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下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

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妙見さま ((4)鷲頭寺火災にあう)

(4)鷲頭寺火災にあう これでようやく移転の波が静かになったかに見えた。  ,その後、河村明範師は鷲頭寺の住職を正福寺住職中村一現師に明治二十四年一月十一日付でゆずり、鷲頭寺隠居となり,鷲頭寺で頑張る。  ,しかし、不幸にも明治二十七年四月十一日夜、鷲頭寺は火災にあう。  ,鷲頭寺、住職の墓(妙見山) 妙見宮奉賛会総代(昭和56年2月節分祭) / (4)鷲頭寺火災にあう
妙見さま ((2)鷲頭寺の発展)

(2)鷲頭寺の発展 延寳六年(一六七八)八月に就隆によって上宮上屋建立、造營奉行は服部久太夫、大工佐藤六左衛門,、妙見山鷲頭寺法印は増遍であった。,鷲頭寺の絵(江戸時代)  延寳七年、増遍法印の時、鐘樓門再建、大檀那は徳山藩主第三代毛利元次、本建立願主,は鷲頭寺先住増遍、再建立願主は当代法印文隆(恵昭)。  ,その後、享保二年(一七一七)の秋、氏子中から御神與再造、大檀那は防長太守兼民部大輔毛利吉元、別当は鷲頭寺法印一峯 / (2)鷲頭寺の発展
下松市史異説 ((五) 妙見山と地名)

(五) 妙見山と地名 やや余談になるが、「赤坂」のついでに、妙見山一帯の地名について、若干の考察をしておきたい,『寺社由来』寛保元年十二月(一七四一)には、鷲頭寺現住祖海(註一)が   「五重の塔跡と申候築石計有之,(註一)鷲頭寺では寛保元年当時の住職は、中興二世一峯法印とされている。,本人の墓石は存在しないが享保二年(一七一七)の一峯による棟札が存在し、又、吉原の鷲頭寺住職墓地には、弟子,元文六(一七四一)酉正月三      阿闍黎秀峯不生位      鷲頭寺一峯法印弟子     の / (五) 妙見山と地名
妙見さま ((1)妙見社鷲頭寺と毛利元就)

(1)妙見社鷲頭寺と毛利元就 大内氏の滅亡により妙見社は少しさびれる。  ,と改め、山号を妙見山と称し、これによって現在の妙見社鷲頭寺が出現する。  , 干時永禄四年辛酉天、社奉行大庭加賀守平賢兼  御神與の御棟札には  奉新造、防州都濃郡鷲頭妙見山,その御棟札記には  奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇  御遷宮導師、宮司、権僧都源嘉、大檀那毛利陸奥守従四位上行大江朝臣元就並大江輝元,鷲頭寺旧跡(吉原) / (1)妙見社鷲頭寺と毛利元就
文献史にかいまみる妙見さま (第四章 江戸時代の妙見社鷲頭寺)

と改め、山号を妙見山と称し、これによって現在の妙見社鷲頭寺が出現することになる。   ,その御棟札記⑤には    奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇    御遷宮導師、宮司、権小僧都源嘉、,えんほう)六年(一六七八年⑦)八月に就隆によって、上宮上屋建立、造営奉行は服部久太夫、大工佐藤六左衛門、妙見山鷲頭寺法印,      都濃郡河内村          妙見山由来                   鷲頭寺,大般若経六百巻に有り(輝元公永禄の比御再興の棟札に大庭加賀守は社奉行とあり)      防陽都濃郡妙見山鷲頭寺常住奉安置訖 / 第四章 江戸時代の妙見社鷲頭寺
下松市史異説 ((六) 氷上山興隆寺と下松妙見山の亀池)

) 妙見尊は亀に蛇が巻きついた玄武像に座している 右に蛇、左に亀が描かれている(鷲頭寺蔵, 白亀池(中) 妙見山若水 白亀池(下・涸) 妙見山鷲頭寺亀池  又中宮より,現在鷲頭寺本堂に白亀の甲羅が保存されている(『妙見さま』杉原孝俊住職著)。,又鷲頭寺は明治十二年中市へ移転の際も境内に立派な亀池を築いており勿論これは旧地妙見山の亀池を踏襲したものである,和歌水の浴白亀池の図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』 妙見山鷲頭寺境内図(部分) 『山口県社寺名勝図録 / (六) 氷上山興隆寺と下松妙見山の亀池
下松市史異説 ((二) 妙見山神仏分離説への疑問)

(二) 妙見山神仏分離説への疑問 神仏分離は、一般には社坊による神社支配や、神官僧侶の共同奉祀形態等,下松妙見山の場合、固有神道としての神社の存在が、はなはだ疑問である。,端的に言えば上宮・中宮・下宮は、妙見山鷲頭寺の一堂宇である。,表面は分離したとされるもののその実体は、維新政府による神道国教化政策遂行のため、鷲頭寺に対して上宮・中宮,降松神社仁王門・正面(昭和三十年頃) 妙見社参詣図(市指定文化財・鷲頭寺所蔵・文化五年・一八 / (二) 妙見山神仏分離説への疑問
下松市史異説 ((四) 鷲頭寺(妙見尊)の下松町移転)

(四) 鷲頭寺(妙見尊)の下松町移転 明治三年に政府の裁断により、上宮・中宮・若宮の仏尊を鷲頭寺観音堂,妙見社(鷲頭寺) (昭和四十年頃) 妙見山鷲頭寺移転地〇 (下松市管内図)  平田派国学者,この間の事情については、鷲頭寺に若干の史料が残っており、又『妙見さま』(鷲頭寺杉原孝俊著)に一部掲載されているので,鷲頭寺移転之儀ニ付上申書    今般本国都濃郡河内村鷲頭寺ヲ以テ同郡西豊井村下松町ニ移転致シ度旨ニ付即御本山之御副書,鷲頭寺の移転騒動については、いくつかの逸話が残されている。 / (四) 鷲頭寺(妙見尊)の下松町移転
下松市史異説 ((五) 鷲頭寺移転による妙見堂の創建)

(五) 鷲頭寺移転による妙見堂の創建 明治十二年十二月十七日多くの逸話を残して、下松町への移転は完了,現 降松神社若宮周辺・鷲頭寺跡・妙見堂跡等所在地図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』 妙見堂・,鷲頭寺が、妙見尊とともに、移転したのは、前述のように明治十二年十二月十七日である。,勿論日付から推して、鷲頭寺の移転決定とほぼ同時に旧地に妙見堂の創建を計画したことになる。  ,妙見山鷲頭寺が、下松町へ移転して、およそ二年後には、小規模ながら旧地吉原へ再度妙見尊が、安置されたのである / (五) 鷲頭寺移転による妙見堂の創建
下松市史異説 ((一) 妙見山潮流と私見)

(一) 妙見山潮流と私見 降松神社 中宮表参道 鳥居前の杉の老木二本 降松神社上宮 (昭和三十年頃,『仁和寺諸堂記』が鎌倉初期のものだけに、妙見山が真言支配(妙見山別当は仁和寺末)に至った要因として、検討,(註五)ただ現在鷲頭寺へ遺存する中世末、永禄四年(一五六一)永禄十二年(一五六九)の棟札は、一山の奉祀,真言(鷲頭寺)による一山統括は、各時代領主への守護的性格・土着化による他宗の影響を受けながらも、その後維新政府,(註五)県内で中世妙見信仰に関わる社寺は、鷲頭寺の他に宮の坊(大島町八代)、興隆寺(山口市氷上)、神護寺 / (一) 妙見山潮流と私見
下松市史異説 ((二) 七坊成立年代への疑問)

坊、宮ノ坊、宝樹坊、宝積坊、宝藏坊、宝泉坊の七坊を建立し、閼伽井坊は別当で後に宮司坊と改まりのち更に鷲頭寺,別当閼伽井坊(鷲頭寺)跡地 別当閼伽井坊(現鷲頭寺)跡より下松湾方面を望む。,の代とし、坊名まで明らかにされているが、いずれも永禄十二年(一五六九)に権小僧都源嘉の記せる「奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇,一門の守護神を妙見山に祀り、崇敬ただならぬものがあったことは、本論冒頭にも述べたが、妙見山に七坊が大内弘世時代,七坊に発展するのは、これより更に八年後の永禄十二年(一五六九)十二月十五日付の「鷲頭寺上宮御社檀一宇」
下松市史異説 ((七) 棟札による共同奉祀形態の検討)

妙見社参道(馬場)には、市内最古の鳥居(昭和六十年転倒)があり、中央額束には、妙見山なる仏語をもって一山,さて永禄十二年の棟札中央には、「奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇」と記されている。,妙見山に於いては、花岡八幡宮のような神官・僧侶の共同奉祀形態はなかったのである。,しかし永禄十二年(一五六九)前掲の棟札は、妙見山鷲頭寺としてかかる寺院の存在を明確にしている。,(註二)     『新裁軍記』(巻十八・永禄五年十二月十八日の項)には     「防州都濃郡妙見山鷲頭寺上宮永禄十二年
下松市史異説 ((五) 大内氏・毛利氏と妙見社の沿革)

(註二)  問題は、慶長十三年(一六〇八)二月六日の妙見山の火災である。,(註三)  七坊は焼失後旧地に再建されることなく、このうち別当鷲頭寺と赤坂に在った下宮が吉原の里へ遷座造営,鷲頭寺の規模は、時代の流れを考慮しても相当なもので、毛利氏の強力な守護によるものであろう。,天正末~文禄初(一五八〇年代)には、総知行高九〇石を都濃郡内に有し、又『寺社由来』寛保元年九月十八日鷲頭寺,妙見社は、明治維新に至るまで、その後大きい変革はなく、鷲頭山上の上宮、中宮、麓の下宮(若宮)はすべて別当鷲頭寺
下松市史異説 (下松市史異説・目次)

239 十   切戸川旧河川敷と寺迫川・大谷川付替説                251 十一  妙見山,の経緯と神仏分離説再考                    271 十二  妙見山に於ける七坊の成立,と下宮の沿革                311 十三  妙見山鷲頭寺の移転と妙見堂の創建 ――妙見山潮流,大内弘世の鷲頭攻略                 389 十六  毛利氏の下松侵略 鷲頭・下松・妙見山
文献史にかいまみる妙見さま (参考文献)

山口県文書館研究紀要第十七号・日本歴史一九九六年十二月号・ヤマト国家は渡来王朝・七支刀の謎を解く・鷲頭山妙見縁起・鷲頭山舊記・妙見山古記,・鷲頭寺資料(明治十二年)・下松市石造文化財・妙見菩薩信仰論・佛説北斗七星延命経・北辰妙見菩薩経・阿娑縛抄,       平成二十三年九月高野山大学大学院修士論文              真言宗御室派中本寺妙見宮鷲頭寺
下松市史 通史編 (松尾八幡宮)

下松市域には以上にみてきた寺社のほかにも、河内の妙見山鷲頭寺や切山の八幡宮のように中世以来の長い歴史をもつ
下松市史異説 ((三) 神道国教化政策と妙見尊遷座)

神道国教化政策と妙見尊遷座 政府の御沙汰により、明治三年九月十日妙見社(上宮・中宮・若宮)の尊像仏具をすべて、鷲頭寺,一明治三年庚午九月四日妙見尊体神仏之義朝廷江御伺出相成、御差図之旨を以来ル十日より神祭被仰付、依之社坊鷲頭寺被差除,前述のように、明治三年九月十日をもって鷲頭寺は、上・中・若宮の仏尊仏具を同寺の観音堂に遷座している。, かくして推古以来千余年の永きに及んだ妙見尊は、他の仏尊具とともに妙見山(社)の地を去ったのである,ここまでは、ご一新による妙見尊遷座であり、新政府の廃仏毀釈を根底とする下知に鷲頭寺が従ったものである。
下松市史異説 ((一) 論旨(神仏分離と改号))

(二五七頁)   『久保村郷土誌』久保村教育会・昭和十一年三月   「明治十二年若宮に附属せる鷲頭寺,また社坊に宮司坊以下の七坊があったが、神仏を分離し、社号を降松神社、祭神を天御中主神と改め、宮司坊を鷲頭寺,上宮・中宮・若宮(吉原)が座し、社坊の一つ、閼伽井坊は鷲頭寺と号した。,(河村註・妙見山鷲頭寺)を名乗り神仏混淆の形態を維持して現在に至っている。,同 元旦参拝 降松神社 若宮楼門前石段 同 元旦参拝 北辰閣 妙見山鷲頭寺扁額
下松市史異説 ((六) 妙見堂の廃堂)

又一方で中市に移転した鷲頭寺は、千年に及ぶ妙見尊を奉祀しており、その後も俗に「妙見さま」と称され繁華街,旧地に創建の妙見堂と、移転した鷲頭寺(妙見尊)は、わずか二kmの距離である。,時代の流れというべきか、国策にそって、次第に盛大となる降松神社と、因襲久しい妙見尊を奉祀する妙見山鷲頭寺
下松市史異説 ((六) 若宮の経緯)

(六) 若宮の経緯 元和年中、下宮を赤坂の地から一km以上も離れた吉原の里へ移転した頃、更に別当鷲頭寺,について、楼門は文化五年(一八〇八)の『妙見社参詣図』に存在せず、嘉永七年(一八五四)の『周防國都濃郡妙見山之略圖,明治政府の指図により「妙見社号降松神社ト改号成」(『徳山藩史』)、上宮、中宮、若宮の仏像、仏器類はすべて鷲頭寺,中宮本殿拝殿平面略図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』  (註一)     別当閼加井坊(宮司坊)を鷲頭寺,尚永禄四年(一五六一)の棟札には鷲頭妙見山・宮司坊としていて未だ鷲頭寺の名称は存在しないので改号は永禄四年
下松市史異説 ((四) 赤坂の宮の所在地)

だが幸いなことに文化五年(一八〇八)法眼信喬の作にかかる妙見山鷲頭寺所蔵『絹本淡彩妙見社参詣圖』(昭和六十一年,、下松市文化財指定)には上宮・中宮・若宮・鷲頭寺の他に七坊之跡・赤坂・桂木山・和歌水浴御供泉・高鹿垣、
下松のいろいろの歴史 (2 河内村の研究)

毛利氏が妙見山に鷲頭寺を建てたのはその後である。  ,また、古き『大般若奥書』に    此全部六百巻事、或令勘得、或加書写、御本尊相添え、周防国都濃郡妙見山鷲頭寺常住奉寄付畢,妙見山鷲頭寺の寺名が史書にあらわれたのは、永禄十二年(一五六九)が最初である。,その後、『地下上申』には   「妙見社本宮 同社中宮 同社若宮」として妙見社とあり、「真言示 妙見山鷲頭寺,のち元就の時代には妙見社の別当は宮司坊、妙見山鷲頭寺になった。  
下松市史異説 ((一六) 石鳥居)

立華表上祈武運長久下祷庶民安全  と刻まれ左柱には不明瞭乍ら   延寳七己未暦首夏十月八日   鷲頭寺現住權大僧都法印増遍謹教化焉者也,この鳥居は、市内最古である以外に、妙見山中興一世増遍和尚代の妙見史上特筆すべき造立遺品である。,額束には現在「降松神社」と刻まれているが、『周防國都濃郡妙見山之略圖』嘉永七年(一八五四)から当初「妙見山,又現在もこの附近を馬場と称し、妙見山の表参道入口に造立されたものである。,延宝七年造立以来三百年近くも妙見山入口に誇った勇姿は既になく、現在旧地(表参道馬場)に遺っているのは、
下松市史異説 ((八) 豪族と信仰風土)

然るに中世に至って大内氏が『大内氏譜諜』(同上)や『壁書』応仁元年(一四六七)に示す如く、妙見山は大内氏一門,庄域については『大内氏壁書』応仁元年(一四六七)に「鷲頭庄妙見山」と記される他、陶弘政が、代官安永四郎左衛門尉,当村名之儀往古鷲頭庄と申、徳山御領豊井村河内村一円郷と申伝、大内御時代北辰妙見社御建立之節地名に依て鷲頭寺,と申社坊被立候由、則河内村妙見山之梺(フモト)ニ有之候、其後末武何某と申御方当所城山ニ居城有之候故末武村,はるか後世の所収ではあるが、江戸時代このような北辰降臨説が光市域にも多く存在し、又湧水の伝承は、妙見山
文献史にかいまみる妙見さま (第三章 大内氏の妙見社)

下す、       永享八年二月日(一四三六)    応仁元年(一四六七年)大内政弘は鷲頭庄の妙見山,⑳第十六条、妙見山狩猟禁制   法泉寺殿 禁制   周防国都濃郡鷲頭庄妙見山   右、甲乙人等、,26永禄二年(一五五九年)妙見社宮司坊を改め鷲頭寺となり、鷲頭山を妙見山と称す。  ,これより以後、毛利氏の支配による妙見山鷲頭寺の時代に入ることになる。    ,安芸厳島社詣に隨行した九州探題今川貞世の記した和文紀行文)  ⑰後太平記上巻 第二 P164  ⑱鷲頭寺舊記
下松のいろいろの歴史 (1 地名から見た昔の下松)

1 地名から見た昔の下松 下松の地名は妙見山古記や下松妙見社縁起によるといわれている。,妙見山古記によれば    周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦有大樹留松樹上而七昼夜赫々不絶   とある。,妙見山伝承には    推古天皇十一年(六〇三)九月十八日   とあり。,また妙見山鷲頭寺は真言宗の寺院であるが、真言宗は星供を修し星祭を行い星をあがめる教である。  ,当時鷲頭山には別当(鷲頭寺)六坊(中之坊・宮之坊・宝樹坊・宝積坊・宝蔵坊・宝泉坊)、経蔵、宝蔵、五重塔
下松のいろいろの歴史 (6 光円寺 蓮台寺 香林寺 利光寺 市納寺 八王寺 万福寺 西蓮寺)

当寺の本寺は、河内村鷲頭寺であった。,しかしこの中には蓮台寺が鷲頭寺の末寺となった由来はみられないが、深い関係があったことと思われる。,この蓮台寺の寺伝には、妙見山信仰と仏足石信仰、観音菩薩信仰の三つの伝説が混じって出来たものではあるまいかと,蓮台寺は鷲頭寺の唯一の末寺であったが、これは鷲頭氏と山田村との関係が、特に深いものであったことを物語っている
下松市史異説 ((四) 白坂山と高鹿垣山)

 但往古妙見之社此山ニ御鎮座有り、海上通船妙見社不貴船ハ豊井ノ沖通船難ク成り、依之海上ヨリ引退キ今之妙見山,え御社替相成、それ故右高せかき山、于今古妙見山と申伝え候」 と記している。,又時代は降って鷲頭寺所蔵の『絹本淡彩妙見社参詣図』(文化五年・市文化財指定)には、高鹿垣の文字が記され
文献史にかいまみる妙見さま (第一章 妙見社の縁起)

妙見社に関する史料として『鷲頭山妙見縁起』、『鷲頭山舊記』、『妙見山古記』の三点が残っている。  ,申也、同秋新宮に遷申也、然るに琳聖太子鏡常に年申辰(きのえのたつ)渡朝と云々…」  ②『鷲頭山舊記』鷲頭寺,茲に因て琳聖太子渡海せんと欲す」  ③『妙見山古記』 鷲頭寺 には、多々良氏譜牒日からはじまっている,五年夏四丁丑朔(ひのとうしついたち)、百済王遣王子阿佐朝貢」  「妙見山古記 鷲頭寺」は、多々良氏譜牒,(注) ①鷲頭山妙見縁起 ②鷲頭山舊記 ③妙見山古記 ④日本書紀 ⑤三宝絵 校注者 江口孝夫
下松のいろいろの歴史 (8 周慶寺と廃寺霊昌寺について)

中本山二四〇坪 檀家三〇軒       庵所二ケ所(地蔵坊、生野屋造立)(薬師堂生野屋村造立)  鷲頭寺,真言宗には、鷲頭寺・閼伽井坊・多聞院・泉所寺・正福寺である。,下松の地名伝説と関係の深い鷲頭寺は、妙見社の七社坊の一であり真言宗である。,次いで   同国余利鷲頭治郎少輔弘賢注進状、子息孫次郎四郎護賢持参之、鷲頭妙見山下宮上葺造畢事也、
下松のいろいろの歴史 (3 天王森古墳 お屋敷山史蹟)

当村名之儀往古鷲頭庄と申、徳山御領豊井村河内村一円の郷と申伝、大内時代北辰妙見社御建立之節、地名に依て鷲頭寺,と申社坊被立置候由、則河内村妙見山之麓ニ有之候、其後末武何某と申御方当所城山ニ居城有之候故、末武村と号来候由古老之申伝,  『防長古城墟誌』 近藤清石編 都濃郡  石城山 久保村大字河内ノ字八口寄手ノ城ト言ウ  鷲頭妙見山,十九日降松妙見山の営陥る。
下松のいろいろの歴史 (5 山田村の研究)

古蓮台寺も現在の蓮台寺も、鷲頭寺の唯一の末寺である。山田村の氏神の大歳神社は、妙見社の末社である。,このことは、蓮台寺についても考えられるのであって、最初は鷲頭寺末寺としてあったが、後鷲頭氏が滅ぶに及び,しかしこの中には、蓮台寺が鷲頭寺の末寺となった由来はみられないが、深い関係があったことと思われる。,この蓮台寺の寺伝には、妙見山信仰と仏足石信仰、さらに観音菩薩信仰の三つの伝説が混じってできたものではあるまいかと
下松のいろいろの歴史 (1 泉所寺 正福寺 周慶寺 普門寺 浄西寺 西教寺)

寺院沿革史でも主要な部分を占めているが、本地垂迹説による神仏混淆時代より、神仏分離による現在の降松神社及び鷲頭寺,一五九〇)国中ノ鐘悉ク広嶋ヘ被取集、然ニ此里ノ奉行相嶋作右衛門一旦助置ト麗ヘトモ、同名仁右衛門依有宿願、妙見山
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