木更津市史デジタルアーカイブ

検地帳

検地は、戦国期から江戸時代を通じ、領主が所領を把握するために実施した土地調査です。豊臣秀吉の太閤検地は、まず村の境界を画定し、一村単位で、土地一筆ごとに面積を測り、その土地の等級(上田・中田・下田・下々田など)を定めるものでした。そうして定められた面積、等級をもとに石高(玄米の公定収穫量)が決められたのです。太閤検地では、耕地の所持者として耕作を行い、年貢を負担する名請人は、耕地一筆に1人と定められて、検地帳に記載されました。こうして、ひとつの土地に、複数の人物の権利関係が存在することなく、1人の名請人のみが土地所持権・年貢負担義務を持つ“一地一作人”の原則が打ち立てられました。

天正18年(1590)、豊臣秀吉は関東の北条氏攻めを開始し、戦いの最中、徳川家康は秀吉から、元々支配してきた駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を離れて、北条から没収した、関東の伊豆・相模・武蔵・上野・下総・上総に移ることを命ぜられました。関東に入国した家康は、天正19年と20年に検地を実施し、代官とその手代が郷村を巡回しました。

木更津市域にあたる望陀郡でも検地が進められ、市域には、天正20年に請西村で作成された検地帳が残されています。それが、千葉県指定文化財に指定されている「天正検地帳(天正二十年拾月、上総国望陀郡菅生庄請西之郷御縄打水帳)」です。この「天正検地帳」の名請人記載箇所には、「平右衛門 主作」といった表記が多く見られます。こうした記載は、“一地一作人”の原則通り、持ち分の土地を名請人が自ら耕作したことを示すものです。その一方で、この検地帳には、「甚右衛門分 新左衛門作」といった表記も見られます。これは、「甚右衛門」の持ち分の耕地を、「新左衛門」が直接耕作していたことを示しています。つまり、他の人物に耕作を委託した場合や、土豪たちが大きな力を持ち、その下に零細な百姓が従属しているといったケースが想定される表記もあるのです。

江戸時代になると、幕府は検地を何度も行い、検地は勘定奉行が管轄し、その下で検地奉行が下役を連れて現地に行き、村役人らの案内で村ごとに行いました。本市域でも寛政12年(1800)の請西村の新田検地帳があり、ここにはひとつの土地に対応する名請人は1人のみ記載されており、“一地一作人”の原則に外れる記述はなくなっています。このように、当時の村を知るために、検地帳は非常に重要な史料であるといえます。

天正検地帳

天正検地帳(天正二十年拾月、上総国望陀郡菅生庄請西之郷御縄打水帳)

  • 県指定文化財:有形文化財(古文書)
  • 指定年月日:昭和57年(1982)4月6日
  • 所在地:木更津市立図書館(木更津市文京2-6-51)
  • 所有者:木更津市
  • 員数:16冊
  • 公開・非公開の別:非公開

検地では、調査結果を記した正副二通の検地帳を作成し、領主と名主が各一通保管します。この「天正検地帳(天正二十年拾月、上総国望陀郡菅生庄請西之郷御縄打水帳)」は、請西村の名主であった鈴木家に残された原本で、木更津市内に現存する唯一の天正検地帳です。また、副本とともに木更津市に寄贈され、現在は、木更津市立図書館で保管しています。

天正検地帳の原本は16冊、承應2年(1653)9月に作成された副本は7冊あり、この副本は、木更津市指定文化財「鈴木三郎家文書」として指定しています。

天正検地帳
画像 資料名
天正検地帳1

天正検地帳1

天正検地帳2

天正検地帳2

天正検地帳3

天正検地帳3

天正検地帳4

天正検地帳4

天正検地帳5

天正検地帳5

天正検地帳6

天正検地帳6

天正検地帳7

天正検地帳7

天正検地帳8

天正検地帳8

天正検地帳9

天正検地帳9

天正検地帳10

天正検地帳10

天正検地帳11

天正検地帳11

天正検地帳12

天正検地帳12

天正検地帳13

天正検地帳13

天正検地帳14

天正検地帳14

天正検地帳15

天正検地帳15

天正検地帳16

天正検地帳16

天正検地帳副本

天正検地帳副本
画像 資料名
天正検地帳副本1

天正検地帳副本1

天正検地帳副本2

天正検地帳副本2

天正検地帳副本3

天正検地帳副本3

天正検地帳副本4

天正検地帳副本4

天正検地帳副本5

天正検地帳副本5

天正検地帳副本6

天正検地帳副本6

天正検地帳副本7

天正検地帳副本7

紙片

天正検地帳5、6、7、8と同じ封筒内に保管されていました。どの史料から抜け落ちた紙片なのか、現段階では不明です。

紙片
画像 資料名
紙片1
紙片1
紙片2
紙片2
紙片3
紙片3

こより

元は検地帳をとじていたこよりです。広げたところ文字が書かれていました。

紙片
画像 資料名
こより1
こより1

右からそれぞれ、天正検地帳11、15、16に使われていたこよりを広げた状態で撮影しました。

こより2
こより2

右からそれぞれ、天正検地帳副本1、2、3、4に使われていたこよりを広げた状態で撮影しました。

こより3
こより3

右からそれぞれ、天正検地帳副本5、6、7に使われていたこよりを広げた状態で撮影しました。


その他検地帳

  • 下郡村水帳之写(天正十九年辛夘ノ九月朔日写本。年不詳)
  • (天照十九年卯九月朔日。写本。年不詳)
  • (天照十九年卯九月朔日。写本。年不詳)
  • 寛永八未年土屋但馬守殿 新田畑検地帳(享保四年写本)
  • 寛永八未年土屋但馬守殿帳面を用 地押改帳(享保四年写本)

「下郡村水帳之写」他4冊の検地帳は、善場家文書の一部で、木更津市史編さん事業に関する史料調査の過程で発見されました。同文書には、検地帳に加え、江戸時代後期から明治期にかけての土地証文や大正~昭和期の金銭出入帳のほか、旧請西藩主林家に関する「林家維持法草案」なども含まれています。同家は、下郡村の有力者として、請西藩とも関係を持ちながら、近世・近代の地域社会を支えた家だったと見られます。

「下郡村水帳之写」「田」「畑」の3冊は、元号や干支が誤字記載され、写本年も不明ですが、天正19年(1591)の検地帳の写しです。また、「寛永八未年新田畑検地帳」「寛永八未年土屋但馬守殿帳面遠用地押改帳」は、天正19年から40年後の寛永8年(1631)に作成された検地帳を享保4年(1719)に写したものです。

これまで、木更津市内に現存する天正検地帳は、千葉県指定文化財「天正検地帳(天正二十年拾月、上総国望陀郡菅生庄請西之郷御縄打水帳)」と、副本(承応2年の写本)のみでしたが、「下郡村水帳之写」「田」「畑」は、2例目の天正検地帳(写本)です。また「寛永八未年土屋但馬守殿 新田畑検地帳」「寛永八未年土屋但馬守殿帳面を用 地押改帳」をあわせ、16世紀末から17世紀前期頃の検地の様子を把握するための貴重な資料と言えます。

その他検地帳
画像 資料名
下郡村水帳之寫

下郡村水帳之写(天正十九年辛夘ノ九月朔日写本。年不詳)

田

(天照十九年卯九月朔日。写本。年不詳)

畑

(天照十九年卯九月朔日。写本。年不詳)

寛永八未年土屋但馬守殿 新田畑検地帳

寛永八未年土屋但馬守殿 新田畑検地帳(享保四年写本)

寛永八未年土屋但馬守殿帳面を用 地押改帳

寛永八未年土屋但馬守殿帳面を用 地押改帳(享保四年写本)