立馬、 栗木平、 ふなの木坂造限り、
米代川
鹿角市史 第2巻 下
(0335)
「田山よりしはらく行て
米代川
橋向ひに有壁御番所有、 此節花輪御給人詰合のよし、 御番所前少し過て亦
米代川
,「湯瀬と大欠の間狭き野原道行に、
米代川
の向鷹の年毎に巣籠るといへる巌の水回より数丈高くそば立」「大欠,といへるは道セまく右は山そは立、 左ハ
米代川
深く見おろし、 雪中牛馬行往をとむ」「天狗橋水回より丈余高
鹿角市史資料編 第14集
(0079)
壱尺廻迄桂壱本同三尺廻槻五本同三尺廻より壱尺廻迄胡桃壱本同三尺廻雑木五本同弐尺廻右御林西より東迄弐拾間程、 北より南迄三拾間程、
米代川
迄弐拾五丁程,九出基上
米代川
迄弐拾同人一、 だんノ沢御山同1西は畑限東は畑限北は屋敷限南は畑限杉弐拾六本内一、,弐拾本小木栗拾七本目通壱尺廻桂壱本目通壱尺五寸廻雑木拾七本同四尺廻より壱尺廻迄右御山西より東迄弐拾間程、 北より南迄三拾間程、
米代川
迄弐拾五丁程
鹿角市史資料編 第14集
(0135)
右御場所西より東迄弐拾間程、 北より南迄拾五間程、
米代川
江半里程、 川出通用不宜木性宜敷土地前同断,右御場所西より東迄拾五間程、 北より南迄弐拾間程、
米代川
江半里程、 川出通用不宜木性土地前同断,右御場所西より東迄七百弐拾間程、 北より南迄百拾壱間程、
米代川
江壱里拾三丁程、 川出通用不宜木性宜敷土地小石地
鹿角市史資料編 第14集
(0072)
笹森御立林御林守藤二郎印西東北南は御田地限杉弐拾本小木松三拾本小木石御林西より東迄百五拾七間程、 北より南迄弐拾五間程、
米代川
汀半里程,本八幡御立林同人西東北南は御田地限杉弐拾本小木石御林西より東迄拾五間程、 北より南迄四間程、
米代川
江半里程川出通用不宜木性宜敷土地白砂地,御田地限杉百三本小木柴拾本目通壱尺廻りならの木壱本目通壱尺五寸廻り外ニ小柴立右御林西より東迄拾五間程、 北より南迄拾間程、
米代川
江半里程
鹿角市史資料編 第14集
(0138)
右御場所西より東迄弐拾間程、 北より南迄三百間程、
米代川
江半甲程、 川出通用不宜木性宜敷土地前同断,右御場所西より東迄五百弐拾間程、 北より南迄百拾壱間程、
米代川
江壱里拾弐丁程、 川出通用不宜木性宜敷土地小石地,右御場所西より東迄弐百五拾間程、 北より南迄百三拾間程、
米代川
江壱里弐拾四丁程、 川出通用悪木性宜敷土地小石地
鹿角市史資料編 第14集
(0142)
右御場所西より東迄拾五間程、 北より南迄七間程、
米代川
江壱里程川出通用并木性共ニ宜敷土地黒野土ニ,右御場所西より東迄拾五間程、 北より南迄拾五間程、
米代川
江壱甲半程、 川出通用并木性共ニ宜敷土地黒野土,右御場所西より東迄三百間程、 北より南迄弐百間程、
米代川
江壱里半程、 川出通用并木性共ニ宜敷土地小石地
鹿角市史 第5巻
(0163)
米田善助記録同 同九· 四領境
米代川
を桂鹿料二挺他領出に乗下すのを松山村山見が押収したが、,武蔵·上野両国の織物糸綿改所を廃止二·佐竹方役人より、 来満山伐出の御用木
米代川
下,五·三大湯来満山の公義御用材木、
米代川
扇袋より川下げとなり、 御境古人ら立会いを命ぜられる
鹿角市史 第1巻
(0659)
やがて仏教との習合によって毘沙門天と結びつき、 判別し難くなったものもある
米代川
の下流、 能代市桧山,この台地の東西を熊沢川と夜明島川がほぼ北流し、 やがてどちらも
米代川
へ合流している。,日本海側を北上し、 能代から
米代川
をさかのぼって、 恐らく船で通り得る終点のこの地に祀られたものであろうか
鹿角市史 第1巻
(0118)
毛馬内火山灰層シラス洪水と十和田湖伝説で述べたように、 分布は大湯川および
米代川
との合流点より下流に,盆地の発達史を解明するためには、
米代川
を中心とした河川の浸食・堆積がいつ・どのように働いてきたか、,少なくとも十和田火砕流の流入による堆積物も、
米代川
などの河川の浸食運搬とかかわっているのだから。
鹿角市史 第1巻
(0219)
特に
米代川
東岸の火砕流段丘及び菩提野扇状地は、 その数においても注目すべきものである。,一方花輪東部東山一帯は、 縄文各期から続縄文遺跡の密集地であり、 その南部の玉内と
米代川
対岸の尾去,
米代川
北部の西域は、 高位段丘を含む山地であるが、 その東半分は火砕流段丘である。
鹿角市史資料編 第30集
(0014)
申来之花輪通毛馬内通村々ニテ南部吉兵衛知行新田精御検地被願出候付、 仕付有無昨年御尋被成候処、
米代川
赤川落合,何拾何間ニテ、 當時野河原或田畑ニ相成居候哉可申出事一新川ハ何年以前より相通候哉可申出事一勘助作ノ脇
米代川
端,趣両村相尋答書并絵図面取上ケ早々可被差出候五月御勘定奉行照井賢蔵達ノ旨申来る覚一人足六千百五拾六人右ハ花輪通土深井御境
米代川
扇袋通川縁并川原下
鹿角市史 第2巻 下
(0350)
天明八年の尾去沢宿泊は、
米代川
の出水による臨時の措置であった。,銅山道の口に当たる稲村橋は、 天保元年(一八三〇)花輪給人吉田新六が自費を以て
米代川
に架橋したといわれ,嘉永二年(一八四九)七月稲村橋を渡った松浦武四郎は「
米代川
、 板橋を懸たり。
鹿角市史 第3巻 上
(0238)
小豆沢から湯瀬までは一ノ渡橋を新たに架け、 旧道を進んでさらに
米代川
の左岸に新道を延長して笹ノ渡に至,湯瀬の先は、
米代川
の右岸を川字々添に通っていた従来の道よりも一段山際に新道一タラ)を開き、 坂を,((明治一五~一九『土木課土工掛事務簿』及び明治一九『見聞雑誌』阿部貞家文書その後も湯瀬と県境の間は
米代川
鹿角市史資料編 第14集
(0139)
尤御取分申上候杉共ニ天保三年為御忠信差上候御林ニ御座候石御場所西より東迄七百間程、 北より南迄六百間程、
米代川
江壱里半程,石御場所西より東迄百五拾間程、 北より南迄八拾間程、
米代川
江壱里半程、 川出通用不宜木性土地悪敷御座候,右御場所西より東迄百拾間程、 北より南迄七拾五間程、
米代川
江壱
鹿角市史 第2巻 下
(0602)
午前向井隊は
米代川
を徒渉する者、 川舟二艘で渡河する者もあって、 総隊が集結したのは辰の中刻()である,やがて日没となったので若干の兵力を山王台に留め、 向井・桜庭隊は
米代川
の川原に引き揚げた。,向井・桜庭隊の野陣は
米代川
の河原で、 側面は深田である。
鹿角市史 第3巻 上
(0470)
つづいて四四年五月、 宮川村
米代川
に碇発電所を建設してその第一期工事を完成、 五〇〇KVA発電機を,その輸送関係明治一〇年代迄の鉱業会社時代においては、 鉱山貨物の輸送は主として
米代川
の舟運によったといわれる,その頃能代港を出て
米代川
を川舟で輸送される貨物は、 まず扇田舟場まで渾大館市はれ、 川岸の佐藤扱店
鹿角市史 第4巻
(0377)
川原
米代川
座敷第9図舟宿業からくる特異な構造と思わる。 れる。,
米代川
を遡上してきた荷を馬による陸送に切り替える場として馬の利用も多く、 馬が三匹いたという。
鹿角市史 第3巻 上
(0236)
この街道は、
米代川
上流の狭隘なV字谷を縫い、 かつ湯瀬峡谷の深渕を越える難路として聞こえていた。,それは神田・松山間の女神と呼ばれる岩壁の山脚を切り崩し、
米代川
岸に新道を開鑿して、 荷車や人力車,それまで神田・松ノ木間には
米代川
を渡る橋がなく、 渡し舟による川越えに頼ってきた。
鹿角市史 第2巻 下
(0083)
町の南端堰根川原で
米代川
から分水され、 町裏を潤した後砂森で福士川に合流し、 延々八キロ余にして鶴田,の北で
米代川
に復している。,また毎年晩秋の霙降る頃になると、
米代川
を流してきた春木が大堰に導かれ、 中堰向で春木揚げされて土場一抔
鹿角市史資料編 第31集
(0111)
内五人右同断一廿八人万屋村内五人右同断一六拾人小坂村安永九年
米代川
扇袋川縁御普請御人足并御材木遣拂残共,貫柵立新規取替石詰相済一弐間同破損右繕同断一弐間半同破損右繕同断一弐間下丑倉同断右繕同断一壱間半同破損〆拾壱間右御繕御普請〓ノ通不残相済子九月石田儀兵衛印赤坂喜太郎印一壱間半同破損右ノ通
米代川
御境目扇袋川縁御普請入用御人足遣拂前書
鹿角市史 第4巻
(0094)
盆地の低地を大小の川が流れて、 すべて
米代川
の本流に入る。,
米代川
は低地の西寄りを南から北へ下りながら、 盆地中央部の毛馬内赤森附近で大湯川と小坂川とを合流し、
鹿角市史 第2巻 下
(0596)
米代川
添の松林を潜行した須田隊は、 人筏を組んで
米代川
を遡上し、 神明堂の上手に出て楢山隊の退路を
鹿角市史 第2巻 上
(0298)
米代川
を始めその支流である自然河川からの引用水路や、 湧水・沢水を利用する堤の建設によって野形の田地化,元文三年『諸士知行所出物諸品井境書上』花輪村の項に「此町裏通え
米代川
より田地用水揚水大堰流申候」、
鹿角市史 第3巻 下
(0636)
、 〇〇〇人計一七、 〇〇〇人給水量一日一人当り最大給水量二七〇〓平均給水量二〇〇〓二〇〇〓水源
米代川
右岸伏流水,継続事業四九年度完工予定工事概要必要量五、 〇〇〇立方〓のうち、 三、 五〇〇立方〓は伏流水、 一、 五〇〇立方〓は
米代川
表流水
鹿角市史 第1巻
(0332)
〓尾去東在家遺跡(十和田高校社会科同好会)<所在地〉鹿角市尾去沢尾去字東在家四八(遺跡概況〉
米代川
左岸,北方二〇〇〓ートルには三光塚古墳があり、 東方
米代川
の対岸には八幡平玉内遺跡がある。
鹿角市史資料編 第31集
(0112)
内一弐百五人花輪御代官所出後一四百世三人毛馬内御代官所出後〆一松元木五拾壱本但弐尺五寸廻右ハ御銅山附土深井御林より請取遣拂申候右ノ通
米代川
御境目扇袋川縁御普請,段被仰上可被下候以上子九月石田儀兵衛印赤坂喜太郎印乳井杢左衛門印黒沢七右衛門印赤坂弥之助印佐々木内右衛門殿昨九日申ノ刻付御用状酉ノ下刻相達致拝見候、 然ハ
米代川
扇袋御普請御人足遣拂出後並舟越小屋番飯炊小遣
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