• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧

鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 83件
辞書ファセット
/ 2ページ
鹿角市史 第5巻 (0620)

要人藤島屋長兵衛蕪城藤田 喜七藤田権四郎藤田 祐昌藤田多左衛門藤田太左衛門藤田 経清藤田 東湖藤根直機藤原魚名,466 · 474 · 4862下62上4693下32下4322下5624321藤原長清藤原謙足藤原清衡藤原俊成藤原直吉藤原登任藤原久長藤原久安藤原秀藤原秀有藤原秀衡藤原藤原基衡,5991409 · 410 · 412 · 607通俊2下4861407藤原守綱藤原保恭藤原保則藤原泰衡藤原良経藤原,来輦藤原留士郎伏見宮渕沢 啓八1469 →成田守綱2上3461391 · 392 ·
鹿角市史 第1巻 (0474)

また、 小豆沢大日堂境内に正安二年(一三〇〇)銘の板碑があり、 「藤原朝臣秀□・秀有」の施主名が刻,藤原姓宇都宮氏系秋元氏(『秋元系図』)が成立するのは、 後年の南北朝期とみられる。,方、 この大日堂板碑「藤原朝臣秀□・秀有」を成田氏と仮定したとき、 鎌倉末期の武蔵国成田郷の藤原姓成田氏惣領家
鹿角市史 第1巻 (0473)

また、 藤原氏女の夫安保信員は寛喜三年(一二三一)右兵衛尉として亡父実員の遺領配分を安堵されており、,藤原氏女の生存した時期も鎌倉前期であるといえる。,鹿角郡柴内村は、 鎌倉末期においても安保信員領でなく、 藤原氏女領であったと認定されている。,信員に嫁した藤原氏女が安保氏から分譲された所領ではなく、 さりとて幕府女官としての形跡もない藤原氏女
鹿角市史 第1巻 (0581)

朱内与五右衛門久就鹿角郡柴内村郷士成田氏藤原姓代々南部家ニ従ヒ仕利直公旧地百石柴内左次郎久慶与五右衛門子没収柴内作右衛門久充与五右衛門二男新田百石柴内与五右衛門久親作右衛門子足高合二百石,この中で同じ柴内氏ながら、 弥次郎武貞系を安保氏在原姓とし、 与五右衛門久就系を成田氏藤原姓としていることに,えるところと著しく異なり、 疑問とする点も多い『参考諸家系図』によると、 第〓図大湯氏系図本名奈良姓藤原一本云毛馬内靱負信次君弟也考
鹿角市史 第1巻 (0657)

二、 諸社と信仰〓小豆沢の大日堂大日堂は、 寿永二年(一一八三)に鎮守府将軍藤原秀衡の命により、,大日堂由来記』などによると、 その銘文に「長禄四年八月大日鐘成就奉懸、 大旦那安倍師季、 別當沙弥藤原浄通,この別当沙弥藤原浄通は、 応仁の戦乱が始まると比内へ去って行く。
鹿角市史 第1巻 (0450)

おもひかねけふたてそむる錦木のちつかもまたてあふよしもかな大蔵卿匡房同いたつらにちつか朽にし錦木を猶こりすまに思ひたつかな藤原永實十載集錦木,にかきりなかりせは猶こりすまにたてまし物を賀茂重保堀河院百首いはねとも思ひそめてき錦木のはひさす色に出やしなまし藤原仲實同錦木,の千束の数は立てしをなと逢事のいまたたくなる藤原顕仲六百番歌合錦木にかきそへてこそ言の葉も思ひそめつる,色もみゆらん藤原顕昭千五百番歌合たてそめてあふ日をまちし錦木のあまりつれなき人心かな小侍従新後撰人しれぬ
鹿角市史 第2巻 下 (0526)

にきくけふの細布着てみんとおもひにむせふ胸もあくやと三条西実降いうまでもなく『後拾遺和歌集』は一〇八六年藤原通俊,神中抄』は文治年間(一八五一一九〇)顕昭著すところの語釈書、 『六百番歌合』は建久四年(一一九三)藤原良経,歌合、 『新拾遺和歌集』は貞治三年(一三六四)に成った奉勅撰、 『夫木集』は一三一〇年頃における藤原長清
鹿角市史 第2巻 上 (0380)

安永五年銘天台寺釣鐘の藤原久安・来蜜が瀬田石村居住ということと、 田中氏が藤原姓であることからすると,伝承によると、 田中氏の祖田中茂八郎藤原保恭が江州柴太郡高野庄辻村から亀田を経て米内沢の歌代家を訪れたのが
鹿角市史 第5巻 (0036)

係 事項嘉応二(一一七〇)藤原秀衡、 鎮守府将軍に任命される養和元(二二八一)秀衡、 陸奥守に任ぜられる,義経、 衣川館に滅ぶ頼朝軍忽ち奥羽を制圧す泰衡、 比内にて河田次郎に討たれる大河兼任の挙兵九月初め藤原泰衡
鹿角市史 第5巻 (0035)

(一〇六二)九年の役終わる永保三(一〇八三)清原真衡、 弟家衡 · 藤原清衡と戦い、 後三年,の役始まる寛治元(一〇八七)源義家、 清原家衡を金沢栅に滅ぼし後三年の役終わる寛治三(一〇八九)藤原清衡
鹿角市史 第1巻 (0519)

永徳四年藤原守綱契状(遠野南部家文書)通、 永徳四年(一三八四)八月十五日契状も、 あるいは鹿角郡,糠部の南部一族が周辺の国人と交した契状であるが、 南部氏勢力の及ぶ範囲内での周辺国人の藤原姓の守綱とは
鹿角市史 第1巻 (0465)

このうち、 〓は、 幕府が安保行員の祖母藤原氏女の所領跡地である鹿角郡内柴内村を行員に与えた文書である,藤原氏女とは成田家資の娘であり、 安保信員に嫁した女性であった。
鹿角市史 第1巻 (0459)

藤原三代、 平泉一〇〇年の経営は、 事実上奥羽の大部分の地を被い、 かつての蝦夷地の様相を大きく,文治二年(八六)五月、 源頼朝は藤原秀衡に一書を呈し「御館は奥六郡の主予は東海道の惣官なり。
鹿角市史 第2巻 上 (0382)

南部鹿角郡瀬田石邑田中彦兵衛保矩は藤原姓の末裔なり。,また瀬田石での最初の作鐘の専正寺殿鐘には示第6図谷内延命寺の旧寺鐘文元年と「田中久兵衛藤原久長」の銘が
鹿角市史資料編 第28集 (0083)

前書三玉二弐粒一七日ニ割合為用可申候毒立七十五日悉二慎ミ可申候○相州鎌倉比谷沢住、 繪時丹ト名氏被下團左工門尉藤原頼包一,、 先祖藤原頼包頼朝公より御家ノ一字被下飴作傳来法一、 糯米壱斗水七升もやし壱升五合但し盛り上ケて
鹿角市史 第1巻 (0445)

なお『藤原保則伝』に、 春風の活躍を是より先、 賊王師の来り討つを聞き、 衆万余人を率い遮りて険隘,出羽を中心とした清原氏の時も、 平泉を根拠とし、 陸奥・出羽の管領権を握った奥州藤原氏の時代にも、
鹿角市史 第1巻 (0472)

又書〓の関東下知状は、 知行充行状の形式であるが、 安保行員が祖母藤原氏女成田氏の跡地を継いだことに,では、 成田家資の娘藤原氏女が柴内村地頭となったのは、 いつごろ、 どのような理由からであったのか
鹿角市史 第1巻 (0460)

のない泰衡を討(のに総軍二八万四〇〇〇騎という、 平家追討にも動員したことのない大兵を発したのは、 藤原三代,今も桃枝は全戸藤原を姓とし、 泰衡がこの峠下の小集落に宿陣した際その労を愛でて姓を授けたと伝えている
鹿角市史 第2巻 下 (0395)

「于萬治二年己亥四月吉日、 土佐国高知山之住人、 眞鍋二郎兵衛尉藤原朝臣貞〓、 鋳大工藤原氏千田豊後守正吉
鹿角市史 第1巻 (0649)

小豆沢の板碑の銘に見える藤原朝臣秀□、 同秀有は、 本姓藤原氏といわれる成田氏と関係があったのではないかとも
鹿角市史 第1巻 (0455)

後年安倍頼時の外孫平泉藤原氏初代清衡が奥羽を管領し、 最初に着手したのは白河関より外浜に至るまで、,この見地からすれば安倍氏にとって、 あるいは後年の奥州藤原氏にとって、 鹿角の通路を確保することには
鹿角市史 第1巻 (0223)

〉半山次郎・市川賢一「一〇〇〇年前のシラス洪水~発掘された十和田湖伝説」『地質ニュース』〓号一九六六藤原健蔵
鹿角市史 第1巻 (0584)

長内弥兵衛昌茂鹿角郡長内村郷士成田氏藤原姓南部家ニ従ヒ仕信直二百石没収長内弥左衛門昌教弥兵衛子九戸一味浪人長内伝右衛門弥兵衛二男九戸一味長内庄兵衛弥兵衛三男九戸一味長内弥左衛門昌興弥左衛門子五駄三人長内治兵衛興昌昌興子重信公百石長内某第
鹿角市史 第5巻 (0037)

造立者藤原秀□·秀有は成田氏とみられる。 同月、 谷内観音堂境内に板碑建立される。
鹿角市史 第1巻 (0461)

その国衙機構とは、 院政期の奥羽両国において、 国府・鎮守府と平泉藤原氏とが中心となり、 すでに
鹿角市史資料編 第12集 (0022)

御用人川村俊平藤原秀懸花押
鹿角市史 第3巻 上 (0206)

一四八人献納分この献納に成るせっかくの分署は二二年類焼によって焼失、 やむなく下小路田中留五郎宅、 五軒町藤原留士郎宅
鹿角市史 第3巻 下 (0517)

『近代日本総合年表』(岩波書店)による注4『最新昭和史事典』毎日新聞社編注5『近代日本史の基礎知識』藤原彰
鹿角市史 第4巻 (0033)

佐藤友信、 阿部潤、 杉山久志、 田中忠美、 田中覚、 三ケ田俊明、 阿部甚之助、 藤原暁子
鹿角市史資料編 第9集 (0133)

安兵衛鑓持壱鑓持壱人〓持宿ノ林蔵御長柄拾本才坊ノ勇才坊ノ勇蔵口附猪ノ鼻ノ長作一ノ坂ノ金蔵渕澤庄右衛門黒沼黒沼ノ吉五郎藤原八十助新田
鹿角市史 第2巻 上 (0463)

また奥州藤原氏の黄金文化を支える有力な産金地帯の一つとして、 鹿角があったとも云われてきた。
鹿角市史資料編 第9集 (0136)

大吉高木倉之助村孫太郎弓五挺円鹿角辰之助工藤弓司若党大明神与之助鑓持同命助口附勘兵衛矢箱同万之丞渕沢庄右衛門奉行奉行藤原八十助戸塚
鹿角市史 第5巻 (0040)

文保二(一三一八)一二月幕府関東下知状を発し、 安保次郎行員に祖母藤原氏女の所領跡地である柴内村を領知
鹿角市史 第3巻 上 (0587)

〓皆さんは藤原敦親のことを聞いたれば覚えて居りませふが、 如何なる人でありますか。
鹿角市史 第5巻 (0034)

永承六(一〇五一)安倍頼良、 陸奥守藤原登任らと戦い、 前九年の役始まる能因歌枕の能因法師没す (
鹿角市史 第1巻 (0458)

そして天台寺が「糠部郡寺」の意味をもち、 平泉藤原氏はこの政策をいっそうおしすすめたから、 小豆沢大日堂
鹿角市史資料編 第9集 (0129)

大馬印大西ノ作助加やのの長兵衛碑使番馬上兼平創御鉄炮十挺渕澤庄右衛門菊池菊之助藤原八十助戸塚万蔵黒沼ノ
鹿角市史 第1巻 (0646)

八〇センチ幅(字面)二四・正安二年壬七月七日庚子二三・一九センチ所在地鹿角市八幡平字堂ノ上一六番地大藤原朝臣秀
鹿角市史 第4巻 (0405)

また山立最系の方は、 藤原鎌足を開祖とする魚名の後胤である万事刀三郎に、 全国の関所や船渡しの通行
鹿角市史 第4巻 (0533)

なかには大曲の山本姓、 下川原の佐藤姓、 桃枝の藤原姓、 長嶺の阿部姓、 堀内の湯瀬姓などのように
鹿角市史 第1巻 (0526)

長禄四年八月六日堂鐘成就大旦那安倍師季別当沙弥藤原浄通治工若州遠敷郡小南金屋鋳之この梵鐘は寛文六年(一六六六
鹿角市史 第3巻 上 (0205)

毛馬内を例にとれば、 最初の分屯所は下小路藤原直吉宅を一ケ月一円で借用し八年一一月三〇日)、 屯一年所制
鹿角市史 第1巻 (0485)

成田氏とみられる「藤原秀□・秀有」が、 郡内鎮守ともいうべき小豆沢大日堂に供養塔を造立したように、
鹿角市史資料編 第28集 (0084)

草屋一、 鏡打一、 傀儡師何レも月々の吉日也一、 弓釣師〆何レも月々の吉日也(前文欠)團左門尉藤原頼包一
鹿角市史資料編 第15集 (0075)

野口村伊野口村伊曲藤原村吉一筆令啓上候。
鹿角市史 第2巻 上 (0289)

第一節農業生産力の向上長沢村一三(八)内大森一鳥越村四三(三〇)内二渡藤鹿二大鹿倉一一藤原七〓村一六坂地坂
鹿角市史 第1巻 (0664)

銅製で、 金銅像であったともいわれ、 作風から藤原時代のものと推定されている。
鹿角市史 第5巻 (0160)

雑書雑書九 ·瀬田石村住田中氏藤原久安、 天台寺釣鐘を鋳る。
鹿角市史 第2巻 下 (0130)

六月十五日一、 竹原塩三拾三俵藤原ノ松之助十五駄にて送る。 三俵ハ足塩ニ成ル。
鹿角市史資料編 第14集 (0064)

一、 居垣續御立林藤原村御林守浜右衛門印西は峰限東は屋敷境限北は三九郎林限南は畑限杉五拾三本内一、
/ 2ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました