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鹿角市史資料編 第7集
(0158)
、 三百文同
谷内
一、 百文同廿日源八小右衛門一、 八百文同
谷内
一、 百文同同佐吉善助一、 五百文同小豆沢一,六百文同同人小二郎〆三貫文一、 百文正月廿二日夏井与右衛門一、 弐百文同廿四日石鳥や庄畜一、 同廿五日
谷内
松太郎正,、 三百文同小豆沢助十郎武武助一、 百文同廿八日夏井十助一、 百文同
谷内
六十郎〆八百五十文、,百文同廿九日
谷内
源八一、 百文二月朔日
谷内
小四郎、 百文同同小四郎一、 壱貫弐百文同夏井与吉一、,、 六貫文同眞金山内正ミ十八貫目二月九日渡同十二貫匁同十日夫夏井長四〆三拾貫目、 弐百文同十一日
谷内
一
鹿角市史資料編 第7集
(0157)
十貫四百五十文百文ニ五百匁かへ午年分二口〆三十弐貫九百十一文天保六未年百文ニ五百目かへ、 五十文正月九日
谷内
一,、 百五十文同
谷内
伊之助小四郎一、 弐朱ト五十分与之、 弐貫八百文同九日花巴一、 壱歩代伊之助兵蔵殿,〆二月四日みそ渡一、 百文同同人一、 三百文同十三日
谷内
一、 四百文正月十五日六十郎夏井十助殿、,百文同小水沢幸吉一、 四百文同四戸様一、 弐百文同水沢弥五郎夫喜夫喜平、 百文同十四日
谷内
権七一,、 弐百文同三四郎一、 百文大晦日源八一、 百文廿九日
谷内
一、 百文同夏井五正六十郎一、 百文同
谷内
一
鹿角市史資料編 第7集
(0149)
〆十二月二日改一、 十一月廿四日壱斗
谷内
卯之松四人十日分一、 同十八日壱斗六升忠四人八日より廿日迪,同朔日三斗六升三ケ田長松六人三十日分一、 同五日弐斗四升同村左助四人三十日分一、 十一月廿九日壱斗弐升
谷内
善助一,壱駄片馬ト壱斗八升十二月二日改跡せろ一、 十二月三日壱斗長嶺ノ又十郎五人十日分一、 同五日壱斗七升下
谷内
長吉五人七日分一,、 十二月十二日片馬
谷内
弥右衛門四人五十日分、 同片馬下
谷内
間の三人六十五日分一、 同十四日弐斗下,〆四駄片馬ト弐升一、 午正月十四日弐斗八升九合石橋ノ長松一七代壱貫七百文壱歩受取一、 廿一日片馬
谷内
長兵衞一七代弐貫三百五十文右
鹿角市史資料編 第7集
(0159)
百文同二日同徳十郎、 百文同廿三日徳十郎一、 五百文かし同三日畳惣太殿、 三百文かし内六之亟一、 四百文同
谷内
長兵衛一,タ仲奈良亦左衛門様、 弐百文同廿八日御番所正ミ四貫匁かし、 弐百文同廿九日寺前要助一、 百文同
谷内
徳十郎一,、 百五十文同卅日夏井才兵衛○〆五貫百廿四文一、 七百文三月九日川部一、 三百文同十五日
谷内
上ノ,弐百文十二日夏井卯之助夫万兵害一、 弐百文同十九日夏井十助一、 弐百文四月六日御番所、 百文同
谷内
与八一,、 弐百文五月廿三日沢口一、 百文同七日
谷内
六十郎左重太様○〆六貫百文、 弐百文六月廿八日母部ノ
鹿角市史 第3巻 下
(0397)
八幡平の観光コースは、 当時
谷内
から坂比平-蒸の湯-頂上-後生掛-又一-鹿湯(玉川)と探勝するのが般的,その旅の出発点あるいは帰着点は
谷内
がもっぱらで、
谷内
とは阿部藤助宅のことであった。,登山客はまず
谷内
の藤助宅で山入りの旅装を整えたのち、 山へ向かっ例えば大正六年八月、 秋田鉱山専門学校一行,〇年九月鹿南焼山巡り隊一九名には「本隊の先登は宮川村長阿部藤助」で、 この一行が登山後の散会地点は
谷内
,また同一五年秋田山林会主催の山岳登山旅行団二四名も花輪駅から自動車に分乗して出発点の
谷内
に集合し、
鹿角市史資料編 第7集
(0151)
ス一、 同十三日代五百文八升五合和田八郎一、 同十四日八升五合
谷内
甚助代五百文長嶺か寺前惣助一、,壱斗七升八合荒町善一、 同十八日代三貫四百文五斗七升八合隣り甚一、 同十九日代壱貫七百文弐斗八升九合
谷内
由,〓一、 同廿一日代弐貫三百五十文片馬川部与一、 同代五百文八升五合
谷内
仲蔵一、 同廿五日壱斗七升四合弐勺五才川部市一七代壱貫廿四文取一,同廿七日壱駄三ケ田甚十郎一七代四貫七百五文弥市内三歩受取引而三百九十一文返ス一、 同代七百文壱斗壱升九合
谷内
小四郎一,同廿九日代壱貫文壱斗七升夏井与六、 同代三百文五升一合長嶺かぢ専太郎一、 五月二日三斗五升七合
谷内
藤一一七代弐貫百文一
鹿角市史資料編 第7集
(0147)
弐斗弐升三月十二日改合覚一、 六拾駄御買上之内拂方覚一、 十一月六日三斗清水又卯之二五・五人三十日分一、 同七日六升
谷内
百松三正五斗一升一,同四斗肝入已之三旦那様御飯料由ニ而御役銭へ出候一、 同八日三斗佐市助殿内与助三十五人分十日分、 同十日壱斗弐升
谷内
善助事孫右衛門三六人十日分一,、 同七日八升
谷内
忠助二四人十日分一、 同九日三斗同村才兵衛二八五人三十日分正弐駄一、 同八日片馬長,田左助二五四人三十日分一、 同十七日弐駄片馬谷地田町御救二五○〆五駄片馬ト壱斗一、 十一月十七日弐斗
谷内
藤二五五人分廿日分一,、 同十八日片馬上苗代佐吉二三人三十日分・十一月分十二月分一、 十一月十九日壱斗弐升
谷内
善助
鹿角市史 第1巻
(0484)
板碑や磨崖仏の集中する
谷内
神明社(天照皇御祖神社)の北側に、 館跡と伝えられる小丘があり、 さらにその,北方台地に
谷内
集落を見おろすように、
谷内
城跡がある。,現神明社社地には、 古くから観音堂が祀られており、 永禄合戦に「秋田近季
谷内
観音堂を焼く」(『鹿角郷土誌,明治初年の廃仏毀釈によって観音堂を
谷内
延命寺に移し、 その跡地に伊勢堂を祀って神明社とした。,また、 ①は、 現在地に移される前は、
谷内
の西方に位置する長牛城の一郭「ひや水館」の南側にひっそり
鹿角市史資料編 第27集
(0048)
達ニ相成、 直々同所より横手小田嶋徳弥様之見分場所江参、 夫より
谷内
村開立済御見分御場所江横手より,川越申候て直々
谷内
村樋ノ下川原江御出被遊候明治四年辛未四月五日申下刻為念之書印之庄屋甚五平前書御見分向順路左之通兀井上良助新田玉内村下夕赤渕,より初り、 小田嶋ノ新田大里村下々川原次川部村ノ小田嶋ノ新田、 次ニ
谷内
村内田ノ新田渡部ノ新田夏井村井上良助井上儀左衛門井上留治,御座候辛未四月四日立四月四日開立御見分被下置候所、 同月十日御請御礼申上候人数左之通大里村小豆澤村長嶺村川部村
谷内
村夏井村白欠村長内村松館村,御本丸御蔵御役所妙蓮寺吉田両家小徳東屋解澤川村善太郎右之御人数方様江御礼申上候、 右村々庄屋中ニて四月十日相済申候以上前村人数大里長助小豆澤市太郎長嶺甚五平
谷内
藤助夏井権兵衛白欠昌右
鹿角市史 第3巻 上
(0127)
同十二才娘たま〓八才同はなひはた〓七十六才母ひて先代元八妻トス同七十六才母ひ先代元八妻トス農業、 田五反
谷内
村,明治三年花輪通長嶺村戸籍書上帳午八月鹿角郡長嶺村不残八幡社氏子庄屋甚五平(阿部家文書)鹿角郡長嶺村百姓農業一、 田四反五畝長嶺村田四反五畝長嶺村〓将〓〓同郡
谷内
村百姓文政八酉二月同郡
谷内
村百姓五兵衛娘
鹿角市史 第3巻 上
(0126)
かくて調製された戸籍帳は、 次の例にみることができるが、
谷内
村のそれは氏子書上げの示達前の作成とみえて,(表書〕明治三年宗門明細書上帳下書午六月鹿角郡
谷内
村(阿部家文書)、 以下人名は仮名とする。,はな卅二才男子源助安政三辰四月同村百姓要助娘娶ス同卅才妻すみ同十才孫源八同六才同常一、 田八反五畝
谷内
村畑弐反五畝同村一
鹿角市史資料編 第7集
(0148)
二六人十日分一、 同弐斗四升大久保与助二四人三十日分一、 同弐斗八升
谷内
権曲三七人十一月十九日より,同廿日弐斗石橋長松二九人十日分、 同片馬ト弐升荒町善大二七人三十日分十一月分外十二月分三十日分一、 同壱斗六升
谷内
間之二三人十一月十九日,同廿四日八升さや卯之松二五四人十一日分一、 十一月廿四日三斗三ケ田久半二五人三十日分一、 同、 同片馬
谷内
長兵衞二五人四十日分,同三斗六升荒町小七二六人三十日分一、 同四斗四升大久保吉十郎二七人三十日分○〆五駄ト弐斗弐升五合一、 十一月廿八日壱斗八升
谷内
勘兵衛三人三十日分
鹿角市史 第2巻 下
(0197)
第1表宝永5年
谷内
村持高別百姓人数「宝永5年『御検地名寄御帳』・阿部家文書御検地荒木田甚右衛門下斗米九郎兵衛筆新田百助上野喜太夫改七戸長右衛門御横目儀家忠右衛門
谷内
村,ただし
谷内
村などの農家の中には、 数頭の牛馬を飼育して駄賃つけ業運送)をしたり、 銅山付の山林に入
鹿角市史 第1巻
(0600)
石鳥谷館長牛館
谷内
館の三館があり、 いずれも郡南部に限られている。,えとともに、 犀〓を遡り大葛口から巻山峠付近を黒沢越えもしくは桃枝越えして、 南部一戸氏分流の長牛氏・
谷内
氏,館有一、 長峯村、 長峯下總領知本名成田館有一、 三ヶ田村、 三ヶ田左近領知本名阿保館有一、
谷内
村,、
谷内
三郎領知本名成田館有、 南部御先祖御下以後一戸彈正左ェ門領知本名武田なり、 九郎正友と
鹿角市史 第5巻
(0040)
和歴(西暦)嘉元三(一三〇五)正和二(一三一三)一 般 的 事 項鹿角角関関係係事事項七月□日
谷内
観音堂境内,出 典五月三〇日
谷内
観音堂境内に板碑建立される。 緑泥片岩を用い典型的な武蔵型板碑である。,年代不明、
谷内
観音堂境内の岩壁に鎌倉期の磨崖仏といわれる阿弥陀三尊が刻まれる。
鹿角市史 第1巻
(0656)
阿弥陀三尊で正安二年、
谷内
の板碑が阿弥陀如来で正和二年、 そして
谷内
磨崖仏が阿弥陀三尊で鎌倉末期
鹿角市史資料編 第27集
(0018)
少参事様ト傍書)上下五人御村巡見御用一て此村は長嶺村湯瀬村大里村小豆澤村ニて御法例被仰渡蒙申候小豆澤御昼
谷内
村泊,り夏井御昼長内泊り尾去御昼花輪着此節之御出迎二市之丞市之助市助甚之丞小豆澤より
谷内
村郷境迄参申候南
谷内
村江刺縣支配所此塔立,所附取調御田入候条此状参着次第取調来月朔日迄書上為差出可申者也但し御山ケ所附江竪何里何丁横何里何丁程有木員数目通何尺廻りより何尺廻迄御林元より
谷内
村迄何里何丁村二寄夜明嶋川迄之里数前同断之事一寺社共
鹿角市史資料編 第7集
(0150)
一、 二月六日片馬
谷内
芳松一七代弐貫三百五十文右へ壱歩半受取引而弐百文返し、 同七日片馬上ノ長〓代弐貫三百五十文右,三斗六升小十六人三十日分内七百文松右衛門一、 三月五日壱斗三升六合三ケ田ノ惣太松右衛門代八百文受取一、 同五日壱駄
谷内
助十郎一七代四貫七百五文内三歩受取引而三百九十一文返,ス一、 三月七日片馬川部長〓一七代弐貫三百十五文受取一、 同十一日片馬
谷内
弥物一七代弐貫三百十五文右
鹿角市史 第1巻
(0535)
一本には瓦牛氏行朝の二男一戸摂津守義実、 初は奥郡の内女鹿小供領す後鹿角郡長牛村を領して長牛氏と称す
谷内
氏一戸義実,ノ末葉より出たりと載せられ、 また『鹿角由来集』の関係部分には一、
谷内
村本ハ
谷内
三郎領名字成田館有
鹿角市史 第2巻 上
(0181)
高二十一石三斗四升五合米沢村升五合米沢村金目定所務仕り候ほか小物成御座無く候花輪通御代官所内鹿角郡、 高十六石五斗六升六合
谷内
村金定所務仕,二十一石三斗四升五合米沢村右所務銭二十五貫六百十五文大豆五駄(十俵)花輪通一、 十六石五斗六升六合
谷内
村右所務銭十七貫三百九十四文同通,付一貫百八十文定外大豆十一俵但一俵ニ付三斗七升入一、 八十石、 八十石金方但百石二十両之割合井上国太郎領
谷内
村百姓割付高,(『
谷内
村割付高取調帳』明治2年阿部家文書)
鹿角市史 第3巻 上
(0664)
その時のキリシタン禁制高札が、 今も
谷内
の天照皇御祖神社の拝殿内に保存されている。,禁止之事明治三年三月太政官このような政府の強圧的態度は、 たちまち諸外国の排第8図明治3年キリシタン禁制高札(
谷内
天照皇御祖神社蔵
鹿角市史 第2巻 下
(0200)
阿部
谷内
村の明治三年『宗門明細書上帳』(家文書言)によると、
谷内
村(枝村を含む)では、 重之助、,請育四十三其一男十二菊太郎元治元子八月同村百姓某より請育十五某(女)娠三つま慶應三卯三月同村百姓某より請育十三某(女)採三すを一、 田四十五反
谷内
村一
鹿角市史資料編 第27集
(0088)
誰但同断右之通総て雛形二照准半紙横打へ取調可指出候事一此度益子様奈良駒治同巳代治忰和吉上下三人ニて御村廻り被遊
谷内
村江寄村,村ニて家数弐百弐拾軒其節御賄料但家壱軒ニ付三百三拾文当一家数三拾九軒長嶺村此出銭拾弐貫八百文七月六日
谷内
村泊,朝五ツ時代り相勤申候筈ニ御座候右之日割記一七月朔日花輪村一同二日尾去村同三日久保田村同四日神田村同五日
谷内
村同六日大里村但法用
鹿角市史資料編 第27集
(0089)
奉差上候以上壬申七月廿日本人市之助里正甚五平一七月廿六日例年之通風祭仕候当番六兵衛酒米之義持寄壱人ニ付白米弐合宛出し申候一七月廿六日
谷内
村阿部藤助戸長役被仰付,、 右戸口村数左之通記一長嶺村
谷内
村夏井村長牛村白欠村長内村三ケ田村石鳥谷村川部村松館村尾去村銅山台所三,ツ矢澤村都合拾三ケ村戸長役
谷内
村阿部藤助六月廿四日より御雇人吉田直章当村絵図面巨細ニ取調二付御出被游七月十二日迄止宿仕候
鹿角市史資料編 第27集
(0094)
目的申達別紙之通御布告二相成候条區内不洩様可令布告者也秋田縣花輪詰判花輪通里正里長江八月十七日亥刻ニ拝見
谷内
村,一戸江三拾弐銅御初穂光銭ニて奉納仕候、 其時ハ戸主袴羽織リニて村役人ハ上下着用仕、 社人ハ花輪町幸稲荷社人三日市猪代治
谷内
村戸長阿部藤助銅山田郡副戸長澤出善右工門此三人,ニて長嶺村
谷内
村夏井村長牛村白欠村三ケ田村長内村石鳥谷村川部村都合九ケ村之戸□主江右御守札壱人毎二被下置難有頂戴仕候明治五年壬申八月世三日記戸長手傳阿部甚五平御布告第七番御布告伏見一品宮昨五日薨去
鹿角市史 第1巻
(0577)
所秋田境の要地なれは関城の為残置」と記されているので、 或いは前記十館のほかに湯瀬・小豆沢・黒土・
谷内
,○
谷内
村
谷内
三郎(成田氏)領、 のち一戸弾正左衛門領となる。
鹿角市史 第2巻 下
(0232)
第5表農家の経営規模(役畜と労働力)(
谷内
)
鹿角市史 第5巻
(0523)
)タタラタタラ館駄賃つけタツゲ館 · 館址立石鉱山立林タテマエ立山文庫タナタナキ祭七夕祭り
谷内
市
谷内
教会
谷内
矯風会
谷内
館
谷内
用水田
鹿角市史 第2巻 下
(0206)
第3表寛延~文政
谷内
村藤助の貸金一覧(「古手形覚帳」阿部家
鹿角市史 第4巻
(0642)
谷内
の神明社は天照皇御祖神社と呼ばれ、 永禄年間の秋田方と南部方の争いで焼けた観音堂の社地に、 明治,一般に
谷内
の神明さんと呼ばれ、 境内に中世の石造物の残る遺物の多い神社である。,祭典は八月十五日に宵祭があり、 本祭の十六日には
谷内
天照皇御祖神社先祓舞が奉納される。
鹿角市史 第2巻 下
(0195)
給主と給所肝入および給所百姓の関係については、
谷内
村の横濱家肝入藤助が横濱家へ宛てた文書控『案詞帳,安政四年(一八五七)横濱澄は知行地
谷内
村百姓与七郎に対し、 無調法の廉があったとして持地家屋敷を取上,へ追放を命じている安政四年『旦那様御沙汰孔帳』阿部家文書○与七郎の咎というのは、 給人奈良庄重郎が
谷内
村上川原扣帳
鹿角市史 第2巻 下
(0392)
大博士は
谷内
に居住し、 自ら五大尊舞の大博士(金剛界大日)の役を担うと共に
谷内
の舞を組織していた。,
谷内
の観音堂をも管理し、 一子口伝の秘密の祈祷を行うなど重要な立場にあった。
鹿角市史 第2巻 下
(0037)
図湯瀬家秘伝書…二二五第〓図不作覚書…二三五第〓図長福寺山門脇の万霊塔と側面文……二三【表】第1表宝永五年
谷内
村持高別百姓人数,…一五第2表宝永五年
谷内
村等級別反別・石高…五〓第3表寛延~文政
谷内
村藤助の貸金一覧……一六・第4表盛岡藩
鹿角市史 第5巻
(0562)
田代, たにないかみたおもてたにないしかわらたにないしたいたにないたなかタ、 ラ, 田中,
谷内
,,
谷内
上田表,
谷内
下タ川原,
谷内
下モ平, はたたけはなたかだたかねたかたまないしたてらやまたまないさわてんじんだてといしたたにないやちた,
谷内
谷地, 田の沢, 玉内, 玉内下, 寺山, 天神館, 樋の下, ときととちのきかわらとりいたいどうまえうえどう
鹿角市史資料編 第27集
(0053)
円都合申達別紙之通相達候条村町小前末々迄不洩様可令布告事辛未四月十日江刺縣花輪廳判両通郡長市長辛未四月廿九日拝見仕
谷内
村江立遣,申候此度別紙之通被相達候条村町小前末々迄不洩様可令布告事辛未四月十三日郡巨郡長花輪村久保田村尾去村大里村三ケ田村
谷内
村布告一知参事殿巡行之節諸事尋候儀
鹿角市史資料編 第29集
(0011)
弐百四拾壱本右之通御預申候處相違無御座候、 何時成共御沙汰次第御下ケ上納可仕候以上慶応四年二月農応四年二月大林御山守
谷内
村安市,〔高館御山守同村重右衛門○観音林御山守同村小兵衛○
谷内
肝入嘉之助○御銅山御日拂所覚一、 杉弐間六八角拾八本一
鹿角市史 第1巻
(0536)
と申候、 京郡鹿角長牛ニ遣サレ候子細は国人斗り罷有候ニ付秋田境目ニも候間後見トシテ南部紀伊守正友祖
谷内
弾正左衛門,せないためその後見役、 旗頭として送りこまれ、 それまでの館主成田・秋元・安保氏の地士を退去させた上で、
谷内
鹿角市史資料編 第31集
(0148)
其後一向何ノ沙汰無之故、 此度田山往来御普請奉行相蒙候間、 幸ノ事故小豆沢庄右衛門先立ニて九月三日
谷内
村,趣相断庄右衛門召連見分仕候所一杉上々壱本橋ノ右脇ニ有リ但壱丈壱尺廻余一同壱本御社内ノ山手墓所ニ有リ但壱丈壱尺右
谷内
観音堂,但壱丈壱尺上々一同所壱本なか所ノ後往来端ニ有リ但壱丈弐尺内一天狗四本の釣木ハ一古壱本弐番目一同壱本三番目但徳助釣木
谷内
観音堂
鹿角市史 第4巻
(0527)
大里の枝ムラが玉内と山田、 松館の枝ムラが黒沢などで、 地形によっては
谷内
のように永田、 根瀬など,大日堂舞楽に関係する大里・小豆沢・長嶺・
谷内
の四つの集落は信仰心による結合が強く、 大日堂舞楽の伝統,川部は大日堂舞楽の関係では長嶺・
谷内
との関係が深く、 葬祭にあたっては同じ地獄無尽仲間の野尻と相互に
鹿角市史資料編 第7集
(0078)
以七月七日
谷内
の助左衛門頼遣し此度玉井様江飛脚参候ニ付、 一筆奉啓上候。,一、 當御掴駒二才、 青毛
谷内
藤助乗金壱両弐歩一、 青毛長内善蔵事治兵衛乗金壱歩、 青毛同村已之助壱歩一,以上八月八日阿部藤右衛門横濱勝之助様酒代弐百文ニ而
谷内
ノ助右衛門頼遣此度御仲間参り候ニ付、 飛脚ヲ以一筆奉啓上候
鹿角市史 第3巻 下
(0288)
がすべて停止し休会となるなど、 地域経済は四苦八苦の混乱におちいった入正に入ると、 尾去沢、
谷内
,
谷内
市日は、 大正六年ごろから市日〓『宮川村郷土読本』に記している。,かくて町村の市日は、 二日毛馬内、 三日
谷内
、 四日尾去沢、 五日小坂、 八日花輪、 九日大湯
鹿角市史資料編 第27集
(0024)
一山田権知事様石川権少属様小山権少参事様木村様菊池事生様木本吏生様升渕様田中様佐藤様右之御役人様御出被遊午九月二日花輪町並在村々養老之者共江下ー賜り明治三年庚午九月二日甚五平扣書此時ハ庄屋ハ上下着甚五平扣書此杭
谷内
村,御座候間、 明廿一日未明拙宅迄無間違相詰〓申候以上八月廿日花輪庄屋所右拾壱ケ村庄屋中八月一日辰上刻
谷内
村
鹿角市史 第2巻 下
(0308)
1図古道・細野道略図路の跡を留めたものといわれ、 さらには湯瀬の板戸沢から八森の南側を越えて、
谷内
,)慶應元年(一八六五)七月六日の項に、 田山往来橋々が流失したので、 銅山仕送金飛脚案内のため「
谷内
村上
鹿角市史 第2巻 下
(0196)
毛馬内村、 瀬田石村、 万谷村、 草木村、 大欠村、 石野村(以上毛馬内通)、 松館村、
谷内
村,花輪通
谷内
村の分は、 『御検地名寄御帳』(阿部家文書)に次の検地役人が記されている。
鹿角市史資料編 第7集
(0003)
谷内
村は郡南における大村で、 大きくは御蔵入、 中野吉兵衛、 坂牛横濱領に分かれているので、,御検地水帳」も四冊あって然るべきであるが、 以上の二冊は、 代官所と中野家に保存されたものと思われるなお
谷内
,藤助家で管理したのは、
谷内
惣高七百四拾六石五斗壱升四合の内、 横濱家を始め御城下諸士の知行所で、,横濱家の知行所は
谷内
(含熊沢方面)三ケ田・大久保方面に散在し、 長内の根元善蔵、 甚五兵衛の三人が
鹿角市史 第2巻 上
(0394)
鹿角の刃物盛岡藩士横浜家の給所肝入であった
谷内
村阿部家の『旦那様案詞帳』に、 鹿角の鍛冶製品がしばしば,なお横浜家は高二七〇石、 花輪通では長内村に一三四石三斗六升四合、
谷内
村に八二石一升五合、 川辺村
鹿角市史 第4巻
(0720)
精進に入る日時は、 小豆沢十二月十五日、
谷内
十六日、 長嶺二十三日、 大里二十七日からとなっている,
谷内
の例では、 ある時お面つけの儀式の際に、 当時いささか権威のあった駐在巡査がひょっと御神箱をのぞいた
鹿角市史 第2巻 上
(0055)
として花輪城代に起用され、 かつ釆地として鹿角郡花輪村、 尾去村、 石鳥谷村、 三ケ田村、
谷内
村,大光寺喜太夫宛利直黒印状已上〓)七石爪郡鹿角花輪村弐千三百□七斗五升五合、 同神田松山村百四拾六石七斗六升八合、 同
谷内
村
鹿角市史 第4巻
(0865)
『鹿角方言集』の中では、
谷内
を中心とする旧長谷川村と、 小豆沢を中心とする旧宮麓村の語調やアクセント,の特徴に触れたり、
谷内
・小豆沢・花輪・
鹿角市史 第2巻 下
(0165)
文政三年(一八二〇)三月、 藤助は佐庄から二〇貫文を借入れ、 五貫文は
谷内
延命寺へ、 七貫文は
谷内
村百姓助二郎
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