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概要
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菊池の文教の礎となった渋江家の祖は、遡ること古墳時代、第30代敏達(びだつ)天皇と言われている。その5代目の孫が、天皇から苗字を賜り、橘家として始まった。 橘家の島田丸は768年(神護景雲2)に奈良春日神社造営の勅命を受けた。大役が果たせるように水神に祈願したところ、無事に神社が完成したので、以後は水神を祭って「天地元水神」と呼び、橘家の氏神にした。 1122年(保安3)、橘家は鳥羽天皇にそれまでの勤労を認められ、名前に「公」という字を使うことを許された。以後代々、橘家では実名に「公」という字を入れるようになった。 橘家は時代の流れの中で奈良から伊予(愛媛)へ、そして肥前(佐賀)へ移り住んだ。肥前では潮見山(武雄市)に居住したが、ここには今も潮見神社や橘という地名が残っている。 肥前に移り住んで2代目の公村(きみむら)の時代に、氏を渋江と改めた。渋江の分家が肥後に移り住んだのは、江戸時代の初期、公成(きみなり)の頃である。公成は菊池の西迫間に居住し、その子公通(きみみち)は1634(嘉永11)年隈府横町に転居し、以後渋江氏は代々隈府に定住した。現在地(菊池市原)への移転は、1930(昭和5)年。 渋江氏の天地元水神社は、水難、火災、雨乞の祈祷や河童よけのお守りに定評があり、肥後はもちろん九州や中国、京阪地方まで、人々の厚い信頼を得ていた。
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