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妙見さま
((2)鷲頭寺の発展)
(2)
鷲頭寺
の発展 延寳六年(一六七八)八月に就隆によって上宮上屋建立、造營奉行は服部久太夫、大工佐藤六左衛門,、
妙見山鷲頭寺
法印は増遍であった。,
鷲頭寺
の絵(江戸時代) 延寳七年、増遍法印の時、鐘樓門再建、大檀那は徳山藩主第三代毛利元次、本建立願主,は
鷲頭寺
先住増遍、再建立願主は当代法印文隆(恵昭)。 ,その後、享保二年(一七一七)の秋、氏子中から御神與再造、大檀那は防長太守兼民部大輔毛利吉元、別当は
鷲頭寺
法印一峯 / (2)
鷲頭寺
の発展
妙見さま
((1)妙見社鷲頭寺と毛利元就)
(1)妙見社
鷲頭寺
と毛利元就 大内氏の滅亡により妙見社は少しさびれる。 ,などを寄進するなど妙見さまに対する信仰は大内氏に譲らず、次で七坊の一つである宮司坊を毛利元就の命によって
鷲頭寺
,と改め、山号を妙見山と称し、これによって現在の妙見社
鷲頭寺
が出現する。 ,その御棟札記には 奉造立
妙見山鷲頭寺
上宮御社檀一宇 御遷宮導師、宮司、権僧都源嘉、大檀那毛利陸奥守従四位上行大江朝臣元就並大江輝元,
鷲頭寺
旧跡(吉原) / (1)妙見社
鷲頭寺
と毛利元就
下松市史異説
((五) 鷲頭寺移転による妙見堂の創建)
(五)
鷲頭寺
移転による妙見堂の創建 明治十二年十二月十七日多くの逸話を残して、下松町への移転は完了,現 降松神社若宮周辺・
鷲頭寺
跡・妙見堂跡等所在地図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』 妙見堂・,
鷲頭寺
が、妙見尊とともに、移転したのは、前述のように明治十二年十二月十七日である。,勿論日付から推して、
鷲頭寺
の移転決定とほぼ同時に旧地に妙見堂の創建を計画したことになる。 ,
妙見山鷲頭寺
が、下松町へ移転して、およそ二年後には、小規模ながら旧地吉原へ再度妙見尊が、安置されたのである / (五)
鷲頭寺
移転による妙見堂の創建
文献史にかいまみる妙見さま
(第四章 江戸時代の妙見社鷲頭寺)
第四章 江戸時代の妙見社
鷲頭寺
元禄八年(一六八〇年)に撰述された『陰徳記上』①には巻之第七『大内家先祖之事,その御棟札記⑤には 奉造立
妙見山鷲頭寺
上宮御社檀一宇 御遷宮導師、宮司、権小僧都源嘉、,えんほう)六年(一六七八年⑦)八月に就隆によって、上宮上屋建立、造営奉行は服部久太夫、大工佐藤六左衛門、
妙見山鷲頭寺
法印,今まで七坊が存在していたが、この時は
鷲頭寺
のみになり七坊が
鷲頭寺
のみになったのではなかろうか。 ,大般若経六百巻に有り(輝元公永禄の比御再興の棟札に大庭加賀守は社奉行とあり) 防陽都濃郡
妙見山鷲頭寺
常住奉安置訖 / 第四章 江戸時代の妙見社
鷲頭寺
下松市史異説
((四) 鷲頭寺(妙見尊)の下松町移転)
(四)
鷲頭寺
(妙見尊)の下松町移転 明治三年に政府の裁断により、上宮・中宮・若宮の仏尊を
鷲頭寺
観音堂,妙見社(
鷲頭寺
) (昭和四十年頃)
妙見山鷲頭寺
移転地〇 (下松市管内図) 平田派国学者,この間の事情については、
鷲頭寺
に若干の史料が残っており、又『妙見さま』(
鷲頭寺
杉原孝俊著)に一部掲載されているので,
鷲頭寺
移転之儀ニ付上申書 今般本国都濃郡河内村
鷲頭寺
ヲ以テ同郡西豊井村下松町ニ移転致シ度旨ニ付即御本山之御副書,
鷲頭寺
の移転騒動については、いくつかの逸話が残されている。 / (四)
鷲頭寺
(妙見尊)の下松町移転
下松市史 通史編
(松尾八幡宮)
下松市域には以上にみてきた寺社のほかにも、河内の
妙見山鷲頭寺
や切山の八幡宮のように中世以来の長い歴史をもつ
下松市史異説
((六) 氷上山興隆寺と下松妙見山の亀池)
) 妙見尊は亀に蛇が巻きついた玄武像に座している 右に蛇、左に亀が描かれている(
鷲頭寺
蔵,現在はない) 妙見山若水 白亀池(中) 妙見山若水 白亀池(下・涸)
妙見山鷲頭寺
亀池,現在
鷲頭寺
本堂に白亀の甲羅が保存されている(『妙見さま』杉原孝俊住職著)。,又
鷲頭寺
は明治十二年中市へ移転の際も境内に立派な亀池を築いており勿論これは旧地妙見山の亀池を踏襲したものである,和歌水の浴白亀池の図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』
妙見山鷲頭寺
境内図(部分) 『山口県社寺名勝図録
下松市史異説
((七) 棟札による共同奉祀形態の検討)
(
鷲頭寺
蔵) 同札写 享保二年(一七一七)棟札 (
鷲頭寺
蔵) 同札写 これらの棟札は,さて永禄十二年の棟札中央には、「奉造立
妙見山鷲頭寺
上宮御社檀一宇」と記されている。,上宮とはいかにも神社を思わせるが、この場合
鷲頭寺
上宮とは、例えば法隆寺金堂と同様上宮が
鷲頭寺
の一堂宇であることを,しかし永禄十二年(一五六九)前掲の棟札は、
妙見山鷲頭寺
としてかかる寺院の存在を明確にしている。,(註二) 『新裁軍記』(巻十八・永禄五年十二月十八日の項)には 「防州都濃郡
妙見山鷲頭寺
上宮永禄十二年
下松市史異説
(下松市史異説・目次)
271 十二 妙見山に於ける七坊の成立と下宮の沿革 311 十三
妙見山鷲頭寺
下松市史異説
((四) 赤坂の宮の所在地)
だが幸いなことに文化五年(一八〇八)法眼信喬の作にかかる
妙見山鷲頭寺
所蔵『絹本淡彩妙見社参詣圖』(昭和六十一年,、下松市文化財指定)には上宮・中宮・若宮・
鷲頭寺
の他に七坊之跡・赤坂・桂木山・和歌水浴御供泉・高鹿垣、
下松市史異説
((六) 妙見堂の廃堂)
又一方で中市に移転した
鷲頭寺
は、千年に及ぶ妙見尊を奉祀しており、その後も俗に「妙見さま」と称され繁華街,旧地に創建の妙見堂と、移転した
鷲頭寺
(妙見尊)は、わずか二kmの距離である。,時代の流れというべきか、国策にそって、次第に盛大となる降松神社と、因襲久しい妙見尊を奉祀する
妙見山鷲頭寺
下松市史異説
((二) 妙見山神仏分離説への疑問)
端的に言えば上宮・中宮・下宮は、
妙見山鷲頭寺
の一堂宇である。,表面は分離したとされるもののその実体は、維新政府による神道国教化政策遂行のため、
鷲頭寺
に対して上宮・中宮,降松神社仁王門・正面(昭和三十年頃) 妙見社参詣図(市指定文化財・
鷲頭寺
所蔵・文化五年・一八
下松市史異説
((一) 論旨(神仏分離と改号))
(二五七頁) 『久保村郷土誌』久保村教育会・昭和十一年三月 「明治十二年若宮に附属せる
鷲頭寺
,また社坊に宮司坊以下の七坊があったが、神仏を分離し、社号を降松神社、祭神を天御中主神と改め、宮司坊を
鷲頭寺
,上宮・中宮・若宮(吉原)が座し、社坊の一つ、閼伽井坊は
鷲頭寺
と号した。,(河村註・
妙見山鷲頭寺
)を名乗り神仏混淆の形態を維持して現在に至っている。,同 元旦参拝 降松神社 若宮楼門前石段 同 元旦参拝 北辰閣
妙見山鷲頭寺
扁額
下松市史異説
((二) 七坊成立年代への疑問)
坊、宮ノ坊、宝樹坊、宝積坊、宝藏坊、宝泉坊の七坊を建立し、閼伽井坊は別当で後に宮司坊と改まりのち更に
鷲頭寺
,別当閼伽井坊(
鷲頭寺
)跡地 別当閼伽井坊(現
鷲頭寺
)跡より下松湾方面を望む。,の代とし、坊名まで明らかにされているが、いずれも永禄十二年(一五六九)に権小僧都源嘉の記せる「奉造立
妙見山鷲頭寺
上宮御社檀一宇,七坊に発展するのは、これより更に八年後の永禄十二年(一五六九)十二月十五日付の「
鷲頭寺
上宮御社檀一宇」
下松のいろいろの歴史
(2 河内村の研究)
また、古き『大般若奥書』に 此全部六百巻事、或令勘得、或加書写、御本尊相添え、周防国都濃郡
妙見山鷲頭寺
常住奉寄付畢,
妙見山鷲頭寺
の寺名が史書にあらわれたのは、永禄十二年(一五六九)が最初である。,後、宮司坊が
鷲頭寺
になるに及び、妙見社の別当には
鷲頭寺
の現住がなった。,その後、『地下上申』には 「妙見社本宮 同社中宮 同社若宮」として妙見社とあり、「真言示
妙見山鷲頭寺
,のち元就の時代には妙見社の別当は宮司坊、
妙見山鷲頭寺
になった。
文献史にかいまみる妙見さま
(第三章 大内氏の妙見社)
26永禄二年(一五五九年)妙見社宮司坊を改め
鷲頭寺
となり、鷲頭山を妙見山と称す。 ,これより以後、毛利氏の支配による
妙見山鷲頭寺
の時代に入ることになる。 ,安芸厳島社詣に隨行した九州探題今川貞世の記した和文紀行文) ⑰後太平記上巻 第二 P164 ⑱
鷲頭寺
舊記
下松のいろいろの歴史
(1 地名から見た昔の下松)
また
妙見山鷲頭寺
は真言宗の寺院であるが、真言宗は星供を修し星祭を行い星をあがめる教である。 ,当時鷲頭山には別当(
鷲頭寺
)六坊(中之坊・宮之坊・宝樹坊・宝積坊・宝蔵坊・宝泉坊)、経蔵、宝蔵、五重塔
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