鹿角市のできごと

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No 年月日 西暦 鹿角市のできごと 鹿角市外のできごと
1 BC5000年 鹿角市内における縄文早期の資料はきわめて少ない。早期に属する遺構は現在確認されていない。
○大地平遺跡(宮麓地区)
 早期後半の赤御堂式の土器片が出土し、不定形石器が伴出した。
○上葛岡遺跡(宮麓地区)
 赤御堂式に比定できる土器片のほかに、この時期の特徴である尖底深鉢形土器一点が出土している。
○この他出土地点は確認できないものの、大場環状列石周辺から採集された尖底土器底部一点がある。
この時期の住居は、草創期以来の洞穴住居や簡単な小屋掛程度の住居をへて次第に竪穴式住居を作って住むようになった。しかしまだ住居内に炉を設けるまでには至っていなかった。
2 BC3500年 ○清水向遺跡(宮麓地区)
 住居跡は、直径四・四メートルのほぼ円形をなし、柱穴は四ケ、中央に石囲い炉があり、周圍に周溝がめぐっている。遺物は円筒下層d式がおもで、なかに一点の吹浦(ふくら)式土器がまじっているという。山形県遊佐町吹浦遺跡を標式とするこの土器の出土により、鹿角地方と日本海沿岸との交流を想定できる貴重な手がかりになるかもしれない。
3 BC3500年 前期の遺跡や遺物包含地は三〇カ所以上をかぞえているが、その多くは中期・後期との複合遺跡である。土器は概ね円筒下層式を主とし大木系の土器もまじっている。昭和二九年に発掘調査された清水向遺跡は、本県において初めて完掘された縄文前期の竪穴住居跡という、記念すべき遺跡として知られる。※鹿角市史第1巻では二〇カ所以上となっているが、刊行当時の情報。
4 BC2500年 ○黒森山遺跡(大湯地区)
 第三号竪穴住居跡は直径約五・五メートルの円形、南東よりに石囲炉をもつ。第四号竪穴式住居跡は径八~九メートルの楕円形で、南側に石囲炉がある。この二つの住居跡で注目されることは、第三号竪穴には炉の脇に長さ三五センチ・直径一〇センチの石棒の立石があったこと、第四号竪穴には長柱状の河原石が横だおれになっていてその回りの状況から立石であったとみられることである。ほかにも石棒状の破片が複数出土し、もしそれが破壊された他の竪穴にあった石棒とすれば、この竪穴群は石棒を立石として具えた特殊な竪穴群といわざるを得ない。
 ほかに小規模な二組の環状列石と配石を伴う土壙も検出された。
5 BC2500年 市内の中期遺跡は、北部における黒森山麓竪穴住居跡と、中央部花輪天戸森遺跡から玉内・大里の台地を歌内川が東西に区切る辺りの歌内遺跡に至るまで、広範に分布している。
 出土遺物の特異性としては、本来この地域が円筒土器文化圏のなかにありながら、予想を越えて大木式土器が多く出土したことである。宮城県の大木囲貝塚に由来する大木式土器が、この地域で円筒土器と濃密に混在していることは、この時期ここで二つの異質な文化相が交叉し交流していたことにほかならない。
6 BC1800年 ○大湯環状列石(大湯地区)
 二つの環状列石は約九〇メートルの距離を隔てながら、その構造はきわめてよく似ている。その規模は外周直径が野中堂約四二メートル、万座約四八メートル、いずれも一〇〇基をこえる組石遺構が二重の環状に配置され、その内帯・外帯の間ともにほぼ西三三度北(夏至日没線)の位置に日時計状特殊組石一基ずつが築かれている。これら環状列石を形づくる数千個の石がほとんど石英閃緑〓岩に統一されていることも、この遺跡の性格を解明する上でだいじな要素の一つであると考えられている。
 最近の調査により万座環状列石をその内部組石と対応関係をもつ多くの掘立柱建物がとりまいていることが確認された。さらにその北側から南東の隣接地における一〇基の環状配石遺構、一〇数条におよぶ配石列の存在などが、ますますの論議をよんでいる。この遺跡が配石墓群であれ、祭祀遺構や集会場であれ、いずれ数百年の年月にわたり幾世代も継続して造りあげてきたもので、その意志を持続させるほどの社会体制なり信仰形態はどんなものであったろうか。その衣・食・住生活の実態をふくめ多くの課題を解く手がかりを包蔵した貴重な遺跡である。
7 BC1800年 縄文後期の遺跡は、特別史跡大湯環状列石によって代表される。この時期を特徴づける土器は当初大湯式土器とよばれ、磨消縄文や沈線文による優美な幾何学文、曲線文などの文様と、細口壷や特異な片口土器の多出によって、編年における標式的位置を与えられていた。しかし型式内容が断片的で、不明確な部分が多かったため、加曽利BⅠ式併行とか堀之内Ⅱ式併行とされ、いまは弘前市十腰内遺跡の十腰内式に編年を求められることが多い。
8 BC800年 縄文晩期は、いわゆる亀ケ岡式土器に代表され、縄文文化のもっとも成熟した段階の亀ケ岡式土器文化圏を形成していた。その遺物は市内各地から採集されているが、本格的な発掘調査は縦貫自動車道遺跡の調査をまたねばならなかった。そのなかで、昭和三〇年代に明らかになった玉内遺跡配石遺構の存在は、この地域にひときわ光彩を放つストンサークルの変遷を考える上できわめて重要な意味をもつものであった。
9 BC300年 北東北縄文時代の終末期は、ことにゆるやかな進歩の過程をたどり、独自な文化を継続しながら徐々に弥生文化へつながっていく。この地方に弥生文化の及ぶのは、ほぼ一世紀ごろといわれ、その先駆は稲作と鉄器であった。例えば稲作が本州北端に紀元一―二世紀に波及したとはいっても、それは一様でなく水利や気象の関係でいちじるしく地域差を生む。鹿角に稲作が営まれるようになったのがいつのことだったかは、まだ特定できない。わずかに小坂町から穂摘具である石包丁の一部が出土しているのみである。
10 三世紀末~
七世紀
弥生時代が発展して古墳時代へ移行し、やがて歴史時代(古代以降)に至る。概ね三世紀末ないし四世紀初めから七世紀までといわれる。鹿角における古墳時代は枯草坂古墳・三光塚古墳によって代表されるが、いずれも末期古墳、終末期古墳である。時代は八世紀まで下るというから、この地方に古墳時代という時代区分は適用されないこととなり、歴史時代の奈良・平安時代に入っていく。したがって考古学的な土器区分からみて、土師器の時代、土師器・須恵器の時代とするほうが妥当であるという考え方もなされている。
11 BC5000年 縄文時代早期
12 BC3500年 縄文時代前期
13 BC2500年 縄文時代中期
14 BC1800年 縄文時代後期
15 BC800年 縄文時代晩期
16 斉明 658 その頃この地域には蝦夷(えみし)とよばれる人々が生活する。
17 斉明年 658 阿倍比羅夫、船師を率いて齶田・渟代の蝦夷を征す
18 弘仁2年 811 この時鹿角道が出羽国府軍や俘囚軍の進撃路となる。
19 弘仁2年 811 陸奥に和賀・稗貫・志波三郡を建てる。按察使文室綿麻呂陸奥出羽両国の兵を合せ、爾薩体・弊伊の夷村を征す
20 康平元年 1058 「錦木はたてなからこそ朽にけれけふの細布むねあはしとや」(後拾遺和歌集)に、初めて錦木・けふの細布の歌枕あらわれる。
21 康平元年 1058 能因歌枕の能因法師没す(推定)
22 文治5年 1189 武蔵国御家人成田助綱、鹿角郡地頭職に補任される。
23 文治5年 1189 泰衡、比内にて河田次郎に討たれる
24 建久2年 1191 南部光行主従甲州から八戸浦に上陸すという
25 文明18年 1486 南部政盛、鹿角大日堂を修復すと伝える。一書に、政盛にあらず南部信時の時としている。
26 天文5年 1536 大円寺縁起に、秀範「天文五年ニ毛馬内ニ移ル」と記されている。大円寺は毛馬内氏菩提寺。
27 天文15年 1546 『津軽一統誌』所載の『郡中名字』に「鹿角三百町ハ四人ノ国人也、所謂奈良、成田、阿部(保)、秋元四人ナリ、奈良ハ大湯・小坂・小平・小江刺四人ニ分ル、成田ハ田内・夏井・名越・三ケ田・猿雄五人ニ分ル、阿部(保)ハ大里・柴内・鼻和三ケ所ニ分ル、丹治氏ト云、秋元ハ高瀬・長内・小猿辺三ケ所ニ分ル、公任卿ノ末孫也」と記さる。
28 永禄元年 1558 この夏、大湯四郎左衛門、小平彦四郎、柴内弥次郎、花輪中務、大里豊前が浅利氏の仲介で比内領猿田川を越え、中の平にて安東愛季名代の大高筑前らと会見す。
29 永禄9年9月頃 1566 石鳥谷城を攻め落とす。南部勢は長牛城に籠城して戦い、救援の岩手勢は寄手に敗れ兵をかえす。
30 永禄10年10月 1567/10 安東方大高主馬六千余を率いて谷内城を囲み撃(う)ち、次いで長牛城を陥落させた。長牛氏らは三戸へ逃れた。
31 天正17年4月 1589/4 南部勢が鹿角郡より比内に侵入し大館城を攻略した。阿仁米内沢塚の台で秋田方奈良惣五郎に南部方萱森判官が討ちとられる。
32 天正18年 1590 大光寺左衛門正親、花輪城代となる。
33 天正19年 1591 浅野長政家来内山助右衛門、鹿角の各館を破却した。
34 天正19年 1591 信直方の九戸包囲陣のなかに毛馬内権之助、同三左衛門、大光寺左衛門、大湯五兵衛、浅石清四郎ら名を列ねる。九戸方大湯四郎左衛門の鹿倉城を大光寺左衛門攻略す。
九戸方首謀者として大湯四郎左衛門、大里修理、円子右馬允ら八人栗原郡三迫へ送られ処刑される。
35 天正19年 1591 九戸政実の乱起こる
36 天正19年 1591 奥州再仕置軍下向し、九戸城落城す
37 慶長元年9月 1596/9 城代大光寺正親、菩提所長福寺を創建。
38 慶長3年 1598 この春 白根金山、北十左衛門発見す。
39 慶長4年 1599 この年 槇山金山の発見、小田島勘助見立。
40 慶長4年 1599 この年 五十枚金山発見される。
41 慶長7年 1602 この春 西道金山発見される。
42 慶長10年 1605 この年 南部・秋田領境長木沢において争論始まる。
43 慶長12年 1607 この春 藩主利直の領内巡視あり。毛馬内柏崎新城築造の指示により、直ちに普請行わる。
44 慶長13年9月 1608/9 毛馬内政次、古館より柏崎新館に移る。
45 慶長15年2月 1610/2 専正寺の創立。
46 慶長15年 1610 この年 秋田藩家老渋江内膳江戸へ登り、領境争論に付幕府へ提訴、裁決まで双方立入り禁止申渡さる。
47 慶長18年7月 1613/7 尾去長泉寺の創建。
48 元和元年8月 1615/8 誓願寺、白根に創立。
49 元和2年10月 1616/10 円徳寺、尾去沢永久沢に建立。
50 元和4年10月 1618/10 青山与左衛門、白根本平弐枚五両間歩を稼行。
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