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鹿角市史 第2巻 上
(0553)
また明暦二年(一六五六)七月一一日の条には、 塩谷民部より「
西道
御金山ニ新畑四枚披キ候、 沼山御論地,その裁許状のうち
西道
金山に関わる一条には、 金山ノ内
西道
本山ノ儀、 比内沼山ノ由秋田領より申すと雖,其外
西道
小杉平、
西道
崎ノ山、
西道
北平、
西道
夏山、 右ノ所々南部より金堀り候古間府慥に相見候条,、 秋田領申す所非分ノ事として、
西道
本山は比内沼山で秋田領であるという申し分は、 南部の金掘りの,その外
西道
の内小杉平、 崎山、 北平、 夏山にも南部金掘りの古間歩のあることを確かに見届けた。
鹿角市史 第2巻 上
(0554)
〕道金山の状況については、 白根・
西道
と並び称されたわりには不明の点が多い。,『雑書』〓
西道
の産金〓。,、 正保二年(一六四五)五月廿三日条に「
西道
御金山御売米之勘定仕り預状小向善八、 櫛引三十郎上ル」,日根の産金が白根金または鹿角金とよばれ一定の品位を保ちながら通用していたのと同じく、
西道
の産金も
西道
金,また同家文書には、 慶安の頃の
西道
大盛を思わせる次の願書がある。
鹿角市史 第2巻 上
(0559)
一、
西道
金山十九軒ノ者共ニ、 一間ニツキ米一俵ツ、 借申す可き由仰せ出され、 其段儀我忠右衛門老中三人列座,(『同』同年一一月一六日)延宝に至ると、
西道
金山一九軒と縮小し、 一軒当り米一俵宛借米の形で給付,天和元年(一六八一)幕府巡見使への答書覚に曰く「
西道
山役ノ儀も候哉と御尋ね候ハ、 三拾年以後金も出申,なお、 前述の如く
西道
金山の南側にあたる「鹿角尾去沢七曲りノ金山論地ノ由」『雑書』慶安元年二月三〇日条,ノ旨」の抗譲があったが、 「
西道
金山跡置、 此方
西道
口村々ノ上迄指越申懸けられ」慶安四年二月一四日付目安返状
鹿角市史 第2巻 上
(0549)
め成され候由、 依テ
西道
金山別テ宜敷く罷り成り、 金堀り候義数ヲもしれ申さざる事ニ御座候。,依て南部十左衛門殿金殊の外堀り候て、 金荷七駄作り、
西道
ハ夜ニ御立ち、 大坂大秀様え御ミかた成,慶長年中
西道
ニ御座成され候義相違御座無く候。,内容は、 慶長の初め白根、 槇山、
西道
三金山の御山奉行は南部十左衛門であったこと。,十左衛門は金を沢山掘り、 七駄の荷に分け、
西道
を夜分出発して大坂へ向った。
鹿角市史 第2巻 上
(0550)
一、 慶長七年白根
西道
金山見立初メ、 其頃迄御境相分チ申サズ争止ム事なし。,其節武道ノ達人強将故、 白根
西道
両山堅固ノ奉行トシテ重左衛門様帯刀屋敷ニ居り申し候故、 秋田より金堀共壱人,も参り兼ね候ニ付、 南部金堀共安心ニ相働キ、 白根も右同様ニ相成り候、 白根
西道
両金山とも境界が,定まらず、 とくに
西道
の湧上りに金を見立ててから、 秋田が先である、 南部が先であると双方の金掘,
西道
の帯刀屋敷跡の所在に二説があり、 宝玉要録』一つは現在県道十二所・花輪線ぞいに「
西道
御金山跡」「
鹿角市史 第2巻 上
(0028)
切支丹と留山、 きりしたん長左衛門、 御売米、 白根の金山集落、 御墨引、 金山に働く人々二
西道
,、 その他の金山五一四〓
西道
金山五一四論地・
西道
、
西道
の産金〓五十枚金山・夏山金山など…五二六運上金五十枚
鹿角市史 第2巻 上
(0548)
論地・
西道
虎角の金山は、 慶長年代に入ってから、 白根をはじめとし
西道
、 五十枚、 槇山などが,に金山を得、 同四年尾去沢に五十枚金山、 次いで長牛村槇山金山が出たとし、 同七年「尾佐利沢に
西道
金山,この慶長七年(一六〇二)に
西道
始まるという説は殆どの記録に共通し、 例えば章の冒頭にあげた『諸山開立年限附,』において然り、 川口家文書『三国金銀之根元井金掘由来之事』にも「
西道
金山慶長七寅年見立五月十一日なり,
西道
金山発見時の山師を前掲『年限附』に長尾重左衛門信景としてあるのは、 明かに南部(又ハ北)重左衛門信景
鹿角市史 第2巻 上
(0558)
西道
は、 白根のように夥しい坑内浸水によって掘捨間歩となることが少なかった。,それでも延宝七年七月花輪町仁左衛門が
西道
杉平の若松利兵衛掘捨間歩の水抜普請を願い出て、 許されているまた,
西道
で働いた山師や、 山内の組織などについてもそれを伝えるものは、 まことに少ない。,その
西道
において白根の青山庄左衛門のような立場にあったのが沢出善右衛門であろう。,方善太夫の一子渡辺半蔵は大坂夏の陣に参加し、 落城後
西道
の親許へ落ち、 善右衛門と改め沢出氏を称した
鹿角市史 第2巻 上
(0557)
延宝八年二月、 藩は槇山金山奉行儀我忠右衛門、 伊藤団右衛門の両人を御役御免とし、 その跡を埋めぬまま
西道
,翌三月、 尾去沢銅山奉行が任命されているが、 しばらくの間
西道
金山奉行も存続したようである。,金山としての
西道
がどのように経営されたか、 その実態は殆ど判っていない。,、
西道
西平ノ金山、 夘月廿五日ノ朝普請相済み、 けたい見出し申し候。,何時よりもけたいニて御堀わけニ仕る可く候(『雑書』寛文一二年五月二日条)、
西道
杉平、 若松利兵衛堀捨
鹿角市史 第2巻 上
(0555)
以ト慶安二年極月廿四日十三日町作左衛門判花輪市郎兵衛判御老中様越後七郎左衛門判この文面から、
西道
を,この三休については、 『雑書』慶安二年八月一九日条に「
西道
御金、 過分ノ金躰之れ有り、 □肴町三休,ニ□」と見え、 さらに同年一二月六日条に「
西道
御金山ノ儀ニ付て、 沢中ノ者共肴町三休と工事ニ候」とある,八月、
西道
に予想以上の金躰が発見されたので盛岡肴町の山師三休に稼行させたが、 程もなく沢中の者たちと,
西道
金山に対する藩の評価は高く、 期待もまた大きかった。
鹿角市史資料編 第34集
(0055)
落着不仕論地ニ罷成互二手入申間敷と申定、 双方存様二絵図ノ表ニ比内沼山金掘場鹿角沼山金掘場と書付申候、
西道
金山,其隠無御座候、 先年信濃守時代領内ニケ様金山出来仕候旨東照権現様へ言上し運上金〓差上候得共、 白根并
西道
差上候運上金共,ニ被下置候儀ハ紛レ無御座候、 然処ニ
西道
金山を論地ノ由、 秋田より申上候儀合点無御座候、 併絵図,ノ義ハ山中立除品々ニ御座候間当座ノ事、 此
西道
ハ先年より為堀候間、 左様御心得可被成旨梅津半右衛門,朱引ノ通論地と被仰上候、 伊豆様御覧其絵図赤く引申候ハ道筋と相見得候由被仰留候、 其已後右京様
西道
岩切論地
鹿角市史 第2巻 上
(0619)
雑書』にみられる延宝六年(一六七八)から貞享元年(一六八四)に至る他領出銅の通し証文には、 終始「
西道
尾去沢山,尾去沢銅山の始まりといわれる寛文六年(一六六六)の頃、 この地域の中心はなお
西道
にあった。,山師長尾重左衛門が
西道
の西南田郡沢に銅山を見立て、 つづいて横合とよばれた元山沢にも銅鉱を発見したという,しかし新たな銅山の支配は、 依然として
西道
金山奉行が握っていたとみられ、 同金山奉行の任命は延宝八年八月,川口家文書『金掘由来之事』に「尾去沢銅山寛文六丙午年見立、 同年三ツ矢沢初ル、 右御山境、 東ハ赤沢崩
西道
鹿角市史 第2巻 上
(0476)
慶安四年(一六五一)秋田方目安状に「鹿角沼山ハ今ホとハ
西道
と申候、 彼の金山ハ慶長十二年之前後ニ出来仕候,同
西道
金山慶長拾壱年ニ掘始、 其翌年
西道
より運上金百枚白根金山より七拾枚右両口〆百七拾枚、 古信濃守代,白根・
西道
の開坑年代とともに、 信濃守利直が慶長一二年に運上金として
西道
一〇〇枚白根七〇枚の計一七〇
鹿角市史 第2巻 上
(0243)
次ニ論地ニて金堀申すと書上申され候ハ
西道
金山ノ事ニ御座候哉、 此山ノ儀四十七年以前ニ堀始メ唯今迄怠惰無,(白根
西道
両山を権現様家康公より拝領した経緯を述べ)旁以て南:
西道
金山と申す儀世上ニも隠れ御座無ク候。,右拝領
西道
金山跡置此方
西道
口村々ノ上迄指越申懸られ十文字野を堺と有て證拠有間敷事ニ存候。
鹿角市史 第2巻 上
(0253)
、 金山ノ内
西道
本山ノ儀比内沼山ノ由秋田領より申すと雖も、 南部領より金堀来る間符数多之れ有り、,其外
西道
小杉平、
西道
崎ノ山、
西道
北平、
西道
夏山右ノ所々南部より金堀候古間符慥に相見るノ条、
鹿角市史 第2巻 上
(0241)
この事件の前後にも論地をめぐる紛争は絶え間なく、
西道
朴木峠西平にて南部の者が金掘りをしているという,慶安三年の目安状慶安年代に入り、 境目論地のうち花輪境の
西道
金山とばっかい沢が焦点の一つとなった。,同じく同年夘月八日条「久保田老衆次田美濃守・梅津外記より
西道
御金山論地ノ旨、 状飛脚を以て遣ス」ともある,九月一四日、 秋田の検使二名と十二所塩谷民部、 同弟権七、 円所寄騎五騎、 上下一〇〇人程が
西道
金山西平通,同一一月二二日
西道
金山は論地である旨、 江戸において秋田老衆から家老楢山五左衛門へ申入れがあった。
鹿角市史 第2巻 上
(0624)
尾去沢銅山について前者には「
西道
ノ内尾去沢銅山」、 後者には「尾去沢、 田郡両所銅山」と表現されている,初めの頃
西道
の地名で広い地域を包括していたのが、 後には
西道
にかわって尾去沢の名で広範囲を総称するようになった,貞享四年(一六八七)正月二三日、 八幡丁治兵衛が単独に証文を与えられているが、 その文面には「鹿角郡
西道
鹿角市史 第2巻 下
(0099)
白根御金山御売米ノ勘宝中嶋惣九郎田名部又五郎預り状一通上ル、 田鎖太郎左衛門披露」、 同五月二三日条「
西道
御金山御賣米,」、 正保四年四月一日条「
西道
御金山御賣米」のことがみラる。,払出御蔵が分明するのは明暦二年(一六五六)の払出しからである、 鹿角
西道
御金山御米賣、 盛岡新馬町左平次
鹿角市史資料編 第31集
(0039)
南部領より二館二屋敷ニテ南部ノ者住所ノ由申候、 見分ノ上分明ニ候条南部領ノ者理運ノ事一金山ノ内
西道
本山,よりノ金堀小屋并樹木等、 其上南部奉行屋敷古跡并樹木畑等相残、 至尓今金堀候と相見へ候、 其外
西道
小杉平
西道
崎,ノ山
西道
北平
西道
夏山、 右ノ所々南部より金堀候古間符慥ニ相見ノ条、 秋田領申所非分ノ事金山より峯続南境煩悩山冑石迄境
鹿角市史資料編 第34集
(0061)
南部領より二館二屋敷にて南部ノ者住む所ノ由申し候、 見分ノ上分明ニ候条南部ノ者理運ノ事一金山ノ内
西道
本山沢,古来よりノ金掘小屋并樹木等其上南部ノ奉行屋敷古跡并樹木畑等相残り、 今に至り金掘候と相見候、 其外
西道
小杉平,、
西道
崎ノ山、
西道
北平、
西道
夏山右ノ所々南部より金掘候古間符慥に相見るノ条、 秋田領申す
鹿角市史 第2巻 上
(0285)
鉄小曲久用枝中新田一村堂沢村子沢倉沢沢畑沢口田田原砲田沢田目三四六四一一九三一四五三四一六下新田一尾去村七七(二二)枝
西道
口三一三蟹沢,内下川原八花軒田村一四水川黒鍋瓜松蟹西下上下久曲同用鉄小沢原沢倉畑沢沢口田田原田沢所目砲田土深井村二七村村村村村村村村村村村内内内内内内三矢沢村四四内上新田円内上新田一下新田一六下新田六蟹沢一一一四一一尾去村九九(三一)内
西道
口,2円内
西道
口四五解沢松子沢六松子沢六瓜畑二鍋倉二松館村四九(三四)内黒沢一一一川原一句鳥谷村五八(三九
鹿角市史 第2巻 下
(0040)
二、
西道
、 その他の金=四、 鹿角鎌第五節鹿角の醸造業一、 藩政前期の酒造業二、 藩政後期,、 白根の金山〓白根金山の繁栄〓諸敷・間歩の開坑〓青山庄左衛門と大水抜普請〓金山の経営と働く人々〓
西道
金山
鹿角市史 第5巻
(0063)
四·二三十二所から
西道
口へ欠落してきた三人を返すよう塩谷民部から申入れがあった。,八 ·
西道
金山論地に秋田方検使の見分あり、 南部方検使として目時勘太夫ら立合う。,八·一九
西道
金山過分の金躰あり。 盛岡肴町三休稼行す。
鹿角市史 第5巻
(0092)
五·一九
西道
尾去沢銅、 松山·黒沢尻両方に分け他領出。,七·二八
西道
杉平掘捨水貫普請、 花輪仁左衛門請ける。,八· 三三戸夏坂山より吹出銅一七二箇黒沢尻改他領出八 · 九
西道
尾去沢銅五二六箇黒沢尻番所改
鹿角市史資料編 第29集
(0151)
松館村詰石吉方へ申出之趣上村通出役定吉を以申出ニ付、 昨夜上り定吉甚丘衛江木場中通壱人相添花輪へ被遣、
西道
口村江,炭背負人足廿六人遣し置候得共、 前条之次第ニて小深田久助方へ不残人足遣候趣申来候、 然る処昼過二至り
西道
口,御用達兼候趣御挨拶被成遣候、 右大炭市中江附下ケ候ニ付ては、 明日より日々廻り役之者被遣候筈十月十三日、 昨日
西道
口村,へ附上残し炭拾八俵床屋働之者賦り方ニ遣し、 花王へ廻り方甚兵衛木場より手伝中通之内壱人遣し、
西道
口村
鹿角市史 第2巻 上
(0379)
その例として十二所市吹谷氏の祖は、 慶長期に白根・
西道
など鹿角の金山奉行であった北十左衛門信景の娘マツ,吹谷氏繁栄の源となった「吹屋」の技術は白根金山・
西道
金山などに濫觴をもつことは容易に想像できることである
鹿角市史資料編 第26集
(0016)
のいしの辺江落ルと相見候也、
西道
より川上ハ大遠切也、 但とうふや大切より入兼帯より
西道
貫合迄之間冠返,候段御見分使御方江も申上置之一、 蛇腹鋪釜之口卯向一、 本鋪釜口子向也一、 泉屋大切鋪丑向一、
西道
鋪申向也右之外
鹿角市史 第2巻 上
(0551)
もう一つは、 鍋倉沢に帯刀屋敷があったという説で、 重左衛門はここに愛妾お松の方と共に住んで白根・
西道
,同一三年
西道
金山が採掘され始めた時、 秋田側はその採掘場所は秋田領の比内沼山であると抗議してきた。,南部側は、 比内沼山、 南部沼山という区別はなく、 沼山はすべて
西道
の区域内で、 南部信濃守が
鹿角市史資料編 第34集
(0054)
大地内山ノ事御境目所々金山初ノ事一白根金山掘初ハ慶長九年甲辰当年迪四拾七年也、 但慶安三年辛卯ノ年迪一
西道
金山掘初,ハ慶長十年乙已当年迪四拾六年巾「白根
西道
運上金百八拾枚公義へ御上被成候ハ、 慶長十一年丙午当年迪四拾五年二罷成候,、 併運上金被下候由ニて御返し被遊候事一
西道
北平掘初ハ慶長十五年庚戌花輪町四郎右衛門堀申候、 金躰無之捨置申候,を寛永十一年四月花輪町長左衛門掘申候より只今造掘続き申候事一
西道
夏山掘ハ元和二年乙卯小浜屋内蔵助掘申候所
鹿角市史 第2巻 上
(0556)
『寛永支配帳』には、 八〇石山田新助に「
西道
御金山御番」、 七三石又重庄三郎に「
西道
御番」と添書されているので
鹿角市史 第4巻
(0851)
三月五日、 秋田領十二所を出発、 沢尻・土深井・おおながね・十文字から
西道
口に出て、 花輪に着いた,大高伝右衛門尉い旗を押立ヲ防ぎければ、 〓へは引事不叶して、 直に白本ノ郡八森に在りをいふ金竅、 、
西道
細道,此十文字ながねを、 逢対坂ならむといへる人あれどさだかならず、 馬手に、
西道
山の内なる獅子沢、
鹿角市史 第4巻
(0852)
西道
口といふ一ト村をへて、 米代川を綱曳〓渡りてけり。,
西道
山も
西道
口も、 本ト細道にて、 手布の細道より云ふ事なるを、 字音に伝へるのみ也。
鹿角市史 第2巻 上
(0730)
一三二筒一斗燃釜)、 門番所五カ所(役屋門番一間半×二間、 表門番二間半×凡、 赤沢・
西道
,たお
西道
口の川原春木土場には、 木方役所(四間×九間)、 木挽小屋(四間×五間,▽山の懐の如き所にして南は八聖山鉢巻長根、 西は五十枚元山、
西道
金山等の衆山にて圍めり。
鹿角市史 第5巻
(0093)
一〇· 一一
西道
尾去沢銅七〇八箇黒沢尻改め他領へ出す。,二·一〇棋山金山奉行職を解かれ、 以後棋山は
西道
金山奉行の管轄に入ることとなる。
鹿角市史 第2巻 上
(0629)
」仙台領へ追放され、 清兵衛は「御礼金等相滞り」家屋敷没収の上親類預かりとなってい崎山銅山は、
西道
金山,南ハ姥懐境より上新田沢水落迄、 西ハ三屋沢新田川切下新田大物長根道切、 北ハ丹板ノ峠崎山境より
西道
大道切獅子沢迄
鹿角市史資料編 第31集
(0026)
又来辰年より戌年迄七ケ年中真金御山
西道
御山共働方被仰付被下置度御礼金之儀ハ一ケ年五両宛右年数中上納仕候旨願出望之通由付候事但右働中宜金銅,④當候者早速訴出可申候万一隠密仕候段相聞得候ハ御吟味之上急度可被仰付候事真金御山
西道
御山流方出金之分ハ
鹿角市史資料編 第29集
(0062)
高拾六貫五百匁右之通御座候已上辰五月十九日野坂新兵衛熊谷理十郎斉藤忠太殿内田伝五郎殿一、 花輪通用鑑札、 三沢并大本番沢笹小屋木場御台処中間石切沢
西道
共左之通今日相渡申候,、 九拾壱枚田郡一、 百拾壱枚元一、 八拾九枚赤沢一、 三枚
西道
沢、 弐枚石切沢一、 八拾四枚獅子沢
鹿角市史 第5巻
(0095)
九·二一
西道
尾去沢銅四五一箇黒沢尻番所改め他領出。,同
西道
尾去沢銅四九一箇黒沢尻番所改め他領出。
鹿角市史 第2巻 上
(0541)
これらの繁昌記には、 冒頭鹿角白根、
西道
等の金山を北十左衞門が見立てたとあるだけで、 「鹿角金山繁昌,」の実態が、 白根なのか
西道
なのか、 または北十左衛門が両方を兼
鹿角市史 第2巻 上
(0565)
槇山金山は、 白根発見の翌年慶長四年(一五九九)に見立てられ、 やがて北十左衛門によって白根、
西道
,小屋数一、 〇〇○軒というのは鉱山の大盛ぶりを表現する常套語で、 白根千軒、
西道
千軒といった類
鹿角市史資料編 第2集
(0074)
門沢出善右エ門罷越御手當掛り役屋手傳嘉六本番江ハ濁酒三升直酒三升御肴三種両沢江被下大本番ニ而御書被召上
西道
江御廻,被成候赤沢御門外江平服ニ而内田九兵衛沢出善一郎青山金右エ門天狗橋迪日拂主役大本番主役三沢御山方小国沢堤造御役処主役
西道
口村上,造日拂主役名代御銅蔵主役重助松館村造赤沢御敷手代庄六長内村迪外中間頭平七松館村造荷物才領小夫宇太郎稲村橋詰迪沢出善右エ門
西道
口村上
鹿角市史 第4巻
(0606)
quot;ボケノ餅・ナダノ餅ポケというのは機織用オボケというのは機織用に撚った麻糸を入れておく竹三ツ矢沢
西道
口
鹿角市史 第5巻
(0254)
西道
御門の外并
西道
道の曲り目にて行う。
鹿角市史 第2巻 上
(0465)
又継いで長牛村槇山金山、 今の真金山出る」「是に次いで尾去沢に
西道
金山と二う出でて此年又大盛也。,然れとも白根の金位の宜しき且つ多きにはしかずと云う」として、 白根につづいて五十枚、 槇山、
西道
鹿角市史 第2巻 上
(0621)
延宝八年六月二四日付の通し証文に「
西道
尾去沢三沢山師左平次清兵衛」とあり、
西道
尾去沢は三沢を中心に
鹿角市史 第2巻 上
(0648)
、 山境については東は赤沢嶺
西道
流川限り、 南は長坂金山掘末銅山の分槇山境上新田水の落合大物長根道通,り、 北は崎山境
西道
獅子沢落合限りと申付ける。
鹿角市史 第3巻 上
(0471)
佐藤扱店は新たに錦木村松山に出張所と倉庫を設け、 同所から花輪町、
西道
口出張所を経て山許へと輸送,尾去沢向けの貨物は、 宮越扱店の荷馬車によって扇田へ送られ、 扇田からは佐藤扱店の荷馬車をもって松山・
西道
口
鹿角市史 第1巻
(0557)
ハ、 南部勢は白根
西道
を経て押寄せ互いに弓鉄砲を打合いここを専途と戦った。,大湯四郎左衛門、 同五兵衛尉、 湯瀬宮内等を始めとして約七百余騎、 天正十六年三戸を進発、 鹿角郡を経て
西道
山
鹿角市史資料編 第2集
(0014)
御蒿菱御酒差上候よし御先立中間頭与八郎御山元衆御供内田九兵衛様役屋主役傳五郎被仰付一、 四月廿六日
西道
,而御酒被下置候御帰り花輪御蔵奉行三上円平様御出毛馬内御給人勝又周治様御出直ニ御帰、 今日阿免り加製発破御試ニ而
西道
御門之外并
西道
道之曲
鹿角市史資料編 第26集
(0015)
鋪本銚江落合候様相見得候山色は青石青地もの立込候得は釦もよく相成候様也一、 二番口鋪銚之通同所鋪口より
西道
越口大煙,大煙り鋪より川上は遠切と相見得候山色青地ニ相成候得け釦生宜く一体青地は道具ニて御座候大略元山鈔之通ハ
西道
之化
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