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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第2巻 上 (0665)

一、 銅三拾壱万六千五百斤西海廻〓土テノと右ハ五月廿日迄秋田能代湊より出帆差登らせ申し候。,以上○同二年七月一一日条当丑年御用銅ノ内弐艘ニて六百五拾箇、 去々月秋田能代湊出帆致し候旨書付此間差登,(下略南部修理大夫領内銅山当丑年御用銅七拾万斤当月十三日迄秋田領能代湊皆出帆書上一、 銅拾九万三千五百斤右,、 同四万斤右ハ月廿一日書上一、 同四万斤右ハ同廿五日書上一、 同四万五千斤右ハ同十二日秋田領能代湊,仁七拾万斤右ノ通り当丑ノ年御用銅残らず秋田能代湊出帆差登らせ皆済仕り候。
鹿角市史 第2巻 上 (0664)

(下略)○同元年六月一九日条尾去沢銅山余銅山元囲銅ノ内四月十四日、 去月三日能代湊残らず出帆(下略当子,ノ年廻御用銅四月十七日、 去月朔日、 同十三日能代湊出帆ノ儀段々江戸エ申遣し候。,(下略○同元年七月晦日条同年廻御用銅ノ内四万五千斤去月十日能代湊出帆ノ旨江戸エ申遣し候。,○同二年六月二四日条当丑年御用銅ノ内去月六日より能代湊段々出帆候旨書付四通先達て差登らせ候処(下略南部修理大夫領内銅山当丑年御用銅
鹿角市史 第2巻 上 (0725)

ニ川舟通用改番所有、 右御銅川下之節鶴形村宿七右衛門を以番所え断申候得ハ、 役人罷出舟々相改候上能代湊,以上このように能代湊出しの御用銅は、 土深井から秋田領沢尻へ運ばれ、 十二所までは駄送、 十二所,ノ津・浜田・須佐・長崎・みかとの鼻・下関里数〆四百三拾七里但し下関より大坂迄百三拾五甲合五百七拾弐里能代湊,野辺地湊あるいは能代湊から出帆する西海廻りの御雇船の多くは、 藩が大坂において雇入れたいわゆる千石積
鹿角市史 第2巻 上 (0724)

然し藩営以前には、 土深井から秋田領沢尻、 十二所へ出し米代川を船で下して、 能代湊を積出港とすることが,に、 銅一〇万一、 一一八斤余の内、 九万一、 二〇〇斤は一箇一〇〇斤入にして九一二箇を秋田能代湊,なおこの能代湊積出の復活は、 能代における尾去沢銅取扱問屋である清水九兵衛、 越後屋太郎右衛門の数度,ての輸送コース等は「同所御山より秋田能代湊迄里数井御銅百斤入壱箇之駄賃書上」「前掲書』)に土深井村御銅宿夘吉土深井村御銅宿夘吉御銅壱箇
鹿角市史 第2巻 上 (0580)

松山番所から秋田領沢尻あるいは十二所へ運ばれ、 米代川を下って能代湊へ出るものである。,この能代湊出は年々ふえ、 やがて黒沢尻川通と回数が相半ばするようになる。
鹿角市史 第2巻 上 (0666)

○同三年八月二日当年分御用銅ノ内弐百七拾箇、 去々月廿九日能代湊出帆仕り候由、 先達て江戸エ申遣わし,この期間に限って云えば、 西海廻りは秋田領能代湊出帆に限られ野辺地湊の記載はない。
鹿角市史 第4巻 (0483)

このほか山元から土深井を経て、 秋田〓十二所までは駄送、 十二所から舟で米代川を下り、 能代湊から,野辺地湊・能代湊から出帆する西廻りの期間は四月から八月にかけてで、 八月下旬で打ち切られていた。
鹿角市史 第2巻 上 (0663)

書留められている(『御銅山御用留抜書』この時期における大坂廻銅の主な輸送経路は、 野辺地湊もしくは能代湊出帆,、 当年中東海廻りニ仕り仙台石巻より積登らせ度旨(略)、 当亥年廻し五拾万斤残らず七月廿九日迄ニ能代湊出帆皆済致候段
鹿角市史 第2巻 上 (0581)

また能代湊出について『雑書』は次のことを伝えている。,なお黒沢尻出や能代湊出のほかに、 延宝五年七月、 同六年六月に立石銅が、 同年一〇月掲銅が、
鹿角市史資料編 第26集 (0013)

、 四百文通牛同断一、 野辺地湊より大坂両川口迄海上七百三拾六里余此運賃銅百斤ニ付銀八匁五分秋田能代湊,右同断一、 増吹賃銀百斤ニ付三匁弐分之定一、 押銅百斤之代銀百三拾九匁四分八り定一、 御銅山より秋田能代湊迄百斤入壱箇惣縣銀八匁壱分也一
鹿角市史 第2巻 下 (0354)

覚南部領尾去沢銅山より秋田領能代湊迄御用銅諸掛御尋ニ付左ニ奉申上候。
鹿角市史 第2巻 下 (0142)

佐藤屋庄之助が、 能代の問屋筋から多量の綿を移入していたことは、 文化六年一八〇九)と推定される能代湊西邑庄右衛門
鹿角市史 第3巻 上 (0246)

能代湊町を終点とし、 尾去沢銅も積出されたが、 鹿角からの通船は扇田までで止まっている。
鹿角市史 第2巻 下 (0115)

この時以来大坂廻銅の大部分は陸送で野辺地送りとなり、 これまで銅の積出港となっていた能代湊は大きな利益
鹿角市史 第2巻 下 (0278)

た毛馬内寺ノ坂の宝暦一二年建立の供養経塚には、 泉州堺や秋田能代湊の商人が名を連ねている。
鹿角市史 第4巻 (0753)

あいや節は元来は船乗りの櫓こぎ唄で、 鹿角へは能代湊の遊里から米代川を遡って伝わったようである。
鹿角市史 第2巻 上 (0464)

次いで、 北十左衛門が大津・堺・伏見・大坂所々に問屋を定め、 米代川を舟で秋田領能代湊へ下げ、
鹿角市史 第3巻 上 (0477)

一六○麁銅一〇〇斤)の代金一六円、 販売地を山本郡能代湊とし、 運送賃麁銅一〇〇斤に付金三〇銭、
鹿角市史 第2巻 上 (0720)

附、 御銅山より秋田能代湊え陸地弐拾壱里三十壱丁程、 盛岡新山御船処より川下銅、 夫より江戸大坂迄所々諸懸
鹿角市史 第5巻 (0175)

三·一六幕府より尾去沢白根不老倉三カ山の出銅は領分野辺地湊秋田領能代湊両所より西海廻り、
鹿角市史 第4巻 (0451)

から積み出されていたが、 藩営以前は銅山道を利用して秋田領沢尻・十二所へ出し、 米代川を舟で下して能代湊
鹿角市史資料編 第26集 (0038)

よりみかとの鼻江拾三里一、 同所より下ノ関へ拾三里〆四百三拾七里下ノ関より大坂迄百三拾五り合五百七拾弐里能代湊
鹿角市史 第2巻 上 (0235)

家康公より鹿角材木御無心之御状」があったこと〓、 古遠部山・新遠部山の大量の杉材が盛岡・私記石巻や能代湊
鹿角市史 第2巻 上 (0634)

三番改めまでの産銅はすべて秋田出とし、 扇田で目方が改められ舟運で能代湊へ下っている。
鹿角市史 第2巻 上 (0686)

一、 廻銅、 春立から夏中迄の出銅は西海廻になり、 秋田領能代湊井びに領分野辺地湊より登らせる。
鹿角市史 第2巻 下 (0144)

前表に示した通り、 移入繰綿の能代湊分は銭に換算して一、 一五六貫余、 秋田湊分は繰綿九二本、
鹿角市史資料編 第27集 (0084)

十分一之税銀栗桂槻欅は杉之半税松は杉之三ケ一税銀更ニ相改申付候事一木品賣之税銀是迄之通左ニ相定候秋田町土崎湊能代湊一木羽杉皮石持十分一之税銀可相納候事一外木品弐拾分一之税銀可相納候事諸郷村々一木品杉皮石持十分一之税銀可相納事右之通規則被相立候間御趣
鹿角市史資料編 第16集 (0114)

秋田町土崎湊能代湊一、 木羽杉皮石持十分一ノ税銀可相納候事一、 外木品弐拾分一之税銀可相納候事。
鹿角市史 第2巻 下 (0114)

能代湊の廻船問屋伊勢屋惣左衛門、 越前屋久右衛門の両名が、 盛岡藩家老連署の「遣杉山證文」を携えて
鹿角市史 第2巻 上 (0354)

同二年五月にも樫材三七六挺を秋田能代へ川下げし、 能代湊にて船積の上差登らせ度いとして御境目通川下げ
鹿角市史資料編 第29集 (0069)

鎮撫使沢三位殿并ニ薩長筑之人数共五百人程、 去ル十八日大館江御着御滯留之処、 今廿七日同処御退陳川舟ニて能代湊江御出
鹿角市史資料編 第29集 (0133)

目時隆之進当時浪人於京都出奔乗組候処、 右船船合ニていたみ繕之障取二よって別船ニて出船之由、 来る十七八日迄二は全く能代湊江着
鹿角市史 第5巻 (0574)

能代能代川能代湊野尻野田〔岩手県〕野中堂野辺地〔青森県〕ハ羽黒山〔山形県〕長谷川(村)八戸八(鉢) 巻山八幡平
鹿角市史資料編 第26集 (0004)

従来、 三つのルートがあって、 西海廻り野辺地湊出し一箇七五斤、 同じく能代湊出し一箇一〇〇斤、
鹿角市史資料編 第14集 (0005)

西海廻りの塩が能代湊に陸揚げされ、 米代川を逆上り扇田経由で鹿角に移入されていたことを示すものであり
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