鹿角市のできごと

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1 BC5000年 鹿角市内における縄文早期の資料はきわめて少ない。早期に属する遺構は現在確認されていない。
○大地平遺跡(宮麓地区)
 早期後半の赤御堂式の土器片が出土し、不定形石器が伴出した。
○上葛岡遺跡(宮麓地区)
 赤御堂式に比定できる土器片のほかに、この時期の特徴である尖底深鉢形土器一点が出土している。
○この他出土地点は確認できないものの、大場環状列石周辺から採集された尖底土器底部一点がある。
この時期の住居は、草創期以来の洞穴住居や簡単な小屋掛程度の住居をへて次第に竪穴式住居を作って住むようになった。しかしまだ住居内に炉を設けるまでには至っていなかった。
鹿角市史 第1巻 p233
2 BC3500年 前期の遺跡や遺物包含地は三〇カ所以上をかぞえているが、その多くは中期・後期との複合遺跡である。土器は概ね円筒下層式を主とし大木系の土器もまじっている。昭和二九年に発掘調査された清水向遺跡は、本県において初めて完掘された縄文前期の竪穴住居跡という、記念すべき遺跡として知られる。 鹿角市史 第1巻 p238
3 BC3500年 ○清水向遺跡(宮麓地区)
 住居跡は、直径四・四メートルのほぼ円形をなし、柱穴は四ケ、中央に石囲い炉があり、周圍に周溝がめぐっている。遺物は円筒下層d式がおもで、なかに一点の吹浦(ふくら)式土器がまじっているという。山形県遊佐町吹浦遺跡を標式とするこの土器の出土により、鹿角地方と日本海沿岸との交流を想定できる貴重な手がかりになるかもしれない。
鹿角市史 第1巻 p238
4 BC3500年 ○上山田遺跡(宮麓地区)
 湯瀬渓谷左岸にあり、円筒下層d式土器を出土した。
5 BC3500年 ほかに前期遺物の出土地を、本市遺跡地名表によって見れば、大湯古館、同和町、同長根外レ、瀬田石茂谷山麓、同狐平、同外ノ沢、同中野平、同上野平、草木丸館表、同丸館下、花輪新斗米館、同万谷野、同高市向、同天戸森、八幡平清水向、同浦田、同新城、同上沢、同水沢などで、それぞれに生活の跡を残している。
6 BC2500年 市内の中期遺跡は、北部における黒森山麓竪穴住居跡と、中央部花輪天戸森遺跡から玉内・大里の台地を歌内川が東西に区切る辺りの歌内遺跡に至るまで、広範に分布している。
 出土遺物の特異性としては、本来この地域が円筒土器文化圏のなかにありながら、予想を越えて大木式土器が多く出土したことである。宮城県の大木囲貝塚に由来する大木式土器が、この地域で円筒土器と濃密に混在していることは、この時期ここで二つの異質な文化相が交叉し交流していたことにほかならない。
鹿角市史 第1巻 p241
7 BC2500年 ○黒森山遺跡(大湯地区)
 第三号竪穴住居跡は直径約五・五メートルの円形、南東よりに石囲炉をもつ。第四号竪穴式住居跡は径八~九メートルの楕円形で、南側に石囲炉がある。この二つの住居跡で注目されることは、第三号竪穴には炉の脇に長さ三五センチ・直径一〇センチの石棒の立石があったこと、第四号竪穴には長柱状の河原石が横だおれになっていてその回りの状況から立石であったとみられることである。ほかにも石棒状の破片が複数出土し、もしそれが破壊された他の竪穴にあった石棒とすれば、この竪穴群は石棒を立石として具えた特殊な竪穴群といわざるを得ない。
 ほかに小規模な二組の環状列石と配石を伴う土壙も検出された。
鹿角市史 第1巻 p241
8 BC2500年 このほかおもな中期遺跡として大湯下タ屋布、同堤尻、同沢尻、同長根外レ、瀬田石狐平、宇草木、花輪蛇沢、末広上ノ野、花輪古館、同館神、同八幡館、同万谷野、同谷地中、同陣場、八幡平清水向、同竹鼻、同下鷲ノ巣、同大地平、同浦田、同新城、同鳥居平等があげられる。
9 BC2500年 ◯天戸森遺跡(花輪地区)
 標高約一四〇メートルの河岸段丘上にあって、縄文中期を主とする竪穴住居跡一四〇軒、屋外炉七基、配石遺構二一基、土壙一〇三基など、ほかに多数の土器・石器が出土した。これら殆どが大木8a―10式、円筒上層e式のもので、中期遺跡としては本県の最大クラスに位置づけられる。
 なかでも注目されるのは一〇軒以上確認された大型住居跡の存在である。その一つは長さ一六・六メートル、幅八・七四メートルで南北に長く、楕円形、床面積一一八・〇九平方メートル、柱穴は左右対称一四個に南北各一個をかぞえ、炉は南北の中軸線上に三基ある。このような大型住居は当時の集会場や共同作業場と思われ、集落の集団生活に大きな役割を果していた。さらに配石遺構が二一基確認され、土壙を有する九基はほぼ配石墓とみられ、他は祭祀的な機能をもつものと考えられる。
 また本遺跡出土の完形土器内から採取した黒土の花粉分析から、その植生は木本種ではブナ属、コナラ亜属、オニグルミ属、ハンノキ属、スギ属、クリ属、トチノキ属、草木種ではイネ科、キク亜科、ヨモギ属が多いという。すなわち落葉広葉樹が優勢で針葉樹の少ないことから気候はかなり温暖であったこと、当時の食生活がこれらの広葉樹の果実と草木種に大きく依存していたことなどがわかる。
10 BC2500年 ○歌内遺跡 (宮麓地区)
○北の林遺跡(同   )
○飛鳥平遺跡(同   )
○上葛岡遺跡(同   )
○猿ケ平遺跡(花輪地区)
 右の遺跡はいずれも昭和五四年以降東北自動車道関連調査によったもので、本市の中期遺跡の解明はこれら一連の調査を通じて著しく進展したといわれる。八幡平地区の各遺跡は歌内川以北の大里・玉内の後背台地にあって、殆んど平安時代住居跡との複合遺跡である。竪穴住居跡は概ね円形プランで、石組炉・複式炉が多い。出土する土器は円筒上層式、大木式であり、住居跡の数に比しいわゆるフラスコ状ピット、Tピットが数多く検出された。上葛岡Ⅱ遺跡の第一号竪穴住居跡は内部に立石を伴う住居跡として報告されている点にも注目したい。
11 BC1800年 縄文後期の遺跡は、特別史跡大湯環状列石によって代表される。この時期を特徴づける土器は当初大湯式土器とよばれ、磨消縄文や沈線文による優美な幾何学文、曲線文などの文様と、細口壷や特異な片口土器の多出によって、編年における標式的位置を与えられていた。しかし型式内容が断片的で、不明確な部分が多かったため、加曽利BⅠ式併行とか堀之内Ⅱ式併行とされ、いまは弘前市十腰内遺跡の十腰内式に編年を求められることが多い。
12 BC1800年 ○大湯環状列石(大湯地区)
 二つの環状列石は約九〇メートルの距離を隔てながら、その構造はきわめてよく似ている。その規模は外周直径が野中堂約四二メートル、万座約四八メートル、いずれも一〇〇基をこえる組石遺構が二重の環状に配置され、その内帯・外帯の間ともにほぼ西三三度北(夏至日没線)の位置に日時計状特殊組石一基ずつが築かれている。これら環状列石を形づくる数千個の石がほとんど石英閃緑〓岩に統一されていることも、この遺跡の性格を解明する上でだいじな要素の一つであると考えられている。
 最近の調査により万座環状列石をその内部組石と対応関係をもつ多くの掘立柱建物がとりまいていることが確認された。さらにその北側から南東の隣接地における一〇基の環状配石遺構、一〇数条におよぶ配石列の存在などが、ますますの論議をよんでいる。この遺跡が配石墓群であれ、祭祀遺構や集会場であれ、いずれ数百年の年月にわたり幾世代も継続して造りあげてきたもので、その意志を持続させるほどの社会体制なり信仰形態はどんなものであったろうか。その衣・食・住生活の実態をふくめ多くの課題を解く手がかりを包蔵した貴重な遺跡である。
13 BC1800年 ○高屋館跡遺跡(花輪地区)
 西山地区農免道路整備にかかわる遺跡調査によって明らかとなった、環状列石を主体として遺跡である。調査区は台地上の緩い傾斜地で、過去の土木工事や耕作による撹乱が地山にまで及んでいた。その中から配石遺構九基、立石六基、掘立柱建物跡二六棟、柱穴様ピット一三五基、土坑一二六基、フラスコ状土坑五基その他が確認され、遺物は大部分縄文時代後期前葉のもので、土器・石器・石製品など大湯環状列石の出土品とまったくといってよいほど共通していた。
 とくにその配石遺構と墓壙、それと対応する掘立柱建物群が四本柱二棟、六本柱二四棟、合計二六棟が確かめられた。これらは大湯万座環状列石を囲む建物群と同様な配置を示しており、大湯環状列石の性格解明に有力な傍証を提供することとなった。
 後期遺跡の発掘調査は、多く東北縦貫自動車道の事前調査として行われた。
14 BC1800年 ○居熊井遺跡(宮麓地区)
○飛鳥平遺跡(同   )
○案内遺跡 (花輪地区)
○猿ケ平遺跡(同   )
○草木小坂遺跡(草木地区)
15 BC1800年 またおもな遺物包含地として大湯黒森山麓、毛馬内湯坂、岡田竹林、大湯関上館、同狐崎、同堤尻、同和町、同大谷地開拓、同上屋布、草木堤頭、瀬田石門ノ沢、錦木物見坂、同野中平、草木丸館表、同松舟、同保田、同崩原、花輪本苗代、末広上ノ野、同戸羽ノ沢、同板橋、平元源田平、柴内高沢、同餅野、同宮ノ平、同乳牛、花輪陣場、同古館、同産土神、尾去沢六角平、八幡平浦田、同新城、同玉内の各地区がある。
16 BC800年 縄文晩期は、いわゆる亀ケ岡式土器に代表され、縄文文化のもっとも成熟した段階の亀ケ岡式土器文化圏を形成していた。その遺物は市内各地から採集されているが、本格的な発掘調査は縦貫自動車道遺跡の調査をまたねばならなかった。そのなかで、昭和三〇年代に明らかになった玉内遺跡配石遺構の存在は、この地域にひときわ光彩を放つストンサークルの変遷を考える上できわめて重要な意味をもつものであった。
17 BC800年 ほかにおもな遺物包含地として大湯内野、同狐崎、瀬川石白坂、毛馬内古下、錦木泉森、同申ケ野、平元笹花、草木小坂、同丸館下、同丸館表、花輪高屋、末広板橋、柴内万谷野、平元海谷地、柴内西町、同乳牛平、花輪国有林苗畑、柴内谷地中、同水ノ目、花輪案内、同陣場、同産土神、尾去沢前門川端、八幡平上葛岡、同二ツ森などが知られている。
18 BC300年 北東北縄文時代の終末期は、ことにゆるやかな進歩の過程をたどり、独自な文化を継続しながら徐々に弥生文化へつながっていく。この地方に弥生文化の及ぶのは、ほぼ一世紀ごろといわれ、その先駆は稲作と鉄器であった。例えば稲作が本州北端に紀元一―二世紀に波及したとはいっても、それは一様でなく水利や気象の関係でいちじるしく地域差を生む。鹿角に稲作が営まれるようになったのがいつのことだったかは、まだ特定できない。わずかに小坂町から穂摘具である石包丁の一部が出土しているのみである。
19 BC300年 市内における弥生時代の単一遺跡は発見されておらず、ほとんど複合遺跡である。そのおもなものは
○湯瀬館遺跡(宮麓地区)
○大地平遺跡(同   )
○上葛岡遺跡(同   )
○猿ケ平遺跡(花輪地区)
○新斗米館遺跡(平元地区)
20 BC300年 また弥生(続縄文)土器を出土する地区としては、大湯壁掘平、同下タ屋布、同関上、山根土手ノ上、同坂ノ上、毛馬内冷水、同蟹沢、毛馬内寺ノ上、同山田上ノ岱、草木保田、同丸館表、錦木枯草坂、末広上ノ野、花輪高屋、平元源田平、同八幡平、同新斗米、柴内万谷野、同餅野、同西町万松寺、同妻の神、花輪陣場、同案内、同赤坂、尾去沢下モ平をあげることができる。
21 BC1800年 原始の鹿角、zu大湯環状列石(野中堂遺跡)、zu大湯環状列石(昭和27年発掘時の万座遺跡)、zu大湯環状列石・周辺遺跡からの出土品
22 BC800年 ○尾去東在家遺跡(尾去沢地区)
○玉内遺跡  (宮麓地区)
○猿ケ平遺跡 (花輪地区)
○柏木森遺跡 (同   )
○明堂長根遺跡(同   )
23 三世紀末~
七世紀
弥生時代が発展して古墳時代へ移行し、やがて歴史時代(古代以降)に至る。概ね三世紀末ないし四世紀初めから七世紀までといわれる。鹿角における古墳時代は枯草坂古墳・三光塚古墳によって代表されるが、いずれも末期古墳、終末期古墳である。時代は八世紀まで下るというから、この地方に古墳時代という時代区分は適用されないこととなり、歴史時代の奈良・平安時代に入っていく。したがって考古学的な土器区分からみて、土師器の時代、土師器・須恵器の時代とするほうが妥当であるという考え方もなされている。
24 年月 鹿角四十二館(たて)、zu小枝指館(七つ館)跡、zu発掘中の湯瀬館跡、zu枯草坂古墳出土の勾玉首飾りと数珠、zu泉森出土の鉄剣、zu館跡からの出土品
25 不詳年月 基衡が毛越寺金堂本尊を刻した仏師雲慶への礼物として奥州の特産物を送ったなかに、鹿角産と考えられる「希婦細布二千端」がふくまれる。 吾妻鏡
26 年月 古代・中世の鹿角、zu大日堂(昭和初期)、zu大日堂の板碑(正安2年)、zu月山神社(昭和初期)、zu田道将軍の碑、zu恩徳寺の木造弥陀三尊(鎌倉時代の作)、zu大徳寺金銅仏(平安中期の作)、zu陸奥国宣・建武元年 南部師行宛
27 年代不明 谷内観音堂境内の岩壁に鎌倉期の磨崖仏といわれる阿弥陀三尊が刻まれる。
28 盛岡藩の支配、zu鹿角郡図(元禄期の「南部総絵図」部分)、zu花輪代官所門(現専正寺門)、zu宝永五年検地帳、zu御境御用留、zu藩境の管理
(土深井村扇袋)
天保2年の絵図から、zu花輪の町並(「北奥道中図」から)
29 鉱山の国・鹿角、zu尾去沢銅山図、zu尾去沢元山(「北奥路程記」から)、zu尾去沢鉱山屏風部分、zu今に残る藩政期の坑道、zu白根銅山図
30 人々の生活、zu切支丹宗門改帳
(天保6年)、zu武家屋敷の門
(山本家)、zu毛馬内の町並、zu往来証文、zu天狗橋の図、zu紫根染・茜染
(故・栗山文一郎氏によるもの)
31 江戸期の文化、zu月山神社の百人一首献額、zu円福寺の銅造阿弥陀如来立像、zu花輪南館の時鐘、zu川口月嶺「鶏と牡丹」、zu観心作の弘法大師像
32 戊辰戦争―田中北嶺のスケッチ集から、zu出陣式、zu扇田神明社の戦い、zu大館城の戦い、zu楢山佐渡の軍議、zu大館町人の陣中見舞、zu小繋の戦い、zu砲兵隊
33 明治の移り変わり、zu里正任命辞令、zu毛馬内の町並、zu花輪寸陰館の日誌、zu小豆沢一ノ渡
(明治28年蓑虫山人画)、zu洋傘を持つ男性、zu大湯の小坂鉱山発電所
(明治41年)
34 産業の発展、zu尾去沢鉱山の坑口と坑内図、zu不老倉鉱山、zu牛の放牧
(明治41年・大里産牛組合)、zu柴平村の適産調、zuアケビ蔓細工の講習会、zu和井内孵化場
35 新しい文化、zu田中北嶺「雪月花」部分、zu川口月村「釣花尾長鳥」、zu鹿友会誌、zu川村竹治(亜洲)の書、zu内藤湖南の書
36 明治から大正・昭和へ、zu大湯温泉真景図・部分(大正5年)、zu花輪線開通の祝賀旗行列、zu鹿角郡公会堂(大正5年建築)、zu奈良安自動車、zu毛馬内萱町通り
37 進む産業と観光開発、zu尾去沢鉱山風景、zu鉱山の稼ぎ人たち、zu選鉱場の女たち、zu観光開発の進む十和田湖、zu湯瀬温泉(昭和10年頃)、zu大湯千葉旅館
38 毎日のくらし、zu苗運び(富樫正一郎氏撮影)、zuコビルをとどける(同氏撮影)、zuダイコン干し(同氏撮影)、zu雪おろし、zu市日風景、zuコモセの内部(富樫正一郎氏撮影)
39 新しいまちづくり、zu旧尾去沢町役場、zu旧花輪図書館、zu冬の保育園、zu八幡平温泉郷(ふけの湯)、zuふき刈り、zu関善酒造店
40 鹿角市の誕生と発展、zu新市庁舎、zu東北縦貫自動車道八幡平橋、zu商店街の近代化事業、zuマインランド尾去沢、zu八幡平オートキャンプパーク・アスピア、zu鹿角観光ふるさと館あんとらあ
41 斉明 658 その頃この地域には蝦夷(えみし)とよばれる人々が生活する。 斉明記
42 天平勝宝元 749 最初の産金地は鹿角小田郡(尾去沢)であったと古くから伝えられてきた。 祐清私記
43 弘仁2 811 この時鹿角道が出羽国府軍や俘囚軍の進撃路となる。鹿角は邑良志閉(おらしべ)村の俘吉弥侯部都留岐(きみこべのつるき)の支配下にあって、爾薩体村の夷都留岐との間で長年の係争地となっていた。 日本後紀
44 弘仁4 813 枯草坂古墳は、奈良末期から平安初期の築造といわれる。
45 元慶2年8月~
元慶2年9月
878/8 陸奥権介坂上好蔭兵二千人を率い流霞道より秋田営に至る。九月鎮守将軍小野春風軍四百七十人を率いまず鹿角に入り賊を降伏させ、夷首七人を従えて秋田営以北に到着する。鹿角(上津野)は火内・榲渕・野代など賊地十二村に数えられる。 日本三代実録
46 承平5年月 935 この頃の集落として、菩堤野・鳥野・小平・源田平・歌内・飛鳥平・北の林、中ノ崎・一本杉・案内・妻ノ神・乳牛などが知られる。
47 康平元年月 1058 「錦木はたてなからこそ朽にけれけふの細布むねあはしとや」(後拾遺和歌集)に、初めて錦木・けふの細布の歌枕あらわれる。
48 寛治3年月 1089 この頃の遺跡として、高屋太田谷地に鍛冶場をもつ集落跡、久保田向い勘忍沢より一四基の製鉄炉が発見された。
49 大治元年月 1126 この頃清衡が白河関から外ケ浜までの間一町ごと笠卒都婆を建てたいわゆる奥大道が、二戸郡から鹿角・比内郡に入り津軽へ向う。
50 文治5年9月初め 1189 藤原泰衡、鹿角を通り比内贄柵河田次郎を頼る。河田次郎、泰衡を討ち、その首級を陣ケ岡の源頼朝本陣に届け、かえって誅殺をうける。
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