概要
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【「菊之城」を構えた菊池初代】 則隆については、藤原後胤説や菊池土豪説などの諸説がある。大宰府の荘官としてこの地に赴任した則隆は、延久2年(1070)、深川に居館「菊之城」を構え、ここを本拠として肥後国一円に散在する所領を管理していたとされる。 則隆は永保元年(1081)に死亡し、深川村上原に葬られたとされるが、その墓(五輪塔)は文化15年(1818)に造られ、明治・大正と3回の工事を経て、現在に至っている。 墓の基壇には古墳の石材が利用され、古老の話では墓の下に朱塗りの石棺が埋まっているという。
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