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下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

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下松市史 通史編 (下松藩とは)

下松藩とは 一六〇〇年(慶長五)の関ケ原戦後、防長二カ国に減封された毛利輝元は、長府に毛利秀元を、岩国,三つ目の支藩下松藩の創設である。,現在の下松市域との関連をみると、分知当初の一六一七年には、現市域の実に全域が下松藩領であった(図1)。,このように現下松市域と下松藩・徳山藩は、きわめて密接な関係があり、下松藩を抜きにしては、近世の下松は語,図1 1617年分知当初の下松藩域概念図 図2 1621年替地以後の下松藩域概念図 / 下松藩とは
下松市史 通史編 (下松藩の正式認知)

下松藩の正式認知 三四年(寛永十一)二月、就隆は下松藩が正式に認知されることを望んだ。,下松藩の石高には、輝元が分知した慶長検地の高である三万石、寛永検地の高である四万一〇石、このとき幕府に,知行をもらうのではない)、将軍に奉公に出ること、将軍と主従関係を結び諸侯(大名)に列すること、すなわち下松藩 / 下松藩の正式認知
下松市史 通史編 (下松藩領村々の石高)

下松藩領村々の石高 下松藩領(徳山藩領)村々の石高の変遷をみていこう。,を実際の高とする説(『新南陽市史』)もあるが、ここでは両者とも実際に機能した高で、後者は寛永検地後の下松藩,また、一六二二年(元和八)に下松藩が物成を四つ成に改めたとする説(「徳山藩史」)は、それがここにあげる,下松藩全村の四つ成高は、五万四〇五石九斗五升六合二勺である。  ,表7 下松藩(徳山藩)領村々の石高・想定年貢指数の変遷 村 名 7ツ3分高 5ツ成高 4ツ成高 3ツ5 / 下松藩領村々の石高
下松市史 通史編 (下松藩の設置)

下松藩の設置 就隆は、一六一六年(元和二)一月二十五日に帰国の暇をもらった(毛利家文庫「徳山御旧記」,この就隆の在国中に、下松藩が創設された。,移管行為としてはまず右の日付が重要で、一六一七年(元和三)四月二十八日に下松藩が成立したとしてよいであろう / 下松藩の設置
下松市史異説 ((二) 分知と下松藩)

(二) 分知と下松藩 毛利輝元は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いに於いて八ケ国一一二万石から防長二,これは、内証分知即ち下松藩への内配りであって、熊毛郡島田村を除くほかは、すべて都濃郡内であった。   / (二) 分知と下松藩
下松市史 通史編 (寛永の検地)

下松藩領の村々の打渡坪付帳の日付は、寛永三年十二月五日であり、例えば豊井村のそれの奥書は、つぎのとおりである,福間淡路守は、下松藩の家老で、おそらくこの時期当職を勤めていたものと思われる。,検地の結果、下松藩領は、四万一〇石の総石高となった。
下松市史異説 ((一) はじめに)

まず下松藩に関する年表と、毛利就隆に関する系図を掲載しておきたい。,下松藩年表 元和三年四月 一六一七 秀就三万石余を弟就隆に分知 元和四年十一月 一六一八 就隆はじめて,寛永二年四月 一六二五 輝元 萩で死去 寛永八年八月 一六三一 下松居館完成 寛永十一年三月 一六三四 下松藩幕府
下松市史 通史編 (分知当時の村々)

いくつかの史料から、分知当時の下松藩に属した村々とその石高を掲げて、復元してみよう。,まず、分知当初は下松藩に属したが、一六二一年(元和七)から翌年にかけて行われた替地によって本藩に返還された,つぎに分知当初も、そして替地後もずっと下松藩領でありつづけた村々は、     ○生野屋村 一一二四石六斗五升五合
下松市史 通史編 (西福寺)

その後西福寺は没落し、その跡地に林松山大蓮寺が建立され、さらに毛利就隆が下松藩(のちの徳山藩)を興してからは
下松市史 通史編 (分知当時の内実)

人物であり、翌年に「御抱守御用人」として元相につけられた奈古屋対馬・福間淡路・榎本五郎左衛門とともに、下松藩,以上、この項でみてきた通り、分知当初の下松藩は、まだ発足したばかりで、内実は知行組織として未熟なものであった
下松市史 通史編 (船倉の所在地)

そのことから、下松藩・徳山藩の船倉は、一六八三年まで下松町の、のちに新町になった場所にあったと推定する,下松藩は、もとあった本藩の船倉ないしその跡を、自らの船倉として引き継いだと考える方が自然だからである。
下松市史 通史編 (河内村の打渡帳)

河内村の打渡帳 河内村(近世中期に分村する来巻も含む)の打渡坪付帳は、「先御蔵入」(下松藩への打渡以前,福原広俊は、この河内村に三九六石八升三合の知行地を持っていたが、下松藩分知にともなってそれを手離し、さらに
下松市史 通史編 (江戸屋敷の拝領)

あるいは、下松藩は内証分知であって、このときまだ正式に将軍に認知されていないので、江戸屋敷拝領のことは
下松市史異説 (下松市史異説・目次)

  毛利氏の下松侵略 鷲頭・下松・妙見山の戦いと千人塚         419 十七  毛利就隆の下松藩創設
下松市史 通史編 (なぜ替地をしたのか)

なお上表のうち、栗屋・譲羽・河廻と須万のうちみたけ・兼田以外の分は本当は該当しない(下松藩が持ちつづけている,その結果、下松藩全体としては、九一・〇の数値となったが、それだけの減ですんだのは、強引な替地のおかげといえる,所領の一円性からすれば、たとえば富海村よりも戸田村を取る方が有利とみられ、戸田村の一部はすでに下松藩領
下松市史 通史編 (本藩からの合力)

しかし、就隆の在江戸によって下松藩の財政はかなり苦しくなっていたこと、本藩からの財政援助が期待され、また
下松市史 通史編 (別朱印願い一件)

この領知朱印状発給のさいに、秀元(長府藩)と就隆(下松藩)が、秀就(萩本藩)とは別個に将軍から朱印状を,もし、長府藩・下松藩に別朱印が発給されていたら、支藩の自立性が強まっていたであろう。
下松市史 通史編 (豊井村の打渡坪付帳)

この元和三年打渡坪付帳は、慶長十五年検地帳をもとに作成され、本藩から下松藩成立にさいして引き渡されたもので,このように豊井村は地方(じかた)の機能以外に、下松の市町・浦・塩田の機能をあわせもち、当時下松藩の中心地
下松市史 通史編 (寛永検地)

一方下松藩は、一六二一年(元和七)の知行替以来、その領地は変わらず、寛永検地の結果、惣高は四万一〇石八斗五升,500石(繁沢監物) 600石(草苅対馬) 75.322石(木原左近先地) 山田村 1,370.085 下松藩領
下松市史 通史編 (本藩領の村々)

一六一七年(元和三)四月二十八日、輝元の二男就隆が別家を興して下松藩(のちの徳山藩)を創設するに当たって,下松藩領については第二章1・2で詳述されるので、ここでは本藩領について、簡単にその推移をみておきたい。
下松市史 通史編 (藩祖就隆と江戸下向)

藩祖就隆と江戸下向 下松藩の藩祖毛利就隆は、一六〇二年(慶長七)九月三日に、毛利輝元の二男として、伏見
下松市史 通史編 (替地一件)

千弐百三拾石五斗五升四合  御蔵入     三百四石九斗四升五合    御屋敷様    すなわち下松藩領
下松市史 通史編 (慶長十五年の検地)

七三パーセントという過酷な年貢率が、実際に収奪の目安とされていたことは、下松藩で、慶長十五年検地に基づいて
下松市史異説 ((六))

下松市史』平成元年には、   「その後西福寺は没落し、その跡地に林松山大蓮寺が建立され、さらに毛利就隆が下松藩
下松市史 通史編 (目次)

………… 230 初期の藩財政 230  検地と土地制度 231  本藩領の村々 235 第二章 下松藩,の成立と展開 ………………………………………… 238  1 下松藩の創設 …………………………………,……… 238 下松藩とは 238  藩祖就隆と江戸下向 239  就隆の果たした初期の役割 241,  下松藩の設置 243  分知当時の村々 245  分知当時の内実 247  就隆の婚約 249  ,……………… 259 下松陣屋の建設 259  船倉の所在地 261  江戸屋敷の拝領 263  下松藩
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