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下松市史 通史編
(勘場の業務)
都濃郡宰判本控
花岡勘場
絵図
花岡勘場
が管轄する市域内本藩領村々は、末武上村・末武中村,一八三八年(天保九)を例にとると、
花岡勘場
で記録に残っている取扱い事務件数は四〇件あるが、市域内五カ村,1
花岡勘場
壁土採取願 2 花岡火の番小屋改築費支出願 3 笠戸浦御船倉改築費支出願 , 16
花岡勘場
維持費徴収願 17
花岡勘場
役人費徴収願 18 花岡御茶屋番給支出願,ニ付経費徴収願 23 右ニ付別途資金支出願 24
花岡勘場
諸道具不足ニ付臨時徴収願 /
勘場
の業務
下松市史 通史編
(勘場の建替え)
勘場
の建替え 一八三八年(天保九)、
花岡勘場
は新規に建て替えられることになった。,建替えの理由は、幕府の巡見上使が
花岡勘場
に宿泊するため、これまでの
勘場
建物では古くて損傷個所が多く、見苦,
花岡勘場
跡碑 この巡見上使の制度は、江戸時代初期から幕府が巡見使を全国に派遣し、天領・私領(大名領,ともあれ、藩府は
花岡勘場
の建替えを行い、巡見上使に失礼のないよう措置することにした。,こうして
花岡勘場
は新しく建替えられたのである。 /
勘場
の建替え
下松市史 通史編
(異賊防禦手当)
異賊防禦手当 一八四六年(弘化三)五月、
花岡勘場
の大庄屋は、異国船防禦手当について藩府へ伺書を提出した,このような時期の四六年、
花岡勘場
の大庄屋が提出した伺書の大意は、つぎのとおりであった。,
花岡勘場
では、郡配当米からそれを差し引いてほしいと願い出ているのである。
下松市史 通史編
(戸籍帳の作成)
戸籍帳の作成
花岡勘場
における毎年の経常業務の一つに、戸籍帳の作成がある。,一八二六年(天保九)十一月、
花岡勘場
においてはこれまでどおり戸籍帳を作成した。
下松市史 通史編
(風土注進案の提出)
このため
花岡勘場
管内でも、「地理産業仕出」という名称で、この村勢報告書が一斉に提出された。 ,風土注進案 末武三カ村 一八四六年(弘化三)二月、『風土注進案』につき、
花岡勘場
では大庄屋から,このような大庄屋からの伺いに対し、本藩郡奉行は
花岡勘場
の公金のうち、御立山修補金のなかからこの経費を支出
下松市史 通史編
(萩城台所の焼失)
花岡勘場
からも献金がなされている。,このときの献金者は、
花岡勘場
轄内の本藩領村々の富裕者一覧となっているので、献金額・身分・氏名を書き上げてみることにする
下松市史 通史編
(諸郡御救頼母子)
諸郡御救頼母子 一八五六年(安政三)十一月、
花岡勘場
の大庄屋から藩府に対し、諸郡御救頼母子を存続してほしいとの,
花岡勘場
の大庄屋が、藩府へ願い出たことの要点は、つぎのとおりであった。
下松市史 通史編
([写真図版])
千手観音菩薩立像 (市指定有形文化財・所有者 閼伽井坊) 鼎の松(昭和59年4月撮影)
花岡勘場
下松市史 通史編
(下谷村仕組立)
下谷村仕組立
花岡勘場
管内のうち、奥方四カ村といわれる須々万奥村・須々万本郷村・長穂莇地村・下谷村は,そこで一八四三年(天保十四)、
花岡勘場
ではつぎのような伺書を幕府へ提出している。,一八五九年(安政六)に、要旨つぎのような歎願書が奥方四カ村の庄屋の連名で
花岡勘場
へ提出されている。
下松市史 通史編
(遊行上人の巡行)
一八五四年(安政元)六月、
花岡勘場
から大意つぎのような伺書が藩府へ提出された。,さらに、この経費は上人巡回時に徴収したのではなく、
勘場
経費で一時立て替え払いをし、翌年夏の銀子での税金徴収時
下松市史 通史編
(笠戸島の山廻り船)
同年七月、
勘場
役人である恵米方と大庄屋から藩府へ提出された願書には、大意つぎのように書かれている。,これは、山廻り役の巡視用船が虫入りで使用不能となったので、
勘場
で積み立てている修甫米銀から、新造のための,この年、
花岡勘場
で修甫制度を利用して行った工事は、この山廻り船新造以外にはない。,しかし、
勘場
が管理する公共物(建物)としては、つぎのようなものがあった。,(1)
勘場
花岡(末武上村)にある。
下松市史 通史編
(淫祠の解除)
このような藩の措置に関連して、
花岡勘場
では大意つぎのような上納願が提出された。
下松市史 通史編
(孝女まさ褒賞)
一八五七年(安政四)、
花岡勘場
からつぎのような伺書が提出された。 ,この伺書を提出した
勘場
役人は、まさの孝養に対してなんとか年金を与えてやりたかったのであろう。,また、まさが最高齢であることから、その褒賞米が
勘場
財政を圧迫するほど長く支給されることはないとの判断もあったであろう
下松市史 通史編
(姥倉運河資金上納)
この布令によって、
花岡勘場
からは、末武上村の庄屋内藤源右衛門と息子彦四郎が銀二〇貫目の献納を申し出た。,しかし、献納者の内藤源右衛門父子は、姥倉運河建設の必要性を感じて献金したのではなく、村や
勘場
役人となったからには,ちなみに、父は末武上村の庄屋であり、息子彦四郎は
勘場
の算用師に採用されている。
下松市史 通史編
(囲穀米の放出)
花岡勘場
管内も大きな被害を受け、九月になると大庄屋は大略つぎのような歎願書を藩府へ提出した。
下松市史 通史編
(嘉永社倉の建立)
同年二月、
花岡勘場
の大庄屋は社倉献納のための献金者名簿を藩府へ提出した。
下松市史 通史編
(観光の下松)
花岡観光協会が設立され、花岡観光ルートとして、花岡八幡宮、境内の閼伽井坊多宝塔(国指定重要文化財)、
花岡勘場
跡
下松市史 通史編
(雑穀囲方の実施)
9) 大豆葉 二俵 (10) 麦ぬか 五石九斗 (11) 芋葉 六十れん (12) ぬか 一斗
花岡勘場
下松のいろいろの歴史
(4 明治維新と市内の史蹟)
慶応元年七月招魂場開設の藩命に基づいて、都濃郡宰判管内の殉難戦没者を祀るため、翌二年春同郡代官役江木清次郎が
花岡勘場
,諸世話は
花岡勘場
の引請であって、是の日戦死者の遺族を参列せしめて祭神の生前佩ふるところの肩印、その他の, 一慶応二丙寅ノ春当郡之儀は高塚山へ地開相成リ、戦死之者共神霊此処へ鎮祭被仰付候事 一九月十三日
勘場
大庄屋加勢来儀,藩政が行われていたときは、費用は
勘場
より支出していた。廃藩後は、郡内割符によって支弁された。
下松市史異説
((一八) 石碑)
孝女満佐碑 明治三十年
花岡勘場
跡 右下 明治百年記念碑 同春雨桜碑 明治三十七年
下松市史 通史編
(目次)
村役人の周旋 474 末武村歎願書 476 生野屋村歎願書 480 紛争の解決点 483 3
花岡勘場
,と本藩領村々 ………………………………………… 485 (1)天保期の
勘場
と村々 ………………………,………………… 485
勘場
の業務 485 歴代の大庄屋 488
勘場
の建替え 489 心学の
下松のいろいろの歴史
(3 末武村の研究)
花岡八幡宮の大剣や
花岡勘場
跡にある大砲も、末武で鋳造されたと伝えられているが、この地で造られたのではあるまいか
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