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下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

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下松市の文化財 (閼伽井坊塔婆(多宝塔)附 棟札)

閼伽井坊塔婆(多宝塔)附 棟札 《国指定重要文化財》 (建造物) 閼伽井坊塔婆(あかいぼうとうば,) (多宝塔)(たほうとう) 一基 附 棟札 五枚 指定年月日 昭和25年8月29日 所在地,棟札とは、建物の建立や修理にあたって、その棟上(むねあげ)時に建物名・工事年月日・施主・工事由緒・大工名,この多宝塔の棟札にも、時の毛利藩主や執政・郡吏・社務・社司、その他普請奉行・庄屋など工事関係者の名前が,なお、参考までに棟札の一つの記録を次にあげる。 / 閼伽井坊塔婆(多宝塔)附 棟札
下松市史異説 ((七) 棟札による共同奉祀形態の検討)

(七) 棟札による共同奉祀形態の検討 いずれの宗教も同様であるが、数世紀を経過するうち地理的、政治的又,(註一) 永禄四年(一五六一)棟札 (鷲頭寺蔵) 同札写 永禄十二年(一五六九)棟札 ,(鷲頭寺蔵) 同札写 享保二年(一七一七)棟札 (鷲頭寺蔵) 同札写  これらの棟札は,各棟札又石造物にも、神主の銘は全く不在である。,(註一)     この棟札は「鷲頭寺」の初見として貴重である。      / (七) 棟札による共同奉祀形態の検討
下松市の石造文化財・祈りと生活 (2、棟札五枚(むなふだごまい)(多宝塔内))

2、棟札五枚(むなふだごまい)(多宝塔内) 指定年月日 昭和五十四年二月三日    所在地   下松市花岡,(多宝塔内)    所有者   閼伽井坊    棟札というのは、棟(むな)上げ時に工事の由緒、建築年月日,五枚の棟札は、いずれも一七〇〇年代の約七〇年間のもので、この時代にかなり計画的な大修理があったように思,一七四四)   4、宝暦七丁丑年 (一七五七)   5、安永六丁酉年 (一七七七)  次に一番古い棟札 / 2、棟札五枚(むなふだごまい)(多宝塔内)
下松市史異説 ((二) 七坊成立年代への疑問)

この棟札にはほぼ右のような七坊が記されてはいるが、残念ながら永禄十二年は、防長二州が毛利の有となった(,、この二枚の棟札は、妙見山研究に於ける第一級の基本史料として注目すべきものである。,(以上棟札については、「妙見山創建と神仏分離説再考」の章を参照されたい)  二枚の棟札を比較検討すれば,即ち、注目すべきは、前掲永禄四年(一五六一)九月十三日の棟札であってこの「奉造立妙見山神輿三丁」新造の,棟札には、宮之坊・宮司坊・寳積坊・寳樹坊の四坊しか記されていない。
下松のいろいろの歴史 ([第一章 国指定重要文化財])

三角縁神獣鏡 内行花文鏡   国指定重要文化財2 閼伽井坊塔婆(多宝塔) 棟札
下松市史異説 ((五) 大内氏・毛利氏と妙見社の沿革)

には、妙見山(註一)等で戦闘を行っているが、この戦いのわずか六年後の永禄四年(一五六一)九月十二日の棟札,又この棟札は、永禄四年に四坊、同十二年棟札には七坊に発展したことを示している。,(註二)『防長地名淵鑑』御薗生翁甫著(二六二頁)には七坊の名が永禄四年同十二年の棟札に見える旨記されているが,永禄四年棟札は四坊のみである。   
妙見さま ([口絵2])

      妙見さまのお祭り   風鎮祭   節分祭   風鎮祭 宝物 白亀の甲羅 棟札
妙見さま ((1)妙見社鷲頭寺と毛利元就)

一、御與 三體 一、御太刀 一、木馬  干時永禄四年辛酉天、社奉行大庭加賀守平賢兼  御神與の御棟札,寳樹坊尊就・當山奉行弘中丹後入道道怡・大工藤井飛彈守盛直・金物師後藤入道・塗師長尾源兵衛秀勝 棟札,その御棟札記には  奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇  御遷宮導師、宮司、権僧都源嘉、大檀那毛利陸奥守従四位上行大江朝臣元就並大江輝元
下松市史異説 ((二) 妙見山神仏分離説への疑問)

本質と、歴史的実体に於いて、日本古来の伝統神を祀った記録が存在しないこと、更に永禄四年・永禄十二年の棟札,大内氏時代には七坊を有した(大内弘世の創建)とされて来たがこれを証する史料はなく、永禄四年(一五六一)棟札,には四坊・永禄十二年(一五六九)棟札には、七坊が記されているので七坊がそろったのは、おそらく大内氏滅亡後
下松市史異説 ((二))

しかし『寺社由来』に掲載される「大成寺由来校概記」には   (前略)「今之寺営建棟札上梁文等記録不遺存候,尚國丈が宝暦七年(一七五七)本堂を再建した際の棟札を掲げて毛利氏との関係を偲びたい。
下松市史異説 ((一〇) 白谷山分国寺(末武上村))

三尺三寸立像、恵心僧都の作   一脇立不動毘沙門    但、御長ケ六尺有余、弘法大師御作也   一観音堂棟札写,十一月吉曜宿        施主大庄屋野村清左衛門      但シ、裏ニ梵字有之    右の通棟札三枚御座候事,即ち     眞言宗白谷山分國寺   (附箋、後筆)「△慶長十一年ノ觀音堂棟札ニ箱谷山禪定寺トミユ
下松市史異説 ((三) 下宮赤坂の宮)

、『八箇国御時代分限帳』(天正末~文禄初)や、右に記した永禄四年(一五六一)、同十二年(一五六九)の棟札
下松市史異説 ((六) 若宮の経緯)

 (註一)     別当閼加井坊(宮司坊)を鷲頭寺と改号したのは、永禄十二年(一五六九)上宮再建の棟札,尚永禄四年(一五六一)の棟札には鷲頭妙見山・宮司坊としていて未だ鷲頭寺の名称は存在しないので改号は永禄四年
下松市史異説 ((三))

西丸様御遺言ニ付伏見より此所え御送辺野(ママ)、俗姓奈古屋土佐妹[只今奈古屋頼母家先祖という]   一記録棟札御判物古筆抱
下松市史異説 ((一) 経緯)

〇〇)、享保八年(一七二三)、延享元年(一七四四)、宝暦七年(一七五七)、安永六年(一七七七)等の修復棟札,尚右の内宝暦期の棟札の銘文を示せば次の通りである。  ,閼伽井坊多宝塔 棟札 国指定重要文化財  このようにして見ると八幡宮は、古い来歴の故に各時代にわたりそれぞれの
下松市の文化財 ([目次])

[目次] 国指定文化財  閼伽井坊塔婆(多宝塔)附 棟札………………………………………… 3  
下松市史異説 ((五) 妙見山と地名)

本人の墓石は存在しないが享保二年(一七一七)の一峯による棟札が存在し、又、吉原の鷲頭寺住職墓地には、弟子
下松市史異説 ((九) 妙見信仰圏と明光の里)

光井天満宮再造立の棟札に見える安富氏は鎌倉幕府の御家人であったが、宝治元年(一二四七)光井保に地頭として
下松のいろいろの歴史 (目次)

宮洲古墳出土品(盤龍鏡等四面) ………679  2 閼伽井坊塔婆(多宝塔) ………680  3 同 棟札
文献史にかいまみる妙見さま (第四章 江戸時代の妙見社鷲頭寺)

その御棟札記⑤には    奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇    御遷宮導師、宮司、権小僧都源嘉、,勤行終於脇殿神主神楽相勤候事       やぶさめ有、終還幸(かんこう)の事     一、古記一軸并棟札等写別紙差出候,楼門計氏子中より建立氏仕候、且亦釣鐘銘文知れ不申候      「大般若経六百巻に有り(輝元公永禄の比御再興の棟札
下松市の石造文化財・祈りと生活 (下松市の石造文化財 祈りと生活 目次  付、下松市内の指定文化財)

くにしていぶんかざい)  1 閼伽井坊塔婆(あかいぼうとうば)(多宝塔(たほうとう)) … 150  2 棟札五枚
下松市史異説 ((一) 妙見山潮流と私見)

(註五)ただ現在鷲頭寺へ遺存する中世末、永禄四年(一五六一)永禄十二年(一五六九)の棟札は、一山の奉祀
下松のいろいろの歴史 (4 閼伽井坊 花岡八幡宮社坊 地蔵院 香禅寺 長福寺 楊林坊 常福坊 千手院 惣持坊 関善坊 法静寺 分国寺(禅定寺) 願成坊)

塔内に保存されている棟札によれば、元禄十三年(一七〇〇)、享保八年(一七二三)、延享元年(一七四四)、,また地蔵院文書には、寛永八年(一六三一)、承応四年(一六五五)修理の棟札写を載せている。
下松のいろいろの歴史 (1 泉所寺 正福寺 周慶寺 普門寺 浄西寺 西教寺)

(一七四一~一七四四)に各寺院及び神社より藩に差出した記録で、縁起・世代碑・各境内堂塔・寺領・釣鐘・棟札,正徳三年の火災のときは直ちに再建され、その棟札の控が『寺社由来』にある     奉再建立泉処寺一宇所,一六四三)十二月八日ニ西教寺と申寺号相調申候、第六世玄長、第七世湛海、第八世現住達相律師 一 記録棟札御判物古筆類
下松市史異説 ((一) 論旨(神仏分離と改号))

行われ、例えば上宮遷宮式等に際し、神官の同座がないことが永禄四年(一五六一)永禄十二年(一五六九)の棟札
下松のいろいろの歴史 (1 荒神社について)

には   大歳神社 末武中村の香力  祭神 大年神 奥津彦神 奥津姫神   所蔵   一 棟札
下松のいろいろの歴史 (7 秋林寺 桃林寺 誓教寺 満願寺 総持院 八王寺 法堂寺 宮司坊 浄念寺 東蓮寺 養光寺 西楽寺 浄願寺)

総持院の本堂は、もとの満願寺の本堂であるが、棟札によれば享和元年(一八〇一)の再建と記されている。
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