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下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

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妙見さま ((一) 妙見さま)

妙見さま / (一) 妙見さま 下松市中市の妙見さまは、日本の古代史の中に時に顔をのぞかせる。  ,古い時代の神道と仏教の書物の中に下松の妙見さまが出てくる。  ,さまの後から見えかくれされるのである。,妙見さまと琳聖太子さまが日韓友交の礎になるとお考えならば、かならず実現するであろう。,未来の妙見宮の姿 未来の妙見宮の姿  私は、不思議にも京都仁和寺の本山より、妙見さま御降臨 / (一) 妙見さま
妙見さま ((1)妙見さまと多々良家七代)

妙見さま / (1)妙見さまと多々良家七代 琳聖太子(多々良家初代)の死後、多々良家一族は灘波の生玉の宮・下松の宮,・多々良の宮を中心に静かに妙見信仰を布教し続ける。  ,多々良家といえば、妙見さま、百済寺といえば多々良家と考えられ、妙見さまの信仰者として、布教者として、はたまた,妙見さまの子孫として誰もが信じていたことでもあった。  ,その妙見さまの中心地、御降臨地が下松であり、妙見社(宮)鷲頭寺の本尊妙見大菩薩であった。   / (1)妙見さまと多々良家七代
妙見さま ((13)七佛神呪経と妙見さま)

妙見さま / (13)七佛神呪経と妙見さま 七佛神呪経には妙見さまのことについて、「我北辰菩薩を名けて妙見と曰ふ、,今神呪を説き国土を擁護(ようご)せんと欲す、所作甚だ奇特の故に妙見と名く、閻浮提(えんぶだい)(此の世界,妙見さま  神儒仏の調和の主、北斗七星は、神道では天御中主神と呼ばれ、儒教では太一神と敬まわれ、,仏教では妙見大菩薩として帰依された。   / (13)七佛神呪経と妙見さま
妙見さま ((三) 妙見さまと琳聖太子)

妙見さま / (三) 妙見さまと琳聖太子 大内氏の歴史からみれば、琳聖太子さまは百済国の王子であり、七州の太守、大内氏,しかし、妙見宮鷲頭寺からみれば偉大な宗教者としての琳聖太子さまが浮びあがる。  ,そして、私が住職になってみて非常に驚いたことに、この宮寺が、妙見信仰の発祥の地であり、日本ではじめて星祭 / (三) 妙見さまと琳聖太子
妙見さま ((17)妙見さまの神言(訓旨))

妙見さま / (17)妙見さまの神言(訓旨) 推古十八年、隋の煬帝は高句麗征討の準備にかかる。  ,『昔し、尊星太一神(妙見さま)天降り玉うとき、数々の神制を示めし玉ふ。,一千年後、妙見さまの神言にそむき、大内家が神言のごとくなる。   / (17)妙見さまの神言(訓旨)
妙見さま ((11)神儒仏の調和と妙見さま)

妙見さま / (11)神儒仏の調和と妙見さま 推古時代の日本にとって、神儒仏の調和こそ最も重要なことであった。,その神儒仏の調和の橋が妙見信仰であった。  ,まず、妙見さまと天御中主神さまとの関係を考えることにする。  ,これを祀星奉称妙見尊星大菩薩社と伝えている。  ,しかし、推古十七年という年月は妙見宮にとって遷座という大変な年であった。   / (11)神儒仏の調和と妙見さま
妙見さま ((2)妙見さま受難の時代)

妙見さま / (2)妙見さま受難の時代 明治十二年の前後は何かと問題の多い時期であった。  ,このような時代に、鷲頭寺住職河村明範師は妙見宮鷲頭寺の繁栄と存続を考え、下松町に移転の決意をする。,同郡西豊井村下松町ニ移轉致シ度旨ニ付即御本山之御副書ヲ得テ地方廳ニ出願候趣ニ御座候得共、本ヨリ当寺ニ安置之妙見大菩薩者数百年来村内人民之信仰者勿論近郷一般帰依之尊像 / (2)妙見さま受難の時代
妙見さま ((1)妙見さま中市に御遷座)

妙見さま / (1)妙見さま中市に御遷座 防長の二国は倒幕のため上を下への大さわぎであった。  ,小松宮様は、当妙見宮鷲頭寺の本山・御室仁和寺の第三十世楞嚴定院御室一品純仁法親王様である。,明治五年、六年は廃仏毀釈の運動が広がり、下松の妙見宮鷲頭寺も、その荒波の中にのみこまれてしまった。,妙見社には別当の鷲頭寺をはじめ、上宮・中宮・若宮とあり、その内の中宮が郷社に列せられた。  ,明治五年に神官はすべて教導職に補すという発令が出され、妙見社鷲頭寺の住職、河村明範師は教導職試補となった / (1)妙見さま中市に御遷座
妙見さま ((9)長門市深川の妙見社)

妙見さま / (9)長門市深川の妙見社 長門市深川の海岸に小さな山がある。,その頂上付近に妙見社がある。この山は妙見さま妙見さまと親しみをもって呼ばれている。,長門市妙見社 長門市妙見社  この妙見社は一四一〇年~一四三〇年頃、鷲頭弘忠が長門の守護代,の時、下松の妙見社から妙見さまを勧頂された。  ,『風土注進案』には「妙見は都濃郡下松にまつられるのがはじめにて、棚井妙見これなり。 / (9)長門市深川の妙見社
妙見さま ((5)氷上山妙見社と興隆寺)

妙見さま / 大内家の氏神信仰は大内茂村(大内氏四代)の時、下松の妙見社の妙見さまの御分霊を山口の氷上山にお祀りすることからはじまる,妙見さま御分霊 氷上山妙見社の絵(山口市)  大内茂村は天台宗の古刹である氷上山の興隆寺,に下松の妙見社の御分霊を大内氏の氏神として勧請した。  ,その後、興隆寺は大内氏の氏寺となり栄え、氷上山の妙見社はおおいに栄えた。  ,妙見社の境内には、今なお大内氏のおもかげの朝鮮鐘が残っている。 / (5)氷上山妙見社と興隆寺
妙見さま ((1)妙見宮鷲頭寺縁起)

妙見さま / (1)妙見宮鷲頭寺縁起 時に、推古三年九月十八日、周防国都濃郡鷲頭庄(下松市)青柳の浦に忽然として、,妙見さま降臨の絵 鷲頭山旧記  国中の諸氏大いに驚き、奇異の思いをいたすと、坐人に託して,宣、  〝我は是、北辰妙見尊星なり〟  今より後三年して三月二日に百済国の琳聖太子此国に来るべし。,天井絵 妙見さま日本渡来の絵(天井絵) / (1)妙見宮鷲頭寺縁起
妙見さま ((5)妙見宮鷲頭寺の復興はじまる)

妙見さま / (5)妙見宮鷲頭寺の復興はじまる 昭和五十六年六月より本堂の屋根の修復がなされ、八月末には本堂修復完成,日韓の友好仏として、当妙見宮鷲頭寺に鎮座される。  ,この日のために、妙見さまの歴史を書きたいと念願し、二年間の歳月が過ぎました。,しかし晋山式を機に一冊の本にできますこと一重に妙見さまと琳聖太子の御加護と深く感謝しております。  ,ただ、私はこれから妙見さまの御神示に従い妙見宮鷲頭寺の復興を精一杯させていただくのみです。 / (5)妙見宮鷲頭寺の復興はじまる
妙見さま ((21)妙見社(宮)に仏像造立)

妙見さま / (21)妙見社(宮)に仏像造立 琳聖太子は舒明(じょめい)天皇の御宇に灘波に百済の仏師をまねき、仏師,舒明五年に琳聖太子は自ら彫刻された推古天皇・聖徳太子像と、御自分の像と虚空蔵菩薩を下松の妙見社(宮)に,持ち来たり、妙見社中宮に妙見さまの左脇に、推古天皇と聖徳太子像をおまつりし、そして御自分の像を右脇に、 / (21)妙見社(宮)に仏像造立
妙見さま (妙見宮鷲頭寺年中行事)

妙見さま / 妙見宮鷲頭寺年中行事 元旦参賀/一月一日・二日・三日       家内安全、開運ゴマ祈願  ,     《毎月の行事》    一日/周南七福神御縁日    十八日/午前十時より   妙見,さま御降臨御縁日 毎月18日妙見さま御縁日祭   妙見さま御縁日祭 (毎月18日午前10時より,色かへぬ   今は昔の  夢のあと    ノンタ/\ゴアンスノー   (2) ここは名おふ 妙見,さまで   ソットおみくじしてみやしゃんせ   縁も大吉 お家も榮ゆ   鶴と亀とが 舞ひ遊ぶ / 妙見宮鷲頭寺年中行事
妙見さま ((2)七佛妙見と多々良家七代)

妙見さま / (2)七佛妙見と多々良家七代 琳聖太子七世の孫、多々良正恒の父は阿津太子で、母は長門国の国司の娘であった,多々良正恒は七佛妙見の信仰を多々良七代にあてはめ、妙見信仰と多々良家を思想的に大成させることになる。,正恒は琳聖太子の流れを真言密教によって妙見信仰の確立をはかった。,阿字の絵 五大明王  そして、妙見さまを大内家の氏神として祀り、多々良七代を妙見大菩薩,の生れかわりだと考え、七佛妙見とし、北斗七星の一星、一星の化身佛ともした。   / (2)七佛妙見と多々良家七代
妙見さま ((10)豊浦郡菊川町の妙見大菩薩社)

妙見さま / 美栄神社は、かつて江戸時代の終り頃まで妙見大菩薩社と呼ばれており、その近くにもまた小さな妙見社がある。,この妙見大菩薩社も昔、下松の妙見社の御分霊がおまつりされていた。  ,この妙見大菩薩社には大般若経がおさめられている。,それには応永三十二年(一四二五)長州千葉山・妙見下宮と書いてある。,数百年間おまつりされていた妙見さまが、江戸時代の終りにかえられたということは、もうすでに、この小さな場所 / (10)豊浦郡菊川町の妙見大菩薩社
妙見さま (目次)

妙見さま / 目次 発刊を祝して    序文    (一) 妙見さま ……… 18    (二) 大内氏最後,の姫 ……… 19    (三) 妙見さまと琳聖太子 ……… 23   (1)妙見宮鷲頭寺縁起 ,さま 37   (12)唯一神道名法要集 41   (13)七佛神呪経と妙見さま 43   (14,さま ……… 59   (1)妙見さまと多々良家七代 59   (2)七佛妙見と多々良家七代 60,  (3)白亀の出現 87    (六) 妙見さまの受難 ……… 88   (1)妙見さま中市に
妙見さま ((1)妙見社鷲頭寺と毛利元就)

妙見さま / (1)妙見社鷲頭寺と毛利元就 大内氏の滅亡により妙見社は少しさびれる。  ,永禄四年(一五六一)尼子氏滅亡の宿願によって社殿を修理し、御神與三體と御太刀・木馬などを寄進するなど妙見,さまに対する信仰は大内氏に譲らず、次で七坊の一つである宮司坊を毛利元就の命によって鷲頭寺と改め、山号を,妙見山と称し、これによって現在の妙見社鷲頭寺が出現する。  , 干時永禄四年辛酉天、社奉行大庭加賀守平賢兼  御神與の御棟札には  奉新造、防州都濃郡鷲頭妙見山 / (1)妙見社鷲頭寺と毛利元就
妙見さま ([口絵2])

妙見さま / [口絵2] 仁王門より見た本堂 妙見さま本堂 説法とお祓い   お祓い 七・五・三詣で 断食降臨祭護摩祈願中,さま(こうしんさま)と荒神社 荒神社 亀池 庚申さま 天井絵 信心深き人々       妙見,さまのお祭り   風鎮祭   節分祭   風鎮祭 宝物 白亀の甲羅 棟札 阿字の絵
妙見さま ((5)日本最初の星祭り)

妙見さま / 是より、北辰妙見尊星と称し奉り、九月十八日に星祭りが盛大になされた。  ,それより以後、妙見さまのお祭りは九月十八日と定められました。  ,そして、妙見さまを鷲頭の庄の氏神と崇敬し、降臨松の由来を以て、青柳の浦を改め降松(下松)となりました。,琳聖太子は灘波の生玉の宮を住居と定め、その宮に妙見さまをお祭りし、これから聖徳太子がなされようとする日本
妙見さま ((6)降臨祭の復活を願う)

妙見さま / (6)降臨祭の復活を願う 当妙見宮鷲頭寺にとって、一番大切な行事は推古三年九月十八日の妙見さま御降臨,琳聖太子は、推古五年九月九日より九月十八日まで星供を修行され、妙見さま御降臨日を祝われました。  ,妙見尊降臨千参百五拾年記念法会  現住職である私は、琳聖太子の御心を受け、昭和五十七年より毎年九月九日,そして、この下松の妙見さまが日本最初の妙見信仰発祥の霊場だということを知っていただきたい。  ,合掌礼拝   昭和五十九年九月十日     降臨祭五穀断修行途中     於妙見宮鷲頭寺持仏堂
妙見さま ((3)白亀の出現)

妙見さま / 文化八年(一八一一)八月四日、妙見川に白亀が出現して奇瑞をあらわした。,白亀出現の絵 白亀の甲羅 妙見川  亀は妙見さまの使者であり、現在、本堂内に大切におまつりされている,妙見さまの使者、亀池の亀  同十三年三月二十一日、妙見社釣鐘の鑄替を行い、翌十四年二月十八日、江戸,の徳山藩主邸内に北辰妙見尊星王を勧請奉祀された。  ,しかしその数十年後、妙見宮鷲頭寺遷座の大事件がまちうけていた。
妙見さま (発刊を祝して)

妙見さま / このたび、妙見信仰の中心霊場として重きをなす妙見宮鷲頭寺が、その歴史を紹介する〝妙見さま〟の発行を企画,この〝妙見さま〟は、よく調査・研究が行われており、写真等も豊富に、わかり易く紹介されております。  
妙見さま ([表紙])

妙見さま / [表紙] 表紙    妙見さま    ■カバー写真/妙見山略図(江戸時代)
妙見さま ([奥付])

妙見さま / [奥付] 妙見さま    昭和六十年四月七日発行     著者 杉原孝俊     発行 ,妙見宮鷲頭寺       〒七四四       山口県下松市西豊井一一四三       電話(〇
妙見さま ((14)下松・茶臼山に上宮建立)

妙見さま / (14)下松・茶臼山に上宮建立 琳聖太子は聖徳太子を助けるとともに常に下松妙見社(宮)の発展を考えておられた,上宮・中宮・下宮・閼伽井坊建立で妙見さまの宮殿が完成された。  ,また中宮には、妙見菩薩をお祀りし、日本国の鎮護とし、日本の平和の神とされた。,これにより、妙見さまの予言どおり、はるばる百済国の地より渡海した意義が十二分に成就した。  
妙見さま ((9)灘波の生玉の宮)

妙見さま / 下松の宮を後にして、琳聖太子は大阪の生玉の宮を住居として、まず、都の四方に妙見社の建立を聖徳太子にお願,いし、次々に妙見さまをお祠りされた。  
妙見さま (あとがき)

妙見さま / あとがき 皆様の暖かい御協力により、妙見さまの歴史を一冊の本にすることができました。  ,これは、一重に本尊妙見大菩薩さまの御神力の賜物と深く感謝する毎日です。  ,今後とも皆々様の御協力によりまして、妙見宮鷲頭寺の発展をお願い申しあげます。  ,妙見宮鷲頭寺縁起   鷲頭寺古文書   霊符護法秘鑑   (東武竹林庵選集)   北辰妙見社畧縁起,  妙見菩薩霊應編  (近江屋佐太郎)   鎮宅霊符縁起集説 (神原河内介)   下松案内     
妙見さま ((16)上宮・中宮、鷲頭(じゅとう)山に遷座(せんざ))

妙見さま / 一方推古十一年秋、高鹿垣の嶺に上宮を建立し、北斗七曜石と七宝の玉を納め、お祭りされていたが、その後、妙見,さまの御心にそわない舟が海上を通過するとき、難破したり航行不可能になったりすることがかさなり、遷座をねがう
妙見さま ((4)宇多天皇と大内正恒)

妙見さま / このような時、多々良正恒は妙見さまの御神力によって宇多天皇より大内姓を賜うのである。  ,大内正恒は周防に帰り、妙見さまに感謝をささげ、鷲頭山に、上宮・中宮を再建された。  ,大内茂村は再度、妙見社を再建し、そして山口市の氷上山に妙見大菩薩の御分霊を大内氏の氏神としてお祀りされた,氷上山にあった興隆寺は大内茂村が下松の妙見社から妙見大菩薩を勧請して多くの人々の崇敬は他と異なり、興隆寺,このようにして、下松の妙見信仰は大内氏の隆盛とともに全国各地に広がっていった。
妙見さま ((26)琳聖太子の死)

妙見さま / 灘波の百済寺は琳聖太子によって推古十五年に建立され、その寺の本尊は妙見大菩薩であった。  ,一方、妙見信仰の中心地、下松の妙見社に悲しみの使者がつかわされ、琳聖太子の遺骨が分骨され、盛大な葬式が,いつの日か、また、漢式鏡やその時出土した刀剣等が下松の妙見さまの元にもどることを念願する。  ,また、三田尻には琳聖太子の死をいたみ、琳聖太子さまが乗っておられた車を納め、手厚く供養され、車塚妙見としておまつりされた,車塚妙見社(防府)
妙見さま ((14)義隆・神言にそむく)

妙見さま / 多々良正忠諌言(かんげん)を加ふといへども義隆諌めを用いず、一千餘歳より天降(あまくだ)り玉ふ、太一尊星(妙見,さま)も降臨し玉はざれば五百の衆徒七日七夜まで招請の壇法を修すといえども甲斐(かい)なし、別當尊光法師
妙見さま ((3)大本山 移転反対をわびる)

妙見さま / 『鷲頭寺は古来より維新のきわまで妙見宮別当なる処で神仏判然の節、本村の信者輩当寺観音堂に妙見さまを安堵,し、遠近の差別なく信者の多きは己前にもまして多く、これ妙見宮安置の仏体なるをもって、しかるになお移転しようとはなにごとであるか,この宝塔は明治十二年に中市に妙見宮を遷座するとき河内村の住民の反対のため松心寺の籔の中にかくした。
妙見さま ((6)下松妙見社再建の歴史)

妙見さま / (6)下松妙見社再建の歴史 大内正恒四代孫茂村によって、また鷲頭山の妙見社の宮殿が再建された。,しかし、同族を殺したことに対しての罪ほろぼしの意味をこめ、七佛妙見・多々良七代の尊霊を祀るため、七坊の / (6)下松妙見社再建の歴史
妙見さま ((6)百済国発祥の由来)

妙見さま / (6)百済国発祥の由来 琳聖太子は妙見さまの霊験を示す北斗北辰霊府七十二道の行をはじめて日本に伝えられた
妙見さま (周南七福神めぐり)

妙見さま / 妙見宮鷲頭寺 〈大黒天〉 下松市中市 電話 (0833) 41-1345  当寺は推古五年(五九七,)大内氏の太祖琳聖太子によって開かれ、大内氏の氏神として栄え、妙見信仰発祥の宮寺と言われている。  ,当寺の妙見さまが、推古三年九月十八日に、松の木に御降臨なされたことにより、下松の地名ができたと伝えられている,当寺の本尊は妙見大菩薩で、真言宗御室派の中本寺である。  
妙見さま (序文)

妙見さま / 序文 大内家の栄枯盛衰を紐解くには妙見大菩薩並びに聖徳太子様と琳聖太子様「百済国第三皇子」との関係を,究明する事が妙見様を皆様に御理解して戴く一番早道かと思います。,妙見大菩薩様の御誓願、それは諸の国土人民を救済せんと大誓願を発し種々方便の時七星と顕れ或は親友と化して,明治五年の廃仏毀釈の制度が敷かれ、妙見宮は妙見社鷲頭寺として神仏混淆の社寺として明治十二年十二月初旬、,現在地に妙見菩薩像及び其の他の尊像宝器現在地に遷し祀ったのであります。
妙見さま ((15)大内氏の滅亡)

妙見さま / 妙見宮鷲頭寺蔵の〝北辰妙見菩薩霊應編、(天明六年=一七八六年)京都・近江屋佐太郎発行〟には『文亀年中、,妙見尊像と大内義真の絵  この大内義真は別して北辰尊仙王を恭敬し、常に甲(かぶと)の天邊に北辰妙見,大内氏滅亡の絵  然るに廿八代目大内兵部卿義隆といえる人、元祖より北辰妙見神仙の加護あるを以て、,然るに忽ち、北辰妙見尊星の神恩を忘れ、もっぱら詩歌管絃をもてあそび北辰の祭祀星供を退轉し、勤行信念を懈怠,長門市大寧寺  この寺は下松の領主であった鷲頭弘忠が長門守護代となり長門深川城に入った時、妙見社
妙見さま ((7)―北斗北辰霊府七十二道を聖徳太子に伝授―)

妙見さま / 則ち、妙見宮の御神体として納め玉ふ。  ,先に有りし漢の劉進先生より孝文皇帝へ、北辰妙見霊府の行法をさずかり玉ひて唐土へ弘め玉ふ。  ,ここにおいて、我が朝・王城の四方に北辰妙見尊星王を祭り玉ふて、日本六十余州に霊府の法が広まった」と書かれている
妙見さま ((2)鷲頭寺の発展)

妙見さま / 発展 延寳六年(一六七八)八月に就隆によって上宮上屋建立、造營奉行は服部久太夫、大工佐藤六左衛門、妙見山鷲頭寺法印,その後、明和元年(一七六四)八月、権大僧都恵本法印の代に妙見社宿殿を再建、作事奉行は淺海甚兵衛、大工は,同四年十一月、恵本法印の代に大檀那たる徳山藩主第七代就馴が御悩平癒祈願のため、北辰妙見若宮社を再建、当時,安永元年(一七七二)十二月十二日、恵本法印の代に氏子中から若宮妙見社燈籠台を建立。  
文献史にかいまみる妙見さま (序論)

文献史にかいまみる妙見さま / 序論 妙見社への御縁は山口県下関市の故郷で第一歩を踏み出していた。,その後数年を経て、下松市の妙見社(宮)鷲頭寺の住職になった。  ,住職になり、この寺が大内氏の氏神である妙見さまをお祭りする寺であり宮であることを知り、妙見社(宮)鷲頭寺,住職になって数年後、『妙見さま』の事を書いた本を出版したのですが、歴史的事実を十二分に調べる事もなく情熱,大内氏の太祖琳聖太子、妙見さま降臨日の伝説は永遠の謎であります。  
文献史にかいまみる妙見さま (目次)

文献史にかいまみる妙見さま / 目次 文献史にかいまみる妙見さま 妙見社鷲頭寺の史的考察について   序論                         ,… 3 第一章  妙見社の縁起                … 5 第二章  天皇と北辰祭祀               ,…20 第三章  大内氏の妙見社               …30 第四章  江戸時代の妙見社鷲頭寺,           …44 第五章  神仏分離と妙見社鷲頭寺           …57 結論                         ,                       …74 下松市全地図                     …75 妙見宮仁王門修復御寄進者並
妙見さま ([見返し])

妙見さま / [見返し] 見返し    将来の妙見大菩薩像
妙見さま ([裏表紙])

妙見さま / [裏表紙] 裏表紙    ■カバー写真/妙見山略図(江戸時代)
文献史にかいまみる妙見さま ([奥付])

文献史にかいまみる妙見さま / [奥付] 文献史にかいまみる妙見さま   平成二十九年五月一日発行     著者 杉原孝俊,  発行 妙見宮鷲頭寺          〒七四四-〇〇一四        山口県下松市中市一丁目十番十五号
文献史にかいまみる妙見さま (第三章 大内氏の妙見社)

文献史にかいまみる妙見さま / 第三章 大内氏の妙見社 琳聖太子創建であるが、大内正恒、茂村の時代になり、大内氏と妙見社の結びつきを,⑲大島の『宮ノ坊文書』の中にこの時代の妙見さまの次第が残っている。   ,⑳第十六条、妙見山狩猟禁制   法泉寺殿 禁制   周防国都濃郡鷲頭庄妙見山   右、甲乙人等、,長享元年(一四八六年)九月四日  妙見さまの使者として、おつかえの亀、蛇を大切にするという徹底した戒,26永禄二年(一五五九年)妙見社宮司坊を改め鷲頭寺となり、鷲頭山を妙見山と称す。   / 第三章 大内氏の妙見社
妙見さま ((4)鷲頭寺火災にあう)

妙見さま / 鷲頭寺、住職の墓(妙見山) 妙見宮奉賛会総代(昭和56年2月節分祭)
文献史にかいまみる妙見さま (第四章 江戸時代の妙見社鷲頭寺)

文献史にかいまみる妙見さま / 『後太平記』には、北辰星拝、大内家風俗乱事、等々数多く、琳聖太子と妙見さまの事は多く語られているが、周防国都濃郡鷲頭庄,『妙見霊応編』と『鎮宅霊符縁起集』は、妙見社の降臨日と同日である。推古三年九月十八日である。  ,、鷲頭寺と改め、山号を妙見山と称し、これによって現在の妙見社鷲頭寺が出現することになる。   ,亀は妙見さまの使者であり、現在、本堂内に大切におまつりされている。,しかし、その数十年後、各地から妙見菩薩の御分霊が妙見社に帰り、妙見宮鷲頭寺の遷座の前ぶれが起こる。 / 第四章 江戸時代の妙見社鷲頭寺
妙見さま ((12)鷲頭山の中宮再建)

妙見さま / (12)鷲頭山の中宮再建 大内家二十六代義興(よしおき)の時代に妙見社の中宮を再建することになる。
妙見さま ((3)多々良正恒、宇多天皇より大内姓を賜う)

妙見さま / 一方、妙見社鷲頭山旧記には『人生五十九代宇多天皇寛平元己酉悪星出現而天子有御悩琳聖太子七世之孫正恒家命於禁中奉修北辰星供因兹御悩静也天皇有叡感正恒賜大内氏并周防国都濃郡
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