1
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縄文時代
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越谷地域は海であった。そして周辺台地上にこの頃の貝塚や住居跡が発見されている
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『越谷市史一通史上』
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2
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縄文時代
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海退により越谷地域は次第に陸地となる
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『越谷市史一通史上』
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3
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3世紀後半
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増林中妻(増林一丁目)に古墳時代前期の集落がつくられ、人々の生活が営まれるようになった
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『越谷市市制施行60周年記念誌』
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4
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景行
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53
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316
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天皇東国に巡幸し、葛飾野に狩す。この時无邪志国造と知々夫国造の祖が供奉する(高橋氏文)
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『越谷市史一通史上』
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5
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安閑
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1
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534/12
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笠原直使主が同族小杵と武蔵国造を争う(日本書紀)
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『越谷市史一通史上』
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6
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6世紀後半
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この頃見田方(大成町)に古墳時代後期の集落がつくられ、人々の生活が営まれるようになった
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『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
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7
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6世紀後半
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見田方(大成町)に古墳時代後期の集落がつくられ、人々の生活が営まれるようになった
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『越谷市市制施行50周年記念誌』
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8
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6世紀後半
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見田方(大成町)に古墳時代後期の集落がつくられる
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『越谷市市制施行60周年記念誌』
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9
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大化
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1
|
645
|
■大化の改新が始まり、天皇を中心とした律令制による統一国家が樹立されていく
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『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
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10
|
大化
|
1
|
645
|
大化の改新が始まり、天皇を中心とした律令制による統一国家が樹立されていく
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『越谷市市制施行50周年記念誌』
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11
|
大化
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1
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645/8
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東国の国司八人を任命
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『越谷市史一通史上』
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12
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和銅
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2
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709
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前(埼)玉郡の人出雲臣乎多須が山城国へ逃走する(山城国愛者郡雲下里計帳)
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『越谷市史一通史上』
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13
|
和銅
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3
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710
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この頃見田方地域に集落がつくられ人々の生活が営まれていた(見田方住居跡)
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『越谷市史一通史上』
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14
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養老
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5
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721
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下総国葛飾郡大嶋郷戸籍ができる(同戸籍)
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『越谷市史一通史上』
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15
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天平
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5
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733/6
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埼玉郡の新羅人徳師等五三人が金姓を賜わる(続日本紀)
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『越谷市史一通史上』
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16
|
天平
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19
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747
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武蔵三〇〇戸、下総二〇〇戸が元興寺封戸に、武蔵児玉五〇戸、下総印旛郡五〇戸が東大寺封戸に充てられる(寧楽遺文)
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『越谷市史一通史上』
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17
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天平勝宝
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2
|
750
|
大相模不動坊(相模町大聖寺)が創建されたと伝える
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『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
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18
|
天平勝宝
|
2
|
750
|
大相模不動坊(相模町大聖寺)が創建されたと伝える
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『越谷市市制施行50周年記念誌』
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19
|
天平勝宝
|
2
|
750
|
大相模不動坊(相模町大聖寺)が創建されたと伝える
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『越谷市市制施行60周年記念誌』
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20
|
天平勝宝
|
2
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750
|
大相模不動坊が創建と伝える(大聖寺縁起)
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『越谷市史一通史上』
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21
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神護景雲
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2
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768/3
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下総の井上・浮嶋・河田の三駅と武蔵の乗瀦・豊嶋の二駅に、中路に準じ馬一〇匹の設置を乞う(続日本紀)
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『越谷市史一通史上』
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22
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宝亀
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2
|
771
|
■武蔵国は東山道より東海道に編入される。以来奥州海道・甲州海道など海道と称された
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『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
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23
|
宝亀
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2
|
771
|
武蔵国は東山道より東海道に編入される。以来奥州海道、甲州海道など海道と称された
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『越谷市市制施行50周年記念誌』
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24
|
宝亀
|
2
|
771
|
武蔵国は東山道より東海道に編入される。以来奥州海道、甲州海道など海道と称された
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『越谷市市制施行60周年記念誌』
|
25
|
宝亀
|
2
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771/10
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武蔵国が東山道より東海道に編入される(続日本紀)
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『越谷市史一通史上』
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26
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天長
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10
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833
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埼玉郡壬生氏の出身、延暦寺第一座主円澄舜光大師が入滅する(弘法大師伝)
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『越谷市史一通史上』
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27
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承和
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2
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835/6
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太日河・住田河に各四艘の渡船を置く(類聚三代格)
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『越谷市史一通史上』
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28
|
貞観
|
2
|
860
|
野島に天台宗慈福寺(現曹洞宗浄山寺)が創建されたと伝える
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『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
|
29
|
貞観
|
2
|
860
|
野島に天台宗慈福寺(現在の曹洞宗浄山寺)が創建されたと伝える
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『越谷市市制施行50周年記念誌』
|
30
|
貞観
|
2
|
860
|
野島に天台宗慈福寺(現在の曹洞宗浄山寺)が創建されたと伝える
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『越谷市市制施行60周年記念誌』
|
31
|
貞観
|
3
|
861
|
野島山慈福寺(現浄山寺)創建と伝える(浄山寺縁起)
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『越谷市史一通史上』
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32
|
貞観
|
6
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864/11
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水旱により下総国葛飾・印旛等五郡の百姓の調庸二ヵ年を免ず(三代実録)
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『越谷市史一通史上』
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33
|
天慶
|
2
|
939
|
■平将門、王城を建設、新皇と称した
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『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
|
34
|
天慶
|
2
|
939
|
平将門、王城を建設、新皇と称した
|
『越谷市市制施行50周年記念誌』
|
35
|
天慶
|
2
|
939
|
平将門、王城を建設、新皇と称した
|
『越谷市市制施行60周年記念誌』
|
36
|
天慶
|
2
|
939/12
|
平将門が、下総の亭南に王城を建設し、新皇を称する(将門記)
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『越谷市史一通史上』
|
37
|
治安
|
1
|
1021/9
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上総介菅原孝標の娘(更級日記の作者)が太井川を渡り武蔵を経て京に向かう(更級日記)
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『越谷市史一通史上』
|
38
|
長元
|
7
|
1034
|
大沢(現北越谷)の浅間社が勧請されたと伝える
|
『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
|
39
|
長元
|
7
|
1034
|
大沢(現在の北越谷)の浅間社が勧請されたと伝える
|
『越谷市市制施行50周年記念誌』
|
40
|
長元
|
7
|
1034
|
大沢(現在の北越谷)の浅間社が勧請されたと伝える
|
『越谷市市制施行60周年記念誌』
|
41
|
長元
|
7
|
1034
|
大沢浅間社を勧請したと伝える(大沢荒井家文書)
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『越谷市史一通史上』
|
42
|
長久・寛徳年間
|
|
1040~ 1046
|
野与党の一族越ヶ谷二郎為基や大相模二郎能高が越谷に定住。野与党の氏神久伊豆宮を祀ったと伝える
|
『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
|
43
|
長久・寛徳年間
|
|
1040~ 1046
|
野与党の一族古志賀谷二郎為基や大相模二郎能高が越谷に定住。野与党の氏神久伊豆宮を祀ったと伝える
|
『越谷市市制施行50周年記念誌』
|
44
|
長久・寛徳年間
|
|
1040~ 1046
|
野与党の一族古志賀谷二郎為基や大相模二郎能高が越谷に定住
|
『越谷市市制施行60周年記念誌』
|
45
|
長久・寛徳年間
|
|
1040~ 1046
|
野与党の一族、小相模次郎能高が大相模に定住したと伝える(野与党系図)
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『越谷市史一通史上』
|
46
|
永久
|
1
|
1113/3
|
横山党が下総等五国司に追捕される(長秋記)
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『越谷市史一通史上』
|
47
|
永久
|
2
|
1114
|
大沢真蔵院の浄賢が、大沢浅間社の別当になったと伝える(大沢町古馬宮)
|
『越谷市史一通史上』
|
48
|
治承
|
4
|
1180
|
■源頼朝、武蔵国に入り平氏を攻める
|
『越谷市市制施行40周年記念誌 市制施行40年の足跡 ときを超えて』
|
49
|
治承
|
4
|
1180
|
源頼朝、武蔵国に入り平氏を攻める
|
『越谷市市制施行50周年記念誌』
|
50
|
治承
|
4
|
1180
|
源頼朝、武蔵国に入り平氏を攻める
|
『越谷市市制施行60周年記念誌』
|