木更津の「津」とは、本来船着き場を意味します。室町時代の史料には既に「木佐良津」と記され、「きさら津」という内房の湊の一つでした。中世の木更津は小櫃川や矢那川の舟運によって栄え、その川沿いには菅生庄や畔蒜庄などの庄園が開かれました。15世紀の前半には上杉禅秀の乱がおこり、それに味方した小櫃氏ほか上総の領主層が没落し、そこに武田氏が入ってくる余地が生まれました。そして、15世紀後半には真里谷に入って、真里谷を名字とするようになっています。そういう背景もあってか、市内真里谷一帯には真里谷城跡、天神台城跡、要害城跡、笹子城跡といった戦国時代の城跡が今も残っています。
こうした城跡は、長年の歳月により土や樹木等に覆われ、障害物などによって立ち入り困難なところもあり、形状や縄張りの様子をうかがうことは容易ではありません。本アーカイブは、市内の城跡のうち、真里谷にある真里谷城跡、天神台城跡、要害城跡の3城を、高密度・高精細な航空レーザ測量調査を行い、計測したデータをもとに地形の凸凹を陰と陽に分けて立体感を強調して表現する立体画像の陰陽図を作成しました(陰陽図は、朝日航洋株式会社の「立体画像作成装置」特許第4379264号を用いて作成しています。)。
真里谷城跡は、木更津市真里谷字真地・城ノ腰ほかに所在し、真里谷武田氏の居城とされています。小櫃川上流域に広がる谷底平野から南東に5.5キロメートルほど谷沿いをさかのぼった丘陵上にあり、標高は山頂部で約160メートルです。また、北東1キロメートルほどの痩せ尾根上に新梨子谷館跡があります。
真里谷城跡一帯は現在山林となっており、その一角には木更津市少年自然の家があります。城跡の保存状態は良く、その構造は南側の最高所に主郭を設け、前後の尾根に多数の曲輪を連ね、南北約700メートルに及ぶ大きなものです。既に、5次にわたって発掘調査が実施され、多量の陶磁器やかわらけなどの焼き物から、鉄釘・小札・鉄鏃・刀子・銭貨などの金属製品、砥石、焼けた壁材や炭化物が出土しています。陶磁器は、白磁・青磁・染付・緑釉・褐釉などの現在の中国をはじめとした渡来品(貿易陶磁器)や、瀬戸美濃・常滑といった国産陶器ですが、特に貿易陶磁器の量は県内最多で、これらの出土品は郷土博物館金のすずで展示されています。 城跡は、大きく4つのブロックに分けられます。南側の千畳敷(と呼ばれる広場)と城山神社(周辺)一帯、それから小さな谷を隔てて北側に並行するように二つの曲輪が続き、尾根の切れる手前が北端部の曲輪となります。これらは便宜上、主郭、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪というように名付けられています。
主郭にあたる千畳敷は、城内で最も高所にあり、広さは2,000平方メートルほどあります。西側を正面とし、その中央に内くぼみの坂虎口を設け、東側は地山を整形し、南北両側面は地山整形と盛土によって土塁を巡らしています。発掘調査では、建物の柱穴らしき落ち込みと、土坑が発見されたほか、地山整形後に焼けた壁材を含む土で整地されていたことがわかっています。また、出土遺物はわずかの陶磁器と金属製品でしたが、ほかに箸置きかとされる耳かわらけが7点出土し、城主の御殿があったところとおもわれます。千畳敷背後の尾根は、広いところで幅10メートル以上もあります。その南端から大量の白磁や染付、かわらけ、鉄釘、飾鋲などが出土したほか、建物の柱穴、焼けた壁材が見つかっており、接待などを行う建物があったと想定されます。茶室があったのかもしれません。主郭の一部をなす千畳敷北側の城山神社周辺は、自然の谷間を地形に沿って整地し、千畳敷とは土塁を共有しています。東側には腰曲輪が巡り、東側の支尾根は堀切で遮断しています。主郭の西側には、2段の腰曲輪があり、下段の腰曲輪と主郭の千畳敷との比高は10メートルほどあります。
主郭から南側の尾根上には、ふたつの曲輪が階段状に続いています。このうち、南側下段の曲輪からは大量の炭化米や、焼けた壁材、陶磁器、金属製品が出土し、米蔵の存在が想定されています。その先は細い土橋となり、ここが南限となります。
二の曲輪は、主郭から細い尾根伝いに西側に延びる支尾根を地形に沿ってならした曲輪と、その北側の腰曲輪からなります。曲輪の広さは約2,500平方メートルほどであり、北と西側に土塁が残っており、中央を分断するように堀が入っています。曲輪東部からは、発掘調査によって掘立柱建物跡6棟、柵列跡2条が見つかっていますが、向きが異なる2群の建物群があることから、最低、2時期にわたって建てられていたと考えられます。また、陶磁器、かわらけ、金属製品などが出土していますが、出土量は主郭と比較すると10分の1程度です。 建物群の見つかった北側の腰曲輪からは、部分的に整地した平場や、地下式土坑、土坑などが見つかっています。また、米・大麦・小麦・大豆・小豆などの穀類や焼土が出土しており、城内での食生活の一端を垣間見ることができます。 ニの曲輪の南側と西側の支尾根先にも尾根をならした小さな曲輪が見られますが、今回のレーザ測量で、さらに西側の尾根下段にも、上部を人工的にならしたような平坦面が見つかっています。また、平坦面の西端には、空堀らしき落ち込みと土塁状の高まりが認められ、城域がここまで広がる可能性があります。
三の曲輪はニの曲輪の北側にあり、土塁を巡らした曲輪と、南北の腰曲輪、それに腰曲輪下の堀底道があります。堀底道の先端は、谷の出口に通じており、その先に大手口があったと推定されています。三の曲輪は、和泉ケ谷から大手へ至る道筋にあたり、木戸を抜けてからは曲輪面直下の堀内を進むようになっているなど、防衛上重要なところです。
北端の四の曲輪は、現在の市野々集落を見下ろす位置にあることから、別名市野々曲輪とも呼ばれています。堀切道を境にして東西に分けられ、東側が1,200平方メートルほど、西側はその半分ほどの広さです。北側には、腰曲輪があり支尾根は堀切で切っています。また干天でも涸れないといわれる、通称「一杯水」があり、小さな桝形状の空間となっています。また、一杯水から先の堀切道は、北西側の谷筋へ延びており、この堀切道は市野々方面へつながっています。
真里谷城跡は、16世紀前半の遺物が非常に多く、15世紀代にさかのぼる遺物も含まれています。その一方で、16世紀後半のものは含まれていません。遺構や遺物の状況から、この城では大規模な火災があり、火災のあと、片付けが行われ陶磁器などがまとめて捨てられていたことが分かっています。こうしたことから、本城は16世紀初めごろに築かれ、16世紀中頃までには廃城になったと想定されます。
天神台城跡は、真里谷字天神台の標高70~110メートルほどの丘陵上に所在します。この丘陵は、武田川と泉川の合流点に近く、全体に起伏に富み、平場に乏しいという特徴があります。各曲輪面は最大で40メートルほどの高低差があり、麓との比高は70メートル以上になります。城跡の西側は中世に起源を有する船目・久保宿方面が、また、300メートルほど離れた北側丘陵上には、要害城跡があります。
城跡は西側斜面が土取りで削られている他は良く保存されています。主郭は山頂部にあり、周囲を土塁と堀で囲んでいます。とりわけ、尾根続きとなる南側では土塁は高く、堀は複雑に屈曲しており、土塁上に櫓台のような平場がみられます。主郭の中央には祠の跡らしき区画が認められ、天神社の名残と思われます。
主郭の北側下には隣接する広い曲輪があります。曲輪の周囲は北側に低い土塁が巡るものの、曲輪自体は自然地形で、主郭寄りの南側は傾斜面となっています。また曲輪の西端は、両脇から土塁と空堀で閉め切る形となった隘路状の虎口があります。さらに、その先の丘陵北端部には同じような構造の虎口があり、掘切を隔てて相対する向きとなっています。丘陵の先端を独立した曲輪として取り立てた結果かもしれませんが、門の配置がどのようになっているのか、検証が必要です。
一方、主郭の南側は、自然地形の尾根を2か所掘り切り、東西の側面は2段に整形して取り付きを妨げています。その先端は2重の土塁と堀があり、ここが北限となります。
天神台城は、主郭一帯を明瞭な城郭構えとしながらも、それ以外は土塁と堀を効果的に配置して曲輪取りするというもので、曲輪内は自然地形に任せているところが多いなど、臨時に取り立てられた様相が窺えます。また、真里谷への入り口にあたる要地に立地し、要所を新しい築城技術でかためた城と言えます。発掘調査は行われていないものの、城の構造から16世紀前半の築城と想定されています。
要害城跡は、小櫃川沿いの木更津市真里から1.5キロメートルほど入った大字真里谷字要害の丘陵上に所在します。南側の麓には、真里谷宿の集落が街道(現在の県道鶴舞 馬来田停車場線)に沿って広がっています。また、西側の麓には、曹洞宗妙泉寺が、武田川を隔てた南側対岸には天神台城跡があります。
山頂部の標高は100メートルほどで、麓の集落との比高は70メートルに及びます。その構造は、山上の平場を区画しない反面、南側の高所のみ堀を巡らしています。そして、この高所部分が主郭と考えられます。北西側尾根続きは、二重の切岸整形を伴う大規模な横堀を巡らし、西側支尾根も二重の土塁と堀切で切り離しています。
一方、北側尾根続きは段差整形のみで済まし、小規模な腰曲輪が数段取り付きますが、間を区画するような空堀・堀切は不明瞭です。その反面、その先は三重の大規模な空堀で遮断しています。この空堀は主郭の周囲の堀と比べてさらに大きく、現況でも内側空堀では幅15メートル、深さ2メートル、外側空堀では幅20メートル、深さ3~4メートルほどあります。また、内側空堀の土塁と、外側空堀の堀底との比高は17メートルに及びます。主郭の周囲には中世石塔(小形五輪塔・宝篋印塔)があり、笠・相輪部に簡略化の傾向が著しい16世紀後半のものです(但し、現在は所在不明)。
要害城跡は、城の縄張や遺構の規模の大きさなどから、永禄年間(1558~1569)以降に北条氏もしくは里見氏によって築城された可能性が高いと推測されています。
3つの城跡を含むエリアの航空写真です。サムネイルをクリックすると、国土地理院地図と航空写真を重ねたビューアをご覧いただけます。
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