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妙見さま
((26)琳聖太子の死)
(26)
琳聖太子
の死 母国、百済国の滅亡という悲しい出来事の中、
琳聖太子
は天智六年(六六七)六月二十一日,灘波の百済寺は
琳聖太子
によって推古十五年に建立され、その寺の本尊は妙見大菩薩であった。 ,百済寺には
琳聖太子
の死をいたみ、多くの僧侶と民衆が参列し、百済国の王子の死を悲しんだことであろう。,一方、妙見信仰の中心地、下松の妙見社に悲しみの使者がつかわされ、
琳聖太子
の遺骨が分骨され、盛大な葬式が,また、三田尻には
琳聖太子
の死をいたみ、
琳聖太子
さまが乗っておられた車を納め、手厚く供養され、車塚妙見としておまつりされた / (26)
琳聖太子
の死
妙見さま
((三) 妙見さまと琳聖太子)
(三) 妙見さまと
琳聖太子
大内氏の歴史からみれば、
琳聖太子
さまは百済国の王子であり、七州の太守、大内氏,しかし、妙見宮鷲頭寺からみれば偉大な宗教者としての
琳聖太子
さまが浮びあがる。 / (三) 妙見さまと
琳聖太子
下松市史 通史編
(百済王子、琳聖太子の登場)
百済王子、
琳聖太子
の登場 ところが、これとほぼ同じ内容の伝承は、ほかに「鷲頭山(ずとうざん)旧記」「,当寺ハ扶桑朝、推古天王治世ノ御宇、百済
琳聖太子
建立ノ仏閣ナリ」と記すのが、もっとも早い。,はじめて大内氏の祖を
琳聖太子
とする所見を披瀝している。,「譜録」に記す百済王の系譜は、余映-昆-慶-牟都-明-淹-昌-璋(斉明王)-
琳聖太子
、となる。,氏祖ばかりでなく、それとあわせて
琳聖太子
の来朝年代も、同じくよりさかのぼらせようとしている。 / 百済王子、
琳聖太子
の登場
妙見さま
((11)大内教弘と琳聖太子)
(11)大内教弘と
琳聖太子
大内教弘は嘉吉元年(一四四一年)持世の跡を相続し、大内家二十二代の当主となる,享徳二年(一四五三年)教弘は僧侶有栄を使として、瑞宗の即位を祝い、太祖
琳聖太子
の日本入国の記録を求めた / (11)大内教弘と
琳聖太子
妙見さま
((7)琳聖太子の後裔・義弘)
(7)
琳聖太子
の後裔・義弘 弘世の子、大内氏十六代義弘は明徳二年(一三九一年)の内野合戦に大敵山名氏 / (7)
琳聖太子
の後裔・義弘
妙見さま
((25)琳聖太子の母国、百済国の滅亡)
(25)
琳聖太子
の母国、百済国の滅亡 義慈王の代になり、義慈王は政治にあき、女色と飲酒にあけくれるようになった / (25)
琳聖太子
の母国、百済国の滅亡
文献史にかいまみる妙見さま
(結論)
結論 山口県において伝説上の人物
琳聖太子
は大内氏の太祖であり、妙見信仰の伝来者であり、仏教の伝来者としての,日本への仏教の伝来者は聖明王であるが、山口県においての仏像の伝来者は、百済の皇子、
琳聖太子
が多数をしめる,妙見信仰による
琳聖太子
は、『妙見霊応編』や『鎮宅霊符神』においては、
琳聖太子
は妙見信仰の伝来者であり、,『鎮宅霊符神』においては、
琳聖太子
は鎮宅神としての地位を獲得しているのである。 ,八代市は妙見信仰と
琳聖太子
即妙見神としてのとらえかたであり、山口県では
琳聖太子
は大内氏の太祖としてのとらえ
妙見さま
((4)聖徳太子との会見)
推古五年四月、灘波の宮にて
琳聖太子
は聖徳太子と会見することができた。,
琳聖太子
、聖徳太子会見の絵 そして
琳聖太子
は百済国より持ち来たった北斗七星剣をささげることができました,時に、聖徳太子二十四歳、
琳聖太子
二十六歳の若さであった。 ,
琳聖太子
は聖徳太子を拝して、〝十一面観世音菩薩の生れかわり〟とのべられると、また、聖徳太子は、
琳聖太子
,聖徳太子は、とりあえず、灘波の生玉の宮を
琳聖太子
の宮殿とされ、しばらく体をいやすように指示されました。
妙見さま
((5)日本最初の星祭り)
(5)日本最初の星祭り 推古五年九月九日より、
琳聖太子
は新しく完成した宮ノ洲の宮殿で、百済国より持ち,
琳聖太子
は多々良の宮殿と宮ノ洲の宮殿にそれぞれ僧侶と家来をおき、民衆の安らぎの宮になるべく指示されました,九月十八日の大祭がすむと
琳聖太子
は大星降臨の予言の約束をはたすべく灘波の聖徳太子のもとに行かれた。,
琳聖太子
は灘波の生玉の宮を住居と定め、その宮に妙見さまをお祭りし、これから聖徳太子がなされようとする日本
妙見さま
((3)大星降臨の地・青柳の浦)
(3)大星降臨の地・青柳の浦
琳聖太子
は聖徳太子の配慮を心より喜ばれ大星降臨の地、青柳の浦に心は動く,しかし秦造川勝は
琳聖太子
の御体をあんじ、つかれがとれた頃、青柳の浦に案内された。 ,
琳聖太子
は、青柳の浦の桂木山(宮ノ洲)の嶺に宮殿建立を決意され、百済国よりつれ来たった僧侶や家来・工人達
妙見さま
((9)灘波の生玉の宮)
下松の宮を後にして、
琳聖太子
は大阪の生玉の宮を住居として、まず、都の四方に妙見社の建立を聖徳太子にお願,聖徳太子と
琳聖太子
は日本の政治を考え、神儒仏の思想の調和をはかるべく努力がなされた。 ,まず、
琳聖太子
は百済・新羅・中国等で発達した冠位の制度を日本の国に用いるようにすすめた。
妙見さま
((1)妙見宮鷲頭寺縁起)
いをいたすと、坐人に託して宣、 〝我は是、北辰妙見尊星なり〟 今より後三年して三月二日に百済国の
琳聖太子
此国,一方、百済国の璋明王の第三の皇子
琳聖太子
は北辰を敬拝すること年久し。 ,吾れは即ち北辰なり」と、夢めさめ玉いて
琳聖太子
、これより渡らんと思いしところ、日本より吉備羽嶋が王使として,百済国へ渡られ、北辰降臨の由を申し奉り、皇子を日本に迎えたいと百済国王に申したので、
琳聖太子
は大いに喜
妙見さま
(目次)
妙見さま ……… 18 (二) 大内氏最後の姫 ……… 19 (三) 妙見さまと
琳聖太子
, (23)聖徳太子の子孫、山背大兄王家の滅亡 54 (24)大化の改新 55 (25)
琳聖太子
,の母国、百済国の滅亡 56 (26)
琳聖太子
の死 57 (四) 大内家の氏神・妙見さま, 62 (5)氷上山妙見社と興隆寺 67 (6)下松妙見社再建の歴史 68 (7)
琳聖太子
,)長門市深川の妙見社 73 (10)豊浦郡菊川町の妙見大菩薩社 74 (11)大内教弘と
琳聖太子
文献史にかいまみる妙見さま
(第一章 妙見社の縁起)
山口県史の中に登場してくる
琳聖太子
の存在である。,聖徳太子伝に出てくる阿佐太子も仏教の伝道者であり、妙見信仰の中では仏教的尊敬語として
琳聖太子
と呼び
琳聖太子
,伝
琳聖太子
の伝説の大部分は周防灘に面した地域に集中しているが、しかしただ一か所だけ島根県の鹿足群に
琳聖太子
伝,
琳聖太子
齊来の不動尊像を安置して本尊とす。 , 一幅 但三幅共ニ
琳聖太子
の御筆と申伝候事 ⑰伊保庄南村 無動寺 -本尊は
琳聖太子
百済国
妙見さま
((2)七佛妙見と多々良家七代)
(2)七佛妙見と多々良家七代
琳聖太子
七世の孫、多々良正恒の父は阿津太子で、母は長門国の国司の娘であった,多々良家初代
琳聖太子
の本地を虚空蔵菩薩に配し、二代目・琳龍太子の本地を観世音菩薩に配し、三代目・阿戸太子,正恒は
琳聖太子
の流れを真言密教によって妙見信仰の確立をはかった。
妙見さま
((一) 妙見さま)
、最近問題になっている鏡も出土しており、調査すればするほど不思議な地であり、偉大な人物、百済国の王子
琳聖太子
,鏡 将来のことではあるが、大内氏がかなえることができなかったこと、百済の地に
琳聖太子
像の造立をと,妙見さまと
琳聖太子
さまが日韓友交の礎になるとお考えならば、かならず実現するであろう。
妙見さま
((16)上宮・中宮、鷲頭(じゅとう)山に遷座(せんざ))
(16)上宮・中宮、鷲頭(じゅとう)山に遷座(せんざ)
琳聖太子
は聖徳太子を助け、隋との国交等に忙しい,
琳聖太子
はその声を聞き、高鹿垣の宮と桂木山の宮を推古十七年、鷲頭山の頂に上宮・中宮を遷座することになった
妙見さま
((21)妙見社(宮)に仏像造立)
(21)妙見社(宮)に仏像造立
琳聖太子
は舒明(じょめい)天皇の御宇に灘波に百済の仏師をまねき、仏師,舒明五年に
琳聖太子
は自ら彫刻された推古天皇・聖徳太子像と、御自分の像と虚空蔵菩薩を下松の妙見社(宮)に
妙見さま
((7)―北斗北辰霊府七十二道を聖徳太子に伝授―)
(7)―北斗北辰霊府七十二道を聖徳太子に伝授― その後、璋明王の第三の御子・
琳聖太子
は北斗七星の御生御玉,
琳聖太子
生身の観世音、伝授として、我が日本に渡らせ給ふて、聖徳太子へ御相伝あり、これ霊府の行法なり。
妙見さま
((14)下松・茶臼山に上宮建立)
(14)下松・茶臼山に上宮建立
琳聖太子
は聖徳太子を助けるとともに常に下松妙見社(宮)の発展を考えておられた,聖徳太子と
琳聖太子
は、この盛挙を心から喜ばれた。 ,推古十三年には推古天皇・聖徳太子より、これらの働きに対して、
琳聖太子
に多々良の姓がおくられた。
妙見菩薩霊応編
(―序文―)
また、大内氏を語る時、
琳聖太子
と妙見さまをぬきに語ることが出来ぬ位、妙見さまの存在は偉大であるわけです,また、
琳聖太子
渡来の年月ですが、これも諸説プンプンです。 ,しかし、他の諸説の中には、
琳聖太子
渡来その他についてはあまりくわしくは記されていません。 ,平成元年十一月一日には、
琳聖太子
の祖国、韓国扶餘より李夕湖氏を初め二名が下松市制50周年のために来松され,一九九五年が妙見さま御降臨、一四〇〇年にあたり、一九九七年が
琳聖太子
渡来一四〇〇年にあたります。
妙見さま
((2)勅使、秦ノ川勝の出迎え)
川勝の出迎え 時に、大和の勅使秦(ハタ)ノ川勝によって、吉敷郡問(トヒ)田ノ村に仮りの王宮を建立し、
琳聖太子
,はたせるかな、推古五年三月二日、予言どおり、
琳聖太子
が着船されたので、秦造川勝は驚き、我らが百済の王子
下松市史 通史編
(妙見社縁起)
三年後、周防国多々良浜に到着した百済の皇子
琳聖太子
は摂津荒陵(大阪市四天王寺)で聖徳太子に会い、太子から,のちこれを大内県氷上山に勧請したのは
琳聖太子
五代の孫茂村のときであると伝えている。 ,この譜牒では大内氏の始祖を百済系帰化人としているが、
琳聖太子
後胤説の初見は第一編第六章1で述べたとおり,一四〇四年(応永十一)氏寺興隆寺の本堂供養を営んだときの願文に「当寺は扶桑朝推古天王治世の御宇、百済国
琳聖太子
建立
下松市史 通史編
(下松地方における妙見信仰のはじまり)
下松地方における妙見信仰のはじまり 右のように
琳聖太子
の名が史料に現われるのは、十五世紀初めからであり,、さらに大内氏の始祖を
琳聖太子
に仮託するのは、はやくても十五世紀半ばのことであった。,ただ青柳浦に降臨した北辰尊星が、
琳聖太子
の守護神となったとする説話のモチーフは、十五世紀にはじめて構想,なお北辰降臨説話にみえるいま一つの主題は、
琳聖太子
を大内氏の祖とする伝承があるが、この両者を結びつけたのが,いずれにせよ、この時代になって、青柳浦に北斗尊星が降りくだり、ついで百済の
琳聖太子
が来朝、やがて太子を
妙見さま
((13)七佛神呪経と妙見さま)
琳聖太子
は聖徳太子に百済国の全ての学問・知識・制度そして、最先端の精錬技術をも日本に伝えた。 ,聖徳太子はこれらの努力に対して
琳聖太子
に多々良の姓をさずけることになる。
妙見さま
((17)妙見さまの神言(訓旨))
そのような時、
琳聖太子
は推古天皇より推古十九年に宝冠をいただいた。 ,お礼として、
琳聖太子
は自分の住居でもある〝生玉(いくたま)の宮〟にて北辰尊星供を行じ、天皇の玉体安穏(
妙見さま
(序文)
序文 大内家の栄枯盛衰を紐解くには妙見大菩薩並びに聖徳太子様と
琳聖太子
様「百済国第三皇子」との関係を,推古天皇五年秋
琳聖太子
桂木山嶺に御霊を移し、九月九日
琳聖太子
御参籠ありて百済国より将来の妙見菩薩像を納
妙見さま
((6)降臨祭の復活を願う)
琳聖太子
は、推古五年九月九日より九月十八日まで星供を修行され、妙見さま御降臨日を祝われました。 ,妙見尊降臨千参百五拾年記念法会 現住職である私は、
琳聖太子
の御心を受け、昭和五十七年より毎年九月九日
下松市の民話・伝説と民謡
(○ 妙見口説き(みょうけんくどき))
かみ)の神仙なる 妙見尊よ 神仙の神仙なる妙見尊よ そもそも当寺の 本尊さまは 百済国なる
琳聖太子
,の王子 ここに来らん 擁護(まもり)の吾ぞ いざや天朝(みかど)へ 告げよと申す 話変って
琳聖太子
,明るく照らす 南無や北辰 菩薩の光 星は移りて 三年(みとせ)は過ぎて 遙か百済の
琳聖太子
妙見さま
((20)推古天皇の死)
琳聖太子
は聖徳太子を失い、はたまた推古女帝をも失い、「世間虚仮(よのなかはむなし)、唯仏是真(ただほとけのみこれまことなり
妙見さま
((19)秦造川勝の寺・広隆寺)
(19)秦造川勝の寺・広隆寺
琳聖太子
を向えた使者秦造川勝は推古十一年に聖徳太子の持仏であった弥勒菩薩
妙見さま
((23)聖徳太子の子孫、山背大兄王家の滅亡)
琳聖太子
は、舒明十三年(六四一)に聖徳太子の御子である山背大兄王一族の滅亡に会う。
下松市の民話・伝説と民謡
(11 玉鶴川由来(たまつるがわゆらい) (末武地区))
また一説によると、むかし
琳聖太子
(りんしょうたいし)が難波(なにわ)(大阪)にのぼられる途中、この川下
下松市史 通史編
(北辰降臨をめぐる伝承)
その後妙見大菩薩を下松浦から桂木(かつらぎ)宮に遷し、宮ノ洲山の嶺に上宮、中腹に下宮をまつったが、
琳聖太子
,大内氏の始祖が百済の
琳聖太子
であり、その来朝に先立って北辰尊星が天下ったのが、青柳浦の松の上で、その地
妙見さま
((5)妙見宮鷲頭寺の復興はじまる)
昭和五十八年五月より本堂の天井を修復し、豊浦郡菊川町の日本画家清水勝一氏に
琳聖太子
渡来絵図と妙見宮鷲頭寺,しかし晋山式を機に一冊の本にできますこと一重に妙見さまと
琳聖太子
の御加護と深く感謝しております。
妙見さま
(発刊を祝して)
発刊を祝して 下松は、
琳聖太子
来朝の伝説にまつわる、大星降臨の地として、また、星が天降ったので下松の
文献史にかいまみる妙見さま
(第四章 江戸時代の妙見社鷲頭寺)
その先祖は百済国の聖明(せいめい)王第三の王子
琳聖太子
(おうじりんしょうたいし)といった。,今より三年後の三月二日、百済国の
琳聖太子
がこの国おいでになる。,このことを聖徳太子に告げて、「その
琳聖太子
をこの国に留めなさい」と言われた。,その時、
琳聖太子
は龍頭鷁首の舟に乗って多々良浜にお着きになった。,よって
琳聖太子
は鷲頭山に宮殿を造って、北辰妙見星を勧請し星の宮と名づけて。
下松市の民話・伝説と民謡
(2 妙見さまの星まつり(みょうけんさまのほしまつり) (下松地区))
推古天皇の御代に、青柳浦の松の木に、七星の降臨があった三年の後、その予言の通り来朝した百済(くだら)の
琳聖太子
妙見菩薩霊応編
(降臨擁護国土の顕証(こうりんようごこくどのげんしょう))
今より三年後の三月二日、百済国の
琳聖太子
がこの国においでになる。,彼は
琳聖太子
の父聖明(しょうめい)王である。,これは
琳聖太子
の兄で、二十六代威徳(いとく)王である。,さて、
琳聖太子
の来朝のことは国史の中に記されていない。,このように数書の中に、
琳聖太子
が来朝したことが記してある。
妙見さま
((24)大化の改新)
大化の改新によって、聖徳太子と
琳聖太子
の協力によってなされた推古朝の官僚制はより具体的に実践されていく
下松市史異説
((三) 北辰信仰の渡来と密教の習合)
聖徳太子 推古天皇 左 ∴ 中宮 妙見尊星王 中
琳聖太子
,聖徳太子 推古天皇 ∴中宮社 妙見尊星王
琳聖太子
,一上宮本尊虚空蔵御長壱尺三寸
琳聖太子
御情(請)来也 一中宮中尊妙見尊木像御長壱尺五寸
琳聖太子
御情来也, 千手観音尊像金仏御長壱尺壱寸 右同断 千手観音木仏 御長三尺
琳聖太子
木像
妙見さま
((1)妙見さまと多々良家七代)
(1)妙見さまと多々良家七代
琳聖太子
(多々良家初代)の死後、多々良家一族は灘波の生玉の宮・下松の宮
妙見さま
((3)多々良正恒、宇多天皇より大内姓を賜う)
一方、妙見社鷲頭山旧記には『人生五十九代宇多天皇寛平元己酉悪星出現而天子有御悩
琳聖太子
七世之孫正恒家命於禁中奉修北辰星供因兹御悩静也天皇有叡感正恒賜大内氏并周防国都濃郡
妙見さま
((10)冠位十二階)
(10)冠位十二階 冠位十二階は
琳聖太子
が特に力を入れて聖徳太子に協力された。
妙見さま
((4)宇多天皇と大内正恒)
正恒はまた、
琳聖太子
御自参の黄金製の観音像を中宮に納めた。 ,これは大内家の守本尊とされ、北辰妙見尊星王や
琳聖太子
像と共に中宮におまつりされた。
下松市史異説
((四) 『大内多々良氏譜牒』と下松)
琳聖太子
が歴史に登場するのは、応永十一年(一四〇四)大内教弘が氷上山興隆寺本堂の落慶供養の願文に於けるものであって,而して大内氏は『譜牒』に於いて「
琳聖太子
来朝」をもって自己の先祖として、領主大内氏への尊貴の念を期待し
下松市の文化財
([はじめに])
今から1400年前、下松は青柳浦と呼ばれる百済の交易港として栄え、当時百済の
琳聖太子
によって伝えられた
下松市の民話・伝説と民謡
(1 下松の地名のおこり(くだまつのちめいのおこり) (下松地区))
この百済の国の王子を
琳聖太子
(りんしょうたいし)といい、大内氏はその子孫と伝えられている。
下松市史異説
((二) 縁起に見る妙見社創建と祭神)
為其擁護北辰下降云々、因改其処日下松浦、祀星奉称妙見尊星王大菩薩社以祭之、経三年辛未歳百済国斉明王第三皇子
琳聖太子
来朝,更に『旧記』は、十九行余を置いて、 推古五年(五九五)「同秋
琳聖太子
当国都濃郡青柳浦桂木山嶺宮殿御建立九月九日有参籠而従百済持来之北辰尊星之御神体納之琳聖於日本始而被修北辰星供従是奉称北辰妙見尊星王九月十八日定祭日鷲頭庄氏神奉崇敬也
妙見さま
((18)聖徳太子の死)
琳聖太子
は深く悲しみ、これで日本における政治的役目が終わったことを悟られた。
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