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下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

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下松市の石造文化財・祈りと生活 (10、石碑(せきひ) (七星降臨(しちせいこうりん)) (金輪神社(かなわじんじゃ)))

10、石碑(せきひ) (七星降臨(しちせいこうりん)) (金輪神社(かなわじんじゃ)) 下松駅を降り,境内に大きな一本の松の木があり、そばに「下松発祥之地 七星降臨鼎(かなえ)之松」の石碑がある。  ,下松妙見宮縁起によると、推古天皇三年(五九五)九月十八日、青柳浦の松の大樹に七星が降り、七日七夜光り輝,昔ここに三株の(降臨松・連理松・相生松)松の木があり、鼎の足の形になっていたので鼎の松といわれている。 / 10、石碑(せきひ) (七星降臨(しちせいこうりん)) (金輪神社(かなわじんじゃ))
下松市の民話・伝説と民謡 (3 かなえの松 (下松地区))

下松発祥(はっしょう)の伝統を秘めた七星降臨の松といわれ、その木の下に、降臨(こうりん)の星を祭ったという,松の木のそばには、「下松発祥の地 七星降臨鼎の松(かなえのまつ)」という、自然石の大きな石碑(せきひ),むかしここに、三株の大きな松の木があって、鼎の足の形になっていたので鼎松といい、これに七星が降臨したということである
下松市の民話・伝説と民謡 (2 妙見さまの星まつり(みょうけんさまのほしまつり) (下松地区))

妙見さまの星まつり(みょうけんさまのほしまつり) (下松地区) 推古天皇の御代に、青柳浦の松の木に、七星,の降臨があった三年の後、その予言の通り来朝した百済(くだら)の琳聖太子(りんしょうたいし)は、里びとのお,この妙見菩薩は、別名、北斗菩薩尊星王ともいわれ、北斗七星を神格化したもので、これを念ずれば、国土を守り
下松市史 通史編 (下松地方における妙見信仰のはじまり)

ただ青柳浦に降臨した北辰尊星が、琳聖太子の守護神となったとする説話のモチーフは、十五世紀にはじめて構想,下松地方が北辰妙見信仰の一つの拠点であったことが、中世になって、都濃郡青柳浦に北辰尊星が降臨し、妙見大菩薩,それが因由となって北辰降臨説話が構想され、下松の地名を歴史的に説明する根拠とされたのである。  ,かつて降臨の松、連理の松、相生の松の三本の松が並び、北辰尊星が降臨した松があったと伝える。,一九五一年(昭和二十六)建立の記念碑に「下松発祥之地、七星降臨鼎之松」と刻字する。
下松市史異説 ((四))

が実在することで、現在では降臨説の有力な根拠となっている。,然るにその由来について、松樹への降臨を上申書は明記してはいない。,降臨の松とされたのは、明治に入ってからである。,文献の次に金輪神社(降臨の松)附近の干拓年代について考察しよう。  ,、郷土史関係者の憂慮するところであったが、更に昭和二十六年四月に至って金輪神社境内に「下松発祥之地・七星降臨鼎之松
妙見さま ((4)聖徳太子との会見)

琳聖太子、聖徳太子会見の絵  そして琳聖太子は百済国より持ち来たった北斗七星剣をささげることができました,四天王寺や飛鳥寺等を参拝し、一応来朝の挨拶も一段落すると、青柳の浦のことを考え、聖徳太子に九月十八日の大星降臨
妙見さま (妙見宮鷲頭寺年中行事)

風鎮祭 /八月三十日午後七時~九時迄       家内安全、交通安全ゴマ祈願 風鎮祭 風鎮祭  降臨祭修行,五穀断修行星供    断食護摩修行/九月十六日・十七日・十八日         (ゴマ祈願)    降臨祭, 《毎月の行事》    一日/周南七福神御縁日    十八日/午前十時より   妙見さま御降臨御縁日,しあわ)せ祈(いの)りつつ   拝(おが)む下松妙見(くだまつみょうけん)の    光(ひか)る七星北斗星
文献史にかいまみる妙見さま (第一章 妙見社の縁起)

弘法大師空海をさかのぼる事、約二百年前の物語であり、山口県都濃郡の鷲頭庄(下松市)の青柳浦の松の木に北斗七星尊星王,、妙見菩薩として降臨された物語である。  , 以上三種類の寺伝が存在し、大星が鷲頭庄の青柳浦に落下し、星の信仰がおこり、琳聖太子を擁護する為に降臨,『鷲頭山舊記』、『北辰妙見菩薩霊応篇鎮宅霊符縁起集説』に記す大星降臨の日を推古三年九月十八日と定め、琳聖太子来朝,国宝七星剣である。これは北斗七星を剣に表現した妙見信仰の象徴の宝剣である。
下松市史異説 ((一八) 石碑)

同多宝塔重脩碑の他孝女満佐(公集小学校入口)・花岡御茶屋跡春雨桜・閼伽井坊前弘鴻(ひろひろし)・金輪神社の七星降臨
文献史にかいまみる妙見さま (第二章 日本における天皇と北辰祭祀)

阿佐太子は聖徳太子に七星剣を献上したといわれている。  ,天地の現象は相互に感応し、その中心が北極星、北斗七星であった。  ,平安朝に入り、陰陽道、宿曜道が勢いを得るにつれ、星祭りがしだいに盛んになり、中期から後は特に北辰と北斗七星,交野(かたの)には、妙見山があり、⑯星田神社(龍降院)という妙見尊降臨の霊場が残っている。  ,23妙見供は、妙見菩薩を中心に北斗七星二十八宿などを配した曼荼羅を懸け、その前に壇を設け、護摩を焚いて
下松市の石造文化財・祈りと生活 (下松市の石造文化財 祈りと生活 目次  付、下松市内の指定文化財)

9 石碑(小林武作(こばやしぶさく)) (久保 西蓮寺(くぼさいれんじ)) … 103 10 石碑(七星降臨
下松市史異説 ((一) 妙見山潮流と私見)

この降臨説は、現在の学問からすれば、思想幼稚な時代の創作神話であって、史実としての信憑性は、疑わしいが,キトラ古墳壁画(部分)・奈良県明日香村(朝日新聞) 七世紀末~八世紀初の古墳に北斗七星他が金箔で描かれ
文献史にかいまみる妙見さま (第三章 大内氏の妙見社)

②  長承四年(一一三五)、周防の国司、藤原憲方は、妙見菩薩が降臨したという伝説の地、鷲頭の庄を待賢門院,地主天 弁才天   四方天王 四方七宿 織女星   大功徳天 地主天 帝釈 菩薩化王化   善神王七星
下松のいろいろの歴史 (7 久原工場設置当時の事情について)

もし報道者が、下松の地名伝説に興味を持っている人であったならば、この白雀の吉兆をもっと神話的な物語「七星降臨,七星降臨によって下松の起源ははじまったのであるが、この日はたしかに第二の下松の起源となるべき日であり、
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