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下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

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下松市史 通史編 (勘場の業務)

勘場の業務 末武上村の花岡に置かれていた勘場(代官所)は、都濃郡宰判行政の中心であった。,都濃郡宰判本控 花岡勘場絵図  花岡勘場が管轄する市域内本藩領村々は、末武上村・末武中村,一八三八年(天保九)を例にとると、花岡勘場で記録に残っている取扱い事務件数は四〇件あるが、市域内五カ村,1 花岡勘場壁土採取願   2 花岡火の番小屋改築費支出願   3 笠戸浦御船倉改築費支出願   ,  16 花岡勘場維持費徴収願   17 花岡勘場役人費徴収願   18 花岡御茶屋番給支出願 / 勘場の業務
下松市史 通史編 (勘場の建替え)

勘場の建替え 一八三八年(天保九)、花岡勘場は新規に建て替えられることになった。,建替えの理由は、幕府の巡見上使が花岡勘場に宿泊するため、これまでの勘場建物では古くて損傷個所が多く、見苦,花岡勘場跡碑  この巡見上使の制度は、江戸時代初期から幕府が巡見使を全国に派遣し、天領・私領(大名領,ともあれ、藩府は花岡勘場の建替えを行い、巡見上使に失礼のないよう措置することにした。,こうして花岡勘場は新しく建替えられたのである。 / 勘場の建替え
下松市史 通史編 (太閤と花岡)

太閤と花岡 花岡は山陽道の交通の要地として古代から栄え、中世には花岡八幡宮の門前町として、また山陽道,花岡の町をさまざまな人が往来しているが、豊臣秀吉も何度か往来し、時には宿泊している。  ,名護屋からの復路は天神国府を経て花岡に宿し、玖珂に到っている。  ,宛先が花岡奉行となっているが、このころには花岡に奉行が置かれていたのであろうか。,花岡にはこのころすでに市の目代が置かれており、近世に入って萩藩の勘場や本陣の所在地として引き続き栄えた / 太閤と花岡
下松市史 通史編 (宿場町花岡市)

宿場町花岡市 徳山領から萩本藩領久米村を通り末武村(のちに末武上、末武中、末武下、平田開作の四カ村に,さらに小道一つ隔てた東隣に大きな建物があり、「御茶屋、勘場、御番所」とまとめて記されている。,これから、藩主の宿泊所である御茶屋、都濃宰判の代官事務をつかさどる勘場、「天下御物送り場」として交通業務,これは現在の花岡小学校の南側にあったという。,図1 花岡市町筋の屋敷配置図 「末武上村小村絵図」(1762年)より作成。   / 宿場町花岡市
下松市の民話・伝説と民謡 (23 花岡本陣に添う家臣の宿舎(はなおかほんじんにそうかしんのしゅくしゃ) (花岡地区))

23 花岡本陣に添う家臣の宿舎(はなおかほんじんにそうかしんのしゅくしゃ) (花岡地区) 花岡本陣は,、勘場(かんば)西側にあった「お茶屋」(藩直営の本陣)である。  ,(上ノ野村屋敷は、現花岡小学校運動場南側、法静寺西側の付近) / 23 花岡本陣に添う家臣の宿舎(はなおかほんじんにそうかしんのしゅくしゃ) (花岡地区)
下松市の石造文化財・祈りと生活 (5、石碑(せきひ) (春雨桜(はるさめざくら)) (花岡御茶屋跡(はなおかおちゃやあと)))

5、石碑(せきひ) (春雨桜(はるさめざくら)) (花岡御茶屋跡(はなおかおちゃやあと)) 花岡の都濃郡宰判勘場横,文久紀元、歳在辛酉、我忠正公東覲之途次疾、駐駕於花岡駅矣、一日公指駅館之桜樹曰樹下之鉄蕉恐礙花時之観、 / 5、石碑(せきひ) (春雨桜(はるさめざくら)) (花岡御茶屋跡(はなおかおちゃやあと))
わたしたちのきょうど 星ふるまち下松 (くだまる ものしりコーナー~山陽道(さんようどう)~)

~]] くだまる ものしりコーナー ~山陽道(さんようどう)~  今から、およそ1,300年前(花岡八幡宮,今の久保や花岡のあたりを通っていたようです。  ,役人や旅人の行き来がさかんだったので、花岡のあたりは、ずいぶんにぎわっていました。,花岡には、との様がとまる宿(お茶屋)や代官所2(勘場)がおかれていました。  ,花岡の勘場のあと 花岡八幡宮の絵馬にかかれた山陽道の様子
下松市史 通史編 (異賊防禦手当)

異賊防禦手当 一八四六年(弘化三)五月、花岡勘場の大庄屋は、異国船防禦手当について藩府へ伺書を提出した,このような時期の四六年、花岡勘場の大庄屋が提出した伺書の大意は、つぎのとおりであった。,花岡勘場では、郡配当米からそれを差し引いてほしいと願い出ているのである。
下松市史 通史編 (戸籍帳の作成)

戸籍帳の作成 花岡勘場における毎年の経常業務の一つに、戸籍帳の作成がある。,一八二六年(天保九)十一月、花岡勘場においてはこれまでどおり戸籍帳を作成した。
下松市史 通史編 (笠戸島の山廻り船)

同年七月、勘場役人である恵米方と大庄屋から藩府へ提出された願書には、大意つぎのように書かれている。,これは、山廻り役の巡視用船が虫入りで使用不能となったので、勘場で積み立てている修甫米銀から、新造のための,この年、花岡勘場で修甫制度を利用して行った工事は、この山廻り船新造以外にはない。,しかし、勘場が管理する公共物(建物)としては、つぎのようなものがあった。,(1) 勘場 花岡(末武上村)にある。
下松市史 通史編 (風土注進案の提出)

このため花岡勘場管内でも、「地理産業仕出」という名称で、この村勢報告書が一斉に提出された。  ,風土注進案 末武三カ村  一八四六年(弘化三)二月、『風土注進案』につき、花岡勘場では大庄屋から,このような大庄屋からの伺いに対し、本藩郡奉行は花岡勘場の公金のうち、御立山修補金のなかからこの経費を支出
下松市史 通史編 (萩城台所の焼失)

花岡勘場からも献金がなされている。,このときの献金者は、花岡勘場轄内の本藩領村々の富裕者一覧となっているので、献金額・身分・氏名を書き上げてみることにする,同五百匁 末武上百姓 原田 与兵衛 一、同五百匁 末武下百姓 下村次右衛門  献金を行った人々は、花岡宰判内
下松市史 通史編 (警察制度)

したがって旧勘場跡の花岡に聴訴課花岡出張所が設置された。,翌七五年、行政警察規則の制定により県内警察制度の整備が進み、七六年聴訴課花岡出張所は花岡警察出張所と改称,七七年花岡警察署と改称され、山口警察署の管下となった(『山口県政史』上)。  ,一八八二年(明治十五)山口警察署下松分署が字中市に設置され、花岡警察出張所はその管下となった。,下松分署も下松警察署に昇格し、下松、末武南、花岡、久保、米川を管轄区域とし、各地に駐在所が置かれた(『
下松市史 通史編 (諸郡御救頼母子)

諸郡御救頼母子 一八五六年(安政三)十一月、花岡勘場の大庄屋から藩府に対し、諸郡御救頼母子を存続してほしいとの,花岡勘場の大庄屋が、藩府へ願い出たことの要点は、つぎのとおりであった。,(四) 当宰判(花岡)は当島・美祢宰判とともに、未配当宰判である。,また、花岡宰判の大庄屋が強く今回での打切りに反対したのは、未配当三宰判に同時に配当された場合、本来ならかなり
下松市史 通史編 (在地の有力者)

花岡八幡一三六石、鷲頭妙見九〇石の社領は、長穂竜文寺(徳山市)・富田建咲院(新南陽市)・鹿野漢陽寺(鹿野町,花岡八幡は、慶長四年(一五九九)二月十日付の「花岡八幡宮目録安(案)書」によると、この中に地蔵院・楊林坊,市域では、垰市・窪(久保)市・岡市・花岡市・下松西・下松中市の六カ所に置かれており、山陽道沿いに早くから,花岡に奉行が置かれたことも、近世に萩藩領の勘場や本陣の所在地になったこともよく理解できる。
下松市史 通史編 (観光の下松)

これに先立ち花岡では、戦後いち早く花岡地区の発展を目指して、花岡観光協会が設立され、花岡観光ルートとして,、花岡八幡宮、境内の閼伽井坊多宝塔(国指定重要文化財)、花岡勘場跡の春雨桜、槙柏(天然記念物指定)、法静寺境内,下松市観光協会では、一層の観光下松の伸展を目指し、花岡観光協会を吸収合併して、景勝笠戸島の七浦巡り、白浜海水浴場,、笠戸島ハイキングコースにあわせて、花岡の史跡と景勝地を市とタイアップして宣伝した。  
下松市史 通史編 (孝女まさ褒賞)

一八五七年(安政四)、花岡勘場からつぎのような伺書が提出された。      ,この伺書を提出した勘場役人は、まさの孝養に対してなんとか年金を与えてやりたかったのであろう。,また、まさが最高齢であることから、その褒賞米が勘場財政を圧迫するほど長く支給されることはないとの判断もあったであろう
下松市史 通史編 (遊行上人の巡行)

一八五四年(安政元)六月、花岡勘場から大意つぎのような伺書が藩府へ提出された。,さらに、この経費は上人巡回時に徴収したのではなく、勘場経費で一時立て替え払いをし、翌年夏の銀子での税金徴収時
下松市史 通史編 (姥倉運河資金上納)

この布令によって、花岡勘場からは、末武上村の庄屋内藤源右衛門と息子彦四郎が銀二〇貫目の献納を申し出た。,しかし、献納者の内藤源右衛門父子は、姥倉運河建設の必要性を感じて献金したのではなく、村や勘場役人となったからには,ちなみに、父は末武上村の庄屋であり、息子彦四郎は勘場の算用師に採用されている。  
下松市史 通史編 ([写真図版])

千手観音菩薩立像 (市指定有形文化財・所有者 閼伽井坊) 鼎の松(昭和59年4月撮影) 花岡勘場
下松のいろいろの歴史 (4 明治維新と市内の史蹟)

申時に及び花岡の館に帰る。,慶応元年七月招魂場開設の藩命に基づいて、都濃郡宰判管内の殉難戦没者を祀るため、翌二年春同郡代官役江木清次郎が花岡勘場,諸世話は花岡勘場の引請であって、是の日戦死者の遺族を参列せしめて祭神の生前佩ふるところの肩印、その他の, 一慶応二丙寅ノ春当郡之儀は高塚山へ地開相成リ、戦死之者共神霊此処へ鎮祭被仰付候事  一九月十三日勘場大庄屋加勢来儀,藩政が行われていたときは、費用は勘場より支出していた。廃藩後は、郡内割符によって支弁された。  
下松市史 通史編 (下谷村仕組立)

下谷村仕組立 花岡勘場管内のうち、奥方四カ村といわれる須々万奥村・須々万本郷村・長穂莇地村・下谷村は,そこで一八四三年(天保十四)、花岡勘場ではつぎのような伺書を幕府へ提出している。,一八五九年(安政六)に、要旨つぎのような歎願書が奥方四カ村の庄屋の連名で花岡勘場へ提出されている。
下松市史 通史編 (淫祠の解除)

このような藩の措置に関連して、花岡勘場では大意つぎのような上納願が提出された。
下松市史異説 ((一八) 石碑)

(一八) 石碑 下松市内には、花岡八幡宮の通称亀石・同多宝塔重脩碑の他孝女満佐(公集小学校入口)・花岡御茶屋跡春雨桜,孝女満佐碑 明治三十年 花岡勘場跡 右下 明治百年記念碑 同春雨桜碑 明治三十七年,の実家として、花岡八幡宮とは深い関係の家柄である。  ,碑は巨大な自然石の上に亀趺がのりその背に花崗岩の二石を乗せその上が、安山岩の碑石である。,弘鴻は、文政十二年六月十四日花岡に生れ号を尋石と称した。
下松市史 通史編 (囲穀米の放出)

花岡勘場管内も大きな被害を受け、九月になると大庄屋は大略つぎのような歎願書を藩府へ提出した。
下松市史 通史編 (正画植えと肥料の改良)

勘場のあった花岡は早くも一八八四年(明治十七)に戸長役場裏の空地を開墾して生野屋・末武中・末武上村の栽培試験場
下松市史 通史編 (神仏分離と社格)

一八六九年(明治二)十月、本藩領花岡八幡宮別当職地蔵院から、次のような願書が庄屋から勘場へ提出された。,                         (「社寺改正録」県庁A)    右の願書は、花岡八幡宮,郷社の指定を受けた神社は二社で、花岡八幡宮と降松神社(旧妙見社)である。,氏子数は花岡八幡宮は七六三戸、降松神社は一八八八戸である。村社は四社あり、いずれも村の氏神であった。
下松市史異説 ((一) 経緯)

(一) 経緯 花岡八幡宮は、社伝によれば和銅二年(七〇九)豊前国宇佐八幡を勧請したとされるが、古文書,花岡八幡宮文書 市指定文化財 天正二十年(一五九二)花岡奉行宛 豊臣秀次(秀吉)公御朱印状,花岡八幡宮文書 その二 市指定文化財 花岡八幡宮文書 市指定有形文化財  右の文書をたどると,『社寺改正録』によると明治二年(一八六九)十月八幡宮別当地蔵院から、次の如き願書が、庄屋を経由して勘場,花岡八幡宮 神成石 花岡八幡宮裏参道 伝閼伽井の井戸(昭和四十年頃)
下松市史 通史編 (嘉永社倉の建立)

同年二月、花岡勘場の大庄屋は社倉献納のための献金者名簿を藩府へ提出した。
下松市史 通史編 (生野屋~切山)

往還道沿いにあるところから、藩主が立ち寄ることが多かったといわれているが、勘場に近く、藩主や上層武家の,明治維新直後の廃仏毀釈でほとんどの社坊は破却されたが、当寺は花岡閼伽井坊とともに珍しく破壊を免れ、江戸時代,駄賃は花岡まで二八文、呼坂まで四八文。寺社は浄土宗西蓮寺、地蔵、大日堂、荒神、戎堂があがっている。
下松市史 通史編 (雑穀囲方の実施)

9) 大豆葉 二俵 (10) 麦ぬか 五石九斗 (11) 芋葉 六十れん (12) ぬか 一斗  花岡勘場
下松のいろいろの歴史 (3 明治九年の山田村事件と今田浪江について)

四人ノ者直ニ光円寺ニ帰リ勢揃ヲナシ、其レヨリ花岡ニ向ヒ、今田隊長警官ト大口論ヲナシ、勘場ヲ乗リ取リ警官,勘場(警官ノ居ル所)ハ即チ袴ヲハキ、日本刀ヲ刺シテ居ル人、鉄砲ヲ肩ニシテ居ル人、鎗ヲ持ツテ居ル人、土足以,蓋シ花岡ニ滞在セシハ徳山ノ動静明カナラサルニ因ル。,一 同午後花岡出張神村龍三来着。,銘々自宅え潜伏候趣、委細ハ花岡出張所ヨリ届出可相成ト存候事。  
下松市史 通史編 (内からの規制)

必要性を説く各種の講話者が広く活躍したのがこの時期の全国的な一つの特徴であったが、下松地域でいえば、花岡八幡宮,基徳は一七五八年(宝暦八)、花岡の村上家に生まれ、八九年(寛政元)から京都で垂加神道を学んだ。,末武地方では幕末に各所で神道講釈が頻繁に行われている(「神爾代々記録」花岡八幡宮蔵)。,さらに五七年(安政四)、藩主毛利敬親が花岡通過のさい、勘場に召し出され、毎年米一石下賜の覚書を受けて「
下松市史 通史編 (本藩領の農政)

代官は、春・秋・冬の三季に在出(ざいで)(出郡)し、勘場(かんば)(代官所)にいて担当宰判の行政を行った,また、「花岡八幡山」に五年前から新開畠四斗があって、前代官のとき伺って、物成を「已来(いらい)八幡御造営,他に関連した役職に、花岡御茶屋番、深浦舟究がある。,御茶屋番は、吉田・山中・三田尻・高森と並んで花岡にも置かれており、御茶屋(藩の公館で、藩主・幕府役人・
下松のいろいろの歴史 (3 末武村の研究)

と記して   都濃郡  末武保  千代次保   ……また末武保は、花岡村大字末武上及び末武中,花岡八幡宮は、古くは豊後浴にあって上地方面から参拝したので、この参道が現在も残っている。,花岡八幡宮の大剣や花岡勘場跡にある大砲も、末武で鋳造されたと伝えられているが、この地で造られたのではあるまいか,『増補周防記』に花岡八景が次のように記されている。     , 花岡 東花岡 東田 鎌崎 向河内 菜莄迫 向迫 石城 南大浴 山添 青木 常森 上高塚 開楽 樋物垣内
下松市の石造文化財・祈りと生活 (4 石碑(せきひ) (孝女満佐(こうじょまさ)) (公集小学校入口(こうしゅうしょうがっこういりぐち)))

二月十九日には、時の藩主毛利斉煕公よりその家敷を賜わり、宅前に「孝女まさ所」「文化七年庚午」と刻んだ花崗岩,安政四年(一八五七)正月、藩主毛利敬親公御通過の際に花岡駅の勘場(かんば)(代官所)に召し出され、まさは
下松市史 通史編 (末武村歎願書)

瀬戸村之者委細之訳存知候得共、此度生野村同様御請書差出候得共、故障出来已前相対ニて申合之儀も御座候、何卒於御勘場応対,              同                野村又六殿             (花岡村役場文書
文献史にかいまみる妙見さま (第五章 神仏分離と妙見社鷲頭寺)

同じころ下松市の萩本藩領の花岡八幡別当職地蔵院から、次のような願書が庄屋から勘場へ堤出された。    ,                                    地蔵院     右の願書は、花岡八幡宮,河内村、末武村、切山村、生野屋村、笠戸島村)⑨の郷村社は河内村、郷社、下松神社(旧妙見社)末武上村、郷社花岡八幡宮,現在の下松市内で郷社の指定を受けた神社は二社で、下松神社と花岡八幡宮である。,当時の氏子数⑭は降松(下松)神社は一八八八戸で、また花岡八幡宮は七六三戸であった。  
下松市史 通史編 (目次)

…………………… 181 冷泉氏 182  波多野氏と切山保 183  岡部氏と生野屋 184  花岡八幡,…………………………………… 197 新たな給領主たち 197  下松浦と下松舟 200  太閤と花岡,村役人の周旋 474  末武村歎願書 476  生野屋村歎願書 480  紛争の解決点 483  3 花岡勘場,と本藩領村々 ………………………………………… 485 (1)天保期の勘場と村々 ………………………,………………… 485 勘場の業務 485  歴代の大庄屋 488  勘場の建替え 489  心学の
下松のいろいろの歴史 (5 受天寺 福円寺 蓮生寺 玉峰院 玉泉寺 勝賢寺 玉林寺(香林寺) 多聞院 教応寺 長音寺 慈福寺 日光寺)

、日夜珍敬尊重の霊仏なり、神亀元年以降日尾山頂に安置し霊験益々新也、明治維新前は、観音堂の鎖鑰は常に花岡,なる勘場に保管し、五十年毎の開扉の際のみ、勘場より人を派し開扉したるものなり   また『増補周防記
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