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鹿角市/鹿角市デジタルアーカイブ

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鹿角市史 第1巻 (0235)

高高高平平小小四上源源源平山谷鳥一枯枯鹿泉泉鹿物物物物物物物上鳥野平元館〓源田平〓源田平〓源田平〓上寺野四ツ谷向向下下ツ寺鹿角市十和田錦木字上野平,〓〃十和田錦木字物見坂〓・〓・〓十和田錦木字物見坂〓・〓・〓4十和田錦木字泉森3・4のト〃十和田錦木字物見坂,5〃十和田錦木字物見坂〓〃十和田錦木字物見坂〓・〓の2・〓の5十和田錦木字物見坂1十和田錦木字物見坂1,十和田錦木字物見坂〓の3十和田錦木字枯草坂〓・〓十和田錦木字枯草坂〓・〓花輪字鹿角沢〓・〓十和田錦木字泉森,6・7の2・7の3・〓・〓〃十和田錦木字泉森9・〓・〓〃花輪字坂下〓・〓・〓・〓十和田錦木字枯草坂5十和田錦木字枯草坂
鹿角市史 第1巻 (0450)

ただ「錦木」「狭布の里」は本来陸奥国の歌枕として扱われるべきものと思われる。,例えば橘南谿『東遊記』後編に、 四七錦木として錦木の古跡は、 南部領と津軽領との境、 小湊と云う,と記され、 『東国名勝志』には「錦木塚は安佐虫、 小湊錦木塚の歌=遺錦木はたてなからこそ朽にけれけふの,いたつらにちつか朽にし錦木を猶こりすまに思ひたつかな藤原永實十載集錦木の千束にかきりなかりせは猶こりすまにたてまし,物を賀茂重保堀河院百首いはねとも思ひそめてき錦木のはひさす色に出やしなまし藤原仲實同錦木の千束の数は立
鹿角市史 第4巻 (0784)

錦木塚伝説の広がりこの伝説は古くから都にも伝わっていたらしく、 和歌の題材である歌枕の一つとして、,錦木は平安歌人の歌にもよく取り上げられた。,また室町時代の能作者・世阿弥の作とされる謡曲『錦木』は、 旅の僧が細布を持つ女と錦木をかかえた男の霊,江戸期には錦木が恋文と同義語となり、 その文例集が『錦木』と名づけられるなど、 この伝説は大きな広,第3図錦木塚
鹿角市史 第1巻 (0663)

三、 諸寺と信仰錦木山観音寺遺品とされる茶釜(円福寺蔵)〓観音信仰と諸寺普通にただ観音と言うときは、,巾内の観音堂の中で、 中世以前からあったと思われるものは、 錦木・昔名沢・大里・谷内などである。,)の内、 錦木の観音堂は錦木山観音寺と号し、 今ではその跡地も明確ではないが、 伝説の寺として注目,錦木山観音寺縁起は『奥州狭郡錦木山観音寺縁起』と、 菅江真澄の記した『けふのせばのの』所収の『錦不山観音寺由来記,内容そのものは後世に作られた創建縁起であるが、 中世における錦木山観音寺の存
鹿角市史 第1巻 (0234)

1十和田草木字丸館〓の1・2・〓十和田草木字丸館〓十和田草木字丸館下〓の1十和田草木字丸館下7十和田錦木字野中平,〓十和田錦木字野中平〓の1・〓・〓〓の1・〓の1・〓十和田錦木字申ケ野〓・〓・〓・〓・〓・〓・〓十和田錦木字申,ケ野4・3花輪字鉄鉋平〓・〓〃花輪字鉄鉋平〓・〓十和田錦木字下屋布〓・〓・〓十和田錦木字下屋布〓・〓・,〓・〓・〓・〓・〓・〓十和田錦木字稲荷平〓・〓・〓・〓・〓・〓十和田錦木字稲荷平〓・〓・〓・〓・〓・〓,・〓・〓〃花輪字鹿角沢〓の2〃十和田錦木字大畑〓の1十和田錦木字大畑4土師器片土師器土師器片土師器片古代
鹿角市史 第4巻 (0783)

なおここで言う錦木とは、 五種類の木の枝を束ねたもので仲人木ともよばれ、 縁組に用いられたと伝んられる,毎日毎日、 男は姫の門の前へ錦木を立てた。,若者は雨の降る日も風の吹く日も、 雪の降る日も一日も休まず錦木を立てた。,しかし錦木は一回も中へは入れられず三年もの間ただ増えるばかりだった。,その墓のことを錦木塚といっている。
鹿角市史 第2巻 下 (0540)

盛岡を再訪し、 領内各地を行脚しつつ滞留すること四年に及んだというから、 寛政二、 三年の頃に錦木塚,錦木集』の初めには、 前記の黒沢其石の歌句帳と幾つか共通の作品が載せられている。,『錦木集』のみに載る地元俳人の句では為憲にしき木や巣ごもる鴦も其辺り錦埜毛布里一陽軒北川蝶ふたつぬるもゆかしき,や苗代水のうすにこり東部去来庵宗藷錦木や苗代水のうすにこり東部去来庵宗讃よもすら機織むしや塚の上温故斎其麿,やひと夜は月の秋をなく盛岡平色錦木の細布見はや雪の宿秋田ほそ道や何とて虫のかく鳴を壺中庵東
鹿角市史 第2巻 下 (0528)

本章「鹿角の学問」の項に述べたごとく、 『錦木山観音寺縁起に併せ綴じられた無表題の錦木塚歌句帳高橋家文書,いろいろ立派な歌集などのあるなかで「まして名にし負ふけふの錦木尋来て詩歌連俳をうたふ人々あまたならむに,」、 それをまとめることもなく失い去るのは悲しいことだという慨嘆のなかからも、 錦木塚を訪れる人の,そしてこの冊子を編もうとするのは「細布ヲ織なす宿のあるしにして」と、 古川村に住む錦木塚別当黒沢其石,を見て」とし秋は猶色にそ出て錦木のつかのむかしをしのふ紅葉葉円将易
鹿角市史 第2巻 下 (0532)

題錦木古墳鹿角郡原夏艸薫米川波浪五宮雲唯看奇石青松種千載感人錦木墳東都劉文錦樹墳懐古狭郡行尋錦樹林古墳蕭瑟碧苔深村翁為説當年事片石無文傷客心観魚亭主,これは伊藤為憲の『錦木集』序文に「此里の縣のつかさ野沢何かしのぬし大沢氏なる人をともなひ来りて岩手の里,の人々らのよめるやまと歌十くさなり七くさしるしたるつかねふミといへる冊子とりたして此錦木の集に加へてともに,朽セぬものの数にかき入れよといへり」と記されている一七首である錦木のたちし世とへは塚の原むしもはた織音,をやそふらん藤枝道恒世々をへて綾なき色も錦木のなにや立らんけふの細布毛馬内次全もみちする秋にし見れはにしきゝの
鹿角市史 第2巻 下 (0531)

つもりこし年も千束にふりぬらん其にしきゝ名にたてしより東政智名にやたつ其錦木のつかね緒もとけぬ思ひの幾世,つもりて高田康英胸あわぬためしもかなし細布のたつ錦木に名はのこれとも菊池立徳ほかに和歌は源顕良、 栄染,こと問はん錦木塚の玉かしは苔のふりにし昔語りをおりを得てきて見るけふの狭衣もむねあわされハとくるまもなー,錦木集文化右の黒沢其石の歌句帳と殆ど同時期と思われるものに『錦木集』)がある。,「錦木集』に載る漢詩には前記の外、 老僧小野奥、 東都劉文州、 玉山秀典、 松尾資月、 長安巍
鹿角市史 第1巻 (0226)

十和田瀬田石字中野平〃十和田瀬田石字中野平〃十和田瀬田石字上野平〃十和田瀬田石字白坂〃十和田毛馬内字古下〓のイ十和田錦木字物見坂,〓・〓・〓十和田錦木字泉森3・4の1〃十和田字物見坂5〃十和田錦木字大畑4十和田錦木字野中平〓~〓・〓,~〓十和田錦木字申ケ野〓の1・〓の2十和田錦木字申ケ野十和田錦木字申ケ野2〃花輪字笹花〓十和田草木字丸館
鹿角市史 第3巻 上 (0116)

曲田慶吉同じく一七年に組合役場となった錦木村、 末広村について『錦木村郷土史』〓)には次のようにある,池田金次郎黒沢藤次郎賀川祐五郎石川伊八玉井辰五郎黒沢覚平沢田仁右衛門大森慶作青山孫右衛門立山嘉助米沢長助柳沢喜代助田子嘉八村木長太郎高橋直治板橋勘作同じく一七年に組合役場となった錦木村,、 末広村について『錦木村郷土史』昭和五年錦木村議員(八名)末広村議員(八名)連合村会議員(六名)賀川祐五郎玉井辰五郎黒沢覚平板橋勘作柳沢喜代助青山孫右衛門戸長駒
鹿角市史 第2巻 下 (0526)

〓詩歌狭布の里鹿角は古くから陸奥国の歌枕の地として知られ、 平安このかた歌人たちによって「錦木」「けふの,文化二年(一八〇五)、 毛馬内馬渕里夕のまとめた『錦木集』に古歌一七首があげられている。,そのうち数首をかかげると後拾遺錦木は立なからこそ朽にけれけふの細布胸合じとや能因法師袖中抄思ひかねけふ,立初る錦木の千束にたらで逢よしも哉大江匡尾六百番錦木の千束の数もけふミちてけふの細布胸や逢ふへき俊成卿新拾遺
鹿角市史 第3巻 上 (0145)

○第二大区七小区錦木村地籍調日課表九年四月天気改正反別人員十一日晴五反五畝歩九十三人十二日雨小田切三十三人十三日雨同三十三人十四日晴五町五畝歩九十二人十五日雨五町七畝歩九十二人小計晴三日雨三日十五町一反七畝歩四百六人十六日,ヨリ二十日マデ小計晴五日二十五町五反五畝十歩八百二十三人明治九年四月二十一日錦木村伍長総代岩泉達誌地租改正係佐川陽之助殿各村々,当時の錦木村は、 米代川左岸一帯の末広村一)と右岸の室田村を除いた、 残りの地域で村を称すあった。,その錦木村の地租改正時の耕地反別は、 田反別二三一町二反二七歩、 畑一四〇町九反九畝九歩で、 宅拙反別,は一八町九反五歩であった(曲田慶吉『錦木村郷土史』)から、 一村だけでも多くの日数と人員を要したことであろう
鹿角市史 第2巻 下 (0527)

ほかに「錦木」「細布」を歌枕として歌いこめた和歌の数は多く、 『詞花集』『堀川院御時百首和歌』『久安六年御百首,橘南谿『東遊記』や『東国名勝志』に、 錦木の古跡は小湊(青森県平内町)に在りとし、 『伊達郡誌』には,、 錦木伊達郡鹿角市史第一巻・塚()はもとの森江野村大字塚野目字錦塚であると記している)。,また幕府巡見使は鹿角郡に入って必ず錦木塚に休息し、 古川村黒沢氏より塚の伝承を物語らせ細布の献上を受,このことは、 近世に入り「錦木」「狭布の里」の歌枕の地として、 鹿角郡をその擬定地とすることが既に
鹿角市史 第2巻 下 (0033)

月嶺の門下たち、 狩野派の人々、 彫刻=地方仏師たち二、 文芸四八一〓詩歌四八十狭布の里、 錦木塚歌句帳,、 錦木集〓俳諧四九一初期の俳諧、 市中庵句帳、 中央への登壇、 黒沢其石歌句帳、 錦木集、
鹿角市史 第2巻 下 (0539)

寛政九年盛岡に入った加賀の松井(十方庵二世)、 素郷門の千載亭萬戸天明二・八年に来盛田鎖同左〓)等の錦木塚来訪,錦木集黒沢其石の歌句帳と相前後する、 馬渕里夕の書画帳『錦木集』にも多くの俳句が書き残されている。,「こし路してふみ見し人のなき魂や思へはあらず白魚と生れん、 かゝる鴨長明が風流をしたひてこゝの錦木,重厚なる行脚此塚を慕ひ、 松林亭にやとりぬ、 あるし昔今の物語をそなしたるそか中に、 名たゝる錦木,すさひをも永く染木のいろとりにそへんこといかてくるしからましなといへる、 さらハ一の冊子ものせよとてやかて錦木集
鹿角市史 第4巻 (0066)

柴内の八郎太郎ほか、 八郎太郎伝説の背景二だんぶり長者…六九七だんぶり長者伝説、 長者伝説の背景三錦木塚,…六九4錦木塚伝説、 錦木塚伝説の広がり四鉱山伝説…七〇一光る怪鳥、 鉱山発見伝説五マタギ伝説……
鹿角市史 第2巻 下 (0529)

将易の和歌と並んで秋の日錦木塚をたつねて錦木の朽てくちセす幾秋かあわれ色そふ塚の紅葉々秀おなしき日細布,蟀使人愁涙川一雨柳條新錦塚青苔愁殺人昔日幽婚偕老契花開花落為誰春片石苔深緑字生春花秋葉以含情錦機音絶人何在路上唯聞松栢聲毛馬澤賀為憲古川の邊りなる錦木塚,の昔をしのひてむかしたれ千束を立し錦木の里の處女に問ふよしも哉為出けふの細布のこころを石の上ふるきさぬのゝほとせはみあわぬむかしを
鹿角市史資料編 第3集 (0044)

奉行田口民人仰の由、 同村請太郎来り訴へニ対し記者其非理を破ルの対策をさつけ遣しの一件を拡畧嵐の前其二玉井家錦木平開懇帳,天保二卯年三月御領内錦木平御境書覚帳古川村御領内錦木平御境書覚帳古川村覚又四郎地一、 高弐斗八升又四郎地御領内古川村錦木平開発願上候,御見分之上村方御差支之筋有之候哉、 御役高之外於こし目ニても有之候哉と御沙汰ニ付、 各々様〓御答奉申上候一、 古川村錦木平地境之儀,サ二枚古川村鍋助作子仕、 外空地ニて罷有候、 毛馬内御給人勝又善左エ門様之内庄助持地并堰切、 錦木村己野屋敷居垣并堰限,有之候作子五郎助一、 三人役右場所墓所の下モ用水堰東方之方ニ有之候卯四月弁助御拂地一、 小長サ三枚右場所錦木村己野家之後口
鹿角市史 第5巻 (0469)

11濁川御番所(勝又真三家文書)濁川出陣日記 諏訪內右衛門錦木 菅江真澄2上424 2下269 ·,; 493 4766 · 767錦木集錦木村郷土史 曲田慶吉47011613 47652下427,#183; 5002下3362下571 · 572 · 576 · 606錦木,(謡曲) 世阿弥錦木山観音寺由来記1334 3上56 · 57· 86 ·,; 115· 117 3下373 · 441 ·788錦木塚歌句帳(高橋
鹿角市史 第2巻 下 (0542)

文化三年(一八〇六)、 錦木塚別当黒沢其石が錦木塚の祭礼に詩歌連諧を集めて手向けようとして近隣の俳人,錦木や顕れ出て舞ふ胡蝶(錦木塚と題し)素郷飛ほたる下駄の歯丈に汐のさす鹿角東崎
鹿角市史 第2巻 下 (0534)

〓木塚南部鹿角郡蜀漆村、 いにしへは此里にて錦木を立てたるよし。,里より十四、 五丁隔て錦木塚有り猫の恋錦木もなし夕間暮狭細布同郡古川と云ふところ、 狭の細布の里也,名を知られていた五明は『松島象潟紀行』(仮称)によると、 七月一七日扇田を出て十二所、 松山から錦木塚,花輪へ弐里半是より半道斗新出の方へ行って錦木塚あり湯瀬へ弐里止宿市之助何化して此の古塚や赤とんぼ捨てある
鹿角市史 第3巻 上 (0698)

ここ錦木塚、 その命令の音なき声ひびきわたり、 一鹿角の国を憶ふ歌」は、 三九年『明星』第一号に,五音と七音の連続による五四行の長詩で、 錦木塚にだんぶり長者の二伝説を重ね、 十和田湖と大日堂の描写,さきに未宗に終った「錦木塚」に代えて、 さらに詩想を鹿角全域に広げたという趣きである。,-今も猶、 錦木塚の大公孫樹、 月良き夜は夜な〳〵に、 夏も黄金の葉と変り、 代々に伝へて、
鹿角市史 第4巻 (0847)

真澄は錦木塚の伝説に興味を示し、 古歌を引用しながら詳しく書き留めており、 錦木を束ねて門垣に立てた,さらに大里村で『錦木山観音寺由来記』を写している。,古川といふ村につきて、 錦木塚と聞しやあると尋れば、 稲かる女田の中に立て、 かりあげたる田の面,世にいふ錦木とは、 この大どもわきて色よく紅葉すれば、 うべいふにやあらん。
鹿角市史資料編 第16集 (0029)

、 山中より大湯村迄三里拾五丁程一、 大湯村より毛馬内迄壱里廿丁程一、 毛馬内町より錦木塚迄拾六丁程但狭布細布織出候覚平,錦木塚より二丁程離れ居申候。,一、 錦木塚より花輪通神田迄九丁程一、 神田村より毛馬内通松山迄三拾弐丁程一、 松山より尾去澤御銅山迄二里程一
鹿角市史 第3巻 上 (0144)

反別十六町四反五畝五歩人員四百五十人右ハ三月十七日より三十一日まで取調高右之通り相違無御座候已上明治九年四月錦木村伍長総代荒川八右衛門地租改正係佐川陽之助殿,この書上明四月十五日豊口太郎殿江相渡候也○第二大区七小区錦木村地籍調日課表九年四月天気改正反別人員日晴小田切五十四人二日同三町六畝七歩七十人二日同三町五反十五歩七十人四日同三町五反八畝二十歩七十人五日同四町六畝十五歩七十人小計晴五日十四町二反一畝二十七歩三百三十四人六日,ヨリ十日マデ小計晴四日半晴一日三十五町二反六畝二十五歩六百八十四人明治九年四月十一日錦木村伍長総代荒川八右衛門地租改正係佐川陽之助殿
鹿角市史資料編 第16集 (0033)

錦木塚より弐丁程御座候。 一、 稲荷社右は古川村鎮守錦木平西ノ脇ニ御座候。,一、 錦木塚右は往来道右之方此処ニ御立場御座候。 毛馬内より十六七丁程御座候。,一、 平内坂と申話右は錦木塚より三丁程御座候。
鹿角市史 第3巻 上 (0697)

この『あこがれ』のなかに、 前年の三七年『明星』二月号に発表した長詩「錦木塚」が収載されていた。,「錦木塚」が鹿角に伝わる悲恋の伝説に想を得たことは、 「明星」発表のときの次の後書でも明らかである。,秋田県鹿角郡、 花輪より小坂に至る途上、 毛馬内の南十町許にして路傍に錦木塚あり。,略錦木塚」は、 にしき木の巻、 のろひ矢の巻(長の子の歌)、 浚の音の巻(政子の歌)の三章、
鹿角市史 第1巻 (0451)

また『伊達郡誌』に「錦木塚(伊達郡国見町)。,もとの森江野村大字塚野目字錦塚、 林の中に円丘、 かつて発掘し古鏡を得たという」とし、 鹿角錦木塚,ゆつりわたすつかるはなわのこほりけんかしましりひきのかうかたのへんのかうならひにえそのさたぬかのふうそりのかう(以下略)」とある傍点の部分を『青森県史』では「えそのさた」とし、 『岩錦木塚
鹿角市史 第4巻 (0849)

までの様子は『おらがの滝』にまとめられ、 『錦木』は絵が主で日記の部分は少ない。,『錦木』は真澄が書き残しておいたものを後に集めて一冊にまとめたものといわれ、 全部で五十九枚の冊子である,内容は錦木塚・にしき木・松の木の石雄元の祠などで、 七月一日に月山神社に詣でた記録もある。,そのほか錦木塚伝説に関する、 他の人々が作った詩歌も記されている。
鹿角市史 第2巻 上 (0456)

錦木細布二反御急用ニ而御屋敷より仰付けられ候指急ギ織上候様成られ可く候。,○天明五年一、 此節旦那様江錦木細布二反差上申候。,但し権之助持参ニ而、 当年御巡見御通行ニ付錦木細布前々通用意置可申候四月申ノ三月十四日毛馬内御役屋より
鹿角市史 第1巻 (0453)

九月四日「大湯村より南一里二十町に錦木塚というあり、 御巡見所なり。,巡見使の旅程、 巡路は古例にしたがって定められており、 巡見使通行の度ごとに錦木塚に巡見所が設けられ,、 公式行事として古川村黒沢兵之丞が錦木塚・狭布の里の由来を一巻の巻物にしたがって申し上げ、 持ち,この一事をもっても、 他に何カ処かある陸奥の歌枕錦木塚・狭布の里のなかで、 いわば此処が広く知られた
鹿角市史 第2巻 下 (0467)

えて鹿角は、 「錦木」「けふの細布」など歌枕の地であった。,『奥州狭郡錦木山観音寺縁記』高橋家所蔵本)に併せ綴じられた無表題の錦木塚歌句帳に、 「寛政八の秋七月東都,この特色は『錦木集』()にもあらわれ、 東武去来庵、 行脚爪坊、 加州小松行脚十方庵、 越中県立図書館蔵
鹿角市史 第2巻 下 (0537)

中〳〵に折れ残る芦は物憂けれ錦木墳牲北川野路山路あからさまなり冬の月花輪五峯山見俵巨燵出て折〳〵月はおもしろき,北川は一陽軒の号、 錦木墳禁禁はふもとの意)と志』あるから錦木塚の近くか毛馬内の住、 可交についての,黒沢其石歌句帳〓項の冒頭にあげた「錦木山観音寺縁起」に綴られた歌句帳を、 ここでは黒沢其石歌句帳とよぶことにしたい
鹿角市史 第2巻 下 (0530)

後年為憲は『鹿角縁起』「秋田叢書第八巻収載を著わしたが、 その四分の一程の分量を割いて錦木塚にかかわる,錦樹懐古古丘秋色惨斜暉此地千年物総違草邑路荒霊跡滅狭家人去旧原非空憐〓蟀吟孤塚己恨鴛鴦隔一磯縦是先蹤尋埜老寒林唯有宿鴉飛毛馬澤泉貞毛馬澤泉貞直錦木懐古西風孤塚巳黄昏此地星霜草木繁惟見林間奇石在可憐丘上老杉存谷荒松桂啼鵙罷秋冷涙川落葉翻佇立為懐千古事凄涼前,錦木もたか世にたてゝおきつかのあわれなりにし名を残すらん三輪表秀
鹿角市史 第1巻 (0384)

第三章古代の鹿角こ上物遺構が野産なものは、 石野ニ結事坂三光塚の三カ所であ枯草坂古墳については「錦木村郷土史,それによると、 佐藤定吉氏(鹿角市十和田錦木)が白営のりんご園から、 明治三十四年十二月中旬、
鹿角市史 第5巻 (0516)

ナンコカヤキ南部表鎮撫行政司庁南鹿争議南鹿電気二贄の栅ニオ荷車 · 荷馬車濁川街道濁川番所錦木鬼太鼓錦木史跡保存会錦木塚錦木塚伝説錦木山観音寺
鹿角市史 第1巻 (0449)

三十六歌仙の人能因法師(九九八~一〇五〇)の歌に「錦木はたてなからこそ朽にけれけふの細布むねあはしとや,」(『後拾遺和歌集』)とあるように、 平安歌人によって「錦木」「けふの細布」「狭布の里」などが数多くの,能因歌枕』にいわゆる歌枕としてあげられている数は陸奥国四十二ヶ所、 出羽国十九ヶ所で、 その中に錦木
鹿角市史 第2巻 下 (0533)

のかいのこしたりけるふみにそのいにしへを偲ひはた此としちとせふりもゝとせのとふらひとてくし手酬は歌もてなき魂にそなふと聞て錦木,この時の真澄の紀行『にしきぎ』(仮題(『菅江真澄全集』第四巻所収)には自詠のものがなく、 この錦木集,東都劉文州の詩や、 三輪表秀以下の和歌七首、 および三輪穂さきの長歌などが写し載せられているので、 『錦木集
鹿角市史 第2巻 上 (0441)

始め、 白根・尾去沢鉱山発見に因んだ和銅年間の産金・産銅伝説や、 歌枕の地として「けふの細布」「錦木,」の故事に彩られた錦木塚伝説などが、 古代の息吹を今なお伝えている。,このことについて『旧蹟遺聞』「錦木塚」の項には次のように記されている。
鹿角市史 第4巻 (0961)

菅江真澄の写生「錦木塚
鹿角市史 第4巻 (0002)

寄贈菅江真澄の写生「錦木塚
鹿角市史 第3巻 下 (0425)

明治四二年秋田師範学校を卒業し、 切石小学校長から花輪・小坂小学校の首席訓導として活躍し、 昭和四年錦木小学校長,在職中『錦木村郷土史』『鹿角郷土誌』』『伝説の鹿角』を著作し鹿角郷土教育の第一人者となった。,昭和五年九月の東伏見宮大妃殿下の御成りに際しては、 錦木塚伝説を御説明申し上げる栄を担っている。
鹿角市史 第3巻 下 (0758)

花輪宝生会、 花輪円徳会とも恒例の文化祭には、 花輪公民館において「謡曲の会」の合同公演を行い、 また錦木塚祭,り」にはともに塚前に謡曲「錦木」を奉納している。,錦木塚能楽堂建設は共通の大願である
鹿角市史 第5巻 (0374)

小額通貨廃止同自衛権所有 · 自衛隊合憲の統一見解が出た鹿角角関係事事項出 典毛馬内·錦木,九·二二郡北、 毛馬内·大湯·錦木·七滝四町村による鹿角タイムス,一〇·一一毛馬内·大湯·錦木·七滝四町村の合併促進協議同同会を
鹿角市史 第3巻 上 (0177)

第一章明治の移り変わり第〓表明治期における町村長柴平村長毛馬内町長錦木村長
鹿角市史 第3巻 下 (0011)

稲村橋(花輪)橋と鉄橋湯瀬溪谷を渡る鉄橋一ノ渡橋(小豆沢)神田橋(錦木-遠方に鉄橋がみえる-
鹿角市史 第3巻 上 (0356)

大湯諏訪貞治同漣斑プリマスロック花輪奈良仁七同淡色プリマ同三ケ田直治同黒色ミノルカ同南部康保同褐色レグホン錦木田子和右衛門同黒色,なお錦木村の褐色レグホンは、 錦木村養鶏組合が種類統一を行なった結果として、
鹿角市史 第3巻 下 (0583)

ての一月一八日、 毛馬内町、 錦木村、 七滝村は、 それぞれの町村議会において合併決議をあげたが,その直後の二月一日、 大湯町を除く三カ町村合併の線で、 毛馬内町・錦木村の連署をもってその旨を七滝村,同二月一八日、 協議中の毛馬内・錦木側委員に対し、 七滝側委員から、 七滝村は未だ円満な分割合併
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